「・・・校長室の扉は君たちが自由に入れるように少しあけておきます、いつでも歓迎します。・・・」 これは素晴らしいと、僕は期待した。三月まで先生は多摩随一の名門進学校の教頭だった。そこであれば、生徒たちは行儀よく聞いて拍手したに違いない。だが、丁度真ん中の辺りの雑多な生徒たちに囲まれることになった。生徒たちは、少しも静かに聞きはしない。
「参りました。いゃー、聞いてくれませんね。・・」と先生は、ぼやく。前年に僕が出した、『普通の学級で良いじゃないか』(地歴社刊)を先生は読んでくれていたらしかった。僕の前任校は、下町の工業高校だったから生徒の喧しさはたいしたもので、色々考え試したことも書いた。
そもそも式は要らない、有害無実と考えているから
「僕の狭い経験では、挨拶は短くするに限ります」と応えた。先生は終業式では、
「9月の始業式には、真っ黒に日焼けした元気な君たちに会いたいと思っています」とだけ言って壇を降りてしまった。一瞬あっけにとられた三十学級・千四百の生徒たちは、互いに見交わして、どよめきながら拍手を送ったのである。二学期の始業式では
「君たちの元気で真っ黒な顔を見ることが出来て、こんなに嬉しいことはありません」と挨拶して、また拍手を浴びた。
溢れる想いをたった一行に凝縮する。それは長い挨拶を考えるより、余程の思考と推敲そして決断を要する。次第に、校長室に生徒が出入りするようになった。最初の生徒二人組は、校長室に
「先生、お茶ある」と言いながら入って、弁当を食べたらしい。
二人は社会科準備室にもやってきて
「校長先生はいい人だよ、僕がお茶って言ったら、「ハイ、ハイ」といいながら、お湯を沸かしに行ったんだから」
「僕は、あの先生は生徒が好きなんだと思う」 担任のことも喋ったらしい。風通しのいい学校になりそうな気がした。
追記 僕は工業高校に転勤した時、「僕を胡散臭いと思う諸君もいる筈、嘗めてもいいぞ。不味いよ」とだけ挨拶して降壇。生徒を一瞬静まらせ、呆れさせた。教室に入ってからも「何だ、あいつ」と言い合っていたという。
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