個人の無定見、形式主義万能。コレノ修正ノ為日本主義生レタ  渡辺一夫『敗戦日記』

これは面白くない結果になるかもしれない
  「太平洋戦争は、アジア解放のためだった」を、あちこちで見かけるようになった。

  1941年5月31日の御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」には、こう書いてある。
 「マレー・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベスは、大日本帝国の領土とし、重要資源の供給源として、その開発と民心の把握につとめる。・・・これら地域を帝国領土とする方針は、当分、公表しない
  植民地化の意図は最初から明白であった。にも関わらず、知識人までが、八紘一宇的虚無にいとも簡単に幻惑された。おかげて、若者たちはどこにもない目標へ向かった。
   大戦後も戦地に残り独立戦争に参加した残留日本兵は各地にいた。例えば小野盛氏はインドネシア独立戦争に参加して現地名もある。彼は94まで生きてインドネシアで死んだが、日本政府は「脱走兵」と見做し続けた。軍人恩給も支給していない。
 
 1943年、渡部一夫も『月に吠える狼』という短文を書いて、戦地に向かう教え子を、互いに「にこにこ笑って」戦争目的を疑いもせず送別したことを書いている。

 ありもしないことを信じ、事実のように言い張り、あった事をなかったと言い通す。それが権力だと、支配被支配双方が思い込んでいる。
 彼の目に写るものが変化していく。45年の『敗戦日記』にこんな観察が記されている。この時、彼は東大仏文助教授。
 「有楽町のビルの鎧戸が爆風でへこんでいた。二人の男が「これは爆風だ!」と言ったら、憲兵に捕えられた。曰く「お前はほんとうにそれを見たか?」「いえ、でもこれは爆風です」「見ないのにどうしてそう言える。流言飛語だ」」7月23日

 こうしたことは、戦場でも大本営でも日常生活でもありふれていた。学校の授業でも教師は「正直」の徳目を言いながら「ありもしないことを事実のように言いはり、あった事をなかったと言い通」し、小中学校では少しでも反抗すればビンタが飛んだ 。

 「・・・民衆個人の無定見、形式主義万能。コレノ修正ノ為日本主義生レタ。オソロシイ反動」 『敗戦日記』6月20日
 「日本ズゴイ」「クールジャパン」の源流を、渡辺一夫は冷静に分析していた。
 Wカップ騒動は、疑いもなく「民衆個人の無定見、形式主義万能」から生まれている。覚醒剤患者のように興奮しながら、辺野古、ガザのパレスチナ人虐殺、進まぬ災害復興、悪化する労働と福祉・・・の現実を遠い世界の他人ごとのようにしか感じられなくなるのだ。カジノに関する安部とトランプの会食で何が話されたかも知らないし、会食の事実さえ「ニッポンゴール」の歓声にかき消されるのだ。「オソロシイ反動」である。嫌になるのは、戦中からこの「無定見、形式主義万能」が続いていることだ。

  渡辺一夫は絶望しながらも日記に書き付けている。
 「偉大なロマン・ロラン。今こそあなたの存在が必要なのだ。 「戦いのさなかにあって、人間同士の平和を飽くまで守り抜こうとする者は、その信条ゆえに自らの安息や名声、さらには友情すら危くしていることを承知している。いったい、そのために何一つ危険を冒さぬような信念に、何の価値があろうか・・・」『動乱の上に立ちて』
 渡辺一夫『敗戦日記』は8月18日で終わる。8月18日の書き出しは 「母国語で、思ったことを何か書く喜び。始めよう」そして「この日記はこれで終わることにする」で閉じられている。だが彼の鋭さは、戦後の記述にある。

