挨拶に立った校長は、風貌だけで入学式に居並ぶ参加者をシーンとさせた、痩せて哲学者を思わせる鋭い眼差し。而も「一に遊べ、二に遊べ、三・四がなくて、五に学べ」と生徒・父兄一同を仰天させた。親も子も、勉強好きを自負していたからだ。それを校長は叱った。君たちは点数が好きなのだ。遊びとは点数や順位から自由になること。そこから「学ぶ」事の意味が見えてくる。
聞けば、校長は農業経済学者。放課後、僕は引き込まれるように農学部の研究室に向かった。 ノックすると内側からドアが開き、賑やかな部屋から校長の「入りなさい」と言う声が聞こえた。もうすでに校長と馴染んでいる者がいたことに吃驚。狼狽えた僕は「又今度、来ます」と言ってしまった。
大きな転機だった。翌日僕は『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の読書会に誘われたからだ。文庫版『空想から科学へ』をファラデー『ろうそくの科学』の類だろうと買ったが、まるで歯が立たない。休み時間に四苦八苦していたのを上級生が見かけて誘ってくれたのだ。崩壊寸前の旧校舎での読書会は、放課後から星の出る時間にまで及び、毎回企業や大学の最前線で活躍する卒業生が招かれた。
面白かった。中学とはまるで違う世界がそこにはあった。ベトナムについては卒業生による現地報告が切っ掛けだった。トンキン湾事件が起きたのは中三の時だったから、真相とその背景を知ったときは驚いた。それから様々な討論会や学習会に参加するようになった。ビラを作り教室を回ってアジった、デモも呼びかけた。高校から大学卒業を経て、サイゴン解放までは長かった。ホーチミンはすでに亡く、僕は就職していた。
記憶の中に、校長の研究室に出入りしていた同窓生が浮かぶことがある。晴れた日も長靴を履き、寡黙で皆と一線を画していた。彼らが温室や畜舎に入りながら顕微鏡やシャーレー相手に奮闘していた姿を想像する。少年は、式や学年によって一律には成長するものではない。早熟も晩成もあって、なかなか混じらない。それでいいのだ。
二中で僕は理科室の鍵を任され、夜も一人で実験を繰り返していた。だから顕微鏡とシャーレーは僕にも魅力的な世界だ。
卒業名簿には、日本ではなく直接オランダやデンマークの農科大学に席を置く者が毎年何人かあった。外貨の持ち出しが厳しく制限された時期、特異な例だ。僕は一時期ローマのシネチッタに留学して、フェリーニから学ぶことを考え色々調べた。絶望的に難しかった。彼らはオランダやデンマークの農科大学へのツテをどのように掴んだのだろうか。
ベトナムが解放されるなら、何もかも諦めてもいい。そう考え行動し、父や母を泣かせ怒らせた。また同じことをするような気がする。この頃の自分に一言いうなら、苦虫を噛んだような顔で低くこう言う。「バカだな、お前」。