本当に素晴らしい思い出はすっかり忘れてしまう

全生分教室跡ー最後の生徒たちによる記念碑
世界文化遺産に相応しい教育はここにあった
   本当に楽しい思い出はすっかり忘れてしまうものだ、と言ったのはスタンダールか大岡昇平だった。
 僕は小学校入学以前の、父や祖父の思い出をすっかり忘れている。長い間、父と祖父は遠くに出かけていたのかと思い込んでいた程だ。実際はずっと同居していたにも拘わらず。母や叔母たちは、父たちと楽しそうに遊んだ様子を「覚えちょるね・・・」と何度も聞かせてくれたたのだが、全く思い出せなかった。古い写真を見つめ、遠い故郷に出かけて長時間佇むことを、数年おきに繰り返してようやくかすかに記憶らしいものが蘇る。又再び故郷の現場に立ってみる。森や畑の匂い、日差し、山林の影、夕日の差す座敷の佇まいや方言に包まれて、記憶の再構成を試みる。突然、あちこちに飛び散っていた記憶の断片に息が吹き込まれたように立ち上がってくる事がある。


 日が暮れるまで遊んだ路地や境内などの場所の詳細は思い出せても、遊ぶ姿そのものは思い出せない。叱られたり、大怪我をしたときのこと、死の恐怖を味わったことなどははっきり覚えている。
 何故楽しいあるいは充実した思い出は消えてしまうのだろうか。
 「もう思い残すことは何もない」という科白がある。完全に楽しいことを味わった時、それをすっかり燃焼し尽くしてしまうのだろうか。


 授業を語り記録することの困難の一端はここにある。あれは素晴らしかったと思える授業や出来事の詳細を、本人に確かめるとまるで覚えていないことがよくあるのだ。却って周りが鮮明に覚えている。古い手帖やメモを整理していると、僕自身が大切な授業、楽しい思い出をすっかり忘れているのに気付いて愕然とすることがある。例えばblog「啐啄の機」←クリック   
 手帖を発見して後、数ヶ月を経てその日の天気や教室の場所もようやく思い出せる。日記には意義があるのかも知れない。でも何故忘却してしまうのか。少しも嫌な思い出ではないのに。
 
 共同体の思い出も同じなのかも知れない。世界遺産指定に目の色を変え、歴史の偽造も厭わない関係者を見知るに付け、世界遺産や「歴史や神話」などは、私的営利活動の一環に過ぎないことが見えてくる。貧困や差別や環境破壊から子どもたちと文化を守る素晴らしい活動で、米国の激しい怒りを買ったUNESCOの活動を日本が方向転換させたのだ。その目玉が「世界遺産」認定制度である。これも又現代の作り物=fake である。

 メディアに溢れる「教育実践」報告や記事も、所詮このような「つくりもの」だろう。 
 教育担当記者がインターネットを駆使、官民の教育研究団体を通じて情報を集める。それに応じてメディアに自薦の実践が寄せられる。何故記者は足で実践や教師を見つて歩き回らないのかと思う。それが教育実践が地域に生まれる過程を見ることになる事を知らないか。自薦する奴に碌な者はない事は誰でも気付く。親も生徒もそのいかがわしい選考の過程を知らず、結果の表彰だけを見て賞賛するのだ。


 とは言え、ハンセン病療養所の「患者教師」と療養所内分教室だけは、真の世界文化遺産であると思う。しかし知るものは希である。

 戦前からの歴史を知る患者教師は、全生分教室のA先生だけではないだろうか。先生は素晴らしい無資格の教育者であった。そして、生涯を通して如何なる顕彰も受けていない。行政から報酬を受けたことすらない。
 売れるネタでなければ見向きもしない世間。価値あることが忘れられる歴史。そう思って世界を眺めるといい。この世が裏返って感じられ、見える世界の軽薄さが知れてくる。

