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「普通」の人間としての矜恃は我々に貧しさを強いる

  チャーチルは初めて乗った地下鉄で市民に囲まれ、意見を聞いたことがある。この対話で彼はナチ

ガンジーの矜恃は彼に牢獄を強いたが故に適切な判断をもたらした。

スと徹底抗戦する決意を固める。チャーチルが対ナチス戦に関するまともな判断で英国を導いたのは、戦争の素人=市民としての感覚を持っていたからだと思われる。(ただ、地下鉄での逸話は、映画用のfiction )

 Oさんが石神井高校長に生徒との対話を迫り、校長室の開放を要求した事とどこか似ている。この時君は石神井校長の校長という身分と校長室の隔離性が、彼の認識・判断を妨げていることに気付いていたのか。

 チャーチルは貴族生まれであったが、死ぬまで爵位を断り通し、「普通」の大英帝国市民としての誇りを保った。しかし印度やアフリカの植民地に対しては大英帝国の絶対優位を疑わなかった。ユダヤ人や社会主義者に対しても。

 それ故彼の世界観はヒトラー並みの偏見に塗れていた。

 「普通」の人間としての矜恃は我々に貧しさを強いるが、そこから生まれる他者や弱者への共感が適切な判断を導く。

「小さな町」の「なべて貧しい人々」の「矜持」

 

「二時間後にタンタを去るとき、私の心は快く温まっていた。タンタでの二時間は、エジプトでのもっとも充実した時間であった。

 まず、帰りの切符を買おうと、例の紙片を持って窓口を探す。外国人の訪れない駅だからローマ字表記など一切なく、すべてアラビア文字ばかりである。うろうろしていると、そのあたりにたむろしていた一人が案内してくれる。13時13分発の指定券は満席で、15時47分発のしかなかったが、無事に帰りの切符が買えたので、チップを渡そうとすると、手を振って受けとらない。

 駅前の露店をプラプラしていると、私に全然わからない言葉で話しかけ、タバコをすすめる男に出会う。自分について来いという身振りをするので、不安を覚えながら後に従うと、モスクがあって、彼は自慢げに説明する。もちろん何を言ってるのかわからないが、それでおしまいで、駅へ戻ってくる。案内料をくれといった素振りはまったくない。

 駅のホームに布を敷いて母子らしい二人がパンや菓子を売っている。一EP紙幣を出してパンを買う。・・・釣銭は硬貨や小さな皺くちゃの紙幣が一握りほどもある。数えるのも面倒なので財布に押しこみ、ベンチで固いパンをかじっていると、さっきの店の男の子が走ってきて、何やら言うと、私の掌に小さな硬貨を三つ押しっけていった。釣銭の計算をまちがえたので、追加分を届けに来たのである。」 宮脇俊三 1981年『週刊文春』


 旅行作家はエジプトの汽車に乗る企画でカイロを訪れた。

小さな町には共同体が残っている
だが、外国人向け現地旅行社の横柄且つ官僚的な対応のおかげで、アレキサンドリアに行く機会を失ってしまった。不快な気持ちで時間つぶしに歩いたのは、小さな町「タンタ」であった。古くて小さな町タンタには連帯する共同体=コミュニティが成立している。日本の自治体は無闇に合併を繰り返し巨大化して、共同体=コミュニティとしての機能は無いに等しい。

 この作家を訪れた偶然の経験は、本編の鉄道乗車記より面白い。文化人としての作家が「旅行記」を書くのに、その舞台設定を他人に任せる。現地旅行社には雑誌社を通して日本大手旅行社経由で話をしている。そこに生まれる大名旅行が面白い筈がない。ガイドと運転手付きの『旅行』に安心する悪癖は、一切他人任せの修学旅行と遠足に起源がある。自分で決断しない・させない行動は、個人の倫理感を惹起させない。「旅の恥は掻き捨て」意識はそこから生まれる。

 小さな町の物売りや少年たちのさり気ない行為が、自立した個人に見えて頼もしい。

 しかし我々の日本の自治体は、決断と連帯を産まない構造になっているからだ。身分や上下関係で動く社会に横に拡がる連帯は生じない。命令と忖度と賄賂が幅を効かせる。面白い訳がない。教師と親に依存した「部活と生指と偏差値」の少年時代を過ごす人間に、他者に共感し連帯する世界観は生まれる筈がない。格差が一切を破壊する。  

 小さな自治体には共同体=コミュニティが成立しやすい。貧しい人々に判断する市民としての矜持が満ちているのなら、「豊か」になるのも大きくなって競争に勝ち抜くのも考え物だ。

閣僚も自転車通勤する

  デンマークは、6歳まで子供に読み書き・そろばんを教えない。遊びが社会性や集団、自由、責任の意識を育てる。義務教育では試験も通知表もない、高校、大学、専門学校には、入学試験も、入学金も、授業料も必要ない。だから教育に熟や受験産業などの商業主義や「偏差値」が巣食う事もない。

 高校、大学などを卒業しても「資格」はない、だから職業は各自が「自由」に選択する。学校歴や部活歴が、入学や就職に影響しない事こそ「自由」なのだ。わが国では学校歴や各種コネなどに拘束されることを「特権」として有難がる、そんな国が自由主義を論じる資格はない。 適性は、実際に大学や仕事の現場に出て初めて、適しているかどうかが問われる。卒業が資格を伴わないからこそ、どんな人間でも、あらゆる学問や職業に挑戦する必要があるし、挑戦できる。

 高校を終えると若者は大学に直行する事はない。ゆっくり自分と世界を観察する。例えば熱帯雨林の現状を知るために、一人でボルネオやブラジルの奥地を探索するのも厭わない。何が向いているのか、何ができるのか考え試す。そして大学を選ぶ。

  おそらくこれらの全てが日本の若者の政治的未熟=投票率の低迷とデモやストの少なさを招いている。日本の学校は若者が決意しないですむようしないよう「指導」しているし、世界断トツの長時間通勤通学ラッシュは、日本人の思考停止を日常化している。


 デンマークの教育指数は0.993

2007年の教育指数

1 ニュージーランド0.993

1 フィンランド 0.993

1 デンマーク 0.993

1 オーストラリア 0.993

1 キューバ 0.993


6 カナダ  0.991

7 ノルウェー 0.989

8 韓国     0.988

9 アイルランド 0.985


35 日本     0.949

 教育指数とは、国連開発計画が毎年発表する指数の一つ。標準化されたアチーブメントテストの結果得られた教育年齢を暦年齢で割り、それに100を掛けた数値。年齢の割に学習が進んでいるかどうかを示している。トップに並ぶのはいずれも「小国」である。日本の1/20程度の人口、狭い国土。


  教育指数世界1位のデンマークは、「国民の幸福度」も世界1位。誰もが挑戦できる市民社会を目指している。「失敗しても何度もやりなおせる社会」と言える。「負け組」と言う言葉が子どもも親も恐怖に落とし込む「失敗を許さない日本」がメダルの数しか誇れない国として世界に軽視される日が来る。

 

  1911(明治44)年10月22日の公演『デンマルク国の話 信仰と樹木とをもって国を救いし話』で内村鑑三はこう話した。

 「・・・デンマークは欧州北部の一小邦であります。その面積は朝鮮と台湾とを除いた日本帝国の十分の一でありまして、わが北海道の半分に当り、九州の一島に当らない国であります。その人口は二百五十万でありまして、日本の二十分の一であります。実に取るに足りないような小国でありますが、しかしこの国について多くの面白い話があります。

