上水の隠者 3 責任は私が

 この高校は学級数が多いだけではなく、一家言ある教員が吹き寄せられたように集まっていた。会議は揉めてまとまらず、多数決で決着を付ければ問題をあとに引きずるだけだった。
 一日、M先生の提案で職員会議とは別に自由に語る催しが設けられた。僕はこの日、どうしてもはずせない会合があり参加出来なかったが、あとで様子を聞けば、やはり喧々諤々としていっこうにまとまらない。それを聞いていた校長は
 「こんなに沢山の意見がある、意見の持ち主がいるということ自体が、この学校の長所ではないでしょうか。無理にまとめることはない・・・」と発言したと聞く、いかにもM先生らしい

 「責任は私が取ります。先生たちは、自由に思う存分授業をやってください」と責任という概念を正しく使う管理職はM先生が初めてである。
 名誉は一人で責任を負う者に相応しい。大抵の管理職は、「責任は私にかかるのです、勝手にやられたら困ります」と情けないことを言うのである。それでいて名誉だけは欲しがる。こんな貧困な言語環境に囲まれれば、高校生が知的成長を遂げるのは、簡単なことではない。

  とかく学校教師は、各々の自由な判断に留め置くべき事柄にまで、時には思想言論の自由に関わること、内心の自由の問題にまで介入したがる。緩やかに一致出来る範囲で協働するのをよしとしない。どこかに本質が、正解や正義があるとの世界観のもとに多数決したがる、止みがたく形而上学的である。中には自分の意見を持たず、一途に「多数」に正義を見いだす「多数派」派も少なくない。「毅然」「一致点」という言葉が学校を覆い尽くしていた。多数決で一致点が見いだせるとは、人権を多数決で制限するに似て奇っ怪である。多数であっても決して奪えない個人の権利が人権である。

  M先生は、教員や父母の多様な教育観を学校運営に生かしたいと模索していた。例えば、卒業式を生徒を主人公にした形式に構成できないか、提案してきたことがある。校長や来賓が壇上に並び、生徒は床で頭を垂れるやり方は失礼でもある。「厳粛」という向きもあるが、いかにもお上意識まるだしの権威主義である。
  卒業学年担任団の意見は、「厳粛な式で、壇上から生徒を呼名することにずっとあこがれていた。だから是非厳粛な今までの方式で」が圧倒的であった。若い担任が多かったにも拘わらず。
  沖縄修学旅行で生徒の喫煙が発覚した。現地教員団は当該生徒の謹慎処分を決定し、家庭に送り返すことになった。送り返すとは、親が沖縄まで迎えに来るということである。親は自分自身の往復航空券と生徒の片道航空券を負担し、仕事は休まねばならない。他人の頭痛はいくらでも我慢できるのか。
 校長は異議を唱えた。「これから東京までの当該生徒の全行動を、私が直接指導します」と宣言したのである。
  一体この国の主権者は誰なのかという疑念が、日々膨らむ。学校における主権者は誰なのか、「子どもの権利条約」を再読せねばなるまい。

追記  お茶といいながら校長室に入った生徒は、今国際機関の通訳で多忙である。各国首脳との仕事に、彼の物怖じしない態度は打って付けだと思う。

難しい・分からないという贈り物

  アインシュタインはバイオリンの名手でもあった。 その練習について、ある物理学者の質問に応えてこう言っている。
 「音楽のレッスンも嫌いだった。先生が時代遅れの機械的な方法を使ったりするのがとんでもなく嫌でね。でも、13歳くらいの頃だったかな。モーッァルトのソナタ曲に出会って音楽に対する興味が目覚めたんだ。私はモーツアルトの独創的で素晴らしい健雅さを再現できるようになりたいと思った。私の本当のレッスンが始まったのはそのときだった。残念ながら、正式な指導はたった1年くらいしか続かなかったけどね。だけど、そういった美しいソナタの音色を奏でようと試みることによって、私はテクニックを磨いていけた。私はいつだって何だって独学で学べると信じている