  偽日記○月○日(渡辺一夫は、戦後のことを思い出しながら日記風に書いたものをこう呼んでいる。文中のカーペーは、ドイツ語でKP即ち共産党を指している。ドイツ語のこんな使い方が流行った時期がある)
 「カーペー系統の雑誌新聞を見ると、文芸欄などで、しばしばアプレ・ゲール派や方舟派やマチネ・ポエチック派や、その他いわゆるモデルニズムの諸流派の人々を罵倒する文章を見る。 
 これは面白くない結果になるかもしれない。目下のところ、カーペー派及びモデルニズム派両ほうの共通の敵があるわけで、しかも、その敵は、案外なところにうようよしている。こういう敵に対して、カーペー派はモデルニズム派とともに当らねはなるまい。さもなくば、まずモデルニズム派の人々は、叩きのめされて、引退逃避し始めるかもしれない。 
 これらの人々は、カーペー派の主張に百パーセント同意しないでも、理解もあるし、いわゆる同伴者的な役割を果たす人々である。こういう人々を失うことは、カーペーにとって重大な損失となるであろう。現在見られるような方向を辿ると、モデルニズム派の人々は、引退逃避するばかりか、いつのまにか、その敵の側へさまよいこむことになるかもしれない。 
 僕は、カーペーの主張や態度を全部は肯定できない。ただ、コミュニズムというものも我々の世界を人間的にするために寄与してくれるものを持っていることだけは感じている。しかし、カーペーは、今のままだと墓穴を掘ることになるだろう」

 志賀直哉が、中野重治の評論「安倍さんの『さん』」(1946)に抗議して新日本文学会を退会したことと同根の問題提起である。渡辺一夫は白樺派との付き合いもあった。
 日本の正統派左翼は統一戦線に対して、「綱領」がなければ野合に過ぎないと、永く頑なだった。
 「墓穴を掘る」どころか墓穴に付き落とされかけて漸く「統一」行動や「連携」の意義に気付いた。渡辺一夫が「偽日記」を書いたのは、1948年のことだ。
 ファシズムに抗した自由主義者の歴史を視る目は、E・M・フォスターに限らず射程が長く澄んでいる。

藤野先生の「心延え」

承前←クリック    
魯迅を文芸へ向かわせたのは「幻灯事件」である
  中国では多くの人が「藤野先生」を読んでいる、読んでいないとしてもその作品を知らぬ者はない。教科書には『藤野先生』があり、大きな都市には魯迅名称の施設や学校と公園がある。魯迅の肖像を使った切手は数知れない。その魯迅が最も敬愛の念を抱いていたのが、藤野先生であった。一体どれほど先生は偉大であったのか。
 だが、藤野先生は、魯迅が医学を棄てる決意を聞いて寂しそうな表情を浮かべ、後日自宅に呼び魯迅に「惜別」と裏書きした写真一葉を贈ったのみである。にも関わらず、魯迅は
 「但不知怎地、我総還時時記起他、在我所認為我師之中我感激、給我鼓励的一個。有時我常常想;他的対于我熱心的希望、不倦的教海、小而言之、是為中国、就是希望中国有新的医学;大而言之、是為芸術、就是倦希望新的医学傳到中国去。他的性格。在我的眼里和心里是偉大的雖然他的姓名并不為許多人所知道
 (しかしどういうわけか私はときどき先生のことを思い出す。私が師と仰いだ人たちの中で藤野先生が一番私を感動させ、励ましてくれた。私はしばしば思うのだが、先生の私に対する強い希望や惜しみない教えは、狭い意味で言えば中国が新しい医学知識を得てほしいということ、広い意味で言えば新しい医学を中国に伝えてほしかったからだったのではないかと。先生の人柄は私の目からも心の中から見ても常に偉大である。先生の名前を知っている人は少ないかもしれないが。)と書いている。
   