 今、単に経済上より観察を下しまして、この小国のけっして侮あなどるべからざる国であることがわかります。この国の面積と人口とはとてもわが日本国に及びませんが、しかし富の程度にいたりましてははるかに日本以上であります。その一例を挙あげますれば日本国の二十分の一の人口を有するデンマーク国は日本の二分の一の外国貿易をもつのであります。すなわちデンマーク人一人の外国貿易の高は日本人一人の十倍に当るのであります。もってその富の程度がわかります。ある人のいいまするに、デンマーク人はたぶん世界のなかでもっとも富んだる民であるだろうとのことであります。すなわちデンマーク人一人の有する富はドイツ人または英国人または米国人一人の有する富よりも多いのであります。実に驚くべきことではありませんか。

 しからばデンマーク人はどうしてこの富を得たかと問いまするに、それは彼らが国外に多くの領地をもっているからではありません・・・」


  我々の最大の不幸は教育指数の低さが霞が関と永田町に凝縮して現れている事だ。デンマークなどでは閣僚も自転車通勤する。


学校に行事がなけりゃ「詰まんない」か

  文科省は「学校行事は、子供たちの学校生活に潤いや、秩序と変化を与えたりするもの」と勝手に定義。指導要領に特別活動名付け、その中身を次のように分けている。

 /儀式的行事(新任式・離任式など)/文化的行事(文化祭、学習発表会、音楽会、クラブ発表会、芸術鑑賞会など) /健康安全・体育的行事(健康診断、避難訓練、運動会など)/遠足・集団宿泊的行事、旅行・集団宿泊的行事 /勤労生産・奉仕的行事(職場体験活動、就業体験活動及び校内美化活動や地域清掃など)

 コロナ禍で「密」を回避するために相次いで中止や延期され、生徒から「つまんない」の声が出ているという。分散させて実施したりの対応で、教師はますます忙しい。


 「行事」とは何か、その主体は誰か、そもそも必要なのか。冒頭の定義は官僚に都合がいいものであることは、その中身に着任式や校内美化=掃除などが紛れ込んでいることで分かる。着任の知らせは昇降口の掲示で済むことだし、掃除は生徒にやらせるものでは無い。行政の怠慢を生徒の義務に転嫁している。米軍の駐留経費を日本政府が負担する構図に似て実に怪しからん。

  生徒の「つまんない」に鋭敏に反応するなら、先ず毎日の授業にこそ注目せねばならぬ。形式的行事は、授業からの逃げ場として教師にも魅力がある。授業の工夫研究は直接個人の資質が問われるが、行事は集団の陰に隠れ逃避出来る。


   小さな共同体の行事には、行政の独善も届かない。教員も生徒も保護者も通りがかりの人も、平等に楽しめる。ここに挙げるのはのはハンセン病療養所最後の運動会。

 1975年、全生園少女舎最後の二人は、一人が新良田教室へ進学。もう一人は 全快して「父親の大きなトラックに、磨り減ったスリッパから使いかけの石鹸まで積み込み元気に」転校していった。怖い病気という固定観念をきっぱり打ち破る爽やかな退院である。少年舎に二人が残った。その運動会。

  運動会         M  中学三年

 ・・・僕は、いつもより早く目がさめていた。・・・白線が引いてある朝の運動場は、とてもすがすがしい気分がした。・・・さて、登美夫の選手宣誓や準備運動も終わり、競技にはいった。競技といってもここでは、体の不自由な人達がいるのであまり激しい運動はしない。

 午前中の競技も終わり昼食の時間になった。木陰に、ござを敷き・・・にぎやかに昼食を食べた。ペんとうの外に、お寿司や焼き鳥をもってきてくれたりする人がいたのでそれらを食べると、とても腹いっぱいになった。

 ・・・午後の第一種目は、仮装行列だ。僕らは、運動会の一~二週間前に、なんとなく仮装行列では過激派の姿をして参加しようということに決めていた。それで工事現場用のヘルメットに、色をつけたり、プラカードに、字を入れたりして準備していた。

 午後の競技が始まろうとするころ僕らは、天野先生の家の前で用意して、まだか、まだかと、待っていた。タオルとサングラスで顔をかくすので暑くてたまらなかった。運動場では、そろそろ仮装行列に参加する人達が集まって並んでいた。僕らは、目立とう根性で本部の後ろの方から、いっせいにワーツと表に飛び出していった。そして「ワッセ、ワッセ」と声を掛けながら入場門の所まで駆けて行った。観衆はみんなおどろいていた。さっそくパレードが始まった。僕らはいちばん後からあいかわらず声を掛け合っていた。それから僕らは本部席の前まで押しかけていき、そこのマイクを奪い「われわれは本部席を乗っ取った。」とか何とか叫ぶと本部席の人達も笑いながら「本部席は、乗っ取られました。」と言っていた。そして僕らがスタート用のピストルを打ち放つと、そこの人達は拍手をして参加賞品を先に僕らに渡してしまった。僕はタオルやサングラスで顔を隠していたので思うぞんぶん声を出すことができた。日ごろのストレスを一気に吐き出してとても気持ち良かった。それに拍手をもらったのは、僕らが一番だろうと思うと何だかはずかしくなってきた。

 ・・・僕は、登美夫らといっしょに特別賞に選ばれた。少々期待はしていたのだが、まさか選ばれるとは思っていなかったのでとてもうれしかった。前に出て賞品を受け取るとき、ちょっとてれくさかった。閉会式も終わり、道具のあとかたづけにはいった。公会堂や学校にテーブルや飛び箱など運んだ。その後のコーラと焼き鳥の味は、うまいの何の、また食べたくなってきた。

 最後に僕がこの運動会で感じた点は、ふだん顔を合わせない人々とちょっとしたきっかけで友達になれるということだ。それで友達になった人が何人か僕の記憶にある。もう一つは、ちょっとはずかしくて書きにくいけど〝賞品がもらえる″ことだ。今までの学校とはちがい賞品をもらったとき「ウヒヒ、僕は入賞したんだ」という、あの実感・・・。

 こうして目を閉じると10月4日の運動会のことの思い出が頭の中に浮かんでくる。足がもつれてたおれそうになった人や、かわいい看護婦さん、おもしろかった仮装行列につな引きの時のみんなの顔、みんな楽しかった思い出だ。こんないい思い出が作れてしあわせだなあ、と思うと床についてからも目がばっちりあいて「ワーツ。」と大声でさけぴたい気分になった。ほんとうに楽しい一日でした。            分教室作品集「青い芽」終刊号


  小さな共同体の小さな学校の凡庸な幸福を、中学三年が見事に描写している。


 この三年生二人に派遣教師二人の他に、全生園患者自治会は、補助教師として天野先生と氷上先生の二人、特定の教科を受け持つ嘱託教師二人を配した。この学校では、生徒にとっても教師にとっても共同体にとっても授業が中心だった。

 こんな運動会は、沖縄の共同売店の楽しみとして残っている。小さな共同体の意義は、ここに極まっている。コンビニやスーパー、教育行政や塾には決してできないものがここには息づいている。それは草の根自治、どう転んでも大規模が似合わない。ささやかな無政府主義。

   巨大な権力に包囲された小さな共同体は、ありったけの知恵を持ち寄らねば消えてしまう。 

  

 

