2002年 5月20日
「先生おはよう、先生」
教室に入った途端、私にも声掛けてよと言わんばかりの連呼。
初対面の日には、お喋りしながら機嫌の悪そうな顔で僕を睨んでいた生徒がそう言う。いつの間にか厚化粧もない。隣のNさんも落ち着いた風貌になった。
前任校にも「突っ張るのって、疲れるのよ」と宣言した生徒がいた。濃い化粧も茶髪も長いスカートもある朝突然止めて、僕の後ろで笑っていたのだった。
教師や親から見た「イカレタ」恰好は、放っておくことで自然に落ち着く、大抵は。もし落ち着かないのであれば、それは正当な「表現」と判断して擁護しなければならない。我々は時に、チャタレー裁判弁護に立った正木ひろしを思い出す必要がある。そして「イカレ」ているのは「指導」される側ではなく「指導」する側である事を発見する。発見したからには、普遍化する義務を負う。自分の赴任校や出身校の自慢の種に留めるのは、格差選別に組するに過ぎない。
仰々しい規制への反発は、少年らしさの証でもある。そこに憎しみと暴力の種を撒けば、「謀反」の芽が育つ。ナチ親衛隊を縦横に駆使して存在しないスキャンダルや陰謀で、敵を殲滅する快感に酔い痴れたハイドリヒを思わずにはおれない。
幸か不幸か、生徒は3年で解放される。だから現代の「ハイドリヒ」は生き続ける。
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