ラベル あそびと研究 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル あそびと研究 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

わが国では、学校は植民地同然なのか 牢獄か

  

「植民地の民衆とは、その進化が停止し、理性を受け入れず、白身の事柄を処理できず、指導者の永遠的存在を求めている民衆である」                              フランツ・ファノン『なぜ我々は暴力を行使するのか』みすず書房1960年

 

 これはフランスの高校生のデモ     今月7日、マクロン政権への国民的な怒りは、約350万人(CGT調べ)の街頭抗議デモー鉄道、地下鉄、バスなどの交通機関、道路、輸送、医療、消防、港湾、燃料、電気・ガス、清掃、公務員、学校、商業、サービス業ーあらゆる産業分野の労働者、老若男女が街頭に結集、政府の年金改革に異議を突きつけた。 抗議デモは国内300の地域に広がり、「生存権を守れ」「われわれは労働の囚人ではない」「ウクライナではなく国民を支援しろ」と声を上げた。ストを呼びかけた労組や組織は「年金改革法案の撤回」まで無期限ストを宣言している。

フランスの人口は日本の半数弱。
 ここ仏で高校生は教師とともにともに闘う仲間として街頭に出ている。日本の高校生は政権に指示された模擬投票ごっこの幼児以下か、なす術なく狼狽える。教師と高校生は、長い時間を共通の目的=学問をともにしながら、共感しあうことが出来ない。ここは牢獄か。何故連帯から逃避し傷つけ合うのか。

 高校生は既に政治的主張と行動の主体。教室の壁に閉じ込められた囚人や主権を奪われた植民地民衆では無い。進化をとどめるな、理性を研ぎ澄ませろ、怒りをもて白身の課題に立ち向かえ。高校生・若者、君たちは主権者なのだ。先ず要求を掲げて、当局に政府に突きつけねばならない。君たちが侍japanに興奮している間に政権は戦争にまっしぐら。

記 異議申し立てする主権者たちに、フランス警察は警棒はもとより、催涙ガス、高圧放水銃、閃光弾、までも使っている。重装備の警官が非武装のデモ参加者に襲いかかる様子はSNSに溢れている。消防士の一部隊は寝返り、デモ隊に合流した。あるmediaは「パリは戦争状態だ」と報じている。

 イタリアの異議申し立てデモでは、軍人が市民=主権者側に寝返っている。

 

  

「一に遊べ、二に遊べ、三・四がなくて、五に学べ」

 挨拶に立った校長は、風貌だけで入学式に居並ぶ参加者をシーンとさせた、痩せて哲学者を思わせる鋭い眼差し。而も「一に遊べ、二に遊べ、三・四がなくて、五に学べ」と生徒・父兄一同を仰天させた。親も子も、勉強好きを自負していたからだ。それを校長は叱った。君たちは点数が好きなのだ。遊びとは点数や順位から自由になること。そこから「学ぶ」事の意味が見えてくる。

 聞けば、校長は農業経済学者。放課後、僕は引き込まれるように農学部の研究室に向かった。 ノックすると内側からドアが開き、賑やかな部屋から校長の「入りなさい」と言う声が聞こえた。もうすでに校長と馴染んでいる者がいたことに吃驚。狼狽えた僕は「又今度、来ます」と言ってしまった。

   大きな転機だった。翌日僕は『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の読書会に誘われたからだ。文庫版『空想から科学へ』をファラデー『ろうそくの科学』の類だろうと買ったが、まるで歯が立たない。休み時間に四苦八苦していたのを上級生が見かけて誘ってくれたのだ。崩壊寸前の旧校舎での読書会は、放課後から星の出る時間にまで及び、毎回企業や大学の最前線で活躍する卒業生が招かれた。

    面白かった。中学とはまるで違う世界がそこにはあった。ベトナムについては卒業生による現地報告が切っ掛けだった。トンキン湾事件が起きたのは中三の時だったから、真相とその背景を知ったときは驚いた。それから様々な討論会や学習会に参加するようになった。ビラを作り教室を回ってアジった、デモも呼びかけた。高校から大学卒業を経て、サイゴン解放までは長かった。ホーチミンはすでに亡く、僕は就職していた。

 記憶の中に、校長の研究室に出入りしていた同窓生が浮かぶことがある。晴れた日も長靴を履き、寡黙で皆と一線を画していた。彼らが温室や畜舎に入りながら顕微鏡やシャーレー相手に奮闘していた姿を想像する。少年は、式や学年によって一律には成長するものではない。早熟も晩成もあって、なかなか混じらない。それでいいのだ。

 二中で僕は理科室の鍵を任され、夜も一人で実験を繰り返していた。だから顕微鏡とシャーレーは僕にも魅力的な世界だ。

 卒業名簿には、日本ではなく直接オランダやデンマークの農科大学に席を置く者が毎年何人かあった。外貨の持ち出しが厳しく制限された時期、特異な例だ。僕は一時期ローマのシネチッタに留学して、フェリーニから学ぶことを考え色々調べた。絶望的に難しかった。彼らはオランダやデンマークの農科大学へのツテをどのように掴んだのだろうか。 

 ベトナムが解放されるなら、何もかも諦めてもいい。そう考え行動し、父や母を泣かせ怒らせた。また同じことをするような気がする。この頃の自分に一言いうなら、苦虫を噛んだような顔で低くこう言う。「バカだな、お前」。

靨の中へ身を投げばや

 靨(えくぼ)の中へ身を投げばやと 思へど底の邪が怖い



 閑吟集』は室町時代の末、16世紀始めに成立。

 

 「富士の遠望をたよりに庵をむすびて十余」年の世捨て人が編んだ歌謡集。

   邪は蛇にかけてある。


 江戸時代の超現実主義としては、落語の『あたまやま』がよく知られている。しかしこれは更に古い。

 冬の深川沖埋立地の波間に浮かぶ棺桶を、上空から狙う鷲、更に上空には漆黒の宇宙空間。

ハイケンスの「セレナーデ」と明るい貧乏が、平和を握りしめていた

  ハイケンスの「セレナーデ」が、露地で遊びに熱中する子どもたちの歓声を静めるように流れたのは、午後の四時頃。

 記録によればNHK、『尋ね人』は1946年(昭和21年)7月1日から1962年(昭和37年)3月31日 迄続いた。   1960年(昭和35年)の放送時間は、ラジオ第1放送で月曜日から土曜日の午後4時25分から29分。「セレナーデ」はそのテーマ音楽だった。
    NHKの『尋ね人』『復員だより』『引揚者の時間』の3番組は、聴取者から送られた、太平洋戦争で連絡不能になった人の特徴を記した手紙の内容をアナウンサーが朗読し、消息を知る人や、本人からの連絡を番組内で待つ内容であった。当初は対象者別に以上の番組が設けられていたが、やがて『尋ね人』に集約した。放送期間中に読み上げられた依頼の総数は19,515件、その約1/3にあたる6,797件が尋ね人を探し出せた。集落が静まり返って聴き入ったわけである。
   手紙の内容はまとめられ、アナウンサーによって淡々と読み上げられた。https://ja.wikipedia.org による。


 昭和20年春、○○部隊に所属の××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
 シベリア抑留中に○○収容所で一緒だった○山○夫と名乗った方をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
 旧満州国竜江省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれていた方。上の名前(あるいは、苗字)は判りません。
 ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、××県の△△さんがお捜しです。
 昭和○○年○月に舞鶴港に入港した引揚船「雲仙丸」で「△△県の出身」とおっしゃり、お世話になった丸顔の○○さん。
 これらの方々をご存じの方は、日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都千代田区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です。←クリック



 番組が終わると共にどの家からも深い溜息が聞こえ、やがて子供たちの歓声が再び露地を駆け巡った。

 このひと時を戦中を耐え生き延びてきた大人たちは深い悲しみとともに、戦争放棄の憲法を持った喜びをかみしめた。


 祖母たちが、庭で遊びで明け暮れる子どもたちを見ながら「もう、こん子たちゃ、戦争に取られんでん済んとやなー」と繰り返す光景を思い出す。衣食住すべて不自由な明るい貧乏が、平和を握りしめていた。

    しかし朝鮮戦争特需は、貧しい平和にとって中毒性の「毒饅頭」となった。握り締めたはずの貧しい平和は脆く崩れ去った。貧しさの中に平和を生きる思想に欠けていた。

遊びと自制と社会性

お父さんスイッチで親と子の役割を入れ替える
 ・・・(オオカミ)の小家族が目を覚ました・・・。さかんに跳びはね、たがいの鼻をなめたり身体の上を跳び越えたり、仰向けに倒れて四肢で家族のだれかを持ち上げる。そんな状態が長く続き、ようやく徐々に静けさが戻ってくる。 ・・・オオカミがどうしてこうした遊びをするのか、合理的な説明はない。・・・
 オオカミたちは、「たくさん働けばたくさん遊べる」をモットーに生きているように思われる。
・・・遊びは彼らにとって、社会学習の一つの形式なのだ。幸福感を高める。・・・

   小さな子どもたちと遊ぶ老オオカミも、若返りの泉に浸かったように見える。・・・
 ・・・相互にコミュニケーションし、肉体を鍛え、社会の結びつきを深めるための有用な方法が遊びなのだ。・・・
 遊びは学習とトレーニングの時間で、相手をよく評価するための経験を全員が積む。同時に、社会的役割を交代しながら訓練し、フェアプレーを実践することにより高レベルの倫理や道徳に家族をまとめる方法でもある。動物たちが遊ぶときは、守るべき取。決めがある。「自分がしてほしくないことは、ほかのものにもしないこと」という〝黄金律〟はオオカミにも通用する。この原則に従うには、共感のはかに、ゲームのあいだは相違点(身体の大きさ、社会的地位など)を度外視するという意志がいる。

 ・・・大人やとりわけ高位にあるものが・・・すすんで仰向けに寝ることで、役割交代が起きる。(ドルイドのリーダー狼)は八歳という熟年に達すると平穏を好んだが、それでも息子とよく遊び、息子に勝たせてやった。一歳の息子は父の首の毛を噛み、脚をすくつて地面に投げ、威勢よくパパの身体に足をのせて立ったものだ。パパは身をほどいて立ち上がり、くり返し息子に勝ちを譲った。こうして少年オオカミは身体が大きく強い大人と対決し、勝利するときの気持ちを体験する。
 自制と役割交代を通して、どのような態度ならほかのメンバーに許容されるか、どうやって紛争を解決するか、といったことを学んでいく。人間の子どもたちがチームスポーツに参加するようもっとすすめてはしいのもそのためだし、親が子にゲームの勝ちを譲っても損にはならない。
      『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』 築地書館
 

