「宇高申先生」2

承前
 勤務評定反対のこと説きしより吾に親しみて来し生徒あり                            横山正 1958年12月「アララギ」

 一斉休暇は、勤務評定反対闘争の一環として東京都教組が取り組んだ闘争戦術である。都教委が勤務評定規則案を上程する動きを見せたのに対し、都教組は1958年4月23日に一斉休暇闘争を提起。検察は、こうした行動が同盟罷業に該当し、組合幹部らによる指令の配布伝達行為は地方公務員法第61条4号のあおり行為等に当たるとして、起訴する。煽りとは扇動であり、地公法はこれを特に悪質と見做したのである。
 第1審の東京地裁は、都教組の行為は、煽り行為とは言えず、争議行為に通常随伴する行為であるとして、全員を無罪とした。控訴審の東京高裁は、これを覆し全員に有罪を言い渡した。
 最高裁大法廷は、本件行為は、争議行為に通常随伴する行為にあたり、刑事罰をもってのぞむ違法性を欠くと結論づけ、全員に無罪を言い渡した。判決は1969年4月2日。
 宇高先生は、無罪判決の翌年1970年に停職二十日の処分を受けている。処分通知にはこうある。
  「・・・教職員組合中野支部執行委員長として、当局の警告にもかかわらず、日米共同声明への抗議・安保破棄・沖縄全面返還・70賃金闘争勝利の闘争を結合して、昭和45年6月23日出勤時より29分、また時間内組合活動制限反対の闘争として昭和45年9月22日出勤時より1時間29分の2回にわたり、同組合員全員を動員して支部単位の集会を行い右時間内の職務放棄をすることの行為を企画してその実施を指導した。このような行為は、地方公務員法に違反するものである
 公立学校教員として就職するにあたって誰もが署名した筈の「憲法尊重の誓約書」に忠実であれば、一連の抗議行動は憲法秩序を守る当然の行為であった。

 先生は『子どもの文化』1988年12月号で総括と展望を示している。その中で「・・・「(板橋区)学校公文書取扱規定」は形骸化させ得たが、内容は学級・学年経営案、学級指導一覧表、学級通常テスト内容などを「審査」「廃案」という形で「検閲」をめざしPTA広報紙もふくめた教育活動を破壊するものであった。さらに「教育庁人事刷新検討委員会報告」の提起は、国定教員づくりの黒い設計図である「東京都公立学校教員研修の充実について・第二次報告」とともに、教職員への管理統制を徹底させ・・・東京の教育・学校から自由と民主主義を根こそぎ奪いとるもの」と指摘。憲法違反の行政に警鐘を鳴らしている。
 残念なことに、それは先生の孫・池川君の教育実習における母校校長の、卒業生を仰天させる言葉となって的中した。(blog 「教育実習と歴史の偽造」←クリック

 生活指導などの分掌の職務や校長の身分を取り除いてしまうと、何も残らないのではないかと思われる教師は少なくない。上から与えられた役割を剥けばその下にまた役割、ラッキョウのように剥いても剥いても、人間の芯としての人格が出てこない。教務に移れば、実に教務らしく、図書に移れば図書部らしく、担任になれば担任らしくなる。型に沿ってはみ出すことはない。型は指導要領と山なす通達を読み込む度に硬さが増す。これを繰り返して上司の評価もめでたくなる。同時に人間としての可塑性を失い、その人らしさを取り戻せなくなる。飲み屋にいっても旅館に泊まっても「先生でしょう」としか言われない。国定教員とはこうして生まれる。こういう教師とその生徒をを何処の教委も企業も欲しがっている。
 宇高先生は、何をやってもどこにいても宇高申らしさを取り除けない。型に入れようとしてもはみ出してしまう。無理をすれば型が壊れてしまう。どんな役割を担っていても宇高申らしさは透けて見えていた。だから代用監獄にあっても、宇高先生は宇高先生として生徒たちから慕われ、「先生、頑張れ」の声援が跳び続けたのである。 
 先生は最晩年を老人ホームですごしたが、先生の部屋には訪ねて来る卒業生に混じって、ホームの職員たちがいつもいた。先生の世話をするためではない、先生に相談に乗って貰うためである。それがやがてホーム職員組合の組織化につながる。先生は最後まで、宇高先生であった。数学教師であり、区教組委員長であり、教育相談の開拓者でもあった。 理科大学と東京大学で数学と教育学を学んだ

最新兵器の販売促進しているのは誰か

  朝鮮中央通信社が8月9日、「中長距離弾道ミサイル「火星12」を米領グアム周辺に向けて発射する作戦を「慎重に検討」していると伝えて日本のメディアは騒いだ。
 Prensa Latin はキューバのメディアだが世界中に取材網を持っている。半世紀以上にわたるカストロの情勢分析の適確さと豊かさは、こうした通信社の努力に負うている。 
 Prensa Latinは8月10日「誰も見たことがないこと起きる」というトランプの脅迫を受けて「トランプが北朝鮮に対する挑発を強める」という見出しの記事を掲載している。

