木造校舎全体が巨大な共鳴箱になって、 ベートーベンのビアノ協奏曲を毎朝響かせていた。 |
入学式は校庭。教室に戻ると黒板に座席表が張ってあり、和田アキ子似の彼女は僕の斜め前だった。すぐにそれらしい風体の三年生男子が、肩で風を切りながら彼女の前に来て頭を下げるのである。
「3年○組××××です。組では父がお世話になっています。今後ともよろしくお願いします。失礼しました」と、また最敬礼して戻る。彼女は大きな体を縮めるようにして
「止めてくださいよ」と下を向くばかり。所作はかわいらしいものであった。
意外な光景に唖然として座るのも忘れているうちに、続けざまに三年生がやって来る。いずれも丁寧に挨拶した。魂消た僕は思わず
「すげー、お前」と声をかけてしまった。
「イヤだ、もう、やめて樋渡くん」と照れた。彼女はもう僕の名前を知っていた。座席表の要所を即座に暗記していたのである。やはりただ者ではない。彼女の名字は歌舞伎町の幾つもの看板にもあって、ビルの名前にも付けられていた。
反対側の隣はA君、彼も番長らしい歩き方で、菅原文太と高倉健を足して二で割ったような風貌。喧嘩は滅法強そうだった。事実強かった。しかし愛想はよく、朝も笑顔で軽やかに「オッス」と明るい。今なら映画のスカウトが放っておかないだろう。
ある朝、肩掛けカバンを置くなり
「なぁ、たわし(これば僕のあだ名)勉強って面白いのかよ」と聞く。
「うん、面白いよ」と応えると
「頼みがあるんだけどヨー、おれに数学教えてくんねぇか」
「いいよ」と請け合ってしまった。休み時間に教えていたが、いつの間にか教える相手は四・五人に増えた。
「数学っておもしれーな。宿題つくってくれよ」と言い出して、僕は調子に乗って宿題もつくって採点もした。だが彼らは教員に教えてくれとは意地でも頼まなかった。彼らにとって教師は警察と共に敵であった。警察も学校も彼らの私生活まで規制したがるからだ。
彼らに教えたお陰か、僕も僕の妹も彼ら「不良」に脅されたことはない。カツアゲや喧嘩も日常的な嫌がらせもよくあって、友達は大概被害に遭っていた。
「駄目だよ。A君、悪いことしちゃ」と偉そうに言うと、
「分かってるよ、おまえが言うんならもうやんないよ」と一応返事した。
彼らの喧嘩は、仲間内に限られていた。堅気には手を出さない。ひと気のない便所の裏で、男はチェーン、女はカミソリを使っていた。しかし、カミソリで顔を切ったり、チェーンで頭や剥き出しの腕や足が狙われることはなく、大方は制服や鞄が使い物にならなくなるのだった。喧嘩は見張りを随所に立てて用心してやっていたではないだろうか、教師に発見された話を聞いたことはない。
当時の校長たちも、こう回想している。
「(問題生徒は)わりあい少なかったですよ。こんな環境ですから外部の人たちはさぞ手を焼く生徒が大勢いるだろうと思うわけですが、実際は、生徒は免疫になっていまして、街で目に触れるような困った人間にはなりたくないという気持ちが強かったようですね」(『静思』17号)二中の校区には、風俗街や木賃宿もあったが、内藤町や大京町も含まれ、金持ちや文化人の子どもも少なくなかった。
ヤクザの子どもや盛り場の子どもに勉強を教え遊んでいたことは、いつの間にか級友の親たちにも知られるようになった。親が東電に勤める友達のうちでは、
「駄目よ、あんな子たちと遊んじゃ。朱に交われば赤くなると言うでしょ。遊ぶんならうちの子にしてね」と説教された。大きな商店では
「どうして君はあんな子たちに教えたりするの、君の成績も落ちるし損するのよ。お止めなさいね」と釘を刺そうとする。 友達に教えると損をするという気持ちの悪い言い方は、東京に引っ越して来た小学校4年の秋、初めて知った。鹿児島の田舎では思いもよらないことである。「親切にせんといかんよ」が祖母たちの口癖だった。大都会はけちだと思った。
生徒の出身が多様であることは、制服にも直接現れていた。同じデザインだから材質が余計に目立つ。高級純毛、純毛、混紡、化繊、木綿の五種類。新日鐵経営者の孫なども校区内にいて、更に上級の生地を使った特注品を着ていた。
毎朝、予鈴の40分前には正門が開き、ほぼ同時にべートーベンのピアノ協奏曲第五番『皇帝』が学校中のスピーカーから流れる。民家は離れているから大音量であった。不思議なことに、どの文集をめくっても、第五番『皇帝』について触れたものはない。二中を取り巻く非教育的環境に対して、ヒマラヤ杉のの森とピアノ協奏曲第五番『皇帝』の重厚な調べが、優しい防護壁となっていたように思う。
だから、森には
「前夜の狼藉(泥酔客の嘔吐物や立ち小便が酒の匂いと共に残っていた)の跡が残っている街を通ってくる生徒に、学校でその心を清めてやるというような意味で、静思苑」と名が付けられたのである。(「創立二十年記念」誌 座談会)僕は、この曲が流れるひと気のない校舎の雰囲気が気に入って、毎日開門と同時に学校に入った。
教室は二階建てで、30学級以上が、職員室と図書室を除いてほぼ一列に奥へ伸びていたから、廊下は長かった。日本一長いという先生もいた。恐竜の首のように、途中に副脳があった、学年職員室である。大脳にあたる職員室は正門に近く、端っこでえらく遠い。毎時間往復していたらお茶も飲めない。
校舎が乾燥する冬は、放送の音質は素晴らしく冴えた。何しろ長い校舎全体が巨大な共鳴箱になる。その点では贅沢な構造であった。教室に入り、窓を全部開けて空気を入れ換える。夜のうちに充満した生ぬるく澱んだ空気を、御苑の新鮮な空気に入れ替える。そして宿題を片付ける。そうしているうちに『皇帝』第二楽章が静かに始まる。少しづつ生徒が増えてくる。友達が宿題の答を写しに来る。僕は校舎脇でみんなと遊んで汗を流す。生徒が増えるにつれて、音質が変化した。人体が音を吸収するのだ。
第二楽章と第三楽章の間には切れ目がない、それが僕には堪らなくカッコよかった。その第三楽章に入る頃にはすっかり籠もった音質になり、お喋りや廊下を歩く音、扉を開け閉めする音、机や椅子をずらす音に呑まれそうになる。やがて、予鈴が鳴り、校内放送が入ったりするのだった。
つづく
追記 四谷第四小校舎は、大正から昭和にかけて作品を数多く残した関根要太郎設計であった。重厚且つモダンな鉄筋コンクリート造りで、学校に必要な設備はすべて一体設計で整っていた。二中の放送が、職員室隅の小さなアンプから行われるのに対して、専用の立派な放送室があった。そこから登校時には、ペールギュント組曲の「朝」が、下校時には、「アニーローリー」が流されるのであった。
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