 アインシュタインがモーツアルトの曲に直接触れて忽ち目覚めたように、我々の授業もそうであらねばならない。練習曲から始めることに我々は囚われている。学びにおける主体のあり方が問われているのだ。「機械的な方法」は、子どもの中に興味が湧き出すのを妨げる。いつまでも、子どもは先生をたより、教師は生徒に頼られることに喜びを見いだす。相互依存関係が師弟関係であると思いこむ。


    宋人有閔其苗之不長而揠之者。/芒芒然帰、謂其人曰、「今日病矣。予助苗長矣。」/其子趨而往視之、苗則槁矣。   天下之不助苗長者、寡矣。

  孟子の「助長」である。抜かんばかりに引っ張っても、芽生えようとする勢いを削いでも。どちらも枯れる。我々の教室では、指導と助長は相互に重なり合い、教師の少なくない者が、宋の農民のように振る舞って嘆いて見せるのだ。それが大人の、教師の努めであると言いながら。

  Cuba独立の父マルティは、詩人でもあり、ラテンアメリカ最初の子供向け雑誌「黄金時代」を発行している。当時の書評は「子供のための月刊誌で、子供ためのよりよい教育と大人の楽しさを持っている」と書いてその高い水準を激賞。
  ホセ・マルティの語りは一貫して子どもと大人を区別しなかったという。
 今、教師の創造性や試行の喜びを抑圧している授業評価、「わからない、難しい」の項目が小学校から大学までも付け加えられ、教師は脅えている。「わからない、難しい」がつかないよう工夫を凝らす。
 だが「わからない、難しい」は、暫しの厄介を含むものの歓迎すべき贈り物でもある。
 お茶の水女子大学の周郷博教授は、付属幼稚園園長も兼ねていたが、園児相手の話でも学生・院生と区別はしなかったという。その話を聞きたさに入学した学生も少なくなかったという。ただ難しくて分からないのではない。分かろうとする衝動を掻き立てる難しさ、それが何年も何十年も持続して、知的好奇心の核になるのである。
 原石の果て知れぬ不思議に満ちた美しさは、機械的に加工された宝石を遙かに凌駕する。機械的に加工された石は経済的価値の基準でしかない。 わからないことを自力のみでわかり通す興奮は、その歩みがどんなに僅かで少なくとも、少年の内なる知的動機を掻き立てる唯一の源である。
  それ故ホセ・マルティの言葉は、数十年を経てカストロ青年たちの心を深く捉えたのである。
  カストロ青年らは、マルティ生誕百年を記念して「百年記念の世代」と名のり、モンカダ兵営を襲撃、革命闘争に立ち上がっている。襲撃は失敗、逮捕されたフィデル・カストロは、非公開裁判でも自からを弁護した「歴史は私に無罪を宣告するであろう」との名弁論のなかで、マルティこそが「7月26日の知的作者」だと宣言したのである。それ故、彼らは先ず、全土でことごとく兵営を教室に変え、識字運動を展開したのである。


追記 マルティはスペイン軍との戦い倒れるのだが、その前日メキシコの友人にあてた未完の書簡で
合州国は、アンティル諸島に手をのばし、さらに強大な力でもって、アメリカのわれらの国ぐにに襲いかかろうとしています。それをキューバの独立でもって阻止するのが、私の義務です。そして、その義務のために、私は、生命をささげる危険に絶えずさらされているのです
と書き残している。革命当時Cubaは孤立していた。しかし今や、孤立しているのは米国である。カストロとゲバラはマルティの言葉を文字通り命を賭けて実現したと言える。1999年Cubaはマルティ主義を掲げた。