  が、その数日前、8月7日付けで、フィリピンの首都マニラで、6日から8日にかけて開かれた東南アジア諸国連合の会議で、北朝鮮が「米国以外の国に対しては核兵器は使用しない。しかも、米国が北朝鮮を攻撃した場合に限る」とする立場を明らかにしたことを伝えている。
  さらに、Prensa Latinは、中国とロシアは米国に対しても苦言を呈したことも伝えている。
  それゆえ国内メディアが大騒ぎする中、日米の首脳は悠々と休暇を楽しんでいるのである。彼らは大いに安心しているに違いない。何故なら高価な迎撃ミサイルシステムが役立たないことを世界中に知られないですんだからである。
 そして、今日の各紙一面は「防衛省は、陸上配備型の新たな迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の導入に向けた関連経費を2018年度当初予算案に計上するよう要求する方針を固めた」と報じた。
 一基800億の商談成立に、米・日・北の罵り合いは、多大な貢献をしたのである。暫くすれば日米ともに、奇妙な理屈をつけて北にある種の支払いをすることになる。今まで何度も繰り返したように。朝鮮に対する「ヘイト」発言もこのたくらみに同調している。
 だから世界最大の死の商人たちにとっては、「北」に潰れられては困るのである。民主化されても困る、だから金正恩の兄は「北」ではない勢力にわざわざ監視カメラの密集する空港で始末されたのだと思う。
 小さな国のメディアから目は離せない。

女子高の座り込み・高校生組合の意義

  前日blog「教師が生徒を殴る事件と生徒が教師の襟元を掴む事件が同時に起こったら」の続き。

 下町の工業高校にいた頃のある日、生徒が準備室に駆け込んで
 「面白いことが起こったよ、これは先生には教えとかなくちゃ」と嬉しそうにしている。聞けば近所の女子高で授業放棄の座り込みが始まったという。
 僕はこの私立高校教師の労働条件の酷さを伝え聞いて、少し確かめたことがある。生徒数が多すぎてアルファベットでは足りない程のクラス数。ある時新任の教師が駅のホームで生徒と話していたところ、「コラッ、うちの生徒にナンパしてはいかん。どこの生徒だ身分証明書を出せ」と年配の教師に叱られたという。辞める教師が多く、入れ替わりで来る教師を覚えられない。講師も多く、職員会議はマイクを使わねばならず、給料日は一人づつ校長室に呼ばれて、有難く押し頂くのだが中身は安い。
 服装や髪形の校則は細かく、体罰を伴う検査が日常化していた。従って気分の荒れた女子生徒も多く、僕のいた高校の生徒の中には、彼女たちが怖くて通学時間をずらす者もいた。
  その生徒たちが、座り込んだのである。発端は細かい校則による取り締まりと体罰であったが、座り込みにまで発展したのは、進学コースの生徒たちが同調したからである。彼女たちは、東大などを目指す優等生で生活指導上の問題は表面上ない。しかし、校友たちへの仕打ちを理不尽であり生徒全体の尊厳を愚弄していると見た。連帯の意識である。
  良妻賢母を表看板にする女子校にとっては一大事。解散しなければ退学処分すると脅した。生徒たちは、この事態が新聞や週刊誌に知られてもいいかと応じて要求を出している。1つ、今度のことで誰ひとり処分しないこと、2つ、体罰をしないと約束すること、3つ、校則を改善すること。父母の中に新聞記者や雑誌編集者も議員や弁護士もいた。公衆電話とポケベルによるネットワークを形成して戦ったのである。僕の学校の生徒もその中にいたのだった。
 彼女たちは見事に勝利を収めた。

 日本の生徒会も学校ごとに閉鎖隔離されるのではなく、フィンランドのように開かれた高校生組合を持っていれば、この話も直ちに拡散して全国の高校生を勇気づけただろう。いまインターネットで散発的な情報が伝わることはあっても力にはならない。多くの情報が集積され分析されなければならない。そのために組合は有効である。
 また、事前に組合として行政と交渉したりメディアに訴えて、体罰などを未然に防ぐこともできる。フランスのように、高校生が全国組織を持ち政府と直接交渉することも、日本の敗戦直後を振り返れば困難だが不可能ではない(例えば当blog 「1950年代・高校生の政治的力量 京都と高知の場合」
  いま日本の高校生は、偏差値別に隔離され社会連帯意識を封じられた上で、部活に青春のエネルギーも自由も強奪されている。自分たちの未来どころか、現在さえ自由にならない日常に自己没入して泣くという倒錯に酔うのである。
 倒錯に酔うのは、学徒出陣した若者たちと同様に未来を見通せないからではないか、しかし学徒出陣の若者と決定的に違うのは、見通す「力」と伝える言葉さえ獲得すれば、フィンランドやフランスの高校生のように政治的主体として現れる見通しがあることだ。
  見通すには、まず見えなければ始まらない。他の学校では何が起きているのか、どうなったのか。ある筈のものを見、伝え合うことから始める。それが「力」である。

