社会の大きさや複雑さの違いは、社会と人間のあり方を変える 国も自治体も小さいに限る

小さな共同体=患者自治会が可能にした桜並木
  お酒が好きでしょっ中喧嘩する人がいましてね、それがテニスなんかを通して子どもと知り合った。すると人間的に全く変わったということがありましたね。子どもとペアーを組んで優勝したりね。そんなことでその人がパーッとかわって・・・どっちかと言うと鼻つまみになりかねない人だった。競輪競馬もやる人でね。それが子どもに○○さん、○○さんと呼ばれて、いままで、飲み友達、競輪友達しかいなかったのに、「子どもの友だちができた。変なことはできないなあ」と自分で漏らしていたいたそうですよ。周りの人も生まれ変わったみたいだと言っていました。その人は、自分が孤立していると思っていたのに子どもが自然に慕っていったからでしょうね。                  全生園子ども舎最後の寮父・三木氏証言
      
  社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方を、従って人間のあり方を変える。
 例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とする様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。三木寮父の話で言えば、お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。 
 (1888年日本には7万0314の自治体があったが、2019年現在1718にまで減少。フランスは3万8000ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である)。
  我々の社会の自殺の多さ、いじめ、貧困に対する不寛容は、ここに根を探る必要がある。


 人口が増加すれば、こうした判断(曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉える)は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を奪われ、多数雑多な厄介者の一人として一括処理されてしまう。彼らが孤立状態から共同体への回帰するためには、多数への順応・同調という手続きのみが残り、同調できなければ罰と排除が待っている。 彼らの全生活の複雑性の理解と把握は顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。リベラルな教養はその文化の中にある。
  小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。千人程度の「奇妙な国」で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」では、企業も自治体も学校さえもが合併して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応され、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。
 少年の信頼と承認が、鼻つまみを心優しい「善人」に変えてゆく。これは小さな社会であっても、毛涯(彼は戦前の全生園の暴力的風紀取り締まり係。ポマードをつけたと言っては殴り、若者を殺したこともある)が居てはありえない。なぜならそこではあるべき人間像は上から暴力的に与えられ、酔っぱらいの博奕打ちは監房に放り込まれ、テニスは患者のくせにとムチ打ちの対象になったからである。全生学園自治も、療養所の人口規模を抜きには考えられない。 「塾」や茶会という文化的学びの形態もまた、何時でも歩いて行けるという共同体の大きさが関わっている。

  「曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。互いの成長や変化を、目にして話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある 」

 大学の自治会や高校の学生自治会のあり方は、地域の自治会と共に、まさにその典型でなくてはならない。なぜなら若者は、未熟かつ激しやすく、自分の正当性の枠に籠もりがちだからである。
 僕は欧州やラテンアメリカの高校生が、国政の課題をめぐって、数十万規模の統一行動を組んで政府を譲歩させる光景を羨ましいと思う。環境系、社会党系、共産党系等の活動家が同じ校舎の中で、街頭の中でスクラムを組んでいる。思想上の討論や方針の違いも、ここでは集団の豊かさに転化する。ここでは、高校生と教師の関係は「連帯
であり「指導」ではない。
 日本の学生自治会のように20%そこそこの相対多数で執行部を独占し、自治会費争奪も絡んでゲバルトに走る事は無い。政党も60年代から、例えば第四インター系もトロツキストも他の少数左翼と共に共産党大会に参加し、肩を組んでインターナショナルを歌うのである。その逆も日常的に行われ、それ故理論や思想上の活発な遣り取りが出来る。
 自らは少数に過ぎないという冷めた自覚が、多様な豊かさと寛容性を通して団結を促すのだと知るべきである。

  現在の政権は、僅か20%そこそこの得票で議員の多数を獲得し、事実を曲げ審議も尽くさず多数の暴力支配に走る幼稚な姿の原型は、歪んだ学生自治にあったとも言える。選挙後の大衆の政治的無関心の説明をここに求めるのも、あながち間違いではない。                                                               『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊に加筆

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