上水の隠者 2   挨拶は短く

  M先生着任の挨拶は
 「・・・校長室の扉は君たちが自由に入れるように少しあけておきます、いつでも歓迎します。・・・」 これは素晴らしいと、僕は期待した。三月まで先生は多摩随一の名門進学校の教頭だった。そこであれば、生徒たちは行儀よく聞いて拍手したに違いない。だが、丁度真ん中の辺りの雑多な生徒たちに囲まれることになった。生徒たちは、少しも静かに聞きはしない。 
 「参りました。いゃー、聞いてくれませんね。・・」と先生は、ぼやく。前年に僕が出した、『普通の学級で良いじゃないか』(地歴社刊)を先生は読んでくれていたらしかった。僕の前任校は、下町の工業高校だったから生徒の喧しさはたいしたもので、色々考え試したことも書いた。
 そもそも式は要らない、有害無実と考えているから
 「僕の狭い経験では、挨拶は短くするに限ります」と応えた。先生は終業式では、
 「9月の始業式には、真っ黒に日焼けした元気な君たちに会いたいと思っています」とだけ言って壇を降りてしまった。一瞬あっけにとられた三十学級・千四百の生徒たちは、互いに見交わして、どよめきながら拍手を送ったのである。二学期の始業式では
 「君たちの元気で真っ黒な顔を見ることが出来て、こんなに嬉しいことはありません」と挨拶して、また拍手を浴びた。
 溢れる想いをたった一行に凝縮する。それは長い挨拶を考えるより、余程の思考と推敲そして決断を要する。次第に、校長室に生徒が出入りするようになった。最初の生徒二人組は、校長室に
 「先生、お茶ある」と言いながら入って、弁当を食べたらしい。
 二人は社会科準備室にもやってきて
 「校長先生はいい人だよ、僕がお茶って言ったら、「ハイ、ハイ」といいながら、お湯を沸かしに行ったんだから」
 「僕は、あの先生は生徒が好きなんだと思う」 担任のことも喋ったらしい。風通しのいい学校になりそうな気がした。

追記  僕は工業高校に転勤した時、「僕を胡散臭いと思う諸君もいる筈、嘗めてもいいぞ。不味いよ」とだけ挨拶して降壇。生徒を一瞬静まらせ、呆れさせた。教室に入ってからも「何だ、あいつ」と言い合っていたという。

四谷二中 4 非教育的環境ゆえに理想の教育的緊張


創立間もない頃。後ろは間借りをしていた新宿高校  皆私服である
1961年5月生徒会役員選挙がおわり、早速学級委員会が開かれた。小学校出たばかりの僕には、驚天動地の幕開けだった。決まり切った新生徒会長の挨拶の後、やや沈黙があって、三年生が

 「お前、バカか」と一番後ろから言う。新会長があっけにとられていると、
 「分かんないのか。お前、自由に発言して下さいって言っただろう。お前の隣にいるのは誰だ」
 「係の先生です」
 「何のためにいるんだよ」会長は先生に何かを聞いた。
 「僕たちを指導するためです、相談にのって貰います」
 「それが困るんだよ、何でも自由に言えば、その中には先生に聞かれたら困ることも、言いにくいこともあるんだよ」
  「どんなことですか、何を言っても構わないと思います」隣の先生と必死に打ち合わせをしている。
 「バカ野郎、そんなこと言える訳ないだろう。先ずお前の隣の先生に出ていって貰え」
  会長は、救いを求めるように、更に意見を求めるた。他の三年生が
 「僕も出ていって貰うのに賛成。さっき生徒会は生徒のものだって言ったでしょう、君は。生徒の話し合いの最中に先生は要らない」
 「×○先生の授業つまんないんだけどさ、そんな話もしたいよ。先生がいたら出来ない」
  ・・・
 係の教師は、僕の担任だった。議論を聞いて、何か呟くとニャッと笑いながら出ていった。それからどんな話になったのか、あまり覚えていない。  
 入学式でいきなり現れたヤクザの子どもたちに仰天して、それから一ヶ月も経たないうちに、また仰天してしまったのである。僕はすっかり小学生の尻尾を切り落としてし、一つ高い場所に上がったんだと思った。大人ではない、しかし明らかに子どもではない。それを「中ども」という叔母があったが、言い得て妙である。

 臆することなく教師に文句を言う。こういう校風が二中の授業を引き締めたことは十分に予想できる。雑多な生徒・父母、その中にヤクザの舎弟も弁護士も芸者もいることがどんなに大切か分かる。もし歌舞伎町の連中がいなければ、学級委員会は優等生ばかりになっていた。学級委員も、堂々と教師に楯突くことを、歌舞伎町の生徒の生き方から学ぶことは無かっただろう。状況の胡散臭さを敏感に肌で捉える者と、それを言語化して表現する者が揃わなければ学校も、企業も社会も面白くない。
 越境生が犇めくに相応しい授業環境、それは歓楽街の非教育的環境にも拘わらず維持されたのではない。非教育的環境を排除しないか故に成立したのである。