教師の暴力と生徒の暴力

  かつて都立K高校で、生徒と教師の言い争いがあって、生徒が教師の襟元を掴んだ。教師に対する暴力と見做して退学処分となった。これに生徒たちは納得せず混乱が続くうちに、今度は生徒を教師が殴る事件が起きて騒ぎは大きくなった。当然である、襟元を掴んだ生徒が退学なら、殴った教師も同じように扱われなければならない。生徒たちは、暴力教師の馘を要求した。教師たちはいろいろ説明をこころみて、教師の馘首はできないと言ったが生徒たちの怒りは高まる。このままではマスコミ沙汰にもなりかねない。職員会議が侃々諤々と長引いた。結局、両方の事件とも無かったことにするで幕が引かれることになった。殴った教師に大いに有利で不公平だが、退学を避けたい生徒たちはやむを得ず矛を収めた。
  日本が従属しているある国では、教師が生徒に暴力を振るった場合は即刻馘首処分。生徒が教師を殴った場合は、指導をしなければならないから、登校させてカウンセリングなどを受けることになるのが一般的である。これは処分ではない、権利としての指導である。
  いま、このK高校はない。もし、日本にも高校生の組合があったら、こうした情報が集積され分析整理され、有効に利用されるに違いない。
  フィンランドでは、様々な組合が大きな影響力を持ち、権利を掲げて団体交渉、高校生の組合もあって、高校生組合の意見も新聞やTVで取り上げられる。

  THE UNION OF UPPER SECONDARY SCHOOL STUDENTS IN FINLANDはホームページ冒頭で次のように自己紹介している。
  「The Union of Upper Secondary School Students is a politically and religiously independent organisation founded in 1985. We provide our members the only official student card available for upper secondary school students. A student card entitles its holder to thousands of benefits and discounts.

In addition to offering valuable benefits, we work hard to maintain and improve the conditions concerning secondary school students. We also produce a quality journal Improbatur and organise student activities around Finland. With over 50 000 members The Union of Upper Secondary School Students is the largest student organisation in Finland, that is based on voluntary membership.


  これは「ごっこ」ではない。                                     明日に続く

子ども手当は1941(昭和16)年、多磨全生園で始まっている

 戦時中ハンセン病療養所多磨全生園では、栄養失調による死者が増え、1942年140人、1943年 114人、1944年 133人、1945年 142人、1946年150人。一時は定員を超えて1400名の全生園はたった五年で半数が死亡、新しい患者と入れ替わった。    

 子どもたちの面倒をみたのは患者教師ばかりではない。子どもは少年舎・少女舎で生活するようになり、寮父・寮母が患者作業として配置される(1920年代)。寮父・寮母を、子どもたちはお父っあん・お母さんなどとよんだ。

 1941年から寮父を引き受けた松本馨は、条件として作業をしなくても子どもが治療と学業に専念できるよう援助を要求している。その結果、全生互恵会から月一円の日用品費が全ての子どもに支給されるようになる。この着想は、松本も加わった原田嘉悦の茶会に集う若者たちの議論の中から生まれたのではないだろうか。彼は原田嘉一から「将来科学の進歩によって(ハンセン病の)治療薬が発見される時が来る」という内村鑑三の言葉を聞いている。子どもに、死を待つ子どもの絶望ではなく未来を迎える希望を見ていたと言えよう。
 他の療養所の子どもたちの労働はどうだったのだろうか。同じ1940年前後の長島愛生園や戦後(1950年)の青森松ヶ丘保養園の様子が「ハンセン病問題に関する検証会議」証言にある。


  岡山県の長島愛生園では・・・子どもたちも重労働に従事し、療養所の運営を補完する役割を担わされたのである。「薪の運搬、田植え、ため池工事や望が丘の土地の開墾などの重労働によって、体に傷をつくったり、障害をさらに悪く・重くする子どもを多く出すことになった。                           第16回検証会議 証言



   (松丘保養園の)子どもたちは新聞配達や牛乳配達を日課としており、それが授業時間に食い込んでも、だれも文句を言わないというありさまでした。ここまでやらなければ生活を維持できなかった・・・。   第16回検証会議 証言