 生徒が教師に問題や課題を出す機会の意義は高い。授業中定期試験問題文に間違いを組み込み、生徒に突っ込ませて頭を掻くことも悪くない。

  NHKのETVに「お父さんスイッチ」がある。  適当な空き箱に丸い小さなシールを5つ貼ってかな文字を書き、アンテナ代わりにストローなどを側面に貼って、リモコンの出来上がり。幼児が「あ」を押せば、お父さんは「あ」の付く動作をしなければならない。例えば「慌てる」とか「蟻になる」。それを5回やって「お父さんよくできました」とタイトルが出て終わる。恥ずかしげな幼児と実直そうな父親だけで構成される公共放送らしい素敵な番組である。(民法もNHKも権力に媚びた構成の番組と、「国民共有」の電波を私物化するタレントの悪ふざけに占拠されて不快極まりない中で、僅かな平安がある)

 部活の中身はそもそもがplayである。勝利至上から離れて遊びの方向に戻ることは、オリンピック騒ぎがメダル志向を煽る中では緊急の課題である。
 強者がその地位や特典を何時までも独占
する(五輪でメダルを獲得すれば、企業や団体そして自治体や国家の賞金と表彰が相次ぎ、勲章にまで及び公的地位を伴う。それが相続されることさえある)仕組みは、社会の健全性を阻害することを知らなければならない。
 人類だけが、強さや優位を何時までもresetせず、劣位にあるものを抑圧し続ける。必要なのは強者の自制であって、弱者の自己責任ではない。
 抑圧への反抗は、社会強者の優位をreset させる為の健全な表現活動として機能している。若者の「反抗」が社会の健全な永続性を促してきた。 強者による抑圧が、政治体制や宗教倫理となった時、抑圧への「反抗」は犯罪となる。

  今青少年が、強者による抑圧にどんな姿勢か。それは、無関心による無知と弱者に向ける自己責任の眼差しではないか。


 学力偏差値と部活の強さが売りの自称「名門」校生が、競技さなかの「底辺」校生に向かって、「落ちこぼれ、馬鹿野郎、転べ・・・」と嗤いながら野次る姿を大会でよく見てきた。当該高校の教師が、野次る生徒の「社会性」の欠落を悲しみ嘆く様は見たこともない。彼ら自称「名門」の残忍性は、川崎私立校大量殺傷事件と同質であると思う。刃物や犯人が残忍なのではない。「格差」拡大とそれを「活性化」と煽る視線が残忍なのである。
 どんなに怠け者の能なしでも地位をあてがわれる者と、どんなに努力しても沈み藻掻き果てる者をTV番組は嘲笑するように毎日見せ続けている。

偏差値と勤評 Ⅲ 何故教育現場は「平穏に」後退し続けるのか

 ・・・教師と学生は、教育が危機に瀕しており、この危機の責任は相手にだけあると決まり文句のようにくりかえしている。しかし、彼らは自分たちが抱いている不安の原因を全く理解していない。
我々の教育システムに対する最もありふれた診断は、それにあるスローガンを与えて、その機能不全を耐えられるものにしようという一種の正当化にほかならない。もし教育的行為の多くがその目的を達成しておらず、しかもその当事者たちが反乱を起こすこともないというのが本当なら、〔大学教育に対する不満から生ずる〕呪いによってしか、また〔ある特定の〕イデオロギーによってしか告発されない理解不全の社会的、心理的機能を問い直してみるのも意味のないことではあるまい。
 今日のフランスの大学の機能を圧迫している多くの物質的困難が、その教育的関係の悪化に、決定的とも言える大きな影響を与えていることは疑いない。だが、教育的関係が一つのシステムであるということを認識しょうとしないなら、現実の状態を変えることは不可能であろう。つまり、その担い手たち〔学生と教師〕の態度が機能的に相互に結合されている限りにおいて、また彼らの〔主体的〕態度が教育の物質的、制度的な条件との相互に因果的な関係を維持する限りにおいて、それはシステムとして (よきにつけ悪しきにつけ)機能し続けるのだ。高等教育がかくも強固に革新に抵抗するのはなぜかと言えば、それは目に見える緊張と対立を越えて、おそらく高等教育がもたらす実際の安全と、この高等教育が生み出すフラストレーションとの均衡を保つように、高等教育が一つのシステムとして機能しているからである。要するに、教師と学生間の言語的理解不全の原因の研究は、高等教育がこのシステムの永続化に寄与している諸機能の研究と切り離しがたいのである。より一般的に言えば、システムにたいする〔主体的〕態度の変更を伴わないようなシステムの改革を目指すいかなるこころみも(また逆に、システムの改革を伴わない態度変更も)失敗に終わらざるを得ないということである。
                  ブルデュー『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店


 これは、ブルデューが『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店 でフランスの高等教育に現れる困難について調査分析した論考である。これを日本の教育全般に読み替えてみる。
 読み替えてみると、日本の教育危機のただならぬ広汎な広がりに驚く。例えば
  「教師と学生は、教育が危機に瀕しており、この危機の責任は相手にだけあると決まり文句のようにくりかえしている」。 
 ブルデューは、「彼らは自分たちが抱いている不安の原因を全く理解していない」と苛立ちを隠していない。だが僕は「危機の責任は相手だけにある」と言い合う関係が成立するフランスの大学をうらやましく思う。なぜなら「不安の原因を全く理解していない」が「不安が、そこにあることは、共通の認識になっている」からである。
 我が国では、例えば、偏差値による選別体制が成立して半世紀が流れたが、それが実に頭の痛い問題であることの共通理解はない。むしろ相互依存・共犯関係にある。子どもや親にとって「偏差値による選別」は不利な選択をしないためにメリットがあり、学校にとっては「劣った少年」を排除するメリットがある。少なくともそう考えて、まるで金縛りに遭ったように思考を停止している。思考停止のうちに現状を維持出来るリットは、偏差値体制の上位者と上位校ほど大きい。偏差値体制を廃棄するのではなく、偏差値だけを効率的に上げることを目指してしまう。授業内実や体制を充実させてそれをやり遂げるには時間も費用も要する。親や少年にとっても、興味あることに熱中することは危険が伴う。名門校の入試に失敗するかもしれないからだ。アインシュタインは日本には生まれないし、南方熊楠は英国に旅立たねばならなかった。

 地道な努力より、目立つことが効果を生む社会である。例えば国会議員であれば、中野重治的調査演説活動に精魂費やすよりTVタレント化して風狂な言動に徹する方が票になるのだ。

 計量化された票とは彼らにとってまさに「偏差値」なのだ。(このことを象徴する事件がおこった許りだ、 2019年2月国会の野党議員による統計不正を追及に、首相は「選挙5回勝ってる」と逆ギレヤジを飛ばしている。)数値だけが事柄を判断する材料とななってしまった。国民生活の実態や真実にこだわった話が理解されるには長い時間と辛抱がいるが、風狂な言動は即座にはじけて軽薄な効果を見せる。まさに悪貨は倦まず弛まず良貨を駆逐する。日本のトップ大学が、基礎研究に興味を失い枕を並べて国際的な評価を急激に下げていることでもそれは分かる。
 偏差値体制を憎むべき立場にある親や少年たちは、自分や子どもの困難が何処に由来するか、それすら見いだせないでいる。丁度帝政ロシアの農奴が圧政の根源がツアーの独裁体制にあることを「血の日曜日」まで見いだせなかったように。
 困難を抱えた少年たちを目の前に悩む「善意」の教師たちすら、問題の根源を見失っている。補習で偏差値を上げさえすれば問題は解決すると本気で考えているのだ。

  「今日のフランスの大学の機能を圧迫している多くの物質的困難が、その教育的関係の悪化に、決定的とも言える大きな影響を与えていることは疑いない
  

 この文章の「フランスの大学」を「日本の学校」に置き換えてみよう。「「日本の学校」の機能を圧迫している多くの物質的困難が、その教育的関係の悪化に、決定的とも言える大きな影響を与えていることは疑いない」学級規模や学校規模は、日本の学校の質を下げ荒廃させるのに貢献してきた。低く保たれた質は、物質的困難が解消されるに伴い向上する筈だったが、少しも向上していない。管理主義的生活指導は、生徒の従順化を奇貨としてむしろ強化され、脱社会化と非政治化はその極みに達している。何故なのか。高校学園紛争を経験した教師たちは、「あんなことはまっぴらだ。二度と経験したくない」と顔を曇らせ、生徒たちは学校の偏差値が上がることで推薦入学が有利に運ぶことを希望した。見かけの秩序に依存する点で、教師と生徒は同盟関係にあったし、今もある。教育の内実の充実を伴わない偏差値だけの上昇は、学校に対する勤務評定として双方に支えられつつ機能してきたのである。
 ブルデューは続ける。「その担い手たち〔学生と教師〕の態度が機能的に相互に結合されている限りにおいて、また彼らの〔主体的〕態度が教育の物質的、制度的な条件との相互に因果的な関係を維持する限りにおいて、それはシステムとして(よきにつけ悪しきにつけ)機能し続けるのだ


 ただ(よきにつけ悪しきにつけ)機能し続けるのではなく、悪化し続けるのだ。秩序は拡大し職員会議の自由な討論と採決は、教委と管理職の秩序に飲み込まれ、学校儀式は日の丸・君が代を通して国家秩序にまで拡大してしまった。
  自衛隊の軍隊化が完成すれば、この秩序は一気に米国の世界秩序に飲み込まれることになる。
 あたかも教育が、時代を押しとどめ逆行させる重しとして、機能しているかのようである。

 「教育がかくも強固に革新に抵抗するのはなぜかと言えば、それは目に見える緊張と対立を越えて、おそらく高等教育がもたらす実際の安全と、この高等教育が生み出すフラストレーションとの均衡を保つように、高等教育が一つのシステムとして機能しているからである。・・・より一般的に言えば、システムにたいする態度の変更を伴わないようなシステムの改革を目指すいかなるこころみも失敗に終わらざるを得ないということである

