教育とはね、理屈で教えることとはちがう。海を見せに連れていく愛情じゃろが

カンラクは炭鉱資本の怠慢が造った地形である
・・・閉山にともなってやっとわが子の小学校(の参観日)へ出席できた元坑夫が、教師に注文を出した。
 「先生、むずかしか理屈は教えんでよか。それより、海へ連れてってやんない。うちの子はカンラクを見て、とうちゃん、広か海じゃねえ、と言うたんバイ。教育とはね、海とはどげなもんか、理屈で教えることとはちがう。海を見せに連れていく愛情じゃろが。わしは、閉山になって、やっとそれがわかった。な、そうじゃろが」 森崎和江 「男と女,夫婦,男・男,女・女」

 陥落池(炭鉱の落盤で地表が落ち込んで水が溜まり池となった場所。炭鉱所有者の怠慢が造った地形)のある筑豊から海の見える小倉や門司まで少しも遠くない。彼は海を見知る子ども時代を送った。しかし地獄を見るような仕事を続けるうちに、すっかり落ちぶれた。子どもが陥落池を見て「とうちゃん、広か海じゃねえ」と言ったとき、そのことにやっと気付いた。すべてが落ち込んでしまった責任は、炭鉱資本と政府にある。その横暴と闘い続けた者に責任を押しつけるのは間違っている。まして子どもに責任はない。
 子どもの世界観が狭く貧弱になったことへの遣り切れなさが、元坑夫を苦しめる。彼は「海を見せに連れていく愛情」を持てなかった自分自身の貧困に苛立っている。
  しかし彼には、教育への要求と期待がある。それは救いである。

 下町の工高の担任だったAさんは、応援団長で右翼のクリスチャンでもあった。高校生の頃から警察と揉める生活を繰り返していた。
 担任する中に片親の生徒があった。出席日数が足りなくなりかけ、授業料滞納も長引き進級が危うい。家へ電話しても通じない。生徒に親と話したいと言うと、「お袋は病気だ、うちには来るな」と懇願する、終いには「絶対来るな、来たらぶっ殺す」と凄んだ。
  熱血をよしとするAさんは、週一日の研修日を潰して家庭訪問した。感動の展開があると信じていた。僕は冷ややかに「見ない方がいいこともある」と釘を挿してしまった。
 Aさんは「じゃぁ、どうするんだ」と迫った。
 「こんな時のために、管理職がある。行政との交渉は彼らに任せる。でないとあいつらは余計なことに力を入れるんだ。議員にも選挙以外の仕事をさせたほうがいい」
 「お前はいつも悠長だな。俺に暇はない」そう言って出かけ、見るも無惨に打ち萎れて戻ってきた。


 件の生徒の住まいは、零細工場の建ち並ぶ一角、騒音の響く鉄工場の上にあった。ドアを叩いても返事はない、そっと押すと開いたが、中は暗い。名乗ると、咳が聞こえてごそごそ動く音がした。目が慣れると、仕切りのない板の間に数枚の畳が置かれ、そこに布団があり母親らしい女性が寝ていて起き上がろうとしていた。窓はあっても陽は差し込まない。
 彼は、生徒がぶっ殺してやると凄んだ気持ちが分かりたじろいだ。母親を寝たままにして、ともかく話を聞いた。
 「お恥ずかしい格好でご免なさい。おいでになった訳は、息子の様子で分かります。電話も電気も切られて、ご覧の有様です・・・」と弱々しく語ったという。Aさんは意を決して、生活の細部まで聞いた。息子は母のためにアルバイトで稼いでいた。生活保護も聞いた。親切な人が見かねて区役所に連絡してくれたが民生委員らしき人が来て「ともかく区役所に出向いて下さい」と言ったっきり、起きて歩ける状態ではない。Aさんは出来る限りのことはすると言い残して帰りがけに、ジュースとアイスクリームとパンを買い引き返して届けた。ぶっ殺すと凄んだ生徒との修羅場は、覚悟した。しかし「見なければ良かった」とうな垂れた。
 先ず、卒業生の中に国会議員がいたので、彼に区議会議員を紹介して貰い行政をせっつくことにした。管理職には授業料減免の手続きを頼み、教科担任には事情を話し進級の手立てを探ることにした。件の生徒は、暴れることはしなかったが、長い間Aさんと口をきかなかった。

