「指導する」関係の不毛性

 

 2001年 10月21日

   三年生のIさんが、「この三年間で最も印象に残ったこと」について書いている。

 「数学が全く苦手だった私と、英語が苦手な友達とで、試験前一週間毎日、互いに教えあって、二人とも信じられない点を取ったこと」。

 

 教員は生徒に教えることで賢くなるだろうか。恐らく後退しているのではないか。

 では友情ある生徒たちの間にあるのは何か。     


  

 ゴッホとゴーギャン カストロとゲバラ 寺田寅彦と夏目漱石・・・

 「指導する」関係がはらむ不毛性と、友情がはらむもの違いがそこにある。学校用語の「指導」の語感は、行政用語の「指導」に限りなく似て相手に対する敬意はない。

 ある生徒の不満「だってさ、△▽の教師が授業中喋るな、質問もするな、失礼だっていうんだ。」がそれを端的に示している。△▽の教師にとって、教えるとは「共に未来を語ること」ではない。機械的な勤務時間が経過することでしかない。


何故「自粛」なのか、どうして「行政命令」を出さないのか

 感染防止のための自粛要請は、個人の自由を侵害するか。それは一体誰のどんな自由か。

 ここには複数の問題が、無秩序に絡まっている。

玉砕は連帯の思想を
形成できぬ我が国の必然
一つの筋を通せばどこかに無理が生じ、捩じれが生じ、切れもする。

 銃所持の自由や私兵をもつ権利はどうか。また、国家には核武装の自由があるか。

 第一、自粛は他人が指示するものか。まして「おかみ」=行政が強制出来るものなのか。何故「行政命令」と言わないのか。

 主権在民下では、命令する行政は責任を負う。例えばドイツ。コロナ禍で労働時間が5割以上短縮され収入が減れば、政府はその60~80%を3カ月単位で給付しなければならない。育児中なら7%上乗せ。 病院も車椅子も出産も、外国人であっても無料、眼鏡も処方箋があれば無料。

 「自粛要請」に対する「協力金」とは雲泥の差になるのは言葉の使い方からして、初めから明らかなのだ。これが主権者の公僕が責任を持つ姿である。無料は政権の恩恵ではない。


 偏差値の高い生徒達には、多くの学校から選ぶ「自由」がありそうに見える。しかし自らの偏差値より劣る学校を選びはしない(そのために彼は偏差値に頼っている)。だから実は彼らにも「自由」はない、ある種の奴隷状態。指定通りの数校に拘束される。最底辺の生徒には全く選択の余地はない。これが自由の問題だろうか。しかし学校を選ぶ「自由」が制限されれば、それに依存する人々は戸惑い次いで怒り、自由を守れを連呼するだろう。

 ここには「自由」が常に意識すべき「平等」がない。学校を「選ぶ自由」は、全ての少年に等しく与えられねばならない。裁判を受ける権利=自由が、裁判を受けることによる不利益を予め排除しなければならないように。

 スポーツをする自由はどうだろうか・・・ここに生じる捩じれは複雑な上に、初めから劣化して危険でもある。学問する自由はどうか。・・・

  「おおやけ」=publicは一人ひとりが、この面倒くさい問題を引き受けなけば形成されない。「おかみ」の命令で作られた「おおやけ」=「大家」は権力への諂い=忖度は生むが、連帯や共同を排除する。何故なら対立する立場の相互承認が「公」形成の前提だからである。

 「指導拒否」や「自宅謹慎」・「自主退学」など珍妙な生指用語に慣らされた日本の若者は、「自粛」要請という言葉に鈍感になっている。元来指導は拒否出来るから指導と呼ぶ、拒否出来ないなら「命令」や「強制措置」と言うべき。

 「指導」という言葉を使えば、人々が自分の判断で従ったという体裁を取れて都合がいい。命令なら命令した者の責任が生じる。

 自宅謹慎は登校停止に過ぎない、謹慎も他人が命じるものではない。だから期間中に映画を見ようと遊園地に出掛けようが一向構わない。我々は昭和天皇危篤から葬式にかけて、おかしな「自粛」ゴッコに遭遇した苦い経験がある。

  では学校選択の「自由」は何処にもないのか。

  ヨーロッパ諸国には、gap yearの習慣がある。大学入学資格を得ても、すぐには進学しない。1年程度は様々に社会経験を積む。平和や地球環境の問題を知るための活動に参加したり、福祉ボランティアに志願したりする。自分がすべきことや出来ることを知り、それを実現するための知識や技能を求めて大学や職業を選ぶ。だから偏差値は目安にもならない。