 だが、それは長続きしなかった。1962年~67年まで二中校長を務めた富田義雄先生は
 「・・・子どもがすなおなことですね。・・・教師のしつけが行きわたりすぎている。効果はあるかどうか分からないが、こまかにしめすぎているという感じがしますね」(『静思』1968.3 創立二十周年記念号座談会)と教師の指導に苦言を呈している。座談会の日付は1968年末である。
 全生研や高生研などの生活指導運動が民・官を問わず盛んになり始め、「期待される人間像」が66年。68年には愛知県立東郷高校が開校して全国的な管理主義の潮流をつくっている。
 この頃、戦前戦中の記憶を持つ教師が、民主教育の後退に強い危機感を持っていたことが富田義雄先生の発言で分かる。他の教師たちはどうしていただろうか。 1968年度の二年生が作文に次のようなことを書いている。
 「・・・(今)名門校といわれるほどの、たくましさ、輝やきがあるのでしょうか。いつかA先生は言いました。「こんなうるさくて、しまりのない学年は開校以来始めてだ」 またB先生は言いました。「今度の標準テストの平均点は、新宿区内の平均点を、上まわったのは○○だけだ。そしてC先生は言いました。「未だかって、このように立食いを多くする学年はないぞ」 この三つの話を、取り上げてもわかるように、生活においても、勉強においても、現在二中の中味つまり内面的なものは、空虚なものとなっているのではないでしょうか」『静思』1968.3

 生徒の自己反省にみえるが、「空虚なもの」になってしまった教師の「指導」を批判だとみるべきだと思う。
  僕はアナーキーな活力に満ちた二中の伸びやかな秩序は、教師たちの高い知性と感性が維持したと考えている。生徒側の態度や能力に問題があるのではない。

  後に都教委は、越境入学を禁じる通達を出す。二中に越境していた層は、地元の中学校に帰っただろうか。勿論そんなことはない。私立に移行したのである。越境は、本人の書類上のすみか(寄留先と呼んでいた)を変えるだけですんでいた。入試はない。だから受験にのめり込むとしても、まだ小学生の生活に受験戦争の影は薄かった。だが私立中学には入試がある。一気に小学生にも受験戦争の風が吹き始める。二中では、越境の優等生も学区内の優等生も消えることになった。大きな変化が現れる。四谷二中は、暴走族の間で知られるようになる。
 
追記 新制中学発足にあたって、教育委員会は校地確保に難渋、結局旧制府立六中(新宿高校)に間借りして開校にこぎ着けた経緯がある。同時に厚生省、大蔵省に陳情すること60回余、隣の新宿御苑に校地を確保、条件付きであった。そのため妙な誤解が生じた。 
 「中には、新宿高校の付属のような感覚をしている父兄もいて、「お宅のお子さんは新宿高校は無理です」なんていうと、かんかんになって怒る父兄もありました」との証言が、『静思』17号にある。おなじようなことは、戸山高校と落合三中にもあったらしい。どうも越境入学名門校化の切っ掛けは、これらしい。
    資料によれば、新制中学の初年度(1947年12月)の東京都では、全中学校239校のうち、独立校舎をもったものはわずかに31校(13%)、小学校などの他校舎を借用していた学校は208校(87%)にのぼり、新築校舎の新制中学は23区内では0校、都下でも6校というありさまだった。
   