社会の大きさや複雑さの違いは、社会と人間のあり方を変える 国も自治体も小さいに限る

小さな共同体=患者自治会が可能にした桜並木
  お酒が好きでしょっ中喧嘩する人がいましてね、それがテニスなんかを通して子どもと知り合った。すると人間的に全く変わったということがありましたね。子どもとペアーを組んで優勝したりね。そんなことでその人がパーッとかわって・・・どっちかと言うと鼻つまみになりかねない人だった。競輪競馬もやる人でね。それが子どもに○○さん、○○さんと呼ばれて、いままで、飲み友達、競輪友達しかいなかったのに、「子どもの友だちができた。変なことはできないなあ」と自分で漏らしていたいたそうですよ。周りの人も生まれ変わったみたいだと言っていました。その人は、自分が孤立していると思っていたのに子どもが自然に慕っていったからでしょうね。                  全生園子ども舎最後の寮父・三木氏証言
      
  社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方を、従って人間のあり方を変える。
 例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とする様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。三木寮父の話で言えば、お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。 
 (1888年日本には7万0314の自治体があったが、2019年現在1718にまで減少。フランスは3万8000ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である)。
  我々の社会の自殺の多さ、いじめ、貧困に対する不寛容は、ここに根を探る必要がある。


 人口が増加すれば、こうした判断(曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉える)は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を奪われ、多数雑多な厄介者の一人として一括処理されてしまう。彼らが孤立状態から共同体への回帰するためには、多数への順応・同調という手続きのみが残り、同調できなければ罰と排除が待っている。 彼らの全生活の複雑性の理解と把握は顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。リベラルな教養はその文化の中にある。
  小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。千人程度の「奇妙な国」で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」では、企業も自治体も学校さえもが合併して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応され、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。
 少年の信頼と承認が、鼻つまみを心優しい「善人」に変えてゆく。これは小さな社会であっても、毛涯(彼は戦前の全生園の暴力的風紀取り締まり係。ポマードをつけたと言っては殴り、若者を殺したこともある)が居てはありえない。なぜならそこではあるべき人間像は上から暴力的に与えられ、酔っぱらいの博奕打ちは監房に放り込まれ、テニスは患者のくせにとムチ打ちの対象になったからである。全生学園自治も、療養所の人口規模を抜きには考えられない。 「塾」や茶会という文化的学びの形態もまた、何時でも歩いて行けるという共同体の大きさが関わっている。

  「曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。互いの成長や変化を、目にして話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある 」

 大学の自治会や高校の学生自治会のあり方は、地域の自治会と共に、まさにその典型でなくてはならない。なぜなら若者は、未熟かつ激しやすく、自分の正当性の枠に籠もりがちだからである。
 僕は欧州やラテンアメリカの高校生が、国政の課題をめぐって、数十万規模の統一行動を組んで政府を譲歩させる光景を羨ましいと思う。環境系、社会党系、共産党系等の活動家が同じ校舎の中で、街頭の中でスクラムを組んでいる。思想上の討論や方針の違いも、ここでは集団の豊かさに転化する。ここでは、高校生と教師の関係は「連帯
であり「指導」ではない。
 日本の学生自治会のように20%そこそこの相対多数で執行部を独占し、自治会費争奪も絡んでゲバルトに走る事は無い。政党も60年代から、例えば第四インター系もトロツキストも他の少数左翼と共に共産党大会に参加し、肩を組んでインターナショナルを歌うのである。その逆も日常的に行われ、それ故理論や思想上の活発な遣り取りが出来る。
 自らは少数に過ぎないという冷めた自覚が、多様な豊かさと寛容性を通して団結を促すのだと知るべきである。

  現在の政権は、僅か20%そこそこの得票で議員の多数を獲得し、事実を曲げ審議も尽くさず多数の暴力支配に走る幼稚な姿の原型は、歪んだ学生自治にあったとも言える。選挙後の大衆の政治的無関心の説明をここに求めるのも、あながち間違いではない。                                                               『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊に加筆

個人の尊厳と自治体規模

  ハンセン病療養所多磨全生園で、子ども舎の寮父を永く務めた三木さんが、興味深い話を残している。
  「お酒が好きでしょっ中喧嘩する人がいましてね、それがテニスなんかを通して子どもと知り合った。すると人間的に全く変わったということがありましたね。子どもとペアーを組んで優勝したりね。そんなことでその人がパーッとかわって・・・どっちかと言うと鼻つまみになりかねない人だった。競輪競馬もやる人でね。それが子どもに○○さん、○○さんと呼ばれて、いままで、飲み友達、競輪友達しかいなかったのに、「子どもの友だちができた。変なことはできないなあ」と自分で漏らしていたいたそうですよ。周りの人も生まれ変わったみたいだと言っていました。その人は、自分が孤立していると思っていたのに子どもが自然に慕っていったからでしょうね」 樋渡直哉著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』      
 社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方・人間のあり方を変える。
 例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とし、様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。三木寮父の話で言えば、お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。
 人口が増加すれば、こうした判断は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を失い、雑多な厄介者の一人として一括処理される。彼らが鼻つまみという孤立状態から共同体へ回帰するためには、多数への追従・同化という手続きのみが残り、同化できなければ罰と排除が待っている。 鼻つまみの全生活の複雑性の理解と把握は、顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。
  小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。
 千人程度の「奇妙な国」=ハンセン病療養所で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」(療養所入所者たちは、療養所外の世界を「社会」と呼んだ)では、企業も自治体も学校さえもが合併を繰り返して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応ささせられ、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。
 少年の信頼と承認が、鼻つまみを心優しい「善人」に変えてゆく。これは小さな社会であっても、毛涯(毛涯は、療養所職員で患者たちの風紀を取り締まり、理不尽な罰を加え、患者たちから恐れられた。彼の加えた罰によって死亡した者もある)が居てはありえない。何故なら療養所のあるべき人間像は、上から暴力的に与えられ、酔っぱらいの博奕打ちは監房に放り込まれ、テニスは患者のくせにとムチ打ちの対象になったからである。
 ハンセン病の子どもたちの学校・全生学園自治も、療養所の人口規模を抜きには考えられない。 「塾」や茶会という文化的学びの形態もまた、何時でも歩いて行けるという集団の大きさが関わっている。

  日本の「市制及町村制」が発足した1888年には、7万0314の市町村があった。しかし直ちに明治の大合併が実施され、市町村数は1/5になる。その後もひたすら、行政の効率化が図られ、敗戦を経て地方自治法が成立した年には、10,505の自治体が残っていたに過ぎない。それでも町村合併は繰り返されたのである。その結果自治体数は激減し、現在1718に過ぎない。フランスは3万8000、ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である。
 ドイツ憲法第一条と日本国憲法第十三条の違いは、ここにある。ひとり一人の尊厳が、全ての行政機構で尊重されるためには、基礎自治体の規模は小さくなければならない。 ヨーロッパでは、小学校の規模は、校長が全児童の名前を覚えることが出来る大きさに制限されている。父母が校長に会えば、校長は父母の個人名から生徒の成績や生活に至るまで即答しなければならない。それが出来なければ、罷免の対象になる。
 我々日本社会の自殺の多さ、絶えざるいじめ、社会的弱者への不寛容、ヘイトスピーチの執拗さは、ここに根を探る必要がある。鼻つまみの酔っ払いさえ、生まれ変われる「生きやすさ」に満ちた自治体は、ひとの普遍的な権利なのである。
 

 荒れた生活を続けていた高校生に、夕闇迫る校庭ですれ違った教師が「○○君今晩は」と声をかけたことがある。荒れていた筈の生徒は、件の教師が教室に入ると同時にノートを広げ鉛筆を握って待ち構えるようになった。都心の、廊下で花火が発射されていた学校での話である。似た話は無数にある。
 
