光田健輔らが、絶滅隔離に抵抗する患者を弾圧するため 強圧的な監獄が必要だとして建てたのが「特別病室」重監房。 1951年その光田に、日本の行政は文化勲章を与えている、 患者たちの闘争をあざ笑うが如く。 |
続いて高松宮が背広のまま予定経路を無視して患者宅や重監房を視察、やはり何も起らなかった。
その次が選挙遊説の共産党。参議院議員補欠選挙(1947年8月)が始まっていた。遊説隊は入所者が排水溝普請の重労働に従事しているのを見て
「君たちは患者だろう、なんでこんな仕事をしているのかね」と驚き、強制労働や重監房の存在を知る。
その夜には懇談会が開かれ、職員の不正や重監房の実態が次々と訴えられた。これを機に患者たちは立ちあがり、生活擁護運動が始まる。彼らには楽泉園17年事件の経験がある、行動は力強く素早かった。
患者大会を開催、扶助金の支給・強制労働の廃止・不良職員の追放を掲げた「要求書」を可決、重監房での虐待・虐殺や保育所での児童虐待の実態が暴かれた。職員組合も結成され、職員・医師からの情報・証言も得た。同時に草津町中心の湯畑で「伏魔殿楽泉園真相発表会」を開催、千人以上を集め町民や浴客の怒りと涙を組織、園当局・厚生省を狼狽させている。
『上毛新聞』『毎日新聞』なども相次いで報道して、世論を喚起。8月末には第一回国会が重監房を取り上げ調査団を派遣、調査の様子はニュース映画でも放映され、国民に強い衝撃を与え重監房は廃止された。しかし、92人を監禁、22人も殺したこの事件で、誰ひとり拉致監禁罪にも殺人罪にも問われなかった。「虐待による死亡事実はないと信ずる」と虐殺を隠蔽した古見嘉一園長が休職、「警察と厚生省の許可を受け承認を得てやっている」と居直った加島、庶務課長、炊事主任、粟生保育所保母は懲戒免職。その他関係職員は転勤。全て行政処分に過ぎない。
東京の多磨全生園では日中戦争から帰還した土田義雄を中心に、1947年春、生活擁護同盟が結成される。自治と民主化を求めた九月九日からの大会中10日間は、あたかも革命のようだったと『倶会一処』は表現する。その革命前夜の全生園で開かれた粟生楽泉園闘争報告集会を、15歳の谺雄二少年が見ていた。
「熱気がすごかったですよ。・‥山本俊五さんという共産党員が立ったらね、職員席に座っていた園長がね、
「君は、どこから入ってきた!」 ほら、…面会人っていうかたちを取らないで、…垣根の隙間を越させて、裏門のほうから人らした。
園長はそれを知ってるわけ。もう、イライラしてるわけだ、林園長は。で、
「君は、どつから来た!」って、一喝した。そうしたら、山本俊五さんがふりかえって、
「あなたは誰です?どなたですか?」って聞いた。
「わしは、ここの園長じゃ」つったら、
「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」って。いやぁ、わたし、ビックリしたや園長が怒られるなんていうのは、見たことなかったから。それで、園長が帰っちやった」
この集会には、清瀬の結核療養所患者や東村山町立化成小学校教員ら18名も垣根を抜けて参加していた。孤立しているのは園当局であった。たちまち職員の態度が目に見えて変わった。「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい」の叫び声は、園長が天皇の臣下として患者に君臨する立場から、主権者である患者に奉仕する公僕となったことを、職員と患者に宣言したのである。
患者が選挙権を獲得してからは、政治家も入所者を強く意識、少なくとも無視出来なくなる。社会党、共産党は園内事情に目を向け組織者を派遣し始める。新憲法の公布・施行も重なり、患者たちは一気に政治に目覚めた。
拙著『患者教師・子供たち・絶滅隔離』地歴社に加筆
情報が伝えられ共有されて仲間意識が形成され、闘争が始まり革命となる。 それ故、情報を広める可能性のあるものを、ハンセン病療養所は「追放」し、愛知県教委は三校以上の高校生の交流を禁じたのである。
「1947年、自治と民主化を求めた9月9日からの大会中10日間は、あたかも革命の如き様相を呈し」敗戦後の旧制中学、設立当初の新制高校でも自治と民主化を追求し自己を解放する日々が始まった、筈だった。
だがどうしたことか、程なくして停滞し始める。何故なのか、それは、追放されるべき者たちが行政の中心に居座っていたからである。革命的変化の時期、(敗戦はまさにその時だった)、にはかっては弾圧を受けて辛酸を嘗めた者が行政の中心にいて汗を流すのである。それが徹底的に欠けていたのが敗戦後の日本、そして現在の日本である。