体罰は言語道断、臆病武士の仕業である

  江戸中期の兵学者大道寺友山は、細井平洲・林子平と並ぶ当時の第一級の知識人だが、それぞれ体罰の是非を論じている。中でも大道寺友山は『武道初心集』で、体罰を「臆病武士の仕業」と激しく非難している。
「武士は、わが妻女の身の上に心にかなわない事が生じたら、道理を説明してよく納得するように教え、少々のことならば許し、堪忍するのが良い。しかし、もともと気だてが悪く、結局役にたたないと思うほどならば、一思いに暇を出し、親元へ返すのが良い。しかしそのようにせず、わが女房と定め、奥様・かみきまと人にも言わせている者に対し、高声をあげ、種々悪口雑言に及ぶのは、街中のやとい人足の類では、仕方がないとしても、騎馬にも乗る武士の決して行うべき事ではない。まして、腰刀などをひねくり廻し、あるいは握り拳の一つもあてるなどということは、言語道断のことで、臆病武士の仕業である・・・総じて、自分に手向いのできない相手とみて理不尽のやり方に及ぶようなことは、「猛き武士」は決してしないものである。「猛き武士」が嫌ってしない事を好んでする者を臆病者と言うのである」        江森一郎『体罰の社会史』新曜社
 江村北海の『授業編』は教育論であるが、このなかで、彼は教育上の体罰は「好まない」という言い方をしている。
 「書を授けるのに、父兄の膝もとへ引きつけて厳格に授け、覚えない時は呵ったり、あるいは打ち叩いたりするのは、悪い教え方と言うわけではないが、私はそういうやり方は好まない。その訳は、小児はつまるところ、いまだ弁えがないので、書を読むことは難儀なことと思っても、読まないと父兄に叱られることが恐ろしいために、しかたなく読むということになって、その本心では書籍を厭うようになり、これが学業不成就の根となる。大いに良くない事である」

  相撲界の暴力とその隠蔽も一向に衰えない。横綱の土俵入りには太刀持ちがついているのは、自らを「士」と定義し触れ回るためである。臆病者たちに片手では受け取れぬほどの賞金を掛け、持て囃す風潮を、大道寺友山は憮然として顔を背けるだろう。 
 学校の体罰は、生徒が温和しいのに乗じて遠慮がない。江村北海なら、現代の学校が「書籍を厭い・・・学業不成就」を強いる有様に仰天するに違いない。
 角界も日本の学校も極めつきの業績主義である。日本の企業も、人を業績だけで判断するようになった。だからパワハラと試験データ改竄が止まない。大学すらアカハラと論文偽造。学ぶことを嫌にする工夫に、わざわざ精を出しているかの如き惨状である。
 体罰を嫌う教師も生徒も、業績主義の学校をボイコットしないのが、僕には解せない。いったい何のために学ぶのか。生徒も教師も、意思がない、意思がなくなるのを依存という。何に依存してよいのか判断したくないから、偏差値に頼る。究極の依存である。この国の経済政策も外交政策も確固たる方針を持てない、その力量がない。だから「業績」主義なのである。原爆もこの国にとっては業績なのだ。

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