「京都市で・・・故・桑原武夫氏の遺族が市に寄贈した蔵書約一万冊が廃棄されていた。・・・寄贈を受けた蔵書は段ボール箱約四百個分。・・・2015年当時の市右京中央図書館副館長・・・は・・・廃棄を了承。蔵書は古紙回収されたという。中には明治以前の貴重な和漢籍も含まれていた。・・・」(東京新聞 2017.5.10)桑原武夫の父親が桑原隲蔵であることを、この副館長は知らなかったのか。「貴重な和漢籍」の価値に頓着が無さ過ぎる、僕は卒倒しそうになった。古紙回収業者は、気付いて古書として流通ルートに載せたのではないだろうか。不正のニオイがする事件である。
石神井高校が改築される時、教員も卒業生もかなり強く反対し、為に都立高校旧校舎解体としては最も遅れることになった。生物実験室などのの標本・実験用具・薬品などを収納した棚は重厚で、実験作業台と教卓は分厚い木製で広く、古い高校の面影を強く残していた。図書室は最上階にあり南に向かって広く窓がとられ、松林越しに富士を望むことが出来た。小さな教員読書室も設けられ、読書会などにはうってつけであった。床や壁は古光りする凝ったコンクリート打ち、実際に造られたのは戦後だが、戦前の学校が描かれる映画には絶好の趣が処々にあった。司書室作業台周辺の棚に、開設以来の職員会議議事録が資料と共にぎっしり納められているのを知ったときには、興奮を抑えられなかった。教育を歴史的に振り返るとき、政府や財界などの動き学者や組合の反応などを追い整理したがるが、大事なことが欠落している。現場での雰囲気や議論である。それが集約されて時系列で整理してある職員会議録綴りは欠かせない。それが1940年府立第十四中学校開設以来の文書として残っていた。いずれ解体は強行され、これらの資料は消却処分されるのが通例であった。そして僕は間違った。校長に散逸を避ける処置をとるように申し入れてしまったのである。お陰で気が付いたときにはすっかり消えていた。行政にとっては、歴史など紙屑の山でしかない。知り合いや関係者の手を煩わせて分散管理すべきであった。大いに悔やまれる。勤評闘争や高校紛争時は連日夜遅くまで緊迫した遣り取りがあったはず、また毎週の議題にはどんなものがあり、どのような人が何を発言していたのかも興味を掻き立てられる。整理するだけで重要な基礎資料となっただろう。職場新聞や生徒の新聞も綴じられてあった。
学級日誌の余白にぎっしり政治批評が連日書き込まれた時期もあり、予備校でも出欠表が教室を一回りする間に真っ黒になったりもした。現存すれば現代教育史垂涎の文書となろう。
世界遺産への登録運動が熱病のように広がっている、儲かるからである。しかし足下の歴史への関心はお寒い限りである、儲からないからである。歴史は廃棄もされる。廃棄と忘却を通して新たな偽造・修正が準備される。
追記1 ハンセン病療養所全生園内小中学校・全生分教室開設以降の関係書類も興味深いものがいくらでもあった。患者教師の天野秋一先生がそれを整理して、保管を園職員に指示したが行方不明になてしまう。厚生省は隔離政策の実態を隠したい、できれば消去したい。長年患者自治会会長を務め政府交渉の先頭に立った盲目の松本馨さんは、 患者の手で多磨全生園史を編纂し刊行することを目指して、関係資料の収集を運動に加えた。その一環としてハンセン病図書館が園内に造られ、入所者の山下道輔さんが精根を傾け資料を収集整理保管してきた。お陰で散逸がだいぶ食い止められた。中でも山下さんが国宝級という「見張り所日記」は消却寸前だった。・・・詳しくは、拙著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社 をご覧戴きたい。
追記2
出来上がった校舎は生徒たちに不評であった。旧校舎や仮設プレハブ校舎を高く評価した。新校舎は、管理向きだが、若者の生活空間としては冷たく愛着をもてるような特性がない。つまり無駄が無く、若者の自由な多様性と調和する構造へのこだわりがない。
案の定、新校舎に相応しくとの理屈で標準服が画策されることになった。会議では反対多数で否決されたが、事務職員が加わっていないとの理由で再度多数決を押し切ろうと足掻き、それも破綻すると、職員会議での採決そのものに問題があると賛否そのものを無効とするという出鱈目をごり押し。賛成意見の中には、都立高校の自由服は名門ナンバースクールに多く、石神井高がそこに加わっているのは違和感があるから標準服でいいんだ、というのもあった。
当時の在校生勝見君は、後日ある教育集会でその頃の様子を次のように語っている。