 学校も会社も国も小さい方がいい。オリンピックで金メダル
幾つも取るなんてどうでもいいことだ。
   富山県船橋村は人口3000人、面積は3.47kmと日本一狭い。1990年には、人口も僅か1371人に過ぎなかった。どんなに住みやすいか、村立図書館長高野良子さんの言葉がいい。
 「新しい親子連れが図書館に来たら、必ず声をかけて、お子さんのお名前を聞いています。・・・今日も若いママが2組、初めて赤ちゃんを連れて来てくさったので、お名前を聞きました。・・・名前で呼んであげると、親御さんは『うちの子の名前を覚えていてくれた』と喜んでくださる  https://www.huffingtonpost.jp/2016/01/04/funahashi-vill_n_8909360.html    
  名前で呼んで貰えた子どもは、もっと嬉しいはず。住み易いから人口は増えている。子どもの割合は日本一である。

基地は「沖縄経済発展の最大の阻害要因になっている」

 「基地がなければ経済が成り立たない」、沖縄は「基地で喰っている」。 本気でそう考えているなら、日米両政府はトヨタを脅かして米国内に工場を作らせるのではなく、自衛隊基地を大々的に誘致したらいい。日米地位協定の日本とアメリカを入れ替えただけの米日地位協定を結んだらいい。とりあえずハワイとカリフォルニア州に。

  2018.2.2 東京新聞の「日々論々」に友知政樹沖縄国際大教授の『基地〈不〉経済の現実』と題した論考がある。一部省略して引用する。
 「・・・沖縄県のホームページに「・・・「基地経済への依存度は、昭和47(1972)年の復帰直後の15・5%から平成26(2014)年度には5・7%と大幅に低下しています。米軍基地の返還が進展すれば、効果的な跡地利用による経済発展により、基地経済への依存度はさらに低下するものと考えています」と明記されている。 翁長雄志知事も、基地は「沖縄経済発展の最大の阻害要因になっている」と折に触れて強調している。沖縄はもはや基地経済ではなく、基地(不)経済なのである。 同サイトには、過去に返還が実現した「米軍基地返還跡地の開発による経済波及効果」に関する説明もあり、年間の経済活動による直接経済効果の実績として 
▽那覇市の新都心地区1634億円(返還前の32倍)▽北谷町の桑江・北前地区336億円(同108倍) 
-などのデータが紹介されている。 さらに、20年以上前に返還が約束された嘉手納基地より南の米軍基地が返還された場合の予測値として 
 ▽那覇港湾施設1076億円(返還前の36倍)▽浦添市の牧港補給地区2564億円(同13倍) 
-などの数値も記載されている。 ちなみにこれらの基地はいまだに返還が実現していないが、この他にも沖縄には実に多くの基地が存在する。そこで、筆者は沖縄から全ての米軍及び自衛隊基地を撤去した際の経済効果に関する予測を2012年のデータをもとに行い、論文にまとめた。このとき、山間部などの基地は返還されても経済効果はゼロと仮定してある。 沖縄県が公表する推計方法に基づき計算したところ、 
 全基地撤去後、跡地利用が進展すれば3兆8426億円の直接経済効果がもたらされるとの結果になった。沖縄に米軍及び自衛隊基地があることによる関連収入(用地料や雇用者所得、日本政府からの周辺整備補助金など)2623億円の約15倍だ。 売り上げベースの3兆8426億円から、事実上の利益ともいうべき付加価値(この場合は減価償却費を含む粗付加価値)を求めると2兆1634億円となる。この金額は、見方を変えれば、米軍及び自衛隊基地があるせいで沖縄がこうむる経済的損失ということもできる。 
 これを取り戻すことができれば、基地は無論、日本政府からの補助金なしでも沖縄は経済的に十分自立可能となる」               (ともち・まさき=沖縄国際大教授)2018・2・2

  僕ならアジア人権裁判所を設立・誘致する。今、欧州、米州、アフリカにそれぞれ人権裁判所がある。それぞれの国で審理を尽くしてなお救済されない人権を、国際的な視点から捉え直す事が出来る。我々は言い争うのではなく、真理と理想のための共働をすることで平和を維持しなければならない。揉め事が多く、しかもそれぞれが長く深い歴史を持つ地域の真ん中にあって、絶対非武装の沖縄が果たす役割は、豊かな筈だ。ベトナム戦争で双方の負傷者の手当に奮闘した病院船ヘルゴラント号に倣って、病院船や緊急援助船を複数建造する。母港には、病院船乗り組みの医療関係者を養成する大学を置き、貧しい国からの学生を受け入れる。
 中村哲医師がアフガンで、実践した農業土木技術と思想を伝える学校を、A・A・LAの紛争各地に作る拠点になる。海を持たない国の漁業権を含めた、国境が複雑な海域での漁業の枠組みに向けた構想を作るのに、沖縄は向いている。全域を周辺諸国から自由に入れる領域にして、文化と産業の交流も図れるに違いない

 スイスのバーゼルは、かって戦力を持たない小さな都市国家だった。スイス・フランス・ドイツが接する地点にあって交通の要衝であることと、巧みな外交努力によって平和を維持、諸国の仲裁も担った。そのことが文学者・芸術家・学者を集め、国家を繁栄させたのである。

平和憲法は日本だけではない

  我々は、平和憲法は日本の専売特許と思っているところがある。そんなことはない。少しだけ挙げる。
       コスタリカ 
 「コスタリカの常備軍すなわちかつての国民解放
首都サンホセで国連旗や各国の国旗を持ち行進する子どもたち
軍はこの要塞の鍵を学校に手渡す。今日から ここは文化の中心だ。第二共和国統治評議会はここに国軍を解散する。」、ホセ・フィゲーレスが
演説したのは1948年12月1日 
 常備軍の廃止は、コスタリカ共和国憲法第12条に規定されている。以来政情不安定な中米で70年も平和を維持してきた。中米の紛争を解決に導いた功績で、1987年には当時のオスカル・アリアス大統領がノーベル平和賞を受賞している。 ホセ・フィゲーレスは「兵士の数ほど教師を」をスローガンに突如軍隊を撤廃。驚くべき文化的革命である。この歴史的出来事を経て、コスタリカは軍事予算を撤廃。教育費に国家予算の3割を費やし無償化。医療費も無料とした。国民の幸福度の最大化を目指す福祉国家へと向かったのだ。教育への熱心さは憲法にも現れており、憲法でGDPの8%を教育費に使うと明記している。                                                    

                                       憲法第12条 
 恒久的制度としての軍隊は廃止する。 公共秩序の監視と維持のために必要な警察力は保持する。
 大陸間協定により若しくは国防のためにのみ、軍隊を組織することができる。
 いずれの場合も文民権力にいつも従属し、単独若しくは共同して、審議することも、声明・宣言を出すこともできない。
                                                ボリビア  
2009年1月、新平和憲法を制定。その平和憲法により、国家間の違いと紛争を解決するための手段として、戦争による攻撃が拒否され、世界平和と、ボリビアと他国間の協力が促進される。
                        憲法10条
1 ボリビアは平和を愛する国であり、各国々に対して尊敬の念を抱き、共通の理解、公正な発展、そして異文化間交流の促進に貢献するために、ボリビアと他国間の協力はもちろんのこと、平和と平和にたいする権利を、ボリビアは促進する。
2 ボリビアは国家間の違いと紛争を納めるための方法として、戦争による攻撃を拒否する。そして、ボリビアの独立を侵すような攻撃を他の国から受けた場合、ボリビアの独立と安全を保証するために、自衛の権利を保持する。
3 ボリビアの領地に、外国の軍事基地を置くことは禁止される。
                                                エクアドル  
2007年4月、新憲法制定、憲法ではエクアドルが平和国家であると規定、他の国がエクアドルに軍隊を置くことを禁止している。軍隊の役割は、自衛だけのものに限られる。 
                憲法5条
 エクアドルは平和国家であり、軍事目的のために諸外国がエクアドルに軍事施設を置くことは許されない。 
 諸外国の軍隊に、エクアドルの軍事基地を受け渡すことも許されない。 
 国際平和と軍備縮小を目指し、私達は大量破壊兵器の開発と所有に強く反対し、軍事目的の為にある国が、他の国の領地に軍事施設を置くことにも反対する。
                 