  魯迅は、「先生の私に対する強い希望や惜しみない教えは、狭い意味で言えば中国が新しい医学知識を得てほしいということ、広い意味で言えば新しい医学を中国に伝えてほしかったからだったのではないか」と推測するが、藤野先生自身はそんなことは一言も言っていないのである。 
  僕にとっては腑に落ちないことだった。それを氷解させたのは次の一文である。
  「(無宿者)救援を・・・十年以上も淡々と続けている同世代の人をぼくは知っています。彼はマルクス主義者でもキリスト者でも市民運動家でさえなく、ただのサラリーマンで変哲もない家庭人です。彼に目立った特徴がもしあるとしたら、格別の特徴が見あたらないことと、口数が少ないこと、風景にすぐ溶けこんでしまうことぐらいでしょうか。休みのたびに山谷に出てきては無宿者のための炊き出しや、材料の調達、運搬、越冬支援などの活動を文字どおり黙々とやっては、理屈ひとつぶつわけでなく、風のようにさっと帰っていきます。彼は無宿者を扱うに際し、ことさらに慈愛に満ちた表情をこしらえたり説教したり励ましたり、まったくしません。むしろ何だか事務的にすぎるくらいにも見えましたが、かえって嘘も偽善も気張りも気取りも感じさせないのでした。無宿者に対し「あんた臭いよ。鉢洗いなよ」といった、表現法が必ずしも簡単でない提案を、社会運動的でも役人的でも宗教的でもなく、そうかこんな語調でいいのかと拍子抜けするほど、あっさり個人的に言える人でした。何かの思想信条があったのかもしれませんが、それをぼくは一度も聞いたことがありません。でも彼を見ていると、徐々に血流がよくなるような清々しさを覚えると同時に、彼に反照されて自分の背理と偽善が透けてくる気がしたものです。ぼくは病院のベッドで考えました。あれは彼の思想がそうさせていたのか、それとも持ち前の性格とか、古い言葉で言うなら、〝心ばえ〟というものがそうさせていたのか、と。 脳出血で倒れる前には、心ばえが一系列の思想の契機になり、翻って、思想が心ばえの背骨になる、くらいに理屈っぽく思っていたこともありましたが、いまは、人の心ばえって稀に、請け売りの思想とやらが尻尾巻いて逃げるほど深くて強いものがあると、割合単純に考えるようになりました」 辺見庸『自分自身への審判』
  心ばえは「心延え」と書く。心が外部の人や事柄に「延び」て広がる働きを表している。文の終わりの部分で、辺見庸が語っている
 「倒れる前には、心ばえが一系列の思想の契機になり、翻って、思想が心ばえの背骨になる、くらいに理屈っぽく思っていたこともありましたが、いまは、人の心ばえって稀に、請け売りの思想とやらが尻尾巻いて逃げるほど深くて強いものがある」について考えたい。
  藤野厳九郎先生は、教育や医学の理想について熱く語ることはなかった。淡々とノートの間違いを指摘しているだけだ。交番で乞食に間違えられて誰何された程、身なりにも無頓着で教授らしい厳めしさがない。
 藤野先生がなまじ、東洋解放の熱い志に燃えていたなら、八紘一宇的理想を語り魯迅を絶望させたかも知れない。先生の凡庸さが、「心ばえ」が反って「請け売りの思想とやらが尻尾巻いて逃げるほど深くて強いもの」を魯迅に感じさせている。藤野先生は、中国革命の意義を理解していなかったかも知れない。だから中国からの問い合わせにも沈黙を貫き、戦後の北京医科大学からの招聘にも応じなかったと僕は推測している。
 だがそれ故「心ばえ」は、偉大な結果をもたらしたのだ。同じ清国留学生・周恩来も下宿界隈の平凡な日常のささやかな心遣い「心ばえ」を日記に書き留めている。そのことと、日本人戦犯に対する「寛大政策」を結ぶのは牽強付会だろうか。魯迅の本名は周樹人であり、周恩来とは遠いが姻戚関係にある。ともあれ魯迅の『藤野先生』なしに、日中国交回復を考える事は出来ない。

  特徴のない凡庸さ、体や精神の衰弱は、思い込みで世界を強引に解釈する粗暴さから、人を解放する。それが「弱さ」という美徳 ←クリック である。
 人は弱ければ、姿勢の正しさなしには立つことさえままならず、歩くことや踊ることはなおさら出来ない。ベトナム戦争に超大国米国が負けたのも、強さに驕り平衡感覚を失った己の醜態を自覚できなかったためである。コスタリカが紛争多発地域で平和と独立を維持しているのも、弱さを自覚して絶えず正しい姿勢を維持するからである。弱いことを、恥じることはない。恥じねばならぬのは、強さに正体なく酔うことである。

