四谷二中 2 不思議な共存

 小学校卒業が迫ると、「二中はやめたほうがいい」と近隣の大人たちのお節介が始まった。 二中はガラが悪い、不良
これよりはるかに汚い飲み屋街を
抜けると、通りを挟んで二中の正門があった
が多い、ヤクザの子どももいる、喧嘩カツアゲが絶えないと、良い噂はなかった。校区内に歌舞伎町があり、林芙美子が一時身を沈めた都内有数のドヤ街旭町も近く、正門前の道を渡れば赤提灯の並ぶ飲み屋街であり、そこを抜けるとストリップ劇場や四谷大木戸開設以来の岡場所の流れをくむ青線まである。絵に描いたような「非教育」的環境。周辺の電信柱には万遍なくストリップ劇場のポスターが貼られ、男子生徒はズックの肩掛け鞄を前に回さねばならなかった。

 対して、四谷一中は道を渡れば迎賓館と東宮御所、南には学習院初等科、東に外堀を渡れば上智大学。比較にならない。校舎も雲泥の差。お陰で四谷第四小学校同級生のうち女子半数は私立か越境を選んだ。男子も若干は越境した。
 だが僕には越境という選択が、浅ましい不正に感じられ、頑固に二中に進学した。自由とは選ぶことではないとの、漠然たる思いがあった。
 入れば意外なことに、二中は小田急線・京王線随一の越境入学者受け入れ校でもあった。小田原から通っている生徒もいた。そればかりではない。二中の文集『静思』には
 「岐阜、大牟田、北海道などからも来ました。恐ろしい勢いでした」との二代目校長(在任1955~1959)の証言がある。(『静思』1968.3 創立二十周年記念号)
  校区内の子どもは二中を嫌って他校に越境するのに、遠くの連中は越境して押し寄せて来る。全く妙なことがあったものだ。
 当時の学力分布を推し量る資料が残っていれば、興味深いものになるだろう。正規分布曲線状に弧を描くのではなく、偏差値の高い部分にも大きな山のある、二つこぶ。先生たちは成績を付けるのに悩んだに違いない。しかし、先生たちの泣き言を聞いた覚えはない。能力別編成が試みられることもなかった。大きな学力差に見事対応して、授業が破綻することはなかった。
 今、格差を口実に、公立小中学校の選択制が実施されて既に破綻し始めているが、当たり前である。大いに異なる雑多な、それでいて自由な関係が、少年少女の感性や知性を豊かに育むのである。時には痛い悲しい思いをすることがあるとしても、それを補い修復するのも、雑多な関係なのであった。

 西隣りに新宿高校、北にしばらく行けば戸山高校、当時両校とも百人以上を東大に送り込み人気が高かった。御苑と外苑を挟んで青山高校があった。不思議な教育環境であった。二中の都立高校合格率はいつの間にか高くなり、噂は京王・小田急沿線に広がっていた。校区内小学校卒業生のうち女子のかなりが、私立に進学したため、男女比は男子2に対して女子1と歪であった。フォークダンスはやれない。
 一学年の学級数は十を超えていたが、校庭は狭く50mの直線コースさえとれなかった、体育館もプールもなかった。クラブ活動も週に一度だけ、それも他のクラブと文字通りぶつかりながらやらねばならなかった。それを補うように、ヒマラヤ杉の鬱蒼たる森があって隣の新宿御苑に続いていた。古い地図を見れば、元々新宿御苑の敷地であったことが分かる。だから校門に続く塀沿いも、大きなヒマラヤ杉が残っていた。お陰で真夏も、いい香りに包まれて涼しかった。 
 先生たちは申し訳なさそうに、「体育館は何とかしたい、待ってくれ」、「ブールは近くの小学校と交渉している」と言う。生徒は「なくてもいいよ」「ないほうがいい」と答えていた。強がりではない、雨が降れば体育は自習になる。ブールがなければ、水泳後の猛烈なだるさや体に残る塩素臭から解放されるからであった。
 激しい雨が屋根を打ち壁や窓を鳴らせば、自習で騒がしい教室のお喋りを封じ込めて心地よかった。長く降ると教室も廊下も雨漏りしてバケツが並べられ、机はずらさねばならなかった。
 図書館と職員室付近は、通りから見えるのでモルタル化粧してあったが、薄汚く剥がれ落ちていた。修理されたのをみたことはない。何もかもがおんぼろだったが、越境入学は減らなかった。               つづく

1 件のコメント:

  1. 飲み屋街が有ったのは確かですが、登校下校時に開店していたということの記憶はありません。

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