   日本がこれらの国との緩やかな国際機関を立ち上げて、沖縄に拠点を置いて活動できる日が来るだろうか。勿論そのときには、米軍基地も核兵器も、違憲宣言して全面撤去。あらゆる国と平和条約を結ばなければならない。

小学生も憲法違反の訴訟を起こせるコスタリカ

コスタリカでは議会議事堂も質素
 「小学2年生の少年が放課後、サッカーに興じていた。ボールが校庭そばの川によく落ちた。柵がないからだ。夢中になればボールは川に落ちる。これは遊ぶという自分の権利が守られていないと、訴訟し子どもが勝った。国は柵を後日つくることになった」これは、物語の一節ではない。コスタリカの日常である。

 コスタリカでは小学入学時に、徹底して基本的人権を教える。子どもたちに理解しやすく、「人は誰でも愛される権利がある」というふうに。少年たちは、サッカーに興じる環境が十分でない現実を、自分は愛されていないと受け止めたわけである。

 最高裁の、違憲訴訟の窓口「憲法小法廷」は1日24時間、1年365日、休みなく開いている。年間1万5千件を超える違憲訴訟が行われている。自分の自由が侵されたとか束縛されたと思うなら、だれでも違憲訴訟できる。
  本人でなくてももいい。弁護士も、訴訟費用もいらない。訴えの内容を書けばいい。決まった書き方などなく、「新聞紙の端切れ」でもいい。パンを包んだ紙に書いた人もいた。ビール瓶のラベルの裏に書いた人もいた。わざわざ窓口に来なくても、ファクスで送ってもいい。最近は紙に書かなくてもよく、携帯のメールでも受け付けるという。訴えるのは外国人でもいい。小学生も憲法違反で訴えるのだ。こんな制度を作る議会を持つ国民は、幸福である。この国は、軍隊が無いだけではない。軍隊を廃止した思想と文化が根付いている。

 ある小学校に隣接する施設で、ゴミ大量投棄で汚染が広がった。臭いがひどく、落ち着いて勉強もできないし校庭で楽しく遊ぶこともできない。そう思った生徒が「私たちの学ぶ権利が侵された」と違憲訴訟に訴えた。
 最高裁はこれを妥当な訴えだと取り上げ、子どもの環境に対する権利を認め、投棄したゴミを回収し、以後の不法投棄をやめるよう判決を下した。

 別の小学校では、校長先生が校庭に車を停めたために遊ぶ範囲が狭くなったと子どもたちが訴えた。最高裁の判決は、校庭は子どもたちが好きなだけ遊ぶ場所だと定義し、校長の行為は子どもたちの権利を侵害したとして、校長に車をどかすよう命じた。
 「ささいな」ことのように思えることでも、権利の侵害はいささかでも放置しないという意識が根底にある。

 もちろん重大な違憲判断も行う。国会で審議中の税制改革の法案が取り上げられ、正当な審議プロセスを経ていなかったとして違憲の判断が下ったこともある。
 2003年に米国がイラク戦争を始めたとき、当時のコスタリカの大統領は米国の戦争を支持すると発言した。このため米ホワイトハウスのホームページにある米国の有志連合のリストにコスタリカが載った。これを見て大統領を憲法違反で訴えたのが当時、コスタリカ大学3年生ロベルト・サモラ君。「平和憲法を持つ国の大統領が他国の戦争を支持するのは憲法違反だ」と訴えた。
 1年半後、彼は全面勝訴。判決は「大統領の発言はわが国の憲法や永世中立宣言、世界人権宣言などに違反しており違憲である。大統領による米国支持の発言はなかったものとする。大統領はただちに米国に連絡しホワイトハウスのホームページからわが国の名を削除させよ」というものだ。大統領は素直に判決に従った。
  大統領を訴えたロベルト・サモラ君はコスタリカの韓国大使になった。facebook人権教室
          
 中央区議会議員 志村たかよし氏(共産党)やフリー・ジャーナリスト伊藤千尋氏のblogを参照した。

追記 大阪の不味い給食、死者や怪我人の出る体育や運動会、車で危険な通学路、遊び場のない保育園などは、コスタリカの常識では子ども自身が違憲訴訟を起こすべき事例である。幼稚園や保育園に入れない子ども、子どもの貧困、受験地獄、高い制服、茶髪禁止による被害・・・すべて、今までとは異なった観点からの闘いが期待できる。

資源涸渇は人類最善のチャンス

 「科学は私たちに内燃機関を与えました。私たちが恐ろしいばかりの骨折りによってそれを消化し、社会機構に同化させる暇もないうちに、原子力の工業化を実現して、生まれそうに見えていた新しい秩序を全滅させてしまいました。 
 人類が絶えず環境を変えているのでは、どうして環境と調和することができましょうか。この方面における人類の未来は、私たちがとても認められないほど不快なものであって、人類の最善のチャンスは無気力、無創造、無感覚にある、と私が考えることも時どきあります。 
 あちこちの宗教団体で現在熱心に提唱されている「心の改革」を促進するのは、全世界の資源涸渇かもしれません。全世界の資源涸渇は確かに未曾有の新体験ですからね。人類はいまだかつてこれを体験したことがありませんがそれでもまだ自信満々で、それが間もなくやって来て、結果として衰亡から新しい芽生えをもたらすかもしれぬなんぞとは認めたがらないのです」    フォスター 『芸術のための芸術』


  内燃機関による自動車事故の死者は、地球上で年間100万人。国内で事故死が減ったことばかりを報道するが、毎年100万の死者について知ろうとはしない。何故ならその1/10はトヨタによるものだからである。世界の車の一割をトヨタが占めている。その程度の被害は、便利さや利益と引き換えで受忍すべきという暴論さえある。
 原爆と水爆による直接の死者でさえ耐えがたいのに、核発電事故の後始末の見通しさえ立てられないばかりか、そのゴミさえ処理できないでいる。


 彼がニューヨークで『芸術のための芸術』を講演したのは、1949年である。 もしフォスターが、1990年代まで生きたなら、この一節の趣は、徹底時に変わっていただろうと、半分思うのである。