 1968大学闘争時のことだ。「機動隊が来たら、『ピンク大のやつらを前に行かせろ、ピンク大は前へ』なんて叫んでいましたね」と言う不愉快な証言がある。blog『極鬼舎 2019/02/23』  ピンクとは桃山学院大学。
同志社大全共闘元闘志の語るところによれば、関西の場合、作戦立案は京大学生、現場指揮は同志社大、前線の逮捕の恐れのある危険な場所には桃山学院大やそのほかの学生が割り当てられたという。東京にも似た構造があった。大学解体を絶叫しながら、選別の構造と論理は温存した。ナロードニキ真逆の構造が、大学紛争の中に構築されたのだ。それが権力の階層構造と瓜二つであったことに無神経な者たちがシステムの破壊を担えるわけはなかった。

 戦後社会を規定し続ける偏差値による選抜と人事評価=勤務評定に基づく全システムの廃止を伴わないいかなる試みも失敗に終わる。

勤評と偏差値 Ⅱ

 オレオレ詐欺に邁進する「優秀な」若者があとを絶たないという。金持ちの老人を騙して何が悪いと言わんばかりに、真面目で特性の無い勤め人を装う「老人食い」。怪しい業界に若者が「身を投じる」のにまたがねばならぬ敷居は極めて低く、特段の決意を要しない。しかしそこから足を洗う「一歩」が難しい。進むのは簡単だが後戻りは出来ない仕組みが備わっている。 

 ドストエフスキーはラスコリニコフにこう言わせている。


 「ふむ・・・そうか・・・人間というやつは、いっさいを手中にしているくせに、弱気ひとつがたたって、みすみすそのいっさいを棒にふっているわけだ・・・こいつはまちがいなく公理だぞ・・・だいたい人間は何をいちばん恐れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか」(江川卓訳『罪と罰』)

  狂人ラスコリニコフの戯言と捨て置くべきなのか。並外れた鋭さを持つ精神の警告として受け取るべきなのか。僕は後者を取る。我々は疲れ果てて、精神を顧みることさえないからだ。
 人は、新しい一歩を恐れている。例えば高校生にとって部活をやめるのは、気楽な「新しい」一歩ではなく「人生初めての」個人の決意を伴った「新しい一歩」、恐怖の一歩である。部活に加わるのは、風に柳がなびくような、決意とは無縁の集団的惰性に従っているに過ぎない。部活だけをやめることなのに、人間関係が根本から崩れてしまう恐怖。 調子に乗っていじめに加わるのは簡単だが、自分一人やめることには相当の決意を要する。いじめそのものをやめさせるには、更に大きな覚悟と時間を要する。
 僕は担任をしていた頃、部活を止める決意をした生徒たちの長い面倒な闘いを幾たびも見てきた。簡単なことに無駄な時間と力を浪費してしまう。簡単なことだ、何も変わらない、変えさせない、と言ってやりさえすれば、呪いが解けたように高校生は楽になる。入学式でも、PTAでも説明すれば良い。部活の顧問に「そんなことを言われては困る」と脅されても、職場で孤立しても言い続ければ良いのだ。面倒は担任が引き受ければよい。それさえやろうとしないのは何故なのだ。我々が自分自身に呪いをかけているからだ。「止めることはいつでも出来る。継続は力なり」と。

 まったく「だいたい人間は何をいちばん恐れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか」 生徒に対する持ち物検査や服装頭髪検査は、集団の掟として始めるのには決意は要らないが、自分だけやらないことには格別の決意と新しい言葉を要する。

 重営倉で瀕死の状態となった兵を連隊長から、「処置せよ」といわれて、リンゲル液を持って川島中尉は手当てしようとする。ところが怒気を含んだ声を浴びせられたのだ。
  「何をするんだ貴様。処置せよ、と命令したんだ!」
  「ですから死なないように処置して、助けるのです」
  「貴様!上官の命令に反抗するのか!処置せよ」
 「ですから点滴で栄養補給の処置をしますっ! それとも『殺せ』の意味ですか?」

      (古川愛哲著『原爆投下は予告されていた』講談社刊)

 敗色迫る日本軍では、手足まといになる負傷兵や捕虜を殺害することを「処置」と呼んでいた。「殺せ」と命じれば、責任を問われる。正しい言葉を使うこと自体が「いっさいを棒にふ」ることになった。無難なのは「特性のない」兵士であり続けることであった。
 
 勤評が始まったとき、教員にはどんな選択肢があっただろうか。そもそもあの時期の教師たちに、選ぶという経験があっただろうか。戦争を始めたのも、無抵抗の農民を殺すのも、強姦するのも、自ら選んだことではない。死んだ戦友を食ったのも選択の結果ではない。そして教師になったのも主体的選択の結果ではない。食い詰めて街をさまよっている時に教員募集の貼り紙が目に入ったのだ、選択の余地はない。敗戦の現実を直視して、これからの教育では「国のために死ね」と言う必要は無い、平和と自由のために教職を選んだ者は、迷うことなく「勤評」に立ち向かった。
 公然と反対すること、それが最も危険であった。宇高申先生は闘いを組織し逮捕された。←click 無難なのは「特性のない」人々の一人になることであった。とはいえ、雇われ人としての特性からは逃げがたく、教委の意向に振り回される。

勤評と偏差値 Ⅰ

ファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね
 「自分の考えを表明するということは、それに対し責任を取るということ」これは、必然的に個人の判断や決意を促す。判断も決意も言語化して初めて相手に通じ、相手からも学び合意を共有する。
 日本では、学校や組織の決まりや「掟」が、個人の「判断と決意」を代替して「忖度」を受け入れる素地をつくってしまう。忖度は、言語化を回避する。
 僕は明治生まれの祖父母や大叔母たちから、「人の顔色をみてものを言ってはいかんよ、思った通りを言いなさい。殴られても引き下がってはいけない」と繰り返し厳しく諭された。
 いじめっ子が現れれば、言葉で対決しなければならない。暴力で決着しようと目論んだ上級生のいじめっ子たちは、言葉での対決に一瞬たじろぎ、「お前と話すと頭が痛くなる」と言って退散するのであった。殴られたことは一度も無い。お陰で遊び仲間からも、学校や地域でも「ちょっと生意気・ひねくれ者」と思われたが、それが咎められるようになるのは、「勤評」以降である。
 

 「勤評」は、教師を権力に順化し、担任は生徒に従順と譲歩を強いて成績に拘るようになった。生活指導はこの風潮に乗り、官民双方から広がった。僕の記憶の中にある生活指導が目指したのは、民主的秩序ではなく組織の秩序に過ぎなかった。少年たちが、教師や上級生と言い争うことも増え、それは68年の学園紛争で頂点に達した。だが、一気に萎えてしまう。「個人の判断決意」という点で、日本の大学紛争は脆さを内包していたからである。それ故「紛争」後、大学闘争の戦士たちは一転して企業戦士となったのである。

    言葉が明晰性を失う事を、小説の神様は嫌った。それ故
小林多喜二の文学を高く評価しながら、文学が政治や思想の道具となる事を批判したのであった。
 1935年、志賀直哉はある対談でこう語っている。
今の世の中でファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね・・・大体この二三年間、急に日本はまるで日本でなくなったやうな気がするぢゃないか。僕は腹が立って、不愉快でたまらないんだ・・・世の中が実に暗い。外へ出るのも不愉快だ。言ひたいことが言へない世の中などというものは誰にとっても決して有難くないわけだ
   『文化集団』昭和10年11月号「志賀直哉氏の文学縦横談」
 

 多様な文化思想の人間が混じり合えば、そこでの言葉は明晰性を増さざるを得ない。ファシストとファシストに忖度する人間で世間が埋め尽くされてしまえば、言葉の明晰性は消えてしまう。
 それ故志賀直哉は『世界』の編集に敢えて、中野重治や宮本百合子を入れる提案をした。戦争の愚劣を言葉の明晰さが暴く事を、彼は願ったと僕は思う。最も明晰な言葉が日常日本語でないのは確かである。
 例えばフランスの教科書には、文章だけで構成された美しさがある。言語への自信と信頼があるからだ。対して日本の教科書は、字の書体や色や太さを変え、漫画を配置、カタカナ語を乱用してまるで歌舞伎町や渋谷駅前の乱雑さである。そうすることでしか、事柄を伝えられない構造を日本語は持っている。


 教室から明晰さが後退する切っ掛けは、勤評にあった。それは当時生徒であった僕の実感である。偏差値の概念自体は世界中にある。しかしそれが教育を翻弄し、教育がそれに依存しきっている国は日本だけである。その根源が「勤評」と拘わっていると僕は睨んでいる。 続く

ミャンマーにခြင်းလုံး 中国の踢毽 日本では蹴鞠

遊びの意義は、興行化した競技の及ぶところではない
 これらは東アジアに生まれた勝敗のない「遊び」である。踢毽(ティージェン)は羽根を蹴る遊びで、ベトナムや朝鮮にもある。ခြင်းလုံး(チンロン)には籐で編んだボールが使われ、蹴鞠では鹿革製の鞠が用いられた。共通しているのは、数人が円状になって玉や羽根を地面に落とさず手を使わずやり取りすること。自分の手元に玉や羽根がある間に、巧みな技を披露して見せるが、玉や羽根を次のplayerに渡すときには攻撃的行為はしない。互いに協力し楽しむことが賛美される。
 メダルやタイトルを巡って国家が愚かな競い合いを繰り広げる余地は無い。競技団体が利権集団化して、playerを企業の奴隷的広告塔に堕落させることも今のところない。
 
遊び=playを商業化して、近代スポーツが始まったのが間違いの始まりだった。たかが遊びを商業化したことの罪は大きい。
 その最大手FIFAがခြင်းလုံးを「公認」したという悪夢のような情報がある。
 FIFAの興行方針が国家間の憎悪を煽っているのは紛れもない事実。それ故オスロのノーベル平和センターは2015年、汚職スキャンダルに塗れたFIFAとの提携関係を解消すると発表している。
 今年になって、ロシア人女性歌手がワールドカップロシア大会イベントへの出演をFIFAから禁じられる事態も起こっている。戦争をテーマにした彼女の過去の活動が理由。彼女が公開したFIFA文書によれば、FIFAイベントでは戦争や宗教、政治をテーマとした内容は厳しく禁止されている。戦争をテーマとした活動を禁止すれば、平和になると考えているとしたら幼稚すぎる。反戦行動も戦争をテーマとした活動。それを一括りにして禁止することは、戦争当事国を利するだけである。