天職とは何か

魯迅にとって、医学は天職ではなかった
 1967年フォトジャーナリスト・広河隆一はイスラエルのキブツ支援ボランテイアに参加した。キブツの平等と共同の理想に惹かれたからだ。しかし、間もなく第三次中東戦争を間近に経験して、キブツそのものがパレスチナ人の村を廃墟にして築かれたことを知り、パレスチナ問題に関わるようになった。廃墟となった村や難民たちを撮り続けた。
 「そのような写真と、戦勝国イスラエルのなかで見た光景とを展示する写真展を、エルサレムの大学で行いました。大学としては、日本人が写真展を開くというので、日本の風景写真だと思って許可したそうなのですが、実際に並んだ写真を見て驚いたようです。この写真展のタイトルは 「セキュリティ」、つまり「安全」という名のもとで何を滅ぼしてきたのかを見せました。 もちろん、激しい抗議にもあいました。ナチスの歴史を持ち出してきて、ユダヤ人が自分たちの安全に一生懸命でなかったから、ナチスはユダヤ人を絶滅させたのだと、そう言われたこともあります。 
   しかし逆に、ある一人のユダヤ人の若者が、この日本人の写真家は、イスラエルのなかで自分たちが見ている世界の裏側を見せてくれている。そのこと自体には感謝しなければいけないというコメントを寄せてくれました。 
   その言葉がなかったら僕は写真を続けることはなかったかなと思いますね。実は、その写真展から50年を経て、今年もテルアビブでの写真展を予定しています。 この50年間、パレスチナは僕にとっては被写体であるだけではなく、むしろ自分のありようを教えられる存在であり続けてきました。フォトジャーナリストとは自分で名乗ってなるものではなく、事件や出来事、あるいは被写体のほうが人をフォトジャーナリストにしていくのだと思います。僕にとっては、パレスチナ問題が、僕をフォトジャーナリストにしてくれたということです」                          広河隆一『教師としてのパレスチナ』 現代思想2018.5

  「フォトジャーナリストとは自分で名乗ってなるものではなく、事件や出来事、あるいは被写体のほうが人をフォトジャーナリストにしていく」というくだり、これが天職という概念を良く表している。自分中心ではない。世界が人を捉えて覚醒させるのである。 
 教師も同じでありたい。高校や大学で知り関わった出来事や事件が、学部や進路を選ばせる。あるいは何となく教師になったが、生徒や地域の実態が改めて教師を決意させる。それが書物であったり、映画であったりするかも知れない。

 魯迅は、藤野先生が詳細に添削を加えたノートを三冊の分厚い合本にして大切に保存していたのだが、
 「不幸7年前迁居的时候,中途毁坏了一口书箱,失去半箱书,恰巧这讲义也遗失在内了。责成运送局去找寻,寂无回信。只有他的照相至今还挂在我北京寓居的东墙上,书桌对面。每当夜间疲倦,正想偷懒时,仰面在灯光中瞥见他黑瘦的面貌,似乎正要说出抑扬顿挫的话来,便使我忽又良心发现,而且增加勇气了,于是点上一枝烟,再继续写些为“正人君子”之流所深恶痛疾的文字」
   幸い藤野先生の写真は北京の書斎、机正面の壁上にある。
  毎晩著作に疲れて怠け心が出たとき、スタンドの光に照らされたあの黒くてやせた今にもあのアクセントに特徴のある話し方で語りかけてくるような顔を仰ぎ見ると、私はまたやる気を出しさらに勇気をも奮い起こし、たばこに火をつけると再び「聖人君子」の連中に目の敵にされている文字を書き続けるのであると『藤野先生』を結んでいる。