  1990年代初頭のキューバは、ソビエト崩壊でエネルギー、肥料の輸入は停止。アメリカの経済封鎖も加わり、「餓死者が出るのではないか」と言われる程の危機を迎えた。輸入は以前の21%、つまり五分の一。閣僚も自転車通勤。発電の40%は生物由来の廃棄物を利用したバイオマス発電化。農業は化学肥料に頼らない「小規模有機農業」に転換。その結果農業自給率は飛躍的に上がり、今や有機農業先進国でもある。
 この精神は、災害対策や老齢化対策にも生かされ、2005年のハリケーン・カトリーナは、アメリカ南部諸州に空前の打撃を与え、死者1,836人行方不明者705人を出したが。キューバでは10年間で16回もの大型ハリケーンが襲来したにもかかわらず、死者はわずか30人。
今、キューバにはアフリカに医科大学を建設する計画がある
  そればかりではない。 1963年以来、キューバは、第三世界へ医師団や教員・技術者を派遣していた。経済危機以前には、キューバ一国で国連機関全体をあわせたよりも多くの支援団を送りこみ、「最大の平和部隊」と評された。とりわけ医師団は、中米やアフリカを中心に99年までに述べ2万人を送り出してきた。完全なボランティアである。98年にハリケーンがカリブ諸国を襲った際にも、300名を越す医師団を送り最後まで現地に踏みとどまり高い評価を受けた。
 その後、キューバ内では「現地に医師団を送って支援するだけでは不十分で、それぞれの国が自前の医師団を確保し、自力で治療活動を行えるようにしなければ」という見解に達した。その結果、99年には海軍基地を潰し「ラテン・アメリカ医科大学」を設立。貧しい国々からの留学生を毎年500人以上受け入れている。学費、生活費等はキューバ持ち、学生達は厚生施設を備えた学舎の中で生活する。卒業生は、出身集落で恵まれない人々の治療活動に献身する使命を持つことが求められる。更に今、キューバにはアフリカに医科大学を建設する計画がある。
  
  半分と言ったのは、米国のの帝国主義的膨張が始まったからである。資源の枯渇をキューバのように冷徹にとらえる賢明さを、世界の大部分が持ったとしても、帝国主義的アメリカは与しないだろう。地球温暖化対策にも、自国民の利益を掲げて明確に反対した。他のすべての国が滅亡の際にあっても、世界の資源独占を画策しかねない。キリスト教原理主義の充満する国らしい不遜な選択である。
 そうフォスターは、冷徹に読むだろう。そのアメリカに最後まで追随する日本を、彼はかつて『反ナチス放送講演三篇』でドイツを罵った以上に、日本を罵倒することは確かだと思う。
 何故なら、 敗戦日本には復員兵だけでも500万人が、狭く荒廃した国土に還流、一人当りの配給量を1500キロカロリーに制限しても1200万人の餓死を覚悟しなければならなかった。鉱工業生産力は戦前の12.9%にまで低下、わけても鉄鋼は1.4%に激減している。これは、ロシア十月革命時をのぞけば、史上類例がない。
 その資源の事実上の涸渇を、絶好の機会として生かすことがと出来なかったのである。自立した経済政策も外交方針もない、従属国家となり、再び隣国で起きた戦争で潤ってしまったからである。千載一遇の逆境を、冷徹にとらえる賢明さが属国にあろうはずがない。


追記   ラテン・アメリカ・医科大学の3年生から6年生を訓練する医学専門課程をサルバドル・アジェンデ医科大学と名付けている。人口当たりの医者の数ではキューバは世界第2位(永く第一位であったが、石油産出国カタールが現在第一位、ただし自前の医学部はない、米大学の分校である)。日本の医師数はは55位、医師の過労死が報道を賑わす水準である。


小国主義 2 従属して友達はつくれない


承前
 1900年には治安警察法が成立、集会には「弁士中止!」の権限を有する警官がサーベルと目を光らせ始める。1910年には日韓併合強行、11年には朝鮮土地収用令・朝鮮教育令が出されている。日清・日露の戦争に勝った日本が、内村のことばで言う「戦争に勝って亡びる国」である事が見え始めた頃『デンマルク国の話』の講演は行われている。
 
   日清戦争に際し、愛国者を自認する内村鑑三が「日清戦争の義」など日本の立場を正当化する論を張った事は良く知られている。鑑三は、日本が世界への使命をおびている事を疑わなかった。彼は言う、
世界の日本は、その天職を認む、日本は世界の小部分なりと雖も、世界は日本なくして、その発育開明の域に達する能はず、日本は世界に対し重大な責任を負ひ、世界は将に日本に負ふ所甚だ多からんとす
 この内村鑑三の認識には現実の日本、帝国主義的欲望に理性を失った日本の姿はない。だが、戦勝に酔う日本の現実を知るうちに彼の理想は失望へと変わり、「軍人が戦勝に誇るを憤りて詠める」と題して、夫を戦争で失った寡婦の悲しみをうたった反戦詩をつくっている。 
 内村鑑三はこの時を振り返り、
明治・大正の物質的文明は日本にとり一時的現象であった。恰も人の一生に生意気時代があるが如くに、明治・大正は日本の生意気時代であった
として、日本の天職を思想に求めるようになる。
 日露戦争に際しては、社会主義者と共に孤立し、友を失ってまで非戦の立場を守ったのである。
 それゆえ、1911(明治44)年10月22日の「デンマルクの話」は、軍国主義的膨張へ向う日本へのアンチテーゼであり、小日本主義に違いない。敗戦日本に重ねあわせて高校生に話した。

 敗戦日本には復員兵だけでも500万人が狭く荒廃した国土に還流、一人当りの配給料を1500キロカロリーに制限しても1200万人の餓死を政府は覚悟していた。鉱工業生産力は戦前の12.9%にまで低下、わけても鉄鋼は1.4%に激戦している。これは、ロシア十月革命をのぞけば、史上類例がない。
 文部省の数少ない名著「あたらしい憲法のはなし」(1947年8月発行)、「戦争の放棄」の項に添えられた絵を黒板に書きながら、その説明を読んだ。
 「放棄とはすてしまうということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国より先に行ったのです。世の中に正しいことほど強いものはありません。・・・よその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです
 惜しむらくは文部省「あたらしい憲法のはなし」の図には、豊かな田園や自然、そして教育・福祉・医療がないことである。下に添えた版画は「A3BC: 反戦・反核・版画コレクティブ」にある。平和で穏やかな自然と暮らしが描かれている。
木版画「新しい戦争放棄」 A3BC
 経済原理の前に人権など無視し続けた企業と再軍備・軍拡を企て続けた政府の存在にもかかわらず、日本が、46年間も海外派兵をせず殺人を行わなかったのは、智き愚者としての九条があればこそであった。
 「ダルガスのごとき「智き愚者」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて、その国はその時たちまちにして亡びてしまうのであります。・・・デンマークとダルガスとに関する事柄は大いに軽挑浮薄の経世家を警しむべきであります

 智き愚者とは憲法九条である。つくる平和をスローガンに政策に掲げる連中が、軽挑浮薄の経世家である。

 「デンマルク国の話」がキリスト者によるものとすれば、自由主義者・石橋濯山によるものが「満州放棄論」、「小日本主義なる哉」は社会主義者幸徳秋水によるものである。さらに、井上ひさしの「吉里吉里人」、老子の小国寡民の思想がある。具体的小国として研究したいのは、都市国家ハーゼルである。

 経済大国と自認する日本が、飢えと貧困に悩む国々を救う事に疑いを挟むのは難儀である。自衛隊を出さないのなら、いかなる貢献をすべきなのかと、土俵が設定される。
 胡散臭い。第一日本は経済大国ではない。投下された労働量当たりの生産性を求めると、ノルウェーの僅か2.5分の1以下でブラジルより低い。(詳しくは、blog「データーエッセイ」http://tmaita77.blogspot.com.br/2017/10/blog-post_25.html) 一人当たりでも、香港に抜かれ韓国に追われている。その焦りが、嫌韓・嫌中の言説として浮き出ている。
 内村鑑三は現実の日本を忘れ、彼の理念中の日本の役割を論じて「義戦論」という間違いをおかした。同じように今の貢献論も現実から遊離している。
 体罰教師が生徒の勉強しないのをなげき、善意と称して校内模試や課題宿題を乱発援助しても、それに従わない者への体罰を追加するに似ている。彼は援助などする必要はない、ただ体罰を止め、生徒をリラックスさせれるのが良い。