『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』は、思考に「キックを入れる」

マルクスは私たちの思考に「キックを入れる」
 歴史主義とは、「今生きているこの社会は、始まりがあった以上、いずれ終わりが来る」という考え方である。「今ある社会がこれからもずっと続く」と思っている人間よりも、社会が変動期に入ったときに慌てない確率が高い。
 歴史主義は私たちに「ここより他の場所」「今とは違う時間」「私たちのものとは違う社会」についての想像のドアを「開放」にしておくことを要請する。
 だが歴史主義には欠点もある。つい「歴史を貫く鉄の法則性」を探して、「だから来るべき社会はこのようなものである」というような遂行的予言を行い、その予言を実現させるためにあれこれ余計なことをしてしまう。 社会は変化し、それはそれなりの必然性があるのは後になるとわかるが、どういうふうに変化するのか予見することはきわめて困難である・・・という身の程をわきまえた、消えゆく「歴史主義」があれば、ずいぶんと気分のよい思想であろうと思うが、残念ながら、人類はそのようなものをこれまで所有したことがない。
 「世の中、確実なものは何もありません」という涼しい達観に手が届きそうなものだが、全然そうならない

 レヴィ=ストロースは論文を書き始める前には『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』に目を通すという。マルクスを数頁読むと、がぜん頭の回転がよろしくなり、筆が走り出す。マルクスは私たちの思考に「キックを入れる」と彼は言うのだ。

 僕が高校に入って、初めて最期まで読み通した文庫本だ。
取り壊し寸前の木造校舎に集まって、卒業生をチューターに数ヶ月かけて読み議論した。疲れると卒業生は、たばこ代わりにチョコレートを配り、僕らは破れた天井から星空を見ていた。中学までの僕には、歴史は偶然の連続でしかなかったが、その偶然の中に繋がりと発展を見出すのが歴史だと知った。思考に「キックを入れる」とはそのことだ。

   高校生は80年代頃までは、偏差値選別体制を嫌悪し高校三原則を強く支持していた。それは過去の教育政策と現在の情勢の繋がりを掴んでいたからだ。誰が三原則を潰したかを知れば、自ずと選別体制の本質は分かってくる。
 だがいつの間にか、体制への憎しみが偏差値の低い学校に対する「ヘイトスピーチ」に変わるようになった。高体連の各競技大会では偏見に満ちたヤジがとぶ。例えば「落ちこぼれ!転べ!」・・・。これは僕が、高体連スキー部東京大会で聞いた言葉だ。偏差値が接近すればするほどつまらないことで蔑みあう。
 彼等がすでに40歳台である。「自由・平等・友愛」を生きた思想の地位から、穴埋め問題用の暗記単語に引きずり落ちたのである。 考える「授業」、あるいは「考えさせない」授業はそのようにして、授業外の生活の中でで実行される。

 ある夜明け前、僕は妻に叩き起こされた。東北東の空が「浮世絵のように美しい」と。漆黒の森影を前に地平に広がる透き通った茜色の空、その上に輝く天色、吸い込まれるような紺、絶妙の階調。夕べの強風がもたらした束の間の景色。やがて太陽が昇り全てが単調な色合い飲み込まれてしまった。値千金の数分。
 五月の明るい空の眩しさと照り映える新緑に感嘆していたのが、退屈な明るさに思える。
 高校の教室、廊下、通学路・・・にはこうした値千金の一瞬が散りばめられている。明るさと暗さ、幸福と悲劇、希望と絶望、信頼と嫌悪、未完成の美しさと大胆な明晰性・・・それらの狭間に潜む束の間の青春。アランが大学に赴任することを拒んだのは、それが大学生になると色あせてくるからだった。高校教師には、地位や収入には無縁のこうした「特権」がある。しかし多くは、愚かにもそれに気付かず見逃し続けている。

 ある日体育教師が「登校中の数人が数学の定理を巡って言い合いをしていた」と、輪番制で発行する日刊職場新聞に書いた。僕はそういう教師が現れたことが嬉しかった。生徒たちは、いつも誰かがそういう話をしているのだ。それに気付くことが、教える資格である。行政は教師のこういう資質を憎み破壊している。なぜなら、互いの尊厳の発見は、双方の権利の自覚に繋がるからだ。
  ヨーロッパの教師達には様々な休暇の権利がある、経験に応じて一ヶ月、三ヶ月、半年、一年だったり、無給なら無期限の休暇を保証している国もある。僕は都高教青年部合宿で「もう賃金はいい、研究と長期休暇の権利に取り組め」と主張したことがある。対立する双方の派閥から猛攻撃をくらった。お陰で僕は、どの党派からもうろんな敵と指弾されるようになった。

修理工がポールを投げ、老運転手が受けとめる。その「一瞬の長い旅路」こそ人間的な伝達の比喩である

軍隊に人間的な伝達はない、言葉の主体が存在しないからだ
 一個のゴムのボールがAからBに投げられる。夕暮の倉庫のある路上での自転車修理工と、タクシーの老運転手がキャッチボールする場合を考えてみよう。修理工がポールを投げると老運転手が胸の高さで受けとめる。ポールが互いのグローブの中で、バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを渡してやった気分になる。その確実な何かが何であるのかは、私にもわからない。
 だが、どんな素晴らしい会話でも、これほど凝縮したかたい手ごたえを味わうことは出来なかったであろう。ボールが老運転手の手をはなれてから、修理工の手にとどくまでの「一瞬の長い旅路」こそ、地理主義の理想である。
 手をはなれたポールが夕焼の空に弧をえがき、二人の不安な視線のなかをとんでゆくのを見るのは、実に人間的な伝達の比喩である。
 終戦後、私たちがお互いに信頼を恢復したのはどんな歴史書でも、政治家の配慮でもなくて、まさにこのキャッチボールのおかげだったのではないだろうか。 寺山修司「実感の形而上学」

 修理工と老運転手はどういう次第で、キャッチボールすることになったのだろうか。近所の赤提灯で、いつも軍歌を呟きながら管を巻く老運転手を苦々しく避けていた修理工の若者が、たまの早じまいの土曜日、路地に腰を下ろして日向ぼっこをしていた。時間はあるが金も恋人もない、地方出だから言葉に慣れなくて友達も出来ない。地面に折れ釘で落書きをしていると、件の老運転手がくたびれたグローブ二つ持ってやってきたのかも知れない。
 それから
修理工との凝縮した関係が始まる。互いの戦争体験が明らかにされ、老運転手が50にもならないのに老けているのは、徴兵されて留守していた時に、大空襲で家族のすべてを失ったからだということも、軍歌を口ずさむのは他に歌を知らないからということもわかってくる。
 「だからよ、俺は明るく肩組んで軍歌うたってる連中見ると腹が立つんだ。俺の子どもは生きていれば。兄ちゃんと同じ年配なんだ・・・」
 「そうですか、失礼しました。僕の親父は南洋に送られて、それっきりです。遺骨もありません、だから軍歌は嫌いです。母も兄弟たちも苦労しました」

 僕が東京の小学校に転校してきた1958年頃、こんな老運転手や修理工は四谷界隈にもたくさんいて、幾つもの草野球チームを作っていた。日曜日には、方々に残っていた空き地や外苑で試合をして、僕たち子どもと場所の取り合いで揉めたが、交渉すれば済んだ。しかも、管理する役所もないから、すべてタダだった。

 ただ中学に入る頃から、あちこちの空き地や広場に看板が立ち、杭が打たれ金網が張られ「無断立ち入り禁止」になった。その一つが国立競技場である。
 すべてが計画され商業化されて、世代や地域を超えた「凝縮したかたい手ごたえ」がもたらす信頼は、街角から姿を消してしまう。
  学校で「部活」として編成されたキャッチボールや「やきゅう」はカリキュラム化されて「バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを渡し」す機会を掴めなくなってしまった。
地面に折れ釘で落書きをしている修理工に、思い切って声をかける決意こそが、「一瞬の長い旅路」を生んでいるのだ。「何かを渡」すやりとりの代わりに現れたのは、チームとしての勝敗に一喜一憂することだ。そこには、他者を思いやりながら、人間的伝達関係を築く主体性はない。
 戦争を放棄して、我々が手に入れた主体性をたかがチームの勝敗のために失ってしまったのではないか。そして今やチームを越えて、「国威発揚」が恥ずかしげもなく掲げられている。 
 軍隊という集団から個人が奪い返したものを、再び集団に委ねるのは愚かだ。寺山修司はそう言うに違いない。

栄誉から遠く離れて道楽する藤原成通と狩野亨吉  

蹴鞠にはいかなる賞賛も栄達も伴わなかった
 平安時代の公家藤原成通は、二千日間一日も休まず鞠を蹴り続けた。病気をしても寝ながら蹴り、大雨の日は大極殿で蹴るほどの鞠好きであった。父親のお供で清水寺に籠もったときは、清水の舞台の欄干を、鞠を蹴りながら渡ったと伝えられている。普段でも人の三倍は高く蹴あげた。ある日、鞠はつむじ風で吹き上げたように高く舞上がって、それっきり落ちて来なかったという。
 成通はまた、よほど身が軽く、忍者のように塀や垣根の側面を走ったり、屋根の上に寝て転げ落ちても、地面にすっくと立つという技もみせたらしい。鳥羽院から「おまえの早技はなんの役にも立つまい」とたしなめられると、「ええ、さして役に立つことではございませんが、急ぎ宮中に参内するときなど、ぱっと車に飛び乗れて便利です」と、悪びれもせず答えたという。
 この話を伝える『成通卿口伝日記』は 平安後期の僧聖賢の著。『続群書類従』に納められている。

 終いには大納言になったが、栄達が蹴鞠とは関係ないことは後鳥羽院の言葉でもわかる。一銭の得にも出世にもならぬことに、夢中になるのが「遊び」である。蜘蛛合戦からビー玉まで「遊び」は多様である。日が暮れるのも腹が減るのも、忘れて遊ぶ。山登りや探検も金と時間を浪費するだけの遊びであり、謂わば暇人の道楽であった。それがいつの間にか「飲む、打つ、買う」に収束してゆく。ただ好きで夢中になるだけでは、満足できなくなる。金銭や賞賛に結びつかないことは、淘汰されてしまう。

