爆撃し尽くされてもはや空襲の余地ない 清掃された市街を歩く「生き神」 |
とかく教師は、喋ってしまう。考え落ちであっても、落語が終わった途端「何故可笑しいかと言うと・・・」と言わずにおれないのが教壇に立ちたがる。判りさえすれば良い、判らせなければならない、という乱暴さがある。説教しても、だんだん声が大きくなって「何故いけないか、何故オレがおこっているかと言うと」と言わずにはおれない。「落ち」というものが全く判らずに落語家になったようなところが教師にはある。
劇作家高田保が、あるギリシャ王の「馬鹿な奴ほど残らず喋る」という言葉を引いて、余韻は空白の中に漂うと言っている。落ちまで明かさなきゃ気が済まず、名作の結末までばらさずにはおれない。そういう担任は、王によれば馬鹿だということになる。
であるがそんな教師にばかり習っていると、仕舞いには「余計喋る奴」が親切だと思うようになる。
学校もTVも、笑わなければくすぐってでも笑わせる暴力が支配している。絶えず教室から笑い声がおこり、笑い声とともに授業が終わる。それが素晴らしいと。説教していて反省の兆しが見えなければ、校庭だろうと町中だろうと、何時までもがなりたてる。それが熱血だと双方で思い込む。確かにactiveには見える。
喋りすぎる教師が喋りを止める切っ掛けは何だろうか。面白いことがあった。blog「体罰を止めさせるために」の後半、下町のリベラルな工高での出来事である。←Click
件の教師は、生徒の話を聴く楽しみを知った。そうなれば、要らぬお喋りはもはや要らない。この教師が曾て生徒たちの中に見たつもりの、怪しからんこと、体罰すべきこと、延々と怒鳴りつけなければならないことの数々、それらは全て幻であった。
ないものを見ればあるものを見失うのである。
追記 ある男にありもしない「神」を見れば、その男にある筈の人間を見てはならない。だから側近たちは下を見て歩かねばならない。直接その男を見れば、どうしても人間らしさを見てしまうからだ。だから直接見るのは「畏れ多い」ということになった。それが冒頭の写真だ。東京大空襲の惨状を見て歩いているつもりかも知れない。だが民衆の生活も、彼の命令で殺害されたアジア民衆の生き様も悲しみも怒りも目に入らない。
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