ないものを見れば、あるものを見失う

爆撃し尽くされてもはや空襲の余地ない
清掃された市街を歩く「生き神」
 「余計喋ったら、お客は笑わねえ」と言ったのは、三升家小勝。
 とかく教師は、喋ってしまう。考え落ちであっても、落語が終わった途端「何故可笑しいかと言うと・・・」と言わずにおれないのが教壇に立ちたがる。判りさえすれば良い、判らせなければならない、という乱暴さがある。説教しても、だんだん声が大きくなって「何故いけないか、何故オレがおこっているかと言うと」と言わずにはおれない。「落ち」というものが全く判らずに落語家になったようなところが教師にはある。
 劇作家高田保が、あるギリシャ王の「馬鹿な奴ほど残らず喋る」という言葉を引いて、余韻は空白の中に漂うと言っている。落ちまで明かさなきゃ気が済まず、名作の結末までばらさずにはおれない。そういう担任は、王によれば馬鹿だということになる。

 であるがそんな教師にばかり習っていると、仕舞いには「余計喋る奴」が親切だと思うようになる。
 学校もTVも、笑わなければくすぐってでも笑わせる暴力が支配している。絶えず教室から笑い声がおこり、笑い声とともに授業が終わる。それが素晴らしいと。説教していて反省の兆しが見えなければ、校庭だろうと町中だろうと、何時までもがなりたてる。それが熱血だと双方で思い込む。確かにactiveには見える。
                                                        
 喋りすぎる教師が喋りを止める切っ掛けは何だろうか。面白いことがあった。blog「体罰を止めさせるために」の後半、下町のリベラルな工高での出来事である。←Click     
   
 件の教師は、生徒の話を聴く楽しみを知った。そうなれば、要らぬお喋りはもはや要らない。この教師が曾て生徒たちの中に見たつもりの、怪しからんこと、体罰すべきこと、延々と怒鳴りつけなければならないことの数々、それらは全て幻であった。
  ないものを見ればあるものを見失うのである。

記 ある男にありもしない「神」を見れば、その男にある筈の人間を見てはならない。だから側近たちは下を見て歩かねばならない。直接その男を見れば、どうしても人間らしさを見てしまうからだ。だから直接見るのは「畏れ多い」ということになった。それが冒頭の写真だ。東京大空襲の惨状を見て歩いているつもりかも知れない。だが民衆の生活も、彼の命令で殺害されたアジア民衆の生き様も悲しみも怒りも目に入らない。

流れ藻は「竜宮」

 海流に乗って漂う流れ藻には、稚魚や、エビやワレカラ等の節足動物などが集まる。また、流れ藻にはブリやアジなどの重要水産資源の稚仔魚も群れる。サンマなどは流れ藻に産卵する。
 海洋水面には、隠れる場は少ない。流れ藻は流木とともに弱い水産生物が身を隠し生き延びる場所である。ハナオコゼなどはそこに住み着き生活している。
 ウミガメも流木に身を寄せる。手漕ぎや原始的な帆で漁をしていた頃の漁師が、難破して海洋を漂っていたときこの流れ藻に救われたことも多いに違いない。椰子の実が漂えば水分もとれる。魚もいる、海藻もある。この世の竜宮に見えただろう。生きて浜辺に帰り着いた漁師が語って聞かせた実話が、浦島太郎を産んだ。
 大洋の生態系に流れ藻が不可欠なように、都市には森林と共に小さな無数の緑地が必要である。海の流れ藻のように鳥や小動物が身を隠し繁殖する場所であるだけではなく、気候を和らげ水と空気を循環させ浄化する。何よりも人々を結び安らぎを与える場所として。  

 流れ藻を維持するためには、海洋汚染を止めねばならぬ。特にプラスチック。命の揺り籠が、墓場になり始めている。

 卒業記念に1人10本の植樹を義務づける法案が、先月フィリピン国会で環境対策として通過した。議員立法である。
 フィリピンでは毎年、1200万人を超える生徒が小学校を、約500万人が高校を、そして約50万人の大学生が卒業を迎える。この新法が効果的に実行されれば、毎年少なくとも1億7,500万本の新しい木が、フィリピンに植えられる。順調に進めば、一世代の間に5,250億本もの植樹が可能となる。日本でも必要だ。ただし学校ではなく温暖化に責任のある企業の義務として。特に駐車場や線路際、街角とビル側面

