体罰を止めさせるために

 「仙台市立中2年生が飛び降り自殺した問題で、同じ学校の教員2人が生徒に体罰を加えていた」という。体罰の報道は際限がない。決定的な対策は無いのだろうか。
 生徒が止めさせるのが、効果的だと思う。その例は昨日のblog にも書いた。(和解する教室   1-6でおこったこと)  該当部分を再録する。

  体罰する若い教師を追いつめて、謝罪させた女子生徒二人
girls are strong
を思い出す。大学卒業したての教師は、大学で「最初が肝心、なめられてはならない」と叩き込まれ、些細なことですぐ生徒をたたいた。そのせいか、この授業だけは静まりかえった。このクラスの小柄な女性担任は、すぐに抗議したが相手にされず悩み、僕は相談を受けた。どうしたものかと考えているうちに、また男子生徒が叩かれた。授業が終わるや、二人の女子生徒が廊下にとび出し、

 「なぜたたいたの」
 「たたくのをやめなさい」と教師の前に立ちはだかった。
 教師はスルリと逃げる。逃げる教師を二人は追いかけ、
 「卑怯者! 話をしているときは目を見ろと言ったのはあなたでしょ」と迫る。
 ついに職員室の前で捕まえ、言い訳を試みる教師に向かって、
 「でも、やめなさい」
 「つぎの授業で謝りなさい」と言い切った時には黒山の人だかりが出来ていた。体罰はそれ以降ない。
 ・・・数日後、彼女たちを見かけ呼びとめた、
 「えっ、なんのこと」と、もう忘れている。
 「ああ、あれね。だって先生、くやしいじゃない」
 「私も、△△君がたたかれていたとき、去年の先生の授業を思い出したの。そしたら、悔しくて、悔しくて、いつの間にか飛び出したら二人で追いかけていた」
 「先生、忘れたの? 去年の授業で尊厳って言ったでしょ、人間には誰にも奪えない人権があるって」 

  教員の管理を厳しくする・研修を強化する・報告させる・集会を開く・・・いつも同じパターンで対策が読み上げられる。そして体罰そのものは繰り返される。当たり前だ、対策は、それ自体を問題にして、当事者が反射的にやる必要がある。
  もう一つある。

 下町のリベラルな工高に、強制移動で乱暴な教師が転勤してきた。口癖は「この学校はあまい」だった。ことある毎に生徒を小突き、罵り、体罰を加えた。生徒も黙ってはいない。件の教師の下駄箱に食いかけの肉まんが捨てられ、靴が玄関前の池に捨てられる。(彼は対策を講じない生徒部に憤慨、職員会議で教師全体に対する生徒の挑戦だとして徹底的な管理を主張した。しかし、ある年功を積んだ教師が「他に同じような目に遭った先生はいますか。・・・いないようですね、だとすればこれはあなた個人の問題です」と釘を刺したのである)
 体罰教師の横暴に手をこまねく我々に、僕のクラスのm君が言った。
 「あいつは俺たちが怖いんだ。あいつに必要なのは友達だね。先生なってやりなよ」。彼は足立区全体の中学番長を束ねる猛者であった。
 僕はしばらく考えて、彼を担任にする裏工作をして、僕自身はそのクラスの社会科を担当することにした。
 案の定、生徒たちは担任に反発した。やがて僕に苦情を持ち込んだ。
 「何とかしてよ」
 「僕がやるのか、君たちがやることだな」
 「あいつ、生徒の話なんか聞かないよ」
 「いい手がある、試してみるか」
 提案したのは、この担任の下宿訪問。生徒は悉く激しく拒否した。当然だ。しかし、
 「これはよく効く、僕は何度も試してみたが、失敗はない。要点は、日曜日に予告なしに訪問する。喋ることが双方無いから、写真見せてと言う。自分の若い頃の写真を見せて、多弁にならないものは少ない。お茶をだし、菓子を買い、たぶん昼飯も出す」と説得した。
 経験した例を説明して、失敗して元々ということになった。工業高校では、三年間持ち上がりをする。だから付き合いは長くなる。
 「先生、失敗したら責任とってね」
 「失敗しないよ。二つ条件がある、僕が知恵を貸したことは絶対言ってはいけない。必ず予告なしに突然行く」
 効果はは直ちに現れた。休み時間に生徒が、件の教員に群がりじゃれつくようになったのだ。周りの教師もあまりの変わりように驚いた。以前ならたとえ生徒が来ても、用件を聞く前に
 「何だ、そのしゃべり方は」「制服はきちんと着ろ」
と説教だけで終わっていた。
 「生徒がこんなに頻繁に来たんじゃ鬱陶しいでしょ」とみずを向けてみた。
 「生徒は可愛いものですよ、先生」 m君の言ったとおり。件の教師の恐怖心を取り去ったのは、友達としての生徒自身であった。

 生徒の為を考えて振るわれた暴力は、体罰じゃないと考える者は、生徒にも親にも教師にもいる。
 大いなる誤解である、教育的愛情をもって涙を堪えながら振るわれるのが、体罰である。それ以外は、刑法上の暴力である。傷つければ傷害罪に問われる。だから体罰で腹が立ったら、医者の診断書は不可欠。
 だいぶ古いが、凄まじい体罰を振るう教師がいて、生徒を殴りながら、生徒が後ろに下がる毎に前進して殴り、遂に体育館を横切ってしまった。この生徒の社会科の教師は、先ず診断書を取らせ、げんこつによる体罰示談金の相場が一発十万円であることを確かめて教えた。再びこの生徒がこの教師に殴られそうになったとき、生徒は
 「・・・げんこつの体罰の相場は十万円。この前の時は20発だったから200万。殴りたかったら殴ったらどうだ、一発十万円」後ずさりしたのは、体罰教師の方だった。もう30年前のことだ。示談相場、今はかなり上がっている。確かめたほうがいい。
   学校教育法は第11条で
「 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」
と定めている
  教育行政がやるべきは、現場に報告を求めて統計を採ったり、詰まらない講習会に教師を動員したり、誰も読まないマニュアル作りに金を使うことではない。教師が自由に講義し、伸び伸びと生徒と対話できる環境を整えることである。 過労死レベルの労働時間を放置し、教員の短期的成果の点検に精を出せば、現場はゆとりを失う。自宅玄関先の花が咲いたのにも気づかない有様だ。気が短くなって体罰を振るいかねない条件を、わざわざ行政はつくっているのだ。

追記 信念と態度の複合を思想と定義すれば、暴力教師を追いかけて問いつめ教室で謝らせた二人の女性を支えたのが、思想だと思う。大の大人である教師が、偉そうに価値判断をかざして、しかしいざというとき隠れるように沈黙する。彼に思想を云々する資格はない。僕が、「教えている生徒の中に、我々より優れた者がいる」というのはこのことでもある。

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