 僕の母は複数の難病を抱えた指定患者である。ある公立病院に入院したのだが、医者は新しい療法、高額の薬や注射を次から次へと試みた。中には保険適用外の一本数万円する注射も含まれていた。病状は急速に悪化、骨と皮の容貌となり、ついに余命の短さを告げられた。切端詰まって、医学部で教える友人に相談。友人は必死に調べ、ある病院のある医師を紹介してくれた。転院に際し、僕は使用薬品等を記載した書類を要求したが不当にも拒まれ、喧嘩した。幸い母は使った薬品名を記憶していた。新しい病院に移り、時間をかけて診察検査した結果判ったのは、前の病院での薬と日常の化学製品が病状を悪化させていた事である。母は薬を徹底的に減らし食品や化粧品を見直し、食欲も顔色も急速に回復して快方に向い、30年以上を生きて旅行もした。

 病気を医者や病院がつくることがあるように、政府と企業が一体となって貧困をつくる。そんな悍ましいことは辞めよう。
 今、日本が第三世界に対してやるべきは、手を引く事である。第三世界で日本に「援助を止めよ」と訴える人々が絶えない。例えば、日本による世界最大級の政府開発援助「アサハン・プロジェクト」である。アルミ缶を生産輸出するための総合開発だが、インドネシア副大統領からさえ「まったくの損害だった」と非難されている。アマゾン川流域には世界最大級のトゥクルイ・ダムを建設、発電・アルミ精錬して日本へ輸出。6千世帯の先住民が立ち退きを強いられ難民化、抗議行動が起きた。何れも、日本では成功例として賞賛されることがある。報道がなさすぎる。
 援助の名の下に伝統的生産を破壊し搾取し尽くす、具体的悪をなす日本経済である。ただ飢えや貧しさに苦しむ人がいるのではない。日本の経済侵略に生活の糧を奪われて、苦しむ人々がいて、権力とつるむ極少数が巨万の不労所得を得るのである。
 やってはならない事をまず止めねばならぬ。やってしまった事は誠実に認め自己批判し、詫び、補償しなければならない。任侠を気取って暴力団が貢献を口にすれば、人は疑い嫌うのである。
 日本の公的年金積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人は、世界の軍事企業上位百社中三十四社の株式を保有支援している。国民が支払う年金保険料のうち約1兆3374億円が、世界の大量殺人兵器製造を支えている。恥ずべき行為である。

追記 文部省が自信に満ちて言い切った「よその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、・・・さかえてゆけるのです」、この方針は、サンフランシスコ講和条約(1951年9月)によって裏切られる。戦争をしたすべての国と講和交渉して、平和条約を結び「世界中の国が、よい友だちになってくれる」全面講和の機会を自ら捨てて、属国となる選択をしたのである。北朝鮮問題は、少なくともここまで遡らねばならない。
 「世界中の国が、よい友だちに」も「貴きものは国民の精神であります」も、幾多の国際的経済的苦難に直面して自力で乗り越えた小国キューバが実現している。コスタリカもキューバに学んで、軍備を棄て教育予算に組かえたのである。これらの国と日本との違いは、「独立」である。戦前戦中我国は、アジア諸国の独立を弄び蹂躙したが、戦後は自らの独立を棄てている。

小国主義 1 内村鑑三『デンマルク国の話』抄


 「デンマークは欧州北部の一小邦、九州の一島に当らない国であります。人口は二百五十万でありまして、日本の二十分の一であります。 しかし富の程度にいたりましてははるかに日本以上であります。日本国の二十分の一の人口を有するデンマーク国は日本の二分の一の外国貿易をもつのであります。ある人のいいまするに、デンマーク人は世界のなかでもっとも富んだる民であるだろうとのことであります。実に驚くべきことではありませんか。

外に失いしものを内においてとり返すを得べし
 しからばデンマーク人はどうしてこの富を得たかと問いまするに、それは彼らが国外に多くの領地をもっているからではありません、けっして富饒の地と称すべきではないのであります。国に一鉱山あるでなく、大港湾の万国の船舶を惹くものがあるのではありません。デンマークの富は主としてその土地にあるのであります、その牧場とその家畜と、その樅と白樺との森林と、その沿海の漁業とにおいてあるのであります。ことにその誇りとするところはその乳産であります、そのバターとチーズとであります。デンマークは実に牛乳をもって立つ国であるということができます。
 しかるに今を去る四十年前のデンマークはもっとも憐れなる国でありました。一八六四年にドイツ、オーストリアの二強国の圧迫するところとなり、敗れてふたたび起つ能わざるにいたりました。敗北の賠償としてドイツ、オーストリアの二国に南部最良の二州シュレスウィヒとホルスタインを割譲しました。デンマークはこれがために窮困の極に達しました。国民の精力はかかるときに試めさるるのであります。戦いは敗れ、国は削られ、国民の意気鎖沈しなにごとにも手のつかざるときに、かかるときに国民の真の価値は判明するのであります。戦勝国の戦後の経営はどんなつまらない政治家にもできます、国威宣揚にともなう事業の発展はどんなつまらない実業家にもできます、難いのは戦敗国の戦後の経営であります、国運衰退のときにおける事業の発展であります。戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民であります、
 デンマーク人は戦いに敗れて家に還ってきました。還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。ここに彼らのなかに一人の工兵士官がありました。ダルガス、齢は今三十六歳、工兵士官として戦争に臨み、橋を架し、道路を築き、溝を掘るの際、彼は細かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終らざるに彼はすでに彼の胸中に故国恢復の策を蓄えました。すなわちデンマーク国の欧州大陸に連なる部分にして、その領土の大部分を占むるユトランド(Jutland)の荒漠を化してこれを沃饒の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼の同僚はいいました。「まことにしかり」とダルガスは答えました。「しかしながらわれらは外に失いしところのものを内において取り返すを得べし、君らと余との生存中にわれらはユトランドの曠野を化して薔薇の花咲くところとなすを得べし」と彼は続いて答えました。 
 他人の失望するときに彼は失望しませんでした。彼は彼の国人が剣をもって失ったものを鋤をもって取り返さんとしました。今や敵国に対して復讐戦を計画するにあらず、鋤と鍬とをもって残る領土の曠漠と闘い、これを田園と化して敵に奪われしものを補わんとしました。まことにクリスチャンらしき計画ではありませんか。真正の平和主義者はかかる計画に出でなければなりません。  今より八百年前の昔にはそこに繁茂せる良き林がありました。しかして降って今より二百年前まではところどころに樫の林を見ることができました。しかるに文明の進むと同時に人の欲心はますます増進し、彼らは土地より取るに急にしてこれに酬ゆるに緩でありましたゆえに、地は時を追うてますます瘠せ衰え、ついに四十年前の憐むべき状態に立ちいたったのであります。 緑は希望の色であります。ダルガスの希望、デンマークの希望、その民二百五十万の希望は実際に現われました。  彼の長男をフレデリック・ダルガスといいました。彼は父の質を受けて善き植物学者でありました。   しかし植林の効果は単に木材の収穫に止まりません。その善き感化を蒙りたるものはユトランドの気候であります。
 ユトランドの全州は一変しました。廃りし市邑はふたたび起りました。新たに町村は設けられました。地価は非常に騰貴しました、あるところにおいては四十年前の百五十倍に達しました。道路と鉄道とは縦横に築かれました。わが四国全島にさらに一千方マイルを加えたるユトランドは復活しました、戦争によって失いしシュレスウィヒとホルスタインとは今日すでに償われてなお余りあるとのことであります。 しかし木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、畜類よりも、さらに貴きものは国民の精神であります。
 今、ここにお話しいたしましたデンマークの話は、私どもに何を教えますか。 第一に戦敗かならずしも不幸にあらざることを教えます。国は戦争に負けても亡びません。実に戦争に勝って亡びた国は歴史上けっして尠くないのであります。国の興亡は戦争の勝敗によりません、 国にもしかかる「愚かなる智者」のみありて、ダルガスのごとき「智き愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の非運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。 私が今日ここにお話しいたしましたデンマークとダルガスとにかんする事柄は大いに軽佻浮薄の経世家を警むべきであります」