  医学を志していた魯迅を文学に向け決意させたのは、仙台医学専門学校における「幻灯事件」であった。  細菌学の授業中に見せられた日露戦争のスライドの中の一枚、中国人が露軍のスパイとして処刑される場面に、魯迅にの目は吸い寄せられる。処刑の残酷さもさることながら、その光景を見つめる中国人の無表情さに、彼は衝撃を受けたのである。
 魯迅は『吶喊』で
   「あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切ではない、と考えるようになった。・・・我々の最初になすべき任務は、彼らの精神を改造することである。そして、精神の改造に役立つものと言えば、私の考えでは、むろん文芸が第一だった」と振り返っている。
  ただ成りたいから、昔から成りたかったから「行政の末端」としての校長になった男と女子生徒の遣り取りは既に書いた。
                                                           「藤野 厳九郎の心延え」に続く

「先生、私たちのこと好きでしょう」 2 自立する高校生と特高化する教委

  承前←クリック 
入試制度改変に反対して街に出た仏の高校生
 この女子生徒は校長にも対話を求めた。校長は逃げて鍵をかけ校長室に篭った。彼女は待ち伏せして、ようやく立ち話をした。
 「校長なのに何故授業しないの」と授業へ誘うのだが、校長は
 「わしは管理職だ、校長にはずっとなりたかった」と応えている。彼女は
 「なんて詰まらない奴なんだ」と心の中で呟き、がっかりしたという。
生徒は校長を教育者として確認し尊敬したいからこそ、「授業しないのか」と問うのである。生徒と対話する絶好のチャンスを自分で捨てている。生徒との神経回路を切断して自らを疎外するのだ。生徒の方が余程教育者ではないか。

 学生に限らず青年に不可欠な資質は、先ずは何を措いてもこの女子生徒が見せた感性・人間的好奇心だろう。
 受験勉強はこうした感性の敵である。大学だけに教養教育を割り振ったのは大いなる失敗愚策である。青年期を貫くべき課題を高校と大学に分断したばかりか、分断した前半部分を廃棄して受験学力教育に特化。しかも進学しない者には教養は要らないという差別を許したのである。みずみずしい感性・荒々しい行動力・利害を超える正義感に溢れる時期を、受験と部活で浪費させて、日本の大学生・高校生から批判精神と社会的行動力奪った。土日も忘れて部活に猛進する教師が受験にしか役立たない授業をするのは、考えてみれば効率の良い青春圧殺法である。

 敗戦で学校制度も混乱を極めた。義務教育は中等教育まで引き上げられる。教員は足りず校舎や便所さえ無く、教科書は間に合わない。中等教育であった教員養成は二段階も引き上げられ大学に移行する。だが混乱は害をもたらすとは限らない。古い制度と新しい制度の併存は、そこに学ぶ若者の思索と自由の巾を質的にも量的にも高めた。何よりの幸福は戦争中の教師達がすっかり自信を無くしていたことだ。不幸は、それが青年全ての権利として成文化出来なかったことである。混沌が秘める豊かさは60年代の末、線香花火の最後のように華々しく光り闇に消えたのである。残ったのは効率と無限競争だけだった。

 もし、この女子生徒や優等生が放課後や昼休みの幾分かを、青春の総括と批判のために自由に使うことが出来たらと思わずはいられない。街に高校生の社会的要求が響いているに違いない。

 事実、優等生I君は、遅すぎたが部活から退くや、爆発したように高校生活の総まとめに向かった。担任団が無害な安全牌として彼を卒業生総代に指名したからである。何故三年生自身による民主的選出ではないのか、優等生は担任団の道具ではない。彼には忽ち学校の景色が色あせ、見えなかった構造が浮かび上がってきた。優等生の意識は自立して脱優等生となる。意識下で長い間鬱積したものが言葉となって溢れ出る。それが卒業生答辞として集約され、日の丸君が代を強制する管理職と教委への批判となった。