              
  月一円の日用品費は、「奇妙な国」多磨全生園の子ども手当である。その意義は、1933年の「児童虐待防止法」が、14歳未満の労働を禁じてはいたが、子どもへの手当は1972年の「児童手当法」を待たねばならなかったことに現れている。
 農家の娘たちが売られていた頃「農村の少年は、5歳になるとすでに縄ないを始め、11、2歳になると田仕事に追いやられ」た時代である。 註 1944年には国民学校高等科児童の勤労動員が始まることを考えれば、その意義の強調は不当ではない。日本の最も深い闇に於ける先駆的試みである。これは一度も打ち切られず、療養所内高校新良田教室に進学した全生園出身高校生にも送られ続けた。


 「子どもは下が10歳で上は14歳であるが、20歳まで生きられる者が果たして何人いるだろうか。それを考えると、今子どもたちに必要なものは何なのか、考えずにいられなかった。そして私の出した結論は、国の教育方針に従って、基礎的な力をつけることも大事だが、それ以上に必要なことは、自己を表現する能力をつけてやることだ。子どもたちの前途には恐るべき病魔が待っている。それと戦う言葉を持つことが 大切だ。それが自己表現能力をつけることなのである。苦難のただ中で言葉も持たず、獣のように死んでいくほど悲惨なことはない」  松木信(松本馨)『生まれたのは何のために ハンセン病者の手記』 教文館

 
 松本馨は作業から子どもたちを解放して、子ども舎で作文教育を始める。子どもたちの書いた作文・詩・短歌・俳句を、其々園内の文人たちに託して批評指導を頼んだ。文化を通して大人との繋がりをつくる。共通の文化は集団を共同体化させる。療養所という地域の教育的組織化でもある。収容以前は登校もせず遊び暮らしていた子どももいたが、松本は読み方から始めている。 


 「学習が終わると・・・相撲をとった。私は座ったままで、子どもたちは二人一組となり、私の前から横から後から飛びかかってくる。私は怪我をさせないように畳に投げる。投げられた子どもはまた飛びかかってくる。疲れてくるとまた別の子がかかってくる。そのうちに私の方が力尽きて倒されて子どもたちは私の上にあがって万歳を叫ぶのであるが、この時の子どもたちの目はキラキラと輝ていた」      『生まれたのは何のために ハンセン病者の手記』 教文館 

      
 病魔と戦うとは、まず病魔の正体を捉え、治療と栄養ある食事を要求することであり、強制労働を拒否することである。隔離の不条理と闘うことであり、未来を共有し人間としての尊厳を回復することであって、それは言葉を通して伝えられる。
 言葉の限界は、世界の限界である。闘うべき相手を定義する言葉と、自分を確認する言葉を見つけなければ、世界を知ることは出来ない。知って初めて対話も妥協も闘争も可能となる。言葉がなければ、癩業界が定義した世界に飲み込まれて全体を確認できないまま、弄ばれ隷属するしかないのである。
 子どもを強制労動から解放し、未来への希望を持つ子どもとしての価値を認め、正当な保護を与え、闘う言葉を獲得させる。これを、ハンセン病療養所における「子どもの発見」と言っていいのだと思う。根拠のない迫害に苦しむ子どもには、根拠なしの愛情で報いなければならない。その存在において慈しまねばならない。

 後にハンセン病を悪化させ両足を切断した松本は、1950年には妻を亡くし視力も失い「石であって人ではない」十年を経験する。点字も指が使えず舌をつかった。その苦難にあって自治会長や全患協会長を長年務め、予防法体制と徹底的に闘うのだが、その不屈の姿勢はこの時既にある。
                                拙著 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊を参照した。

追記  「子ども手当」は、子どもの生活を変えるだけではない。子どもに繋がる大人や社会までを根底から変える力を秘めている事が解る。
 松本馨が「子ども手当」の支給を交渉した相手は、全生園事務官であった。初め毎日半日だった子どもの作業は、この当時週3日、昼食後の半時間(別の記述では1時間)ばかりのガーゼ伸ばし等で(子どもの収入は月30銭~50銭)。他園に比べて軽い作業であったが、子どもの作業廃止と一円支給は画期的である。同時に、学園卒業の少年と学園児童を分離することも要求して実現させている。後に松本は「人間的対応をする事務官であった」と書いている。
 金の出所は財団法人互恵会、患者の売店等の資産・寄付によって1931年設立、患者の相互扶助を目的にしていたが、運営実権は園側が完全に握っていた。
 人口千人余りの小さな「奇妙な国」ハンセン病療養所多磨全生園で、子どもを守るための最善を患者たちが尽くしていた時に、当時7000万人の「大国」は、近隣諸国を侵略し、自国の子どもたちの命を皇国に捧げる訓練に余念がなかった。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...