 慶応元年生まれの狩野亨吉は、相当に
本を読んだ。専攻は数学や物理そして哲学と歴史であった。蔵書はいつの間にか10万冊に達したが、自分では書かない。
 誘われて五高教頭を務めた後、僅か34歳で一高校長となり、続いて懇願され京都帝大文科大学の初代学長になるが、神経衰弱を口実に僅か一年で退官。いずれの場合も、短期間の間に後々まで伝えられる学風を残している。僅か15年の学校勤め以後、定職にはつかなかった。1923年東京大塚坂下町の長屋に「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げ、古典と春画の収集研究に打ち込む。一貫して眼前の栄達を、ことごとく退けた。
 それでも知人たちは、狩野を東北帝大総長に押したが固辞。皇太子の教育掛に推されても、「自分は危険思想をもっているので、王者の師傅に適しない」と断る始末。それもそのはず、一高在任中の1899年安藤昌益の『自然真営道』を神田の古本やで見出し、安藤昌益をアナーキーな社会思想家ととらえていた。惜しいことに焼けて残っていない。 
 正木ひろしは「狩野先生こそ本当の国宝的人物だ」と評した。そう、ディオゲネスと並べていい人物である。国家から意識的に離れて自由に、金銭にも賞賛にも結びつかないことに打ち込んだのである。
 僕は狩野亨吉と、蝶を優しく見つめるゴリラは似ていると思う。餌に釣られず、一銭にもならぬことに執着して風格がある。「
王者の師傅に適しない」と 教育掛を辞したが、狩野亨吉の生き方そのものが、既に王者の風格を持っている。
  
 半世紀前まで、昼休みの校庭は遊ぶ子どもでごった返して衝突する程だった。みんなが遊びの王者であった。教師の監視から自由な遊びの王者たちの存在が、いじめを抑制していた。だいぶ前から、昼休みの校庭は閑散としている。小学生までが、様々な全国大会優勝を目指して鎬を削り、遊びを忘れているからだ。

 全日本学童軟式野球が始まり、松坂大輔が「優勝を目指して最後まであきらめずに頑張ってください」と言ったと新聞は伝えている。残忍だと思う。「優勝」などに釣られず、自他に手加減する優しさが、少なくとも小中学生や高校生には必要だと思う。
 全ての野球少年が甲子園を経てプロになれる筈はない。自在に興味を転じて適性を動的に保つ必要もある。音楽や文芸や科学に才能を持つことに目覚める子もある。諦めて頑張らない経験が必要なのだ。新聞社や指導者は、みんなが頑張れば、儲かるし手柄になるだろう。体を壊し足り過労死するほどの頑張り方を、回避する習慣を知らねばならない。高校生だってそうだ。このことと、絶えることのないヘイトスピーチは、直に関係している。自分も相手も自在に変化する快感を経験すれば、取るに足りない優越性に浸ることはない。

 ローマ帝国の
剣闘士は、大観衆の歓声の中で殺し合いで勝たなければ生き延びられなかった。平安時代の蹴鞠は、大観衆の歓声も栄誉もなかったが、お陰で平安時代の日本に、死刑はなかった。
 

モニトリアル・システムと教員の階層化

子どもに接する助教たちに裁量の自由は一切ない
   授業実践などの研究会に学者の卵が現れて「○○教育の視点を取り入れたらどうでしょうか」と言う者が昔からあった。卵の数が犇めいているというからでもあるだろう。○○の中に入るのは極めて狭い彼の専攻分野だ。修論や学会誌に載る論文数が、大学採用の目安。そのためにデータが必要なのだ。
 「そんなに効果を確信しているのなら、自分で教壇に立ってやってみたらいい」と言えば、表情を殺して「私は教材をつくる側でして」という。教員を「偉い」専門家がつくった教材をやらせるだけの流れ作業の単なるラインにしている。「先生たちの専門でないことを、それを専門にしている我々が提案して、報告をいただくわけです」と言う。その教材を見れば、教材集を引き写した程度の粗末なもの。高校生の宿題レポートにもならない。
 「これしきの教材を有難がって使う教師がいるとすれば、そもそも教員として失格なのではないか。この資料は「専門でない」我々から見てもレベルは低くデーターは古い」と僕は腹をたてた。
 すると彼等は○○教育の専門家であって、○○問題の専門家ではないと言い訳をした。「私は教材を担当・・・」と言う珍妙さに僕はカルトを感じた。つまり彼等はある特定の解釈を流布するのが使命であり、研究討議は封じられているかに見えた。
 キャリア教育、法教育、シチズンシップ教育・・・に再びその臭いを感じる。やり方は前ほど愚かではないだろうが。
 小さな部分の更に僅かな役割しか担おうとしない者が、どうして子どもや少年若者という全体を知りうるのか。疎外という言葉が相応しい。教育の危機は二段構えである。 
 確実なのは、目新しげな事をやって見せて、彼等自身が仕事を得るということだ。キャリア教育や就活の脅迫によって得られた効果は、彼等がそれで食えるようになったことである。学生や生徒の状況は前進するどころか、悪化するばかりだ。

 「教授活動に於ける経営企画機能と作業機能との分離」それは18世紀末の英国でモニトリアル・システムとして生まれている。助教法ともいわれ、19世紀初半に開発された学級教授法。学級内を小集団に分け、生徒のうち年長で覚えの良い者がモニター(助教)となって小集団を担当し、教師に教えられたことを助教たちが各集団に伝える。モニター(助教)は自ら授業の主体とはなり得ず、教師の言うことを反復するのみである。
 自ら授業の計画を練り、教材を編成して、生徒の反応を見ながら授業する現在の教員とは、似て非なる形態の研究会があの頃多発したのか。類似の新式教育が、現れては消えてゆく。当たり前だ、生徒と社会の失態から出発していないからだ。「これからは・・・の時代」「・・・はもう古い」などという語り口が、それを表している。

 今学校では教諭が、教諭、主任教諭、主幹教諭、指導教諭と階層化され、管理職も教頭が副校長となり校長の上に総括校長が置かれるようになった。おかげで対等に議論・決定する関係が破壊され、指導・命令する関係になってしまった。教委が立案した方針を、平教諭を除いた「企画調整会議」で具体化。職員会議や学年会はその結果を教諭に伝達する。それは教科においても例外ではない。モニトリアル・システムに於ける助教が階層化したのが、今の職員室の有様である。 位階を上昇させることばかりが念頭にあって、要求される煩瑣で無意味な書類を書き、生徒に目が向かない。平のままで頑張って自立を保とうとする人もいるが、そんな意識を教委は嫌っている。だからそんな教師の給与を下げ、その分を主任や主幹に回すのである。混雑する通勤電車の料金を上げて、グリーン車両や有料特急を導入するのに似ている。

  校長は、島小学校の斎藤喜博のように、その博学と人格によって指導性を発揮するのではなく、指導性のなさを身分階層に依って維持するようになった。例えば、
 「なぜ授業しないのか」と問う生徒に向かって 
 「わしは管理職だ、校長にはずっとなりたかった」と言う。しかし生徒は
 「なんて詰まらない奴なんだ」と心の中で呟き、がっかりする。生徒は校長を教育者として確認し尊敬したいからこそ、「授業しないのか」と問うのである。生徒と対話する惜しいチャンスを自分で捨てているのだ。生徒の方がよほど教育者である。

 民間教育団体でさえ、生徒や父母の困難な状況が議論になることが目に見えて減り、組合の教研は風前の灯火である。むしろ灯っていることを評価しなければならない事態とも言える。
 大学の助手を助教と助手に分けたのも、大学教授と名のれば済むのに大学院教授と言いたがるのも、妙な傾向である。
 我々はどうして、こうも平等を自ら破壊するのだろうか。1970年代、名刺や著書の奥書にに○○大学教員としか書かず、出身大学名も誇示しない学者が複数いて爽やかだった。今は大学名に加えて、高校が受験「名門」であれば高校名まで奥書などに明記して、差異を見せつけたがるのである。

 

learn and unlearn / think and unthink

  「ヘレン・ケラーは「“I learned many things, and I had to unlearn many things”と語った。ケラーが学んだラドクリフ女子大学の講義は、耳が聞こえて、本が読めて、しゃべれる人が対象で、概念の組み立てもそうなっている。彼女は、「自分の身の丈に合わせて概念をたちなおさなければならなかった。この「概念をたちなおす」、つまり“learn and unlearn”というのは、一度編んだセーターをほどく、ほどいた同じ糸を使って自分の必要にあわせて別のものを編む、そんな感覚ですね」 
 鶴見俊輔「Unthinkをめぐって-日米比較精神史」、『リベラリズムの苦悶』阿吽社、1994年