 教委が、自立した生徒の答辞を喜ぶ筈はなく、忽ち自分たちの立場を慮って動転した。
 これは誰かが唆したに違いない。高校生が一人でそんなことを考えるはずがないと教委は疑った。全く日本の高校生は見くびられている。
 教委は、教員や彼の家族の思想調査まで試みた。特高と同じ発想がこうも簡単に現れたのだ。
 自立して批判するのは青年の健全な特性であり、喜ぶべき成長であることを、教育に係わるものが認めようとしない。
 無理もない、校長に授業をしたらどうだと言えば、「教委から禁じられている、我々校長はは行政の末端である」と主体性をかなぐり捨てて胸を張るのだから。それを教委が校長に指示したとは。墜ちるにも程がある。しかも脅されたのではない、迎合してそうなったのだ。彼等が生徒の対話要求から逃げるのは、生徒が怖いからである。もし、鍵かけて生徒から逃げた校長が対話に応じて、たった一クラスの自習時間でも自らすすんで授業をすれば、少しは尊敬されただろう。式での拍手は倍にはなっただろう。高校生は優しいのだ。  

 脱優等生I君は卒業後、もっと広く訴える方法手段は無かったのか考えた。彼は中学校でも、総代であった。問題に気付き皆を組織する、そんなことは簡単なことだと高を括っていたのかも知れない。民主主義には思いの外時間も手間も必要なのだ。授業で習ったとおりだ、しかし実践したことは無かった。気付くと、高校生は自由な時間を奪われている。考え、表現し、行動する時間は既に無かった。彼が先ず直感したのは、推薦入学制度がとくに指定校推薦入学制度がスポーツも授業も詰まらなくしていることであった。

 誰が何時どのように、高校生の自由な時間を奪ったのか。奪われているにも拘わらず、それを恩恵だ、青春だと思い違いをさせていた。そのことに気づくのに更に四年を要したのである。なぜなら大学生もサラリーマンも主婦さえも同じように時間を奪われていたからである。いや、老人も子どもも旅人や病人までもが時間を奪われている。奪って肥え太っている時間泥棒を発見できないでいる。彼は同窓生と語り合いながら、時間泥棒が身近に遍くいることに気づき対決を決意した。

 彼女Oさんは、進路指導部の面接指導を受けたことがある。担当教師は、予想される大学側の質問をして、彼女の回答の中身に介入した。それが親切な指導であると担当者は得意だったに違いない。Oさんは、お辞儀の角度まで指摘されて、これでは私らしい部分が何処にも残らないと喧嘩して飛び出してしまった。
 話を聞いた僕は、この模擬面接の次第をそのまま小論文にまとめて大学に送ることを勧めた。入試面接当日、三人の教員が相手だった。うち二人は、終始声をあげて笑いながら遣り取りしたが、一人は不機嫌であったという。勿論合格した。賛否半ばしてメリハリある反応を引き出す若者が、混迷停滞する学校を切り開くのである。迎合する者ばかりを集めたのでは、創造的な緊張感は決して生まれない。

追記 いい教師の条件は、生徒が好き、学ぶことが好き、教えることが好き、この三つだと言うことがある。しかしこれは間違っても自分から宣言するものではない。もし、素面で「私は生徒が好きである、だから私はいい教師である」という者があれば、それは正気を装った狂人である。
  正気のふりをする狂気の現実に対し、もっとも有効な抵抗の方法は、実相を突きつけること。ギリシア神話に登場する半神の英雄ペルセウスが怪物メドゥサに鏡を見せて石化させたように。
   教師に「私たちのこと嫌いでしょう」と言い、校長に「なぜ授業しないのか」と問いかけた言葉は、ペルセウスの鏡でもあった。風呂屋の焚付にもならない書類の点検に励み、穴埋めを一年中繰り返し、日曜日も部活の生徒を怒鳴りつけ震え上がらせる。ギリシア神話と異なるのは、言葉として現れた鏡を「狂人」が認識しなかったことだ。愚人と戦うのは難しい。 

