「私は六人の息子を持っているが、この連中が小さい時、どうしても履物をきちんと揃えて上がるということができなかった。叱ってもその時だけで、すぐ元に戻ってしまう。 そこで糸賀一雄先生にお尋ねした。 「しつけとはどういうことですか」と聞くと、先生は、 「自覚者がし続けることだ」 といわれた。 「自覚者といいますと?」と聞くと、 「君じゃないか、君がやる必要を認めているんだろ」 「はい」 「それなら君がやり続けるのだ」 「そうすると、息子はどうなりますので?」 「ほっとけばいい」 これはえらいことを聞いてしまった。聞くんじゃなかったと思ったが仕方がない。私一人が自覚者になるのはつまらん気がしたので、家内も自覚者の一人にひっぱりこんで、自覚者のし続けをはじめたが、親が直している前で、息子がばんばんと脱ぎすてて上がるのを見ると、おのれと思うが、糸賀先生がほっとけといわれたから仕方がない。叱りもならず、腹の中で、自分の産んだ子であることを忘れた、くそったれめと思いながら、履物直しはし続けた。 ところがだんだんやっているうちに、はじめはくそったれめと思っていたが、息子のことも消えて、そのうち、だんだん履物を並べるのが面白くなってきた。外から帰ってくる時も、無意識のうちに、さあ、きれいに並べてやるぞと、いつの問にか履物並べを楽しみにしている自分に気がついて、驚くこともあった。そのうちに、そのような心の動きも忘れてしまって、ただ履物を並べるのが、趣味というのか、楽しみになってしまった時、気が付いたら、息子どもが、ちゃんと並べて脱ぐようになっていた」田村二一著『賢者モ釆クリテ遊ブベシ』NHKブックス
糸賀一雄は「びわこ学園」を創設した社会福祉の先駆的実践家。
正直者が馬鹿を見るというセリフを何度聞いただろうか。生徒も教師も言う。ここで言う正直者とは、指示や命令に従順ということである。疑うことをしない。
なぜ些細な逸脱に目くじらを立てるのが、持て囃されるのか。TVnewsでネタに困ると繰り返して蒸し返される問題がある。例えば、立ち入り禁止の堤防での釣りや河川敷での菜園づくり。若いアナウンサーが柵を越える釣り人を、「立ち入り禁止になっているのを知っていますか」と執拗に追い回すのである。柵を取り払って行政の好きな「自己責任」を掲げておけば、それぞれが判断すればよい。その程度のことを取材して、正義づらをするのである。
首相や米軍が憲法の規定を蔑ろにしても、マスコミは追認する。権力の逸脱行為に目くじら立てて追及するのが報道機関の存在価値というものだが、それは回避する。その言訳に堤防の釣りを巡る「正義」が使われる。新人アナウンサーは悲しい存在である。
MH高のM校長は、自覚者だったと思う。(当blog 「上水の隠者」参照) 生徒の逸脱には寛容であったが、教員が生徒の学習権を奪うことには厳しい態度を貫いたし、教育委員会の不当行為には退職後も抗議声明を出していた。
われわれが従順でなければならないのは、人間の尊厳に対してであり、それを規定した憲法や人権宣言などに対してである。我々の目の前で繰り広げられる問題が、これらに対してどうなのかという判断を絶えず迫られているのである。判断を機関や組織に委ねて、個人の判断を放棄してはならない。何故なら、機関や組織が人の尊厳を蔑ろにしているとき抵抗するのは個人だからである。
S先生は、新卒で工業高校に赴任した。一年たって担任になったのだが、生徒たちが掃除をさぼる。たまらずS先生が箒を握ったが生徒はそのわきをすり抜けて帰る。それでも黙々と、笑いながら掃き続けた。S先生が人一倍精魂を傾けたのは、授業と教材研究である。生徒が「先生、手伝うよ」といって箒を採ったのは二年後だった。しかし担任を含めて学級の結束は固く、文化祭や体育祭では毎年目覚ましい活躍をして、同窓会の集まりは、このクラスが群を抜いている。