しんちゃんのあだ名は「コンニャク」。色白で痩せて動作がくにゃくにゃしているからだと、転校したばかりの僕は考えていた。しんちゃんの前が僕の席、すぐに遊ぶようになり、「コンニャク」は四谷警察と慶応大医学部探検に僕を誘った。留置場と霊安室に滅法詳しかった。
1950年代の四谷界隈には、旧四谷区の重厚な建物が残っていた。その多くは関根要太郎の設計で一つとして同じ構造をしていない。四谷図書館や警察も、左右対称なつまらなさも無い。階段や入口は石作り、四谷第四小学校の場合は、昭和11(1936)年竣工。2.26事件被告17人に死刑判決が宣告された年である。日本の貧困化の歪さが滲み出ている。戦後の区立四谷二中は、ついにその移転閉校まで貧弱な木造のままであった。格差は戦争を生むのだとつくづく思う。
しんちゃんは、そのモダンな意匠の警察の中で遊ぼうという。今のように入口に警官が立ってはいない。僕たちは姿勢を低くして銀行のような一階を抜けて、地下の留置場に走った。鉄格子の向こうにそれらしい場所がある、しんちゃんは詳しかった。警察の中は迷路のようで人も多く新宿のデパートより面白かった。数回目に捕まった。捕まったが怒られはしなかった。柔道場に連れて行かれ、投げられたり投げたりして遊んだ。おかげで毎週警察の柔道場に通うことになった。その帰り路、小さな商店街で買い食いが習慣になった。
聞けば、買い食いは「お腹を壊すからダメよってママが言うから」だった、コンニャクだけは腐らないからと。
だから、彼はコンニャクと呼ばれていたのだ。 ある日コンニャクは、たまには家で勉強しようと、自分の部屋に誘った。信濃町駅と都電四谷三丁目の中間に位置する左門町の屋敷だった。広い数寄屋造りの本屋は迷路のようで庭には築山や池があり、コンニャクの部屋はその一角に鉄筋コンクリート造りの別棟。「ここなら幾ら騒いでも大丈夫だよ、その為にパパが造ってくれたんだ」僕たちは勉強を忘れて色んなオモチャで騒いだ。疲れてコンニャクは、部屋の電話から「ねえや、お腹空いちゃった」と言うと、若いねえやと年老いた女中がバターの香りいっぱいのピラフと果物と飲み物を持ってきた。コンニャクは、お坊ちゃんだったのだ。聞けば彼のお爺さんは、銀行の頭取だった、どおりで本屋には秘書や運転手などが行き交っていた。
1950年代の四谷第四小学校には四谷二中同様、大金持ちの坊ちゃんからスラムの洟垂れ小僧までが詰め込まれ、ヤクザや芸者の子から映画の子役・TV歌手もいた。黒塗り・運転手付きの自家用車から、穴の空いたボロ靴までが共存していた。雑多な中に、戦争に負けて実現した平和と民主主義が息づく、おでんのような学校であった。
何でも突っ込んで煮てこそ旨いのである。
四谷二中が、「名門」越境中学であったことと「おでん」は無関係ではない。
コンニャクは、今外科医。気の毒にまだ引退できない。