 僕が学区最底辺のKH高で感じた生徒たちの驚嘆すべき能力は、learn and unlearn の枠組みの中で漸く捉えることが出来そうだ。またMH高にいた知能偏差値70の生徒の振るわない成績、しかし傑出した知的表現と好奇心の矛盾もUnthink の過程にあったのだと思うとよく理解が出来る。それ故、彼女の学習は「納得」と「共感」の色彩を帯びていたのだ。
  なんと言う僕の愚かさだ、退職した今になって漸く生徒理解の手がかりをつかむとは。我々教員は全く学び足りないのだ。足りないどころではない、ますます「科」学的に専門化してスペシャリスト化して悦に入る教師研究者たち。生徒たちが部分に分割できない「全体」であることを平然と無視している。(例えば、進路を早く決めろ、好きなことは何かはっきりさせろ、早ければ早いほどよいと後ろから追いまくる。学ぶとは分からなくなる過程でもあるのに)
 僕はKH高の生徒たちの学力の断面が、教委に忠実な平均的学校教師が繰り出す授業の断面と食い違っているのではないか(いわば教員のジャックに、生徒の形の違うプラグを挿そうとしていた)と大会で仮説を立て理解されなかった。 learn and unlearn の枠組みは、解りやすいだけではない。学ぶ主体の有り様も示している。ひねくれたいと「倫理」だけを学び始めたS高の生徒。養護施設の中で同調するよい子であることを強いられ続け「うまく適応」した彼女にとって、解き編み直す過程は青年として個性化自立する不可欠の過程であった。
 時間無制限テストにおける熱中(文字通りの熱中、頭から汗をかいていた)、作品としてのノートへの熱中(休み時間に気付きもせず書きつづけ帰宅してもノートを続ける)、解らない難しい授業を楽しむ精神・子どものような好奇心、それらは全て“learn and unlearn”の枠組みを通して説明出来る。
 MさんやAさんが今直面している、そして嘗ての僕が見た問題は、深く普遍性を持つ第一級の課題であると思う。それを我々は数十年にわたって「厄介さ」だけに注目、使命感に溢れた善良な教師が個人的に耐えるべき「艱難辛苦」と捉え美辞麗句で対応してきた。分かりやすい授業や補習、目新しい教材も、的をはずして更なる苦痛。それらを善意で「成績不振」の生徒たちに与え続けてきた。
 厭な教師の授業がつまらなければ、それは単に厭な奴への反感を強化する過ぎない。しかし善良な教師による手慣れた授業や指導の挫折は、教育そのものへの不信絶望となる。親切はかえって仇となる。橋下らの学校教員攻撃が支持される訳である。
   ハンセン病療養所全生分教室は、この桎梏を乗り越え自由であった。ケラーもまた感覚の孤島に絶滅隔離されていたのだ。
 生徒をlearn and unlearnの枠組みに招じる為には、まず我々がunthink しなければならない、つまり不良にならねばならない、反逆者やひねくれ者にならなければならない。
 佐伯胖が「従来の教科内容の研究が、科学として確立した知識の構造化にはたいへん力を入れてきたが、それらを認識していく理解のプロセス、特に、子供がもつ既存のスキーマとのかかわりに関する研究はきわめて遅れているといえよう」と言ったのは 1982年。「真実性感覚」が欠けているのは子どもたちではない、教師の方である。付属学校や研究指定校は一体どれほどあるのだろうか。そこでどれほどのレポートが作られるのか、教育関係学会レポートは一年に何本出て学位へ繋がるのだろうか。教育に関わりある中央・地方官僚は一体何人なのか、学者は何人いて何をしていたのか。
 「辺境」の生徒たちの鬱屈・不満・不信・絶望・無関心が、これらに向かって集団的怒りとして現れる瞬間を待望する。今年の夏も何千もの教育研究集会がもたれ、己の善良性と、着目の先進性を競う。 これらの総体が教育基本法を変えさせ、教委不要論・公務員不要論や反知性主義を「辺境」の人々に広げたのだと思う。始まりは善意と使命感だからこそ、罪は大きい。                                
  「(幕末から)明治初期の人間は、ヨーロッパ渡りの学問を身につける時にも、江戸時代後期の寺子屋の教養を巧みに生かしてunthinkしながら、thinkとunthinkを並行的にくり返し考えます。・・・明治半ばになると、・・・政府が大学を作って、そこでみんな勉強することとなります。政府のお金の後押しで、欧米の学問を身につけるようになるわけです。そうすると、それまでの幕藩体制の政府に逆らって、自分の首をかけての・・・洋学とは、変わってきます。 ・・・渡辺崋山、高野長英といった人たちにとっては、unthinkということがあったんですね。Think and unthink。Thinkがいいんだけれど、thinkだけになっちゃうと困るし、thinkよりももっと機械的なlearnになると大変困るんです。小学校で成績が一番の人は、先生が何を教えようとしているのかパッとわかる人です。そうすると一番になれるんだろう思います。小学校で一番、中学校で一番、高等学校でも一番、大学でもというのは、そうとう困るんですね。learn, learn, learn and learnなんです」鶴見俊介


 鶴見俊輔自身が、始めからunlearnの少年時代を過ごし、日本からアメリカ、アメリカから日本、戦中から戦後と極めてダイナミックなThink and unthinkの体験を三度半経験している。戦後の知識人や政治家は多かれ少なかれ、右であれ左であれThink and unthinkの体験を経ている。最近のそれがモスキート級に写る訳である。

 Unlearn も unthinkも極めて個別的かつ個性的過程であり、類型化は軽率だろう。どのような授業が教師が学校がそれを可能にするのか。中野重治の『五勺の酒』に描かれた旧制中学生たちの教師を超えて「ぐんぐん賢くなる」姿はunleranの過程である。青い山脈の「古い上衣よ さようなら」が示すようにそこかしこに溢れていた。だが校長は少年たちの伸びが鈍く停滞し始めると嘆いた。leranとthink を促すものがかけていたのだ。それが今になって急激な反動を形成している。ハンセン病者の山下さんや谺さんの学びの過程は、始めからunlearnの生活として始まっている。

追記 僕はここで「底辺」校の生徒達を、「辺境」の生徒と呼んでみた。彼らは、本人の学力だけではなく、家族や親戚を含めて仕事・人間関係・身体・住居・・・一切合切が不利な片隅におかれている。そういう意味で、「辺境」と言ってみた。だが体制や価値観によって、辺境は忽ちにして交流の中心、変革の先端となるのである。
 『五勺の酒』で、旧制中学の校長が「共産党が合法になり、天皇制議論がはじまると、中学生がいきなり賢くなった。頭のわるくない質朴な生徒、それが戦争中頭がわるかった。それがよくなってきた。ちく、ちく、針がもう一度うごき出してきた。中くらいの子供が、成績があがるのとちがって賢くなった」と書いている場面もこう考えることが出来る。皇国史観の硬直した世界では、「辺境」に追いやられていた少年が世界観の大変革を受けて、先端に踊り出て「いきなり賢くなった」のだと。

博打脳で戦争されてはたまらない

   英国の学術誌「Translational Psychiatry」に掲載された京大グループの研究「ギャンブル依存症の神経メカニズム」によれば、「ギャンブル依存症患者の場合は、ノルマの厳しさを正しく認識するのに必要な背外側前頭前野の活動が低下していること、リスク態度の切り替えに重要な背外側前頭前野と内側前頭前野の結合が弱い患者ほど、ギャンブルを絶っている期間が短く、また、低ノルマ条件でハイリスク・ハイリターンのギャンブルを選択する傾向が強いことがわか」った。
 対米開戦に至る日本軍部の「内弁慶で情緒的な確信、突発的で後先のない」判断は、まさに重症ギャンブル依存症患者のそれである。薩英戦争・下関戦争には敗戦したことは見事に忘れ、日清・日露戦争に辛くも勝利して戦果を挙げた興奮が忘れられず「内弁慶で情緒的な確信」に基づいて「突発的で後先のない」戦闘に自らはまりこんだのである。
  パチンコ依存症の特徴は「嘘」と「借金」だという。嘘に嘘を重ねるのが日常になる。大本営発表だけではない。それに繋がる日米生産力研究そのものまで禁じてしまう。さらに嘘の塊を、歴史として生徒に与えたのである。その結果、日本軍が作り出した戦費=借金の山は、現在の価値に置き換えれば、4400兆円。
 それらの膨張する嘘と借金の体系が、インテリ集団の中ではどのような雰囲気を作り出していたのか。面白い証言がある。


 「丸山 ・・・それから太平洋戦争が始まった年の「政治学研究会」も面白かったな。 松本重治さんは新聞記者だから情報に通じていて、プリンス・オブ・ウェールズの撃沈の話、そのために海軍がどんなに血のにじむ訓練をしたかという話をするわけですよね、得意になって。それは大したものだと恩いました。「岩をもうがつ」という訓練だったって言うんですね。要するに繰り返しだけだと言うんです、日本の海軍は。繰り返し、繰り返し、訓練しているうちに、百発百中になっちゃう。単純だって言うんですね、「岩をもうがつ」の精神というのは。 
 また、神川先生の報告は、要するに、大東亜戦争は起こるべくして起こった。いつかは日米両国は 生命をかけて争う必然にあった……。これはベルリ来航の時から運命づけられていた、というわけなつ-ぅんだな。(笑)これはもう必然であって、どうしたって戦わなきゃいけないってことを、神川さんが得意になって言ったわけです。これは食うか食われるかの戦争だ、途中の妥協はあり得ないと。つまり日章旗をホワイトハウスに立てるか、それとも宮城に星条旗が翻るかしなければ、この戦争は終わらないと言うんですよ。 
 それで、第一番目の質問が岡さんで、「神川先生に伺いますけれど、日章旗をホワイトハウスに翻させるという可能性はありますか」と言うと、 「ないですね!」と。(笑)この戦いは妥協はあり得ない、とことんまで戦わなければ決着がつかないと強調されたあと、日章旗がホワイトハウスに翻る可能性がありますかとの質問に、「ウン」とちょっとつまって、「あ、ないですな!」-あれは傑作だったな。 
 丸山 しかし変に図太い自信はできましたね。つまり、世の中みんな狂っているわけですね。僕なんかとっても気が弱いし。僕の親父でもまたそうなんですよ、いい意味でジャーナリスティックなんです。つまり時代に敏感なんです。だから僕の親父なんてカンカンに・・・。 〔親父は〕それこそ「親英米派」の権化みたいなんだけれども、やっぱりその時代の影響を受けるに敏感であるということ。それからもう一つは、明治のナショナリズムなんだろうな。 
 ハルの最後通牒で、がらっと変わっちゃったな、やっぱり。一二月八日に帰って来て、あれだったら、こりゃあとても呑めないと。あんなものをやった日には、断然戦わざるを得ないというわけですね。僕なんか全然実感がなかった。無茶なことをやるもんだな、という実感だけですよ、開戦の実感は。ところが親父はカンカンに憤慨しちゃった。〔その時〕非常に親父と離れたっていう感じがした。 やっぱり〔僕は〕気が弱いし、左翼全盛時代から右翼全盛時代まで急激に、三、四年の問に変わるのを見ているでしょう。だから余計、大正時代というか明治の末期に育った人のような、本質的に強いものってないわけですよ、自分の中に。『方丈記』じゃないけれど、世の中は移ろいゆくものである、という感じの方が強いわけでしょ。だから一所懸命自分を支えているわけなんだけれど。 
 そしてインテリ罵倒論が流行るでしょ、あの頃。知識階級は無力であるとか、インテリはろくでなしの観念的であるとか何とか言って。 それで、この野郎!と思ってじっと我慢していたら、結局その戦争が終わってみると、いわゆる罵倒されていたインテリが考えていたことは間違っていたことは一つもなかった、という点で何か図太い自信みたいなものができていますね。つまり勘みたいなもので、こういうのは無理だなっていう、-安保じゃないけれどね。どこか無理があると思う時には、やっぱりその無理は通らないという感じね。どんなに勢いを得ていても通らない、まぁ、スターリンでもそうだし。歴史というものは無理はやっぱり通らないなっていう、そういう一種の感じというのは何か得たような気がするんです」『生きてきた道』1965年10月  『丸山眞男話文集 続 1』みすず書房

 神川先生とは東大教授神川彦松である。1940年、皇紀2600年を記念して皇道文化研究所を設立。戦後公職追放処分。 
 内弁慶で情緒的な確信、突発的で後先のない判断。それに人々が易々と引きずられる状況は、いつもある。