 高校と大学の間には若者が越えねばならぬ大きなギャップが待ち構えている、それを経験・乗越えるために有意義なモラトリアム。自ら選んだ他者・他民族・他国を通して自分を知り、教室で学べなかった世界の姿をそれぞれが捉える。だから期間も場所も多様。

 それ故、これらの国には入学式や卒業式や入社式の習慣も「就活」も存在しない。予備校や塾はない、存在の余地すらない。

  日本の高校生や親にとって、与えられた進路は他者との格差を保証する恩恵。「お願いだから、決めてください」と泣きつくに違いない。(「権力」に対する各種の依存がこうして蔓延している。そうでなければ、政権党に対する無暗に高い支持率の説明がつかない)  

「はじめ東大卒業生に特権はなかった。だから慶應義塾、東京商業学校など実業的教育を施す学校に学生が集まった。大隈重信の東京専門学校も、国会開設に備え人材を育成し時の政府を悩ませた。時の政府とは伊藤博文内閣である。

 伊藤は、手っ取り早く東大に特権を与え、他校を出し抜くことにした。

 工部省工部大学校、司法省法学校を東京大学に吸収、法医工文理の総合大学・東京帝国大学にした。そして東京帝国大学法学部を卒業すれば、高等試験を受けずに高級官吏になった。医学部を卒業すれば無試験で医者になり、教員免状も無試験。東京帝国大学を卒業しさえすれば、進路はひらけ、俸給も飛び抜けて高くなるよう仕組まれたのである。

 だから優秀な学生か殺到したのである。逆ではない。彼らが就職する企業も特権を求めて鎬を削り「政商」と呼ばれた。後に複数の帝国大学がつくられ、これらの特権も縮小するが地位は揺るぎようもなくなっていた。

 伊藤博文は学生に教育を施し優秀な若者に育てて送り出すのではなく、始めから「優秀」な若者を「特権」で釣る事に力を注いだのである。封建社会の特権を廃止して、国民の権利を普遍化したわけではない。特権の再編を図ったのである。」

   「欲望からの自由と特権の廃止 ←クリック

  「中立」を貫くべき文部省が、敗戦後も大学の予算にも介入し続けてきた。お陰で東大は「依怙贔屓」され特権性は維持された。大学紛争はまさに「粉」争に過ぎず、学園管理強化に利用されたのみ。こうして権力による秩序を恩恵と見做す意識は崩れない。

 翻って見れば、英国に国立大学はない。私立と公立。大学は文部省から独立して運営され、予算は独立した委員会が査定管理して公平に配分される。無論教育の内容に介入は出来ない。それが民主国家の行政である。 

 自ら宣言してgap yearに突入するか、既存の特権から逸脱する以外の方法を僕は思いつかない。





「イカレタ」恰好は、・・・自然に落ち着く      落ち着かなければ、それは正当な「表現」

2002年  5月20日   

「先生おはよう、先生」

  教室に入った途端、私にも声掛けてよと言わんばかりの連呼。

 初対面の日には、お喋りしながら機嫌の悪そうな顔で僕を睨んでいた生徒がそう言う。いつの間にか厚化粧もない。隣のNさんも落ち着いた風貌になった。


 前任校にも「突っ張るのって、疲れるのよ」と宣言した生徒がいた。濃い化粧も茶髪も長いスカートもある朝突然止めて、僕の後ろで笑っていたのだった。

 教師や親から見た「イカレタ」恰好は、放っておくことで自然に落ち着く、大抵は。もし落ち着かないのであれば、それは正当な「表現」と判断して擁護しなければならない。我々は時に、チャタレー裁判弁護に立った正木ひろしを思い出す必要がある。そして「イカレ」ているのは「指導」される側ではなく「指導」する側である事を発見する。発見したからには、普遍化する義務を負う。自分の赴任校や出身校の自慢の種に留めるのは、格差選別に組するに過ぎない。


 仰々しい規制への反発は、少年らしさの証でもある。そこに憎しみと暴力の種を撒けば、「謀反」の芽が育つ。ナチ親衛隊を縦横に駆使して存在しないスキャンダルや陰謀で、敵を殲滅する快感に酔い痴れたハイドリヒを思わずにはおれない。

 幸か不幸か、生徒は3年で解放される。だから現代の「ハイドリヒ」は生き続ける。 

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...