屋上の緑化はクーラー設置より好ましい効果が期待できる。利権が生じなければどんな政策も実現しないだろうが。

  タイやベトナムのスーパーでは、使い捨てのビニール袋の代わりにバナナの葉を使用し始めている。環境に良いだけではなく美しく殺菌効果もある。ささやかで根源的な日常の「竜宮」である。

横文字の氾濫は、民を恐れ入らせ煙に巻き無知にする

この「違式註違条例」は大阪府のもの。
 NHKの「クローズアップ現代」が、「氾濫する“カタカナ語” ~始まった言い換えの試み~」をテーマに番組を組んだことがある。2003年2月18日であった。
 番組要旨にはこうあった。「「アドボカシー」「インセンティブ」「タスクフォース」等々。政治・経済から福祉の分野まで、日常生活のあらゆる場面で氾濫しているカタカナ語。カタカナ語の流入は、インターネットの普及により加速したと言われ、その難解さに頭を抱える人は今や高齢者だけではなくなってきている。 去年末、国立国語研究所が難解なカタカナ語の言い換え例を発表した事を初め、杉並区役所でも、区民からの苦情を受けて、カタカナを減らし、所謂「お役所言葉」の一掃に乗り出した。しかし、こうした行政側の努力の一方で、グローバル化する企業の現場には、カタカナ語なしでは新商品開発ができなくなっている実情もある。 カタカナ語の氾濫で、自国語はどうなっていくのか。カタカナ語を手がかりに、「日本語」について考える。」

 当のNHK内で言い換えの試みが少しも始まっていなかったことを、10年後2013年一人の老人が告発した。
   NHKが放送で外国語を多用するため内容を理解できず、精神的苦痛を受けたとして、71歳の老人が損害賠償を求める裁判を起こしたのである。老人は、NHKが番組内で「リスク」や「ケア」など、外国語を使わなくても表現できる言葉を多用、番組名にも外国語を乱用。視聴者の大部分が理解できる言語で製作されておらず、憲法で保障された知る権利や幸福追求権を侵害していると老人は主張。理解が困難な言語として挙げたのは、上記の「リスク」「ケア」の他、「システム」「イブニング」「コンプライアンス」「コンシェルジュ」「アスリート」「ディープ」など。
 この男性は、2012年末、NHKにこの件で公開質問状を送付したが、NHKから回答がなかったため、訴訟に踏み切っている。

 日本を過剰にヨイショする為に、素人外国人を並べる番組にcool japanと横文字を使う姿勢そのものが、少しもかっこよくない。日本を礼賛し、歴史を修正する番組が乱立する中での横文字の氾濫である、このおかしさの本質は何か。

 強者に迎合しながら、強者の振る舞いや言葉遣いを真似、強者に嫌われ軽蔑されても奉仕することでしか独自性を見いだせない文化的軽薄さが、この国の中にはある。それ故、強者に益々軽んじられていることに気付きもしない。独立していないのだこの国は、と考えざるを得ない。

  「コンプライアンス  コンティンジェンシー レギュレーション フィジビリティ スキーム   アドボカシー インセンティブ タスクフォース   ダイバーシティ  アクティブ・ラーニング シラバス ワイズ・スペンディング アドボケイト ワンストップ・・・」 当該業界以外の人間にはてんで分からない。何度覚えたつもりでも直ぐ忘れる。そして次の横文字が混乱に拍車をかける。

 役所が率先して用い、議員かこれ見よがしに吹聴して歩く横文字も多い。行政は分かりやすく説明すると口では言うが、実際は横文字ではぐらかして市民の意識を遠ざけ「恐れ入らせ」ている。官僚も議員も自分の担当分野以外は、その意味を知らないだろう。
 
