前日blog「教師が生徒を殴る事件と生徒が教師の襟元を掴む事件が同時に起こったら」の続き。
下町の工業高校にいた頃のある日、生徒が準備室に駆け込んで
「面白いことが起こったよ、これは先生には教えとかなくちゃ」と嬉しそうにしている。聞けば近所の女子高で授業放棄の座り込みが始まったという。
僕はこの私立高校教師の労働条件の酷さを伝え聞いて、少し確かめたことがある。生徒数が多すぎてアルファベットでは足りない程のクラス数。ある時新任の教師が駅のホームで生徒と話していたところ、「コラッ、うちの生徒にナンパしてはいかん。どこの生徒だ身分証明書を出せ」と年配の教師に叱られたという。辞める教師が多く、入れ替わりで来る教師を覚えられない。講師も多く、職員会議はマイクを使わねばならず、給料日は一人づつ校長室に呼ばれて、有難く押し頂くのだが中身は安い。
服装や髪形の校則は細かく、体罰を伴う検査が日常化していた。従って気分の荒れた女子生徒も多く、僕のいた高校の生徒の中には、彼女たちが怖くて通学時間をずらす者もいた。
その生徒たちが、座り込んだのである。発端は細かい校則による取り締まりと体罰であったが、座り込みにまで発展したのは、進学コースの生徒たちが同調したからである。彼女たちは、東大などを目指す優等生で生活指導上の問題は表面上ない。しかし、校友たちへの仕打ちを理不尽であり生徒全体の尊厳を愚弄していると見た。連帯の意識である。
良妻賢母を表看板にする女子校にとっては一大事。解散しなければ退学処分すると脅した。生徒たちは、この事態が新聞や週刊誌に知られてもいいかと応じて要求を出している。1つ、今度のことで誰ひとり処分しないこと、2つ、体罰をしないと約束すること、3つ、校則を改善すること。父母の中に新聞記者や雑誌編集者も議員や弁護士もいた。公衆電話とポケベルによるネットワークを形成して戦ったのである。僕の学校の生徒もその中にいたのだった。
彼女たちは見事に勝利を収めた。
日本の生徒会も学校ごとに閉鎖隔離されるのではなく、フィンランドのように開かれた高校生組合を持っていれば、この話も直ちに拡散して全国の高校生を勇気づけただろう。いまインターネットで散発的な情報が伝わることはあっても力にはならない。多くの情報が集積され分析されなければならない。そのために組合は有効である。
また、事前に組合として行政と交渉したりメディアに訴えて、体罰などを未然に防ぐこともできる。フランスのように、高校生が全国組織を持ち政府と直接交渉することも、日本の敗戦直後を振り返れば困難だが不可能ではない(例えば当blog 「1950年代・高校生の政治的力量 京都と高知の場合」。
いま日本の高校生は、偏差値別に隔離され社会連帯意識を封じられた上で、部活に青春のエネルギーも自由も強奪されている。自分たちの未来どころか、現在さえ自由にならない日常に自己没入して泣くという倒錯に酔うのである。
倒錯に酔うのは、学徒出陣した若者たちと同様に未来を見通せないからではないか、しかし学徒出陣の若者と決定的に違うのは、見通す「力」と伝える言葉さえ獲得すれば、フィンランドやフランスの高校生のように政治的主体として現れる見通しがあることだ。
見通すには、まず見えなければ始まらない。他の学校では何が起きているのか、どうなったのか。ある筈のものを見、伝え合うことから始める。それが「力」である。
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