賢者は複雑なことをシンプルに考える |
「だって、授業面白いんだもん、私たちのこと好きでしょう」と畳みかけてくる。ほっとして
「うん、生意気なところが気に入ってるよ」と返事したが、その意図が判らない。
そのOさんが、ある教師に「私たちのこと嫌いでしょう、授業詰まらないんだもの」と言ったことを知ったのは大分後のことである。
授業する教師を見て「この人、私たちが好きなんだ」とか「こんな詰まらない授業をするのは、私たちに関心がないか嫌いだからではないか」とみる。教師の授業への姿勢を、生徒たちへの人間的関心の問題として、考察として再構成する。授業の表面を突き破って、教師を人格の底まで見通そうとする疑い深さがある。疑い深さは「何か」を求めて彷徨する青春の特性でもある。油断ならず、手強い。何の戸惑いもなく、生徒が教師を評価する。学校の主体は何かについても直感している。
「賢者は複雑なことをシンプルに考える」と言ったのは、ソクラテスであった。だから真理は美しいのである。こうした言葉を通して、生徒の中に彼は現れる。
教師と学校を緊張させ、授業を変え、学校を変えるのは生徒達のシンプルで美しい言葉である。こうした生徒にはあちこちで出会った。定時制課程にも、都心の工業高校にも、ほっぺの赤い郊外の生徒達にも、成績だけで比較すれば文字通り後のない学校にも、伝統のある古い学校にもいて、きりりとした存在であった。
はっきりした共通点がある。物怖じしない批判精神と共感能力を持ち、物事をずらしながら考える論理性。
「授業面白いから、先生好き」といった類ではない、それならありふれている。授業の表面的現象への直接反応は既に卒業している。授業を受ける「私」を中心に授業を見るのではない。授業をする教師の眼に心に入り込んで「こんな詰まらない授業をするこの教師に、私たち生徒はどう見えているのだろうか」と想像する。
「退屈し居眠りする生徒を前に十年一日のごとく穴埋めの授業が出来るのは、どういう神経なのか。私たちを好きなら色々工夫してみんなが喜ぶようにするはず、少なくとも私ならそうする。この教師は、私たちが嫌いなのかも知れない。人間が嫌いなのか、教えるのが嫌いなのか、学ぶことが嫌いなのか。家庭ではどんな父で夫なのか、一体どんな高校生だったのか・・・」
虚しく響く教師の声とチョークの音を遠くに聞きながら、思いを巡らせる。詰まらない授業の現象を見透かして、その実態を探ろうとしていたのではないか。
「私たちのこと好きでしょう」は、彼女のこの仮説・想像を確認する問いだったのだと思う。ここには視点を移動させ転換する自在な想像力・共感能力がある。それはやがて洞察力を伴い批判精神となる。だから「私たちのこと嫌いでしょう、授業詰まらないんだもの」と、授業中の本人に面と向かって言える。
多数派を自認していた件の教師は、「生徒は、好きに決まってるじゃないか」と狼狽した。数日後別のクラスで、優等生を見て「俺の授業は詰まらないか」と話を切り出した。この優等生なら「そんなことはありません、僕は歴史の授業は好きです」と必ず言う筈だった。だが優等生は「はい、詰まりません」とスポーツマンらしく即座に言ってのけた。歴史は好きで成績は常にトップだったが、授業そのものには閉口していたのだ。
Oさんは、ある若い女教師にも職員室で「授業が詰まらない」と直言して泣かせてもいる。しかし悪口ではない。「去年は楽しい授業をしていたから、今年も出来るのではないか」と問いつめた。言われた女教師は「今年は受験に重点を置いているから、みんな詰まらない思いで授業を聞いているかも知れない」と思っては居たのである。すばり指摘されて泣いたのである。どちらが教師なのだろうか。僕はソクラテスを彼女の中に見た。
彼女は、全く期待できない教師に対しては「詰まらない」とも言わない。明るく挨拶はするが精神的に無視する。教師には期待をよせればこそ文句を言うのだ。そのことに教師は気付かず「酷い」と泣いた。教師は自分が生徒を叱るときの言葉すら都合良く忘れる。「先生があなたを叱るのは、頑張れば良い成績になることを知ってるからよ」と言いながら「辞めるのなら早くしなさい」などと引導も渡しているのだ。良い教師は生徒の批判無しには生まれないと知るべきである。女教師は卒業が近づいて、ようやく彼女の提案を受け入れている。結果は良。研修や報償・処罰で育つのは都合の良い教師。
歴史教師は土日も夏冬春休みもクラブ指導に打ち込んで、漁師のように日焼けしていたが、授業は変わらなかった。試験問題作成と採点は素速かった。50問穴埋めだったからだ。不思議である、修士で上級の免許所有者に50題の穴埋めテスト好きが多い。「私たちのこと嫌いでしょう、授業詰まらないんだもの」にはもう一つ奥がありそうだがここでは触れない。
面白いことに、男子は言い方が大いに違う。
「先生、僕たちのこと好きでしょう」とはあまり言わない。誤解されそうな表現であることもある。
子分にしてくれや弟子にしてくれ、卒業したら飲み仲間に入れてくれと言う。
続く
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