上水の隠者 3 責任は私が

 この高校は学級数が多いだけではなく、一家言ある教員が吹き寄せられたように集まっていた。会議は揉めてまとまらず、多数決で決着を付ければ問題をあとに引きずるだけだった。
 一日、M先生の提案で職員会議とは別に自由に語る催しが設けられた。僕はこの日、どうしてもはずせない会合があり参加出来なかったが、あとで様子を聞けば、やはり喧々諤々としていっこうにまとまらない。それを聞いていた校長は
 「こんなに沢山の意見がある、意見の持ち主がいるということ自体が、この学校の長所ではないでしょうか。無理にまとめることはない・・・」と発言したと聞く、いかにもM先生らしい

 「責任は私が取ります。先生たちは、自由に思う存分授業をやってください」と責任という概念を正しく使う管理職はM先生が初めてである。
 名誉は一人で責任を負う者に相応しい。大抵の管理職は、「責任は私にかかるのです、勝手にやられたら困ります」と情けないことを言うのである。それでいて名誉だけは欲しがる。こんな貧困な言語環境に囲まれれば、高校生が知的成長を遂げるのは、簡単なことではない。

  とかく学校教師は、各々の自由な判断に留め置くべき事柄にまで、時には思想言論の自由に関わること、内心の自由の問題にまで介入したがる。緩やかに一致出来る範囲で協働するのをよしとしない。どこかに本質が、正解や正義があるとの世界観のもとに多数決したがる、止みがたく形而上学的である。中には自分の意見を持たず、一途に「多数」に正義を見いだす「多数派」派も少なくない。「毅然」「一致点」という言葉が学校を覆い尽くしていた。多数決で一致点が見いだせるとは、人権を多数決で制限するに似て奇っ怪である。多数であっても決して奪えない個人の権利が人権である。

  M先生は、教員や父母の多様な教育観を学校運営に生かしたいと模索していた。例えば、卒業式を生徒を主人公にした形式に構成できないか、提案してきたことがある。校長や来賓が壇上に並び、生徒は床で頭を垂れるやり方は失礼でもある。「厳粛」という向きもあるが、いかにもお上意識まるだしの権威主義である。
  卒業学年担任団の意見は、「厳粛な式で、壇上から生徒を呼名することにずっとあこがれていた。だから是非厳粛な今までの方式で」が圧倒的であった。若い担任が多かったにも拘わらず。
  沖縄修学旅行で生徒の喫煙が発覚した。現地教員団は当該生徒の謹慎処分を決定し、家庭に送り返すことになった。送り返すとは、親が沖縄まで迎えに来るということである。親は自分自身の往復航空券と生徒の片道航空券を負担し、仕事は休まねばならない。他人の頭痛はいくらでも我慢できるのか。
 校長は異議を唱えた。「これから東京までの当該生徒の全行動を、私が直接指導します」と宣言したのである。
  一体この国の主権者は誰なのかという疑念が、日々膨らむ。学校における主権者は誰なのか、「子どもの権利条約」を再読せねばなるまい。

追記  お茶といいながら校長室に入った生徒は、今国際機関の通訳で多忙である。各国首脳との仕事に、彼の物怖じしない態度は打って付けだと思う。

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