四谷二中 3 歌舞伎町の大物とピアノ協奏曲

木造校舎全体が巨大な共鳴箱になって、
ベートーベンのビアノ協奏曲を毎朝響かせていた。
  僕のクラスには、歌舞伎町の大物の娘もいた。和田アキ子に似て大柄で、いかにもスケバン風に制服を着崩していた。靴下を踝の下まで巻いておろし、スカートは異様に長く、頭にはパーマがかかっていた。目付きは鋭く普通の女子との違いは際だっていたが、不思議に互いに影響を与えはしなかった。
 入学式は校庭。教室に戻ると黒板に座席表が張ってあり、和田アキ子似の彼女は僕の斜め前だった。すぐにそれらしい風体の三年生男子が、肩で風を切りながら彼女の前に来て頭を下げるのである。
 「3年○組××××です。組では父がお世話になっています。今後ともよろしくお願いします。失礼しました」と、また最敬礼して戻る。彼女は大きな体を縮めるようにして
 「止めてくださいよ」と下を向くばかり。所作はかわいらしいものであった。
 意外な光景に唖然として座るのも忘れているうちに、続けざまに三年生がやって来る。いずれも丁寧に挨拶した。魂消た僕は思わず
 「すげー、お前」と声をかけてしまった。
 「イヤだ、もう、やめて樋渡くん」と照れた。彼女はもう僕の名前を知っていた。座席表の要所を即座に暗記していたのである。やはりただ者ではない。彼女の名字は歌舞伎町の幾つもの看板にもあって、ビルの名前にも付けられていた。
 反対側の隣はA君、彼も番長らしい歩き方で、菅原文太と高倉健を足して二で割ったような風貌。喧嘩は滅法強そうだった。事実強かった。しかし愛想はよく、朝も笑顔で軽やかに「オッス」と明るい。今なら映画のスカウトが放っておかないだろう。
 ある朝、肩掛けカバンを置くなり
 「なぁ、たわし(これば僕のあだ名)勉強って面白いのかよ」と聞く。
 「うん、面白いよ」と応えると
 「頼みがあるんだけどヨー、おれに数学教えてくんねぇか」
 「いいよ」と請け合ってしまった。休み時間に教えていたが、いつの間にか教える相手は四・五人に増えた。
 「数学っておもしれーな。宿題つくってくれよ」と言い出して、僕は調子に乗って宿題もつくって採点もした。だが彼らは教員に教えてくれとは意地でも頼まなかった。彼らにとって教師は警察と共に敵であった。警察も学校も彼らの私生活まで規制したがるからだ。
 彼らに教えたお陰か、僕も僕の妹も彼ら「不良」に脅されたことはない。カツアゲや喧嘩も日常的な嫌がらせもよくあって、友達は大概被害に遭っていた。
 「駄目だよ。A君、悪いことしちゃ」と偉そうに言うと、
 「分かってるよ、おまえが言うんならもうやんないよ」と一応返事した。
 彼らの喧嘩は、仲間内に限られていた。堅気には手を出さない。ひと気のない便所の裏で、男はチェーン、女はカミソリを使っていた。しかし、カミソリで顔を切ったり、チェーンで頭や剥き出しの腕や足が狙われることはなく、大方は制服や鞄が使い物にならなくなるのだった。喧嘩は見張りを随所に立てて用心してやっていたではないだろうか、教師に発見された話を聞いたことはない。
 当時の校長たちも、こう回想している。
(問題生徒は)わりあい少なかったですよ。こんな環境ですから外部の人たちはさぞ手を焼く生徒が大勢いるだろうと思うわけですが、実際は、生徒は免疫になっていまして、街で目に触れるような困った人間にはなりたくないという気持ちが強かったようですね」(『静思』17号)
 二中の校区には、風俗街や木賃宿もあったが、内藤町や大京町も含まれ、金持ちや文化人の子どもも少なくなかった。
 ヤクザの子どもや盛り場の子どもに勉強を教え遊んでいたことは、いつの間にか級友の親たちにも知られるようになった。親が東電に勤める友達のうちでは、
 「駄目よ、あんな子たちと遊んじゃ。朱に交われば赤くなると言うでしょ。遊ぶんならうちの子にしてね」と説教された。大きな商店では
 「どうして君はあんな子たちに教えたりするの、君の成績も落ちるし損するのよ。お止めなさいね」と釘を刺そうとする。 友達に教えると損をするという気持ちの悪い言い方は、東京に引っ越して来た小学校4年の秋、初めて知った。鹿児島の田舎では思いもよらないことである。「親切にせんといかんよ」が祖母たちの口癖だった。大都会はけちだと思った。
 生徒の出身が多様であることは、制服にも直接現れていた。同じデザインだから材質が余計に目立つ。高級純毛、純毛、混紡、化繊、木綿の五種類。新日鐵経営者の孫なども校区内にいて、更に上級の生地を使った特注品を着ていた。