 フランスには、米国主導の英語による言語帝国主義に反対する運動があり、フランス語を守り文化の多様性を守るため、1992年には憲法に「共和国の言語はフランス語である」との一文が盛り込まれた。

 一方で国粋的傾向を推し進めながら、他方で横文字に靡く歪んだ卑屈な日本の傾向は今に始まったことではない。
 例えば江戸時代、訴訟は「裁き」、戦争は「いくさ」、恋愛は「色恋」・・・などやさしい大和言葉が使われた。それが一変するのは1872年の「違式註違条例」以降である。
 僕は曾てこう書いた。 

 「薩長による維新政権は文明開化を焦って、文明のかたちに煩かった。1872年東京府知事は「違式註違条例」を発令。刺青、男女混浴、春画、裸体、女相撲、街角の肥桶などから、肩脱ぎ、股をあらわにすること、塀から顔を出して笑うこと等76箇条を「文明国」に有るまじと決めつけ、軽犯罪としている。・・・裸や混浴が淫猥で不道徳と言うものがあれば、裸と性行為を結びつける者こそ淫乱と論議して、道徳習慣についての相互の寛容性を惹起する。それが教養であり、矜持である。  ・・・
 裏声で攘夷を絶叫していた薩長が長英・薩英戦争で敗北、その英国の後押しで政権にありつくや、一転して英国人にとっての「不快」な存在そのものを禁止・排除・抹殺して迎合しご機嫌伺いするのをくい止められはしなかった。敗北してなお保つ小国らしい矜持はここにはない。」
  『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊

 問題は、何故この法令を「違式註違条例」(いしきかいいいと読ませた)
と、わざわざ舌を噛みそうな難しい名前にしたのかである。民は困り果て、絵入りの解説が幾つも出た。ただ、お上を権威付け、民を遠ざけ恐れ入らせるのが狙いであった。
 維新政府が乱発する行政用語も、殊更難解を極めた。それはいまだに改められず、国民大衆の日常から乖離したままである。
例えば裁判で、判決に対して不服があるときの手続きは全て「異議申し立て」でよい筈だが、わざわざ「上訴」「上告」「控訴」「抗告」とややこしく区別して使わせるのである。少年の場合は更にややこしい。
 鳴り物入りで騒いだ「裁判員」制度も、用語には何一つ改善の兆しさえ無い。恐れ入らせる構造をそのままにして、何の改革か。 難しい漢語濫用で民を恐れ入らせ煙に巻いた効果を、行政の横文字が果たしているのである。(裏声で攘夷を叫んだ薩長が政権を握るや英米のご機嫌伺いに奔走したように、鬼畜米英を絶叫したくせに原爆二発で恐れ入り従属に鎬を削る戦後の政権に相応しい語法である)

  アイスクリームの「爽」が売れるのは味の工夫もさることながら、名前がいいからである。横文字に逃げていない。
 横浜みなとみらいの「ぷかり桟橋」、早大漕艇部エイト艇の「韋駄天」号もいい(坪内逍遙の命名だという)。乗用車の名前では、曾てアスカがあって操作性も乗り心地も良かった。

 その国の言語で表せない概念や制度は定着しない。言葉が見つからないときは、言葉を探し又は新たに作る努力をすべきである。その過程で概念や制度の理解も進むのである。
 東京スカイツリーは、業平橋「夢の高櫓」に改称した方がいい。

記 NHKに慰謝料を求めた裁判の判決は2014/6/13にあった。名古屋地裁斎藤裁判長は「使用された言葉に不快感を抱くかどうかは、視聴者の個別事情や価値判断に委ねられる部分が多い」と指摘。「個別の事情に配慮を求めることは制作編集の自由を妨げる結果にもなりかねない」と述べ請求を棄却している。  公共性を失ったNHKと行政に膝を屈した裁判所を象徴している。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...