われわれは自ら創造したものよりも、模倣したものを信頼する

 「怠惰であるためには多くの才能、十分な教養、あるいは特殊な精神構造が必要である」と言ったのはサマセット・モームである。              
 「才能や教養、あるいは特殊な精神構造を持」つ少年が怠惰なのではなく、只そのようにに見えているだけかもしれないと考えることは不当ではない。見えないところで何かに没頭していれば、教室では「くう」を見つめるだろう。登校もしないかもしれない。

 Eric Hoffer 「移民の子、ニューヨークブロンクス生まれ。7歳で母親と死別し視力を失う、15歳で視力を回復する。以来再失明の恐怖から、一日に10時間から12時間本を読んだ。だから正規の学校教育は一切受けていない。18歳の頃、唯一の肉親である父親が逝去し、天涯孤独の身となった。それを機にロサンゼルスの貧民窟で生活を始める。
 28歳、自殺を図る。彼はこの頃、自分が社会の中では「ミス・フィット」(不適格者)という階層に属することを知る。ミス・フィットは白人とか黒人とか、富裕者とか賃金労働者とは別に、ひとつの階層をつくり、それがアメリカとあると認識したのだ。ここで、季節労働者として農園を渡り歩いた。丁度スタインベックが小説『怒りの葡萄』で描いた時代である。映画『怒りの葡萄』で主人公一家が落ち着いたキャンプには、様々な施設や仕組みが作られたことが描写されている。彼も労働の合間に図書館へ通い、大学レベルの物理学と数学をマスターする。農園の生活を通して興味は植物学へと向き、農園をやめて植物学の勉強に没頭。

 ある日、勤務先の食堂で加州大学柑橘類研究所所長スティルトン教授と出会い、給仕の合間に教授が頭を悩ませていたドイツ語の植物学文献を翻訳。しばらく柑橘類研究所研究員として働いたホッファーは、当時カリフォルニア州で流行っていたレモンの白化現象の原因を突き止め正研究員のポストが与えられるが、それを断り放浪生活へ戻る。

 34歳の1936年、哲学者・著述家としての転機が訪れる。ヒトラー台頭の冬、雪山で砂金堀、その暇つぶしに古本屋で購入したモンテーニュの『エセー』を読み、「モンテーニュは俺のことを書いている!」と思い、思索や「書く」ことを意識し始めた。『エセー』をその冬、三度読み暗記した。軍隊を志願したが、ヘルニアで失格。
 1941年サンフランシスコで沖仲仕になる、『波止場日記』はそのときの著作。きっかけをつくったのは「コモン・グラウンド」詩の女性編集長であった。「たった一人、彼女が東海岸で自分の原稿を待っているのだと思えることが、自分の思索を持続させた」と書いている。こうして世に出た著書は、注目されたわけではない。1964年加州大学バークレー校で、一週間一度の学生たちとの放談講義を政治学研究教授として担当する。だが65歳になるまで沖仲仕の仕事はやめなかった。
 ホッファーが圧倒的な人気をもったのは、テレビの影響である。1967年、エリック・セヴァリードとの対談がCBSで放映されると、爆発的反響を呼んだ。それから一年に一度、彼はテレビ対談に登場。ホッファー自身はつねに“陰の存在”であることを望んだが、社会や世間のほうがホッファーのような“例外者”としての「ミス・フィット」を必要とした。
 ホッファー・フィーバーが起きても、彼はまったく変わらなかった。そして、人には世界のどこかで彼を待っているところが、少なくとも一カ所はあるものなのだということを感んじるようになる。
 バークレー校は週に一度、1972年まで続けた。1970年代、ベトナム反戦やヒッピー、マリファナと学生運動の時代に、知的カリスマとして知られるようになる。だが、ホッファー自身は彼らを甘やかされた子供と捉えていた。1983年「大統領自由勲章」
  
 彼の残した言葉に「われわれは自ら創造したものよりも、模倣したものを信頼する」がある。学校で学んだことのある人間の欠陥を言い当てている。
 西洋式の学問で武装したつもりの文明開化日本が、写楽や北斎の価値には無関心で、欧州で爆発的ブームがあって漸く気づいた頃には、その作品の多くが散逸していた。
   豊富な治療実績を持つ日本伝統の漢方医学を捨て、模倣した西洋医学に依存したため、癩病では世界に恥ずべき絶滅隔離体制を産み、脚気では陸軍で万に及ぶ死者と数十万の病兵を出すという不始末に至ったのである。責任の第一は、陸軍軍医総監・医学博士・従二位勲一等森鴎外にある。

追記 彼は65歳になるまで沖仲仕の仕事をやめなかった。ホッファーによると、沖仲仕ほど自由と運動と閑暇と収入が適度に調和した仕事はなかったという。
 「真面目な労働だけが、立派な市民をつくるんだ」というメキシコ革命のビリャ司令官の決意を思わせる。彼も又、正規の教育を受けてはいない農民ゲリラ兵士であった。
 

江戸以来の都市と農村を共生する理想的方式を、何で簡単にやめてしまったのか

 イリイチは、メキシコ地震があった直後、日本に立ち寄っている。1985年9月19日、M8.0 震源から300km離れたメキシコシティでの被害が大きかった。死者1万人。
 慌ただしい滞在で、質疑に僅か45分くらいしか時間がなかった。彼はどうしても一つだけ意見が聞きたいと言う。その時のことを、宮本憲一が「現代思想」2015年3月臨時増刊号で対談している。
 「都留さんや宇沢さん、私も会場にいました。それで、イリイチが何を言ったかというと、日本はなぜ溜め込みの便所をやめたのか、何で下水道にしてしまったのか・・・ 
 イリイチが言うには、メキシコの地震のときに一番困ったのは、地震で下水道がやられてしまって伝染病が大変流行ったことだそうです。むしろ、郊外にあった貧困者の住宅は屎尿溜め込み便所で、その地域は無事であった、と。完全循環方式から言うと、溜め込んだ屎尿を肥料にするという日本の江戸期以来の都市と農村を共生する方式が理想的で、その理想を何で簡単にやめてしまったのか聞きたいと言われました。それで困ってしまってね。 
・・・ これは確かに考えさせられる質問でした。 下水道をつくると公共事業の補助金が出る。生活基盤の社食資本では最も大きな補助金です。それを獲得すれば政治家には大きな功績になる。そうすると、全然必要のない農村部で下水道がつくられるようになる。しかし、農村部などの広い土地で、点々と住宅があるところに下水道をつくるにはものすごくお金がかかり、・・・ 
 もっと簡単な簡易浄化槽もあるわけです。 農村部地方財政の赤字の大きな原因は下水道会計なのです。例えば、沖縄の離島なんかでも赤字になっている最大の原因は下水道をつくってしまったことです。そういう意味では、確かに完全循環方式に合うような、もっと別な方式を近代化のなかで編み出さなければいけない。 
 イリイチの言う通り、画一的になぜ国土の隅々まで下水道をつくる必要があったのかということです。確かにこれまでの溜め込み式便所は臭くて非衛生的だったという問題はあるのですが、それは今ではかなり簡単に技術的に解決できるのです。 
 私は長野県の山荘をつくったときに溜め込み方式でやってみたのですが、全然臭くなく、水をほとんど使わない衛生的方式ができています。屎尿を二年くらい溜め込んだら処理に来てくれるのです。それで結構うまくいく。それなのに、農村部で彪大な投資と、毎日大量の水とエネルギーを使って、長いパイプと下水処理場をつくるのは、イリイチの言う通り近代の技術と画一的な補助金制度が持っている欠陥であるというところがあると思います」

 適切かつ安価な、イリイチが理想的とまで言う、伝統技術があるにも拘わらす、それを捨てたのである。(捨てた経過については、当blog「違式註違(いしきかいい)条例」参照)←クリック 捨てておいて費用のかさむ、危険な技術を取り入れたのだ。ダムも高速道路も、わざわざ費用の嵩む方を選ぶ。赤字は増税や利用料の値上げで埋め合わせる。国民の財布に無断で手を突っ込む無神経さがある。

  僕は、大規模な学校建築、体育館、プールも同じ問題を抱えていると思う。メキシコ革命のビリャ将軍が、街中に空き地や空き家を見かけるたびに小さな学校を作ったのは、先見の明があったと言うべき。市民が窓から教室の子どもや授業をのぞけることは、教育の主体がどこにあるかにも対応している。全ての学校にプールと体育館があるのは、日本だけだと思う。共同利用なら、浮いた予算は他に回すことが出来る。日本に不足している地域スポーツクラブの拠点を、公的に整備出来るし、中高のクラブ顧問の時間外労働地獄にも対応の可能性が出てくる。

体罰は言語道断、臆病武士の仕業である

  江戸中期の兵学者大道寺友山は、細井平洲・林子平と並ぶ当時の第一級の知識人だが、それぞれ体罰の是非を論じている。中でも大道寺友山は『武道初心集』で、体罰を「臆病武士の仕業」と激しく非難している。
「武士は、わが妻女の身の上に心にかなわない事が生じたら、道理を説明してよく納得するように教え、少々のことならば許し、堪忍するのが良い。しかし、もともと気だてが悪く、結局役にたたないと思うほどならば、一思いに暇を出し、親元へ返すのが良い。しかしそのようにせず、わが女房と定め、奥様・かみきまと人にも言わせている者に対し、高声をあげ、種々悪口雑言に及ぶのは、街中のやとい人足の類では、仕方がないとしても、騎馬にも乗る武士の決して行うべき事ではない。まして、腰刀などをひねくり廻し、あるいは握り拳の一つもあてるなどということは、言語道断のことで、臆病武士の仕業である・・・総じて、自分に手向いのできない相手とみて理不尽のやり方に及ぶようなことは、「猛き武士」は決してしないものである。「猛き武士」が嫌ってしない事を好んでする者を臆病者と言うのである」        江森一郎『体罰の社会史』新曜社
 江村北海の『授業編』は教育論であるが、このなかで、彼は教育上の体罰は「好まない」という言い方をしている。
 「書を授けるのに、父兄の膝もとへ引きつけて厳格に授け、覚えない時は呵ったり、あるいは打ち叩いたりするのは、悪い教え方と言うわけではないが、私はそういうやり方は好まない。その訳は、小児はつまるところ、いまだ弁えがないので、書を読むことは難儀なことと思っても、読まないと父兄に叱られることが恐ろしいために、しかたなく読むということになって、その本心では書籍を厭うようになり、これが学業不成就の根となる。大いに良くない事である」