  内村鑑三の『デンマルク国の話』の信仰に関する記述を取り去ってみた。かえってダルガス親子の精神が前面に出て、深く共感できる。
 内村はこの講演で、一言たりとも日本についてふれていない。この講演は1911年、すでに治安警察法が成立、会場には警官が臨席していた。政府を批判することは、とうに出来なかったのである。デンマークに言寄せて、日本について語らねばならなかった。
 彼にはかつて「日清戦争の義」を書いた苦い経験があり、それがこの講演をなさしめている。 つづく

いじめられて自棄になる君に・貧しく小さな国の矜持

 くる年もくる年も、級友にも担任にも虐められ、両親からも叱られて切れそうになって、死んでやる、暴れてやると自棄を起こしているキミにある小さな国のことを知らせようと思う。
Cubaの学び方の特色は、助け合いにある

   
 Cubaは、人口1130万人、国土は日本の本州の約半分、しかも貧しい国だ、個人所得は日本の5%程度。しかし治安は良く人種差別も男女差別もなく、国民は陽気で明るく元気。キミがキューバの街角を歩けば、ケーキ屋の職人がケーキを肩に急ぐ姿を目にするはずだ。これは、国から誕生日の子どもに対するプレゼント。
 教育と医療は無料。大学院までの教育が保証されている。識字率は96%でラテンアメリカのトップレベル、義務教育学級定員は20人。外国人でも無料で医学教育を受けることができる。人口に対する医者の数は世界トップレベル、各国に派遣している医者の数は2万1千人。さらに125か国3万2千人の学生を医療留学生として受け入れた。
 
 キューバの平均寿命は77.5歳と先進国並み。他のラテンアメリカではグアテマラ57歳、メキシコ47歳、アルゼンチン36歳、チリ32歳。100歳以上の長寿者も2,800人以上。長生きの秘訣、それは国の医療・福祉政策にある
 キューバの、弱者に対するやさしさは徹底的。国の予算配分が違う。他のラテンアメリカ諸国に比べ4倍もの予算を医療・社会保障につぎ込む。1990年と1997年の比では、医療費134%増、社会保障費140%増。
 注意してもらいたいが、140%増とは2.4倍ということだ。それを補うために、減らしたのは軍事費。また2004年から2005年にかけて、年金は7%増、社会保障費は5.7%増、2007年には、無料の教育と医療の予算はGDPの22.6%相当。
 教育・医療で国家予算の16%を占めている。この積極的な国の医療・福祉政策こそが長寿の源。国が年寄りの長生きを望んでいるんだ。
  乳幼児死亡率も、1000人あたり6.4人。第三世界の平均値は90人であり、アメリカやイギリスでも11人であり、世界最高水準。
  総合病院には、超音波診断、放射線CATスキャン、ハイテクモニターといった他の第三世界諸国では考えられないほどの高度な医療機器を完備。脳外科や心臓移植、骨髄移植の治療体制も整っている。とりわけ1985年から96年までに90もの心臓移植がなされているが、先進国を除いては例をみない。加えて先進諸国すら持っていない脳髄膜炎ワクチンや皮膚炎ワクチン等の開発も独自に進められている。
 他の国では30万ドルはかかるとされる心臓移植もキューバ国民はタダで受けられる。

 この国で、最も給料が高いのは、医者でも政治家や官僚ではない。街の掃除のおじさん・おばさんや教授たち。

  この国の指導者カストロ議長は、世界最大の国家米国から約50年間で638回もの暗殺を仕掛けられている。その一部は「米上院調査特別委員会レポート」で公にされている。(「朝日ジャーナル」1975年12月25日号『臨時増刊 CIAの外国指導者暗殺計画 全訳 米上院調査特別委員会レポート』)
 「世界で最も暗殺計画の対象になりながら生き延びた人物」として、ギネスブックにも掲載されている。米中央情報局(CIA)などの記録をもとに計算した総数が638回ということだ。

 僕が君に知らせたいことの一つは、カストロ議長はそれでもちっともキレなかったことだ。猛烈に忙しいが、冷静に、上にあげた政策の実現に努力して、自国民だけではなくはなく、周辺諸国の支持も得てきた。だからカストロ議長は、キューバではみんなから親愛の情を込めて、フィデルと呼ばれている。
  2016年の国連総会では、ついに米国自らが1962年から続けてきた経済制裁政策の過ちを認めた。米国連大使は
米国は経済制裁によってキューバの孤立化を目指したが、逆に米国が国連などで孤立してしまった
と述べたのである。米国は、自国が経済制裁をするだけではなく、他国にも米国に同調することを求め、同調しない国には経済的圧力を加えたのである。
                                
  こんな国の子どもたちの学力が高くなるのは当たり前で、ユネスコの報告書 Los aprendizajes de los estudiantes de América Latina y el Caribe  を読めばよくわかる。
 その105ページの表は、中南米諸国の小学校三年生算数の学力分布 である。この表はスペイン語が解らなくても、一目瞭然。右が得点が高い。濃淡で五段階に分けられている。
 特徴は、まずCubaの最も得点の低いグループが、ドミニカの最も得点の高いグルーブの上に位置して、しかもその規模が小さいことだ。
 二つ目はCubaでは中位の得点のグループが、他の諸国ではトップクラスに位置していること。
  僕はこの表を眺めていて、低学力はつくられているとつくづく思った。だから低学力は無くすことが出来る。

 Cubaの学び方の特色は、助け合いにある。競争ではない。キューバの子どもたちの合言葉は「チェのように」だ。チェはフィデルと共に戦ったアルゼンチン生まれの医者チェ・ゲバラ、キューバの医療は彼の精神を受け継いでいる。

  僕はかなり昔、工業高校で教えていた時のO君を思い出す。このことは、すでにこのblog「O君と不良少年たちの仲間付合い」に書いた。家計が維持できず、電気も水道も止められ、たった一人アパートに残された時のO君の誇り高い振る舞いを、最も困難な時期のCubaになぞらえてもいいと思う。勉強して順位を上げてみんなを見返すんじゃない。ただ困っている友達を助けるんだ、何も望まずに。こういう人間になったとき、キミはいじめっ子たちを問題にしなくなっている。


追記   ハバナ近郊の保養地にはチェルノブイリの核被災児童を受け入れるタララ小児病院がある。1990年から2万人以上が無償で治療を受けている。広い敷地に病棟、学校、スポーツ施設や居住区が点在する自然環境に恵まれたところだ。 施設の規模や治療にあたる医師と看護師の数、教師その他の職員、そして経済的負担を考慮すれば毎年600名もの児童を受け入れることは容易ではない。それでもキューバは周辺諸国で災害があれば、直ちに救援活動に急行する用意をしている。ハイチで大震災があったとき真っ先に駆けつけたのはキューバ医師団だった。

王様に貰ったミカン

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