 毎朝、予鈴の40分前には正門が開き、ほぼ同時にべートーベンのピアノ協奏曲第五番『皇帝』が学校中のスピーカーから流れる。民家は離れているから大音量であった。不思議なことに、どの文集をめくっても、第五番『皇帝』について触れたものはない。二中を取り巻く非教育的環境に対して、ヒマラヤ杉のの森とピアノ協奏曲第五番『皇帝』の重厚な調べが、優しい防護壁となっていたように思う。
 だから、森には
前夜の狼藉(泥酔客の嘔吐物や立ち小便が酒の匂いと共に残っていた)の跡が残っている街を通ってくる生徒に、学校でその心を清めてやるというような意味で、静思苑」と名が付けられたのである。(「創立二十年記念」誌 座談会)
 僕は、この曲が流れるひと気のない校舎の雰囲気が気に入って、毎日開門と同時に学校に入った。
 教室は二階建てで、30学級以上が、職員室と図書室を除いてほぼ一列に奥へ伸びていたから、廊下は長かった。日本一長いという先生もいた。恐竜の首のように、途中に副脳があった、学年職員室である。大脳にあたる職員室は正門に近く、端っこでえらく遠い。毎時間往復していたらお茶も飲めない。
 校舎が乾燥する冬は、放送の音質は素晴らしく冴えた。何しろ長い校舎全体が巨大な共鳴箱になる。その点では贅沢な構造であった。教室に入り、窓を全部開けて空気を入れ換える。夜のうちに充満した生ぬるく澱んだ空気を、御苑の新鮮な空気に入れ替える。そして宿題を片付ける。そうしているうちに『皇帝』第二楽章が静かに始まる。少しづつ生徒が増えてくる。友達が宿題の答を写しに来る。僕は校舎脇でみんなと遊んで汗を流す。生徒が増えるにつれて、音質が変化した。人体が音を吸収するのだ。
 第二楽章と第三楽章の間には切れ目がない、それが僕には堪らなくカッコよかった。その第三楽章に入る頃にはすっかり籠もった音質になり、お喋りや廊下を歩く音、扉を開け閉めする音、机や椅子をずらす音に呑まれそうになる。やがて、予鈴が鳴り、校内放送が入ったりするのだった。 
  つづく

追記 四谷第四小校舎は、大正から昭和にかけて作品を数多く残した関根要太郎設計であった。重厚且つモダンな鉄筋コンクリート造りで、学校に必要な設備はすべて一体設計で整っていた。二中の放送が、職員室隅の小さなアンプから行われるのに対して、専用の立派な放送室があった。そこから登校時には、ペールギュント組曲の「朝」が、下校時には、「アニーローリー」が流されるのであった。