たわけ者とは誰のことか、成長が産む差別

韓国や中国の若者の賃金が日本のそれに迫り
追い越しそうな事実も我々は見たくないのだ。
 中学校で、たわけ者とは田分け者のことだと習った時に、僕は違和感を持った。子どもに田を平等に分ければ、代を重ねるうちに農家一軒あたりの経営面積は狭くなる。田圃が狭くなれば、収穫の絶対量が少なくなって家族が喰ってゆく米も足りず共倒れになる。長男が全体を相続すれば、経営面積は維持される。みんなは納得して相槌を打っていた。
 僕は長男以外はどうなるのだ、見捨てるのかと思った。教師は、次男三男は町に出て丁稚になったり、お寺の小僧になったり、他の家の養子になったのだと言った。ますます中学生は肯いた。
 しかし僕は、「シャボン玉飛んだ」が間引きされた子どもを哀しく歌ったものだと本で読んでいたから、納得できなかった。年貢の維持が絶対の前提になっていた。予め見捨てられたのだ。

 江戸時代、日本の農業は「農芸」と言うに相応しい技術的発展をみせた。特に稲作技術の進歩は目覚ましかったが、それは、特定の時期の労働を増加させた。田起し、田植え、草取り、収穫はむちゃくちゃに忙しい。どうしても臨時の季節労働に頼る。村の中や周辺に臨時の働き手が住み着く。彼らは水呑み百姓より劣悪な労働条件を押し付けられて、農繁期以外は乞食や出稼ぎをせざるを得ない。こうして被差別部落が、農村周辺に新たに成立したのである。生産の上昇が差別を産むのである。

 普段から百姓は忙しい、だから農繁期にはどうしても人手を増やさねばならぬ」という思考は正常だろうか。
 農繁期の最も忙しい時期の農作業を家族だけで行えるよう、経営面積を減らすことも出来る。農繁期以外は、百姓自身が副業に精を出せるからなんとか喰って行けるだろう。経営面積を減らせるのなら、長男以外を追い出す必要もない。

 江戸時代の農村に「越後者」と呼ばれる農民が住み着いて集落を作った地域がある。例えば茨城。これらの地域には、間引きの習慣があった。いつもギリギリの家族で生活するから、飢饉がおこれば、引き受け手のない田畑がでる。年貢は村請だから、引き受け手のない田畑が増えれば、本百姓の負担は増える。しかし新たに田畑を引き受ける労働の余裕もない。  越後は浄土真宗の村が多く、間引きをしないので子どもが多かった。彼らが常陸に流れ着いて、村の危機を救った。しかし、新百姓という呼称が新たな差別として残った。共同体の危機を救った者たちまでも差別するおぞましい残虐性、醜さ。それが絶えることなく残り続け進化する仕組みを我々は持っている。病巣・病原と言ってもいい。

  僕は、田を分けなかった者が「たわけ者」だと思う。たわけ者と言う言葉を作ったのは、百姓ではあるまい。幼小から農作業を手伝い成長した我が子を、見知らぬ土地に出す親があるものか。結局江戸300年、人口は停滞したのだ。田を分けても、結局何らかの形で経営面積も生活も維持出来た筈だし、新田開発によって豊かに発展出来る根拠はあった。

 企業規模拡大を絶対条件とするから、より低い賃金、より長くきつい労働が必要と思わされてしまう。おかげで非正規労働は法の網を掻い潜り続けて多様化した。今や彼らの実態は恰も現代の被差別部落の様相を呈している。ただ目に見える集落も特定の職種もない。見えないものを見る「学力」を禁じているからだ。
 しかし結果は明白だ。日本を除くOECD諸国の賃金は上がり続けているのに。法人税は高くないのだ、フランスの半分であるのに。働き方も生き方も奴隷化してゆくのだ。AKBやWカップで誤魔化せてしまうのだ。

追記 「トヨタ自動車の3月期決算を見てみたら、子会社も含めて連結内部留保は約20兆円。毎日1千万円ずつ使っていくとする。使い切るのに5480年もかかる。縄文時代ぐらいから使い始めて、ようやく最近使い終わる」これは共産党の小池小池晃代議士が川崎の演説会での発言。ほかの企業の内部留保も含めれば優に300兆円を突破している。
 それでも、日本の法人税は世界一高いというデマを財界も政府も流布して、消費税増税を画策している。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...