子ども手当は1941(昭和16)年、多磨全生園で始まっている

 戦時中ハンセン病療養所多磨全生園では、栄養失調による死者が増え、1942年140人、1943年 114人、1944年 133人、1945年 142人、1946年150人。一時は定員を超えて1400名の全生園はたった五年で半数が死亡、新しい患者と入れ替わった。    

 子どもたちの面倒をみたのは患者教師ばかりではない。子どもは少年舎・少女舎で生活するようになり、寮父・寮母が患者作業として配置される(1920年代)。寮父・寮母を、子どもたちはお父っあん・お母さんなどとよんだ。

 1941年から寮父を引き受けた松本馨は、条件として作業をしなくても子どもが治療と学業に専念できるよう援助を要求している。その結果、全生互恵会から月一円の日用品費が全ての子どもに支給されるようになる。この着想は、松本も加わった原田嘉悦の茶会に集う若者たちの議論の中から生まれたのではないだろうか。彼は原田嘉一から「将来科学の進歩によって(ハンセン病の)治療薬が発見される時が来る」という内村鑑三の言葉を聞いている。子どもに、死を待つ子どもの絶望ではなく未来を迎える希望を見ていたと言えよう。
 他の療養所の子どもたちの労働はどうだったのだろうか。同じ1940年前後の長島愛生園や戦後(1950年)の青森松ヶ丘保養園の様子が「ハンセン病問題に関する検証会議」証言にある。


  岡山県の長島愛生園では・・・子どもたちも重労働に従事し、療養所の運営を補完する役割を担わされたのである。「薪の運搬、田植え、ため池工事や望が丘の土地の開墾などの重労働によって、体に傷をつくったり、障害をさらに悪く・重くする子どもを多く出すことになった。                           第16回検証会議 証言



   (松丘保養園の)子どもたちは新聞配達や牛乳配達を日課としており、それが授業時間に食い込んでも、だれも文句を言わないというありさまでした。ここまでやらなければ生活を維持できなかった・・・。   第16回検証会議 証言

              
  月一円の日用品費は、「奇妙な国」多磨全生園の子ども手当である。その意義は、1933年の「児童虐待防止法」が、14歳未満の労働を禁じてはいたが、子どもへの手当は1972年の「児童手当法」を待たねばならなかったことに現れている。
 農家の娘たちが売られていた頃「農村の少年は、5歳になるとすでに縄ないを始め、11、2歳になると田仕事に追いやられ」た時代である。 註 1944年には国民学校高等科児童の勤労動員が始まることを考えれば、その意義の強調は不当ではない。日本の最も深い闇に於ける先駆的試みである。これは一度も打ち切られず、療養所内高校新良田教室に進学した全生園出身高校生にも送られ続けた。


 「子どもは下が10歳で上は14歳であるが、20歳まで生きられる者が果たして何人いるだろうか。それを考えると、今子どもたちに必要なものは何なのか、考えずにいられなかった。そして私の出した結論は、国の教育方針に従って、基礎的な力をつけることも大事だが、それ以上に必要なことは、自己を表現する能力をつけてやることだ。子どもたちの前途には恐るべき病魔が待っている。それと戦う言葉を持つことが 大切だ。それが自己表現能力をつけることなのである。苦難のただ中で言葉も持たず、獣のように死んでいくほど悲惨なことはない」  松木信(松本馨)『生まれたのは何のために ハンセン病者の手記』 教文館

 
 松本馨は作業から子どもたちを解放して、子ども舎で作文教育を始める。子どもたちの書いた作文・詩・短歌・俳句を、其々園内の文人たちに託して批評指導を頼んだ。文化を通して大人との繋がりをつくる。共通の文化は集団を共同体化させる。療養所という地域の教育的組織化でもある。収容以前は登校もせず遊び暮らしていた子どももいたが、松本は読み方から始めている。 


 「学習が終わると・・・相撲をとった。私は座ったままで、子どもたちは二人一組となり、私の前から横から後から飛びかかってくる。私は怪我をさせないように畳に投げる。投げられた子どもはまた飛びかかってくる。疲れてくるとまた別の子がかかってくる。そのうちに私の方が力尽きて倒されて子どもたちは私の上にあがって万歳を叫ぶのであるが、この時の子どもたちの目はキラキラと輝ていた」      『生まれたのは何のために ハンセン病者の手記』 教文館 

      
 病魔と戦うとは、まず病魔の正体を捉え、治療と栄養ある食事を要求することであり、強制労働を拒否することである。隔離の不条理と闘うことであり、未来を共有し人間としての尊厳を回復することであって、それは言葉を通して伝えられる。
 言葉の限界は、世界の限界である。闘うべき相手を定義する言葉と、自分を確認する言葉を見つけなければ、世界を知ることは出来ない。知って初めて対話も妥協も闘争も可能となる。言葉がなければ、癩業界が定義した世界に飲み込まれて全体を確認できないまま、弄ばれ隷属するしかないのである。
 子どもを強制労動から解放し、未来への希望を持つ子どもとしての価値を認め、正当な保護を与え、闘う言葉を獲得させる。これを、ハンセン病療養所における「子どもの発見」と言っていいのだと思う。根拠のない迫害に苦しむ子どもには、根拠なしの愛情で報いなければならない。その存在において慈しまねばならない。

 後にハンセン病を悪化させ両足を切断した松本は、1950年には妻を亡くし視力も失い「石であって人ではない」十年を経験する。点字も指が使えず舌をつかった。その苦難にあって自治会長や全患協会長を長年務め、予防法体制と徹底的に闘うのだが、その不屈の姿勢はこの時既にある。
                                拙著 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊を参照した。

追記  「子ども手当」は、子どもの生活を変えるだけではない。子どもに繋がる大人や社会までを根底から変える力を秘めている事が解る。
 松本馨が「子ども手当」の支給を交渉した相手は、全生園事務官であった。初め毎日半日だった子どもの作業は、この当時週3日、昼食後の半時間(別の記述では1時間)ばかりのガーゼ伸ばし等で(子どもの収入は月30銭~50銭)。他園に比べて軽い作業であったが、子どもの作業廃止と一円支給は画期的である。同時に、学園卒業の少年と学園児童を分離することも要求して実現させている。後に松本は「人間的対応をする事務官であった」と書いている。
 金の出所は財団法人互恵会、患者の売店等の資産・寄付によって1931年設立、患者の相互扶助を目的にしていたが、運営実権は園側が完全に握っていた。
 人口千人余りの小さな「奇妙な国」ハンセン病療養所多磨全生園で、子どもを守るための最善を患者たちが尽くしていた時に、当時7000万人の「大国」は、近隣諸国を侵略し、自国の子どもたちの命を皇国に捧げる訓練に余念がなかった。

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