  相撲界の暴力とその隠蔽も一向に衰えない。横綱の土俵入りには太刀持ちがついているのは、自らを「士」と定義し触れ回るためである。臆病者たちに片手では受け取れぬほどの賞金を掛け、持て囃す風潮を、大道寺友山は憮然として顔を背けるだろう。 
 学校の体罰は、生徒が温和しいのに乗じて遠慮がない。江村北海なら、現代の学校が「書籍を厭い・・・学業不成就」を強いる有様に仰天するに違いない。
 角界も日本の学校も極めつきの業績主義である。日本の企業も、人を業績だけで判断するようになった。だからパワハラと試験データ改竄が止まない。大学すらアカハラと論文偽造。学ぶことを嫌にする工夫に、わざわざ精を出しているかの如き惨状である。
 体罰を嫌う教師も生徒も、業績主義の学校をボイコットしないのが、僕には解せない。いったい何のために学ぶのか。生徒も教師も、意思がない、意思がなくなるのを依存という。何に依存してよいのか判断したくないから、偏差値に頼る。究極の依存である。この国の経済政策も外交政策も確固たる方針を持てない、その力量がない。だから「業績」主義なのである。原爆もこの国にとっては業績なのだ。

「偽」天皇の「偽」札

 医者で作家のなだいなだが、若い頃勤めていた病院での、愉快な出来事を講演している。ただ愉快なだけではない。

 「古い精神病の病棟に70人の患者さんがいました。その中に「私は天皇である」と自称していた患者さんが3人いました。中でも自分のことを「春日天皇」と称する人がとてもおもしろい人でした。 その人は、年末になると職員にボーナスをくれるんです。ボーナスといっても、紙切れに数字を書いて渡すだけなんですが。
 私には「5万円」と書いた紙切れをくれました。看護師たちももらったらしく、そのボーナスの話で盛り上がりました。
 するとある看護師が「私は18万円もらいました」と言うわけです。私が別の看護師に聞いたら、
 「私は30万円でした」と言われました。
 その彼女は看護学校を出たばかりの准看護師でした。悔しかったですね。別に何万であろうとそれで何かが買えるわけではありません。でも、医者である自分が5万で、あの子は30万と知って何だか心が落ち着きませんでした。そこで本人に聞いてみました。
 「これはボーナスだそうですけど、何で私が5万で、あの子が30万なんですか?」と。すると彼は言いました。
 「それは私的なボーナスであって、病院で出すボーナスとは違うんです」と。
 「それは分かっています。でも何で私が5万なんですか?」と聞くと、彼は
 「先生は私に何をしてくれましたか?」と言うんです。
 「○○さんの治療をしているのは私だし、私が処方箋を出した薬を飲んでいるじゃないですか。それは病院で一番大事なことなんですよ」と私は説明しました。するとこう言われました。
 「そんなことは分かっています。でもあの薬は要りません。飲みたくないんです。そもそもあの薬、効きますか? もし効くならとっくに退院してていいはずです」って。そう言われ、私は答えようがありませんでした。
 その時、はっと思ったんです。薬は確かに効きます。しかしそれは病気を治す薬ではない、と。彼が薬を飲んで、「自分が春日天皇だというのは妄想だったんだ」と気付くわけではありません。薬を飲むとどうなるか。簡単に言えば、うるさいことを言わなくなって、おとなしくなります。暴れなくなり、よく眠るようになるんです。何の事はない、薬を出すことで管理しやすい患者さんになってもらっていただけだったんです。患者さんにとって、それはありがたいことではなかったんですね。 次に私は
 「あの看護師さんは○○さんに何をしたんですか?」と聞きました。そしたらこう言われました。
 「あの看護師さんは心が優しくてね。私が風邪を引いて熱を出した時に氷枕を作って持ってきてくれたんだよ。ありがたかった。そしておかゆまで作ってきてくれた。だからボーナス30万円をあげたんです」と。
 看護師よりも医者のほうにたくさん給料をあげるというのは、病院側の「ものさし」です。でも春日天皇は、医者や看護師を評価する「ものさし」を、自分でしっかり持っていたんですね。
 私はそのことに全然気付きませんでした。こんなに大事なことを、春日天皇は紙切れに数字を書くだけで教えてくれたんです
            なだいなだ     みやざき中央新聞  2004年6月14日

   この春日天皇がくれたのは偽札だろうか。この天皇は偽物だろうか。現在我々が使っている日本銀行券は、本物だろうか、皇居にいるのは本物の天皇だろうか。
  お金はもともとそれ自体商品であった。金や銀のように交換価値を持っていたが、腐らず、分割出来て携帯が可能なことから、交換を担う特殊な商品、すなわち貨幣となった。だから紙幣であっても、その中に「本位貨幣である金と交換を保障する旨が書かれていたが、今はない。従って政府には紙幣が安定して流通するよう管理する義務がある。しかし、インフレを目標として政府と中央銀行が共謀している今、我々の手元の紙幣は「春日天皇」の書付けとどこが違うのか。祖父母の誕生日に、孫たちが発行する手書きの「肩たたき券」などの方が、偽札から遠いのである。
 さて、天皇である。彼は我々に、仕事も土地も金も平和も呉れない、遠い昔からそうである。奪ってゆくばかり。「春日天皇」は呉れるのである。これでは「本物」を奉らない者がいくらでも出てくる。だから「不敬罪」をつくり「君が代」を唄わせ、敬語を強制するのである。

人びとが集って議論する郷校は私の先生だ。それを潰すことはない。

高圧的な態度で民衆の怨みを抑えることができるという話は聞いたことがない。
鄭人游于郷校、郷之學校。以論執政。論其得失。
然明謂子產曰、毀郷校何如。
子產曰、何爲。夫人朝夕退而游焉、以議執政之善否。其所善者、吾則行之。其所惡者、吾則改之。是吾師也。若之何毀之。我聞、忠善以損怨。不聞作威以防怨。
豈不遽止。然猶防川。大決所犯、傷人必多。吾不克救也。不如小決使道。 『春秋左氏伝』

 鄭の人びとは郷校に集って、よく政治を議論した。
 然明が鄭の大臣・子産に、こう言った。
 「郷校を潰したらどうです」
 子産は応えた。
 「どうしてだ、人びとが朝夕暇なときに集って、政治の善し悪しを議論する。私は、彼らが善いと言う政策を行い、悪いと言う政策は改める。だから、郷校は私の先生のようなものだ。それを潰すことはない。良心と真心によって民衆の怨みを緩和するという方法は有るが、高圧的な態度で民衆の怨みを抑えることができるという話は聞いたことがない。川の流れに嘗えを取れば、無理やりにせき止めようとすると、一時的に流れを止めることは出来ても、やがては大決壊が起こる。高圧的な態度を採るというのは、そんなものだ」

   『春秋左氏伝』は孔子編纂と伝えられる歴史書『春秋』の注釈書、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。

  1970年代、愛知県に「三校禁」なる掟があって当時の県立高校長会会長は
 「それは事実、三校以上の交流はやらせていませんね。極端に言うと二校もいけない。先生がついていればいいけど」と応えている。その根拠をこの校長はこう言っている。
 「新聞とか文芸とか放送とか、仲間に訴えるような手段を与えると、日共系の組合の先生が牛耳ろうとするんです。ワシが旭丘の校長でおったときに、組合とはサンザンやり合ったが、ちっともいうことききよらん。あいつら、人間じゃねえや」(宇治芳雄著『禁断の教育』汐文社) 
  彼にとって、自分の意に添わない者は人間ではないのである。生徒も集えば、不満を言い合い反抗的になると考えていたのだ。「郷校」のように生徒も教師も自由に集って、学校のあり方の「善し悪しを議論する。私は、彼らが善いと言う政策を行い、悪いと言う政策は改める」よう思いを巡らすことはないのだ。憐れである。対話する楽しみや喜びを求める精神もないのだ。支配する者と支配される者の関係だけである。
 彼も公務員になるときに、憲法を守る旨署名捺印したはずである。
 そして今、職員会議は議論の場でもなく、決定の場でもない。はじめ校長の権限を職員の多数決から守る処置であるような説明をしていた。しかし校長が、職員の決定を尊重すると言う意思さえ認めないために、多数決そのものを禁じてしまった。つまり校長の権限そのものさえ奪われたのである。行政の末端として、上からの決定を伝える伝声管と成り下がって恥じない。学校から議論は消えたのである。
 孔子が注釈した紀元前の鄭の状況に及ばないのである。
 「郷校は私の先生のようなものだ。それを潰すこはない。良心と真心によって民衆の怨みを緩和するという方法は有るが、高圧的な態度で民衆の怨みを抑えることができるという話は聞いたことがない」
 自分が校長として判断したことが、正しいか間違ってるか、皆からどう受け取られているかなどを、気にかけない。 それは教師でないだけでは無く、生きた人間ですらない、意思を持たない驢馬に過ぎない。そんな存在であることを恥じる精神も持てない、生徒から軽蔑されていることにも気づかない。
 正邪の判断の出来ない驢馬がすることが出来るのは、ただ命じられるままにすることだけである。今の校長に、『春秋左氏伝』を読んだことがあるかと問いかけて、対話が始まる一縷の望みもない。

 ゲバラが1960年、医療関係者に語ったことが想い起こされる。
 「今日われわれが実践すべきことは、連帯なのだ。「ほら、来ましたよ。慈善を施すために来てあげましたよ。学問を教え、あなた方の間違いや教養のなさや基礎知識のなさを直してあげるために来たのですよ」などという態度で、人民に接するべきではない。人民といぅ、巨大な知恵の泉から学ぶために、研究心と謙虚な態度をもって、向かうべきなのだ。・・・われわれがまずやらなければならないことは、知識を与えに行くことではない。・・・ともに学び、・・・偉大で素晴らしい共通体験をしたいという気持ちを示すことである」

 高校生も含めて、若者たちの中にゲバラに惹かれる者は少なくない。「三校禁」以降の「高圧的な態度」が、その流れを準備し「川の流れに嘗えを取れば、無理やりにせき止めようとすると、一時的に流れを止めることは出来ても、やがては大決壊が起こる」に違いない。
 問題は、青年がゲバラのように建設的な未来を指向するのではなく、弱者への弾圧と破壊に向かう可能性が現実となりつつある事だ。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...