教育実習と歴史の偽造

                                                    1
  「京都市で・・・故・桑原武夫氏の遺族が市に寄贈した蔵書約一万冊が廃棄されていた。・・・寄贈を受けた蔵書は段ボール箱約四百個分。・・・2015年当時の市右京中央図書館副館長・・・は・・・廃棄を了承。蔵書は古紙回収されたという。中には明治以前の貴重な和漢籍も含まれていた。・・・」(東京新聞 2017.5.10)
 桑原武夫の父親が桑原隲蔵であることを、この副館長は知らなかったのか。「貴重な和漢籍」の価値に頓着が無さ過ぎる、僕は卒倒しそうになった。古紙回収業者は、気付いて古書として流通ルートに載せたのではないだろうか。不正のニオイがする事件である。
  石神井高校が改築される時、教員も卒業生もかなり強く反対し、為に都立高校旧校舎解体としては最も遅れることになった。生物実験室などのの標本・実験用具・薬品などを収納した棚は重厚で、実験作業台と教卓は分厚い木製で広く、古い高校の面影を強く残していた。図書室は最上階にあり南に向かって広く窓がとられ、松林越しに富士を望むことが出来た。小さな教員読書室も設けられ、読書会などにはうってつけであった。床や壁は古光りする凝ったコンクリート打ち、実際に造られたのは戦後だが、戦前の学校が描かれる映画には絶好の趣が処々にあった。司書室作業台周辺の棚に、開設以来の職員会議議事録が資料と共にぎっしり納められているのを知ったときには、興奮を抑えられなかった。教育を歴史的に振り返るとき、政府や財界などの動き学者や組合の反応などを追い整理したがるが、大事なことが欠落している。現場での雰囲気や議論である。それが集約されて時系列で整理してある職員会議録綴りは欠かせない。それが1940年府立第十四中学校開設以来の文書として残っていた。いずれ解体は強行され、これらの資料は消却処分されるのが通例であった。そして僕は間違った。校長に散逸を避ける処置をとるように申し入れてしまったのである。お陰で気が付いたときにはすっかり消えていた。行政にとっては、歴史など紙屑の山でしかない。知り合いや関係者の手を煩わせて分散管理すべきであった。大いに悔やまれる。勤評闘争や高校紛争時は連日夜遅くまで緊迫した遣り取りがあったはず、また毎週の議題にはどんなものがあり、どのような人が何を発言していたのかも興味を掻き立てられる。整理するだけで重要な基礎資料となっただろう。職場新聞や生徒の新聞も綴じられてあった。
 学級日誌の余白にぎっしり政治批評が連日書き込まれた時期もあり、予備校でも出欠表が教室を一回りする間に真っ黒になったりもした。現存すれば現代教育史垂涎の文書となろう。
 世界遺産への登録運動が熱病のように広がっている、儲かるからである。しかし足下の歴史への関心はお寒い限りである、儲からないからである。歴史は廃棄もされる。廃棄と忘却を通して新たな偽造・修正が準備される。

 
追記1 ハンセン病療養所全生園内小中学校・全生分教室開設以降の関係書類も興味深いものがいくらでもあった。患者教師の天野秋一先生がそれを整理して、保管を園職員に指示したが行方不明になてしまう。厚生省は隔離政策の実態を隠したい、できれば消去したい。長年患者自治会会長を務め政府交渉の先頭に立った盲目の松本馨さんは、 患者の手で多磨全生園史を編纂し刊行することを目指して、関係資料の収集を運動に加えた。その一環としてハンセン病図書館が園内に造られ、入所者の山下道輔さんが精根を傾け資料を収集整理保管してきた。お陰で散逸がだいぶ食い止められた。中でも山下さんが国宝級という「見張り所日記」は消却寸前だった。・・・詳しくは、拙著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社 をご覧戴きたい。

追記2
 出来上がった校舎は生徒たちに不評であった。旧校舎や仮設プレハブ校舎を高く評価した。新校舎は、管理向きだが、若者の生活空間としては冷たく愛着をもてるような特性がない。つまり無駄が無く、若者の自由な多様性と調和する構造へのこだわりがない。
 案の定、新校舎に相応しくとの理屈で標準服が画策されることになった。会議では反対多数で否決されたが、事務職員が加わっていないとの理由で再度多数決を押し切ろうと足掻き、それも破綻すると、職員会議での採決そのものに問題があると賛否そのものを無効とするという出鱈目をごり押し。賛成意見の中には、都立高校の自由服は名門ナンバースクールに多く、石神井高がそこに加わっているのは違和感があるから標準服でいいんだ、というのもあった。
 当時の在校生勝見君は、後日ある教育集会でその頃の様子を次のように語っている。
 「生徒全体に「標準服」についてのアンケートが配られました。・・・「私服の学校なのに制服化してしまうのか」などの疑問・反対の声が挙がりました。しかし、生徒に対しては「標準服は行事などの際に着てきてもよいという位置付けである」といった説明だけで、アンケートの結果公表はなく、また、制服との関連や、標準服の教育的効果など具体的な事柄についての説明はありませんでした