 この母親は、学校や行政に文句を言う気力も気持ちも持てず「教育とはね、海とはどげなもんか、理屈で教えることとはちがう。海を見せに連れていく愛情じゃろが。わしは、閉山になって、やっとそれがわかった。な、そうじゃろが」の類を言えない。それ故最悪の事態一歩手前であった。
 元抗夫は、総労働対総資本の闘いを知っていた。だから教師に要求できたのである。愛情は闘いである。


 政府が莫大な費用を浪費して新たな基地を造ろうとしているとき、独立とは自治とは何か教えるために辺野古の闘いに加わる。辺野古の海や闘いを見せる、語る愛情が憲法教育じゃろが。な、そうじゃろが。  

「朕はたらふく食ってるぞ」には根拠がある

 敗戦記念日の度に、戦争体験が語られ投書される。その中で多いのは、飢えの苦しみと死別の悲しみである。しかし肝心のことが、常に置き去りにしている。慎重に避けている。 それは誰もが等しく飢え、どの一族も等しく死んだわけでは無いことだ。
   戦中も戦後も、食料と安全は偏在していた。「たらふく食い」「一族の誰も戦災で死なない」者の一群がいつもある。

 1946年5月19日、皇居前広場(当時、人民広場)に25万人を集め「飯米獲得人民大会(食糧メーデー)」が開かれた。

 労組委員長だった松島松太郎は「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」と書いたプラカードを掲げ参加、そして6月14日不敬罪で逮捕され事件となった。このプラカード事件自体忘れられた。プラカードの中身自体に根拠があった事はもっと知られていない。

 飯米獲得人民大会の一週間前5月12日、、世田谷の戦災者住宅で「米よこせ 世田谷区民大会」が開かれた。戦災住宅では、毎日1人多いときは3人が栄養失調で死んでいた。子供がオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら死んだという。
 大会では、18項目の要求((1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など)を決議。天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択、二手に分かれ抗議デモに。一隊は皇居に向かった。押し問答の末、デモ隊は皇居に入った、前代未聞の展開である。彼らは宮内省で「人民の声」を読み上げ、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求。官僚は「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省職員食堂に案内。それでも積み上げられた食料の豊富さは、被災者のど肝を抜いた。

 「50坪ほどの調理場には、120人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ15匹、スズキ1匹、サケ4匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ3、40尾、大ブリ5、6尾、牛肉5、6貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ3つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。 ・・・
  すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。
 このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。

  お通しもの
    平貝
    胡瓜
    ノリ
    酢のもの
    おでん
    鮪刺身
    焼物
    から揚げ
    御煮物
    竹の子
    フキ 」     大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社刊

 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した戦災者住宅の痩せた主婦があった。デモの時は、青白い

顔でよたよたと歩いていた。デモのあと半年、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、この主婦が復員を待っていた夫の「戦死公報」が遅れて届いた。これも『人間記録 戦後民衆史』にある逸話である。
          
 5月19日の飯米獲得人民大会では、世田谷区の主婦代表がおんぶ姿で悲惨極まる食糧事情を訴え、続いて国会議員らとデモ行進。ここで、松島松太郎(田中精機労組委員長)は 件のプラカードを掲げたのである。立派な証拠があっての表現であった。検事局は不敬罪で彼を起訴したが、一審は不敬罪は効力を失ったとして名誉毀損で有罪とした。1947年6月の二審で免訴となった。だが共産党員松島松太郎は、最後まで法廷で闘う決意を捨てなかった。法廷闘争に持ち込めば、食料危機の実体を白日の下に曝すことが出来るからである。

 この時天皇やマッカーサーはどうしたか。 

 5月20日、マッカーサーは「組織的な指導の下に行われつつある大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」と声明を出し民主化運動を牽制。
 天皇は、5月24日、『祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがいに助け合って、この窮状をきりぬけねばならない』とラジオ放送を行った。何をか言わんやである。


 宮内省役人が、天皇の台所ではではなく職員食堂に案内して「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ3、40尾、大ブリ5、6尾、牛肉5、6貫、平貝一山そのほか沢山 タライ3つの中身麦入りはわずか、大半は銀メシ」を「120人分の夕食用麦飯が三つのタライ、マグロ半身、カレイ15匹、スズキ1匹、サケ4匹のほかイモ、大根など」と的外れの公式発表する神経が、天皇制とは何かを良く表している。彼らは、自分を天皇を頂点とする選良であって「たらふく食っている」ことを隠す必要のないことだと考えていたのだ。彼らのために闘って飢えるのも死ぬのも、皇国民の誉れであり甘受すべきことにしか見えないのである。それは今も続いている。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...