「諸君は、先生の良し悪しを、その先生の思想や政治的立場によってきめてはならない。思想は自由である。先生といえども、自由にどのような政治的信条をもってもよい。いい先生というのは、数学なら数学、地理なら地理を、その先生に教わったために非常によくわかり、その学課が好きになる、そういう先生をいうのだ。思想がどうだこうだによるのではない。私は昔この中学校で、そういう立派な先生の何人かに教わった。先生がたの思想は古く国家主義的でさえあった。だが、私は今でもその先生がたを尊敬している。思想、言論、信条の自由というのはそういうことを言うのだ」 中林隆信『イングリッシュ軍曹同乗記』
軍国主義が激しく攻撃されている時期の主張である。あくまで思想の「自由」を擁護している。この時、中野はその他大勢の候補者の一人として招かれたのではない。治安維持法で弾圧を受けた党員作家の講演会の主賓としてである。政治的中立や両論併記にフラフラオロオロしている今の大人に対して、当時の少年たちの自然な主権者意識は、逞しく美しい。投票権が無ければ政治行動は出来ない、あるいは制限できるなどという臆病風に吹かれている自分を疑ったほうがいい。我々が心得ねばならぬのは、「その先生に教わったために非常によくわかり、その学課が好きになる、そういう先生」になる日々の研究・調査である。そのための思想、言論、信条の自由から一歩も退いてはならない。
中林隆信は中野重治の友人で福井中学の英語教師であったが、当日の彼の様子を次のように描いている。
「・・・部主催だから聴講は強制でないが、約四百人ほどが講堂に集まっている・・・顔は骨ばって痩せており、それに黄疸かと疑うほど皮膚が青黄い。艶がなくて、しなびた感じである。しかしよく見れば、やはり中野の顔である。とくに眼鏡の奥できらりと光る目は、まさしく彼のものであった。彼はカーキー色をした軍服まがいの服を着、ごわごわのズボンのはしを紺の靴下の下にたくしこんでいた。これに雑嚢を肩にすれば、その頃のいわゆる『復員風』の服装である。要するに彼は、当時のヤミ屋の恰好で演壇に立っていた。戦後民主主義文化運動のリーダーと嘱望されていた彼も、・・・その物質生活はなおこのようなものであった」
中野重治全集第23巻には、国会演説集が納められている。彼の演説は小さな一枚のメモだけで自在に行われ、文学的でもあったから、傍聴席にはいつも大勢が詰めかけて身動きがならないほどであったという。しかし語り口は朴訥で村夫子然としていたと伝えられている。当時の参院議長は殿様出のアカ嫌い松平恒雄であったが、中野重治の演説だけは楽しみにしていた。中野重治がたった三年間の議員生活でどれだけの調査をして演説論戦したのか、それを知るだけでも政治経済の授業は格段に面白くなる。
僕なら先ず旅程表を作る。誰に会うため、何処に列車で徒歩で出向き、何処に泊まり、何を食べたのか。議員としての仕事の他に何をしなければならなかったのか。いくら費用を要したのか。何を着て、何を履き、どんなに餓え、苦しかったか。農民たちはどのように彼を迎えたか。そして夏休みを使って高校生たちと実際に歩き聞き、討議してまとめてみたい。生きた政治教育とはそういうものだと僕はおもう。
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