「生徒全体に「標準服」についてのアンケートが配られました。・・・「私服の学校なのに制服化してしまうのか」などの疑問・反対の声が挙がりました。しかし、生徒に対しては「標準服は行事などの際に着てきてもよいという位置付けである」といった説明だけで、アンケートの結果公表はなく、また、制服との関連や、標準服の教育的効果など具体的な事柄についての説明はありませんでした」
制服ではなく標準服であるとの約束も、数年で反古にされ制服になる。その年に勝見君は教育実習のために母校を訪れたのである。
「私の教育実習は校長先生の以下の言葉から始まりました。 「母校だと思わないでほしい」 「君たちの経験した母校の姿を語るな」「かつて、生徒は自由を履き違えていた」「今、学校が変わろうとしている。だから、足並みを乱すことはしてほしくない」 母校だと思うな?学校が変わる?しかも、それを生徒に話すな?何か私たち卒業生が生徒達に悪いことでもしたかのような、釈然としない気持ちでした。私には「母校を語るな」という言葉が「お前のかつての母校は大変ひどい。」「汚点だね」という風に聞こえました。校長先生が去った後、その場にいた他の教師も「当然だ」といった様子で、ただ見ているだけでした。中には、私の知る教師もいたのです。私はその場にいたすべての教師から、「実習生ごときは勝手なことをするな」と言われているのだと思い、ひどく幻滅しました。教育実習を母校で出来ることを楽しみにしていたので、非常に残念だったし、悲しかったです。・・・ ある実習生が初日の朝礼後、担当教員に呼ばれました。理由はその実習生がスーツを着ていなかったからです。担当教諭は大きな声で以下のように怒鳴りました。 「服装が緩かったら、生徒に舐められる」 「明日スーツを着てこなかったら実習は終わらせる」 事前のオリエンテーションで服装は「基本スーツである」との説明を受けていましたが、その実習生は膝を怪我しており、松葉杖に膝のサポーターという状態でした。そのため、教務の教諭からは「TPOを考えた格好で来てくれ」と指示されたそうです。しかし、実習初日、白のポロシャツに太めのスラックスという格好で出勤した彼に対して、教員は先ほどの怒鳴り声をあげたのでした」 勝見公紀(首都大学東京大学院)
教育実習は、教職課程学生の権利である、恩恵ではない。学校や教師にとって実習生受け入れは義務であり、学んで成長した卒業生と仕事を通して語りあうのは喜びでもある。それを自ら破壊してまで、偏差値を上げようとする。これは都立学校の主権者である都民への背任である。なぜなら偏差値の高い順に、都民としての価値・発言力が与えられているわけではない。身分制社会ではない筈、全員が等しく主権者なのである。
勝見君の文章にある「膝を怪我」した実習生は立教大学の池川宏太君、卒業式で総代として答辞を読んだ。その中で、教師たちが自由にものが言えなくなっている状況を悲しみ、学校現場に圧力を加える力を批判して、大きな拍手浴びた。
(答辞の全文は、当時サッガ部コーチであった有坂哲氏のブログ「 Via テツの「PuraVida!」日記」にある。http://blog.canpan.info/tetsupuravida/archive/641)指定校推薦入学の取り消しを覚悟しての答辞であった。
彼らが、校長から聞いた「君たちの経験した母校の姿を語るな」は、歴史の隠蔽・修正そのものである。身近で一見些細な嘘・隠蔽の集積が大きな修正を構成すれば、恐いのである。「自由を履き違えてい」るとの説教は、発言者にそのまま還しておこう。
開設以来の職員会議録が廃棄されたわけである。
追記3
勝見君は教育の現状に強い危機感を抱いたが、絶望せず大学院で研究を続けながら教えている。野菜の旨い喰い方をよく知っている。池川君は大学卒業後、コスタリカに渡り働き学び、次いでキューバ、ウルグアイを訪れ一年後に帰国。日本と世界からまだ学び足りないと忙しく飛び回っている。ここしばらくは、辺野古支援が続いている。タコス作りが得意。
ここには登場していないが、渕由香里さんも同じように教育実習で公教育に疑問を持った。彼女は大学を卒業して、ウガンダに渡り、日本からの留学生に語学を教えながらNGOスタッフの面倒をみている。四年間になる。彼女のこともいずれ取り上げたい。
有坂哲氏も石神井高校の卒業生。大学を中退してブラジルにサッカー留学、コスタリカのプロチームで活躍して帰国。石神井高校ヘッドコーチをつとめ、今福岡県の糸島で指導にあたっている。柔和な魅力的人物である。
彼らに共通するのは、学ぶことと人間が好きであること、金や地位に無頓着で度胸がいいこと。
歴史の偽造で検索していて、このサイトに出会いました。
返信削除いろいろと参考となります。他の文章も読まさせていただきます。