自由闊達な気風 1

 ・・・1950年代の初頭から、日本は再軍備への道を歩み始めていた。当時の言葉で言えば「逆コース」をたどりつつあった。その逆コースの途上には軍隊の再組織化が構想されていた。自衛隊の前身である警察予備隊なるものはすでに存在していたが、これでは金がかかりすぎ、愛国心も育たない、憲法を改正して徴兵制を復活させねばならない、こういった議論が公然と湧きあがってきた。そしてこのプログラムが実現する可能性がかなりあるように思われた。「徴兵されたらどうするのか。行くのか行かないのか」。こう心に問いかけていたのは、私ひとりではなかったはずだ。いま六十歳をこえる当時の若者たちの多くが、少なくとも一度はこの問いを抱いたであろうと私は考えている。 私の結論は決まっていた。徴兵制度が復活しても自分は拒否する、と。そういう心の決め方がどういうところから来ていたのか、その道筋は定かではない。ただ十七歳のとき、私はすでに反戦少年になっていた。小学生のときの疎開体験、その疎開先で見た敗北軍人の集団泥棒、戦後の新橋での闇市商売、新憲法施行の日を創立記念日とする新制中学の第一回生であること、こういったことが下地となっていて、そこから反戦少年が誕生するにはわずかなきっかけで十分だったのである。
 一つはっきりと思いあたるのは、私が入学した東京都立小山台高校の雰囲気である。共産党の細胞もあったようだが、それ以上に、各学期に生徒大会があり、これが刺激的だった。生徒が好きな議案を提出し、賛否の討論が行なわれ、多数決で採択されるのだが、そのテーマが身近なところから、たとえば校内での下駄はきを許可せよという要求から、再軍備の是非といった政治的テーマにいたるまで幅が広く、また上級生の中には弁の立つ人気役者が何人かいて、丸一日を費やす討論にもあきることがなかった。なにしろ、ルイセンコ学説の是非まで論じられていたのである。あれは、旧制中学の自由闊達な気風がまだ残っていたということなのか、それとも戦争直後の言論の百花斉放の精神が十代の若者たちにも乗り移っていたということなのか。いずれにせよこうした上級生たちの激しく知的な議論をとおして私は、反戦、反再軍備への意志を固めていったのだろう  海老坂 武 『倫理とアイデンティティ』
  ここ都立小山台高校では、「校内での下駄ばきの自由を巡る議論」と「再軍備の是非といった政治的テーマ」が同居している。前者は自由嫌い謂うところの自由のはき違えである。それと後者、政治的言論表現の自由が同一の場で議論される。それが青少年の闊達な気風を生んでいるのである。三戸先生が初めて高校生に接した都立大泉高校の雰囲気も闊達だが、更に学校を超えた文化的広がりを見せている。
 「文化部がすごく活発だったですね。社会部、文芸部、音楽部も相当水準が高かった。文化祭にかぎらず、音楽部主催でオペラなんかどんどんやるんだから。文化部主催で講演会をやるというと、檀一雄さんとか、松川事件に関連して広津和郎さんとか、かなり有名な作家や哲学者を生徒が呼んでくる。檀一雄さんは家が近かったし、親戚の子もきていたし、よくきてくれましたよ。読書会もやっていて、これは教師も自由に参加できるし、ぼくは若かったからあちこち呼ばれたけど、ゾラとかツルゲーネフとか、ヨーロッパの翻訳ものが多かったわ。ロマン主義のもあったけど、自然主義文学を当時の生徒はよくやりました。ゾラの『居酒屋』 とか 『ナナ』 とか、ああいう類いのものを。みんなすごく読んでくるから、こっちも読んでいさないと教師のほうがやられちゃうんだ。 文化祭の前は二、三日徹夜して展示をやる。ぼくが顧問をしていた社会部では、当時の生徒は政治意識も発達してきたから、安保条約の内容はけしからん、なぜ単独講和をしたんだと、それをどんどん発表するわけですね。 その背景には、教科内容が伴っていたわけ。当時社会科では一年で 「一般社会」というのがあって、全員が週五時間やるんです。憲法、民主主義の制度、資本主義と社会主義の問題、農村問題、労働問題・・・。 いまと違うのは、労働問題などにすごくページ数をさいているものだから、大学時代の知識だけではやれないんだ。相当勉強しないと全部はこなせない。いまの倫社部分はほとんどなかったですね。ほとんど政治・経済だった。それを五時間、全員がやる。 二年生になると世界史・日本史・地理に入っていく。とりわけ世界史が充実してきたかな。生徒も、近・現代史にいちばん興味をもちましたね。フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる。こっちがへたなことを言うと、生徒が食ってかかるんですよ。たとえば 「ここで平等と言っているのは機会均等なんだ、経済的にも何も全部平等ということじゃないんだ」というようなことを言うと、少し社会主義の勉強をしたような生徒がパッと立って「おかしいじゃないか、そんな平等があるか、平等というのは経済的にも平等じゃなきゃだめなんだ」と。それにたいして教員も反論する。だから、授業のなかで自然に教師と生徒の討論になるということもずいぶんありましたよ。 「君が代」・日の丸問題でも、「君が代」を歌うか歌わないかということが生徒のなかで論争になるわけね。 当時の都立高校・・・は、一般的にそういう雰囲気があったわけですよ。ぼくが大学のときに味わってきた自由な雰囲気と似たものが、都立高校にあった」            三戸孝  「ある都立高校教師の戦後教育四十年 1



  三戸先生が「フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる」場面があったと証言しているのは、単なる形容としての「輝く」や「必死」ではなく、文字通り「期待に満ちた」「必至」なのである。日本がどういう国になろうとしているのか、謂わば剥き出しの理想を片手に日本の現実に切り込もうとする眼差しである。 盗人に転じた旧軍人など、反面教師が日常に溢れていた。

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