 制服ではなく標準服であるとの約束も、数年で反古にされ制服になる。その年に勝見君は教育実習のために母校を訪れたのである。
私の教育実習は校長先生の以下の言葉から始まりました。 「母校だと思わないでほしい」 「君たちの経験した母校の姿を語るな」「かつて、生徒は自由を履き違えていた」「今、学校が変わろうとしている。だから、足並みを乱すことはしてほしくない」 母校だと思うな?学校が変わる?しかも、それを生徒に話すな?何か私たち卒業生が生徒達に悪いことでもしたかのような、釈然としない気持ちでした。私には「母校を語るな」という言葉が「お前のかつての母校は大変ひどい。」「汚点だね」という風に聞こえました。校長先生が去った後、その場にいた他の教師も「当然だ」といった様子で、ただ見ているだけでした。中には、私の知る教師もいたのです。私はその場にいたすべての教師から、「実習生ごときは勝手なことをするな」と言われているのだと思い、ひどく幻滅しました。教育実習を母校で出来ることを楽しみにしていたので、非常に残念だったし、悲しかったです。・・・ ある実習生が初日の朝礼後、担当教員に呼ばれました。理由はその実習生がスーツを着ていなかったからです。担当教諭は大きな声で以下のように怒鳴りました。 「服装が緩かったら、生徒に舐められる」 「明日スーツを着てこなかったら実習は終わらせる」 事前のオリエンテーションで服装は「基本スーツである」との説明を受けていましたが、その実習生は膝を怪我しており、松葉杖に膝のサポーターという状態でした。そのため、教務の教諭からは「TPOを考えた格好で来てくれ」と指示されたそうです。しかし、実習初日、白のポロシャツに太めのスラックスという格好で出勤した彼に対して、教員は先ほどの怒鳴り声をあげたのでした」 勝見公紀(首都大学東京大学院)

  教育実習は、教職課程学生の権利である、恩恵ではない。学校や教師にとって実習生受け入れは義務であり、学んで成長した卒業生と仕事を通して語りあうのは喜びでもある。それを自ら破壊してまで、偏差値を上げようとする。これは都立学校の主権者である都民への背任である。なぜなら偏差値の高い順に、都民としての価値・発言力が与えられているわけではない。身分制社会ではない筈、全員が等しく主権者なのである。
  勝見君の文章にある「膝を怪我」した実習生は立教大学の池川宏太君、卒業式で総代として答辞を読んだ。その中で、教師たちが自由にものが言えなくなっている状況を悲しみ、学校現場に圧力を加える力を批判して、大きな拍手浴びた。
(答辞の全文は、当時サッガ部コーチであった有坂哲氏のブログ「 Via テツの「PuraVida!」日記」にある。http://blog.canpan.info/tetsupuravida/archive/641)指定校推薦入学の取り消しを覚悟しての答辞であった。

  彼らが、校長から聞いた「君たちの経験した母校の姿を語るな」は、歴史の隠蔽・修正そのものである。身近で一見些細な嘘・隠蔽の集積が大きな修正を構成すれば、恐いのである。「自由を履き違えてい」るとの説教は、発言者にそのまま還しておこう。
 開設以来の職員会議録が廃棄されたわけである。


追記3
 勝見君は教育の現状に強い危機感を抱いたが、絶望せず大学院で研究を続けながら教えている。野菜の旨い喰い方をよく知っている。池川君は大学卒業後、コスタリカに渡り働き学び、次いでキューバ、ウルグアイを訪れ一年後に帰国。日本と世界からまだ学び足りないと忙しく飛び回っている。ここしばらくは、辺野古支援が続いている。タコス作りが得意。
 ここには登場していないが、渕由香里さんも同じように教育実習で公教育に疑問を持った。彼女は大学を卒業して、ウガンダに渡り、日本からの留学生に語学を教えながらNGOスタッフの面倒をみている。四年間になる。彼女のこともいずれ取り上げたい。
 有坂哲氏も石神井高校の卒業生。大学を中退してブラジルにサッカー留学、コスタリカのプロチームで活躍して帰国。石神井高校ヘッドコーチをつとめ、今福岡県の糸島で指導にあたっている。柔和な魅力的人物である。
  彼らに共通するのは、学ぶことと人間が好きであること、金や地位に無頓着で度胸がいいこと。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...