和解する教室 Ⅲ 「公=public」の形成と授業ボイコット

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アランは生涯、高校で教え続けた
 学校に於ける共通の要求は、生徒であれ教師であれ先ず授業でなければならない。この要求が核になれば、平等な関係が教室に出現する。教室は以前に戻ったのではない。
 そこにあるのは新しい関係としての「公=public」。 気ままな放縦で、お喋りや化粧をしてはみたが、それが自由では無いと気付いたのだと思う。やってみて懲りるのは、昔からのいい学び方である。我々の知識は間違いに学びながら間違いの少ない方向むかうべきで、絶対的真理や法則に依存することを戒めたのが、パースの「まちがい主義」(falliblism)である。禁じるだけでは「気ままな放縦」の魅力を高めてしまう。自由と「気ままな放縦」との違いは、懲りるまで試してやっと判る。
 カントも「・・・自由は決してあらわれないであろう。なぜなら、あらかじめ自由のなかに身をおかなければ、人は自由の行使に成熟することは出来ないからだ。・・・人はみずからのこころみによってでなければけっして理性にかなうように成熟はしない」と1793年の昔から、忠告してきた。それをいつまでたっても判ろうとしないのが学校である。

 生徒の学習意欲が高まっても、学校側の授業改善が伴わないのがいつもの難題だ。それはやがて生徒たちの反乱や諦めを招くことになる。学校は反乱より諦めを歓迎した。
 教室の揉めごとが生徒たちの中だけで調整されてはかなわない。教師の授業や姿勢を含めた学校のあり方を問う必要がある。揉めごとを通して、そこにふさわしい自前の「地域に根ざした」秩序が形成される。こうした「公」形成による民主的秩序は、虎ノ門の会議室や西新宿の椅子から画一的号令で作れるものではない。
 揉め事の基本は、「不整」である。諧調は偽りであり、いろいろな人間が混じらなければ揉まれることもない。「公」も形成されない。偏差値体制が四十年も続くと、輪切りにされるのは「学力」ばかりではない。家庭階層・言葉と文化・交友範囲まで、みごと輪切りにされ、整然と固定している。揉めて調整するための繋がりが、肝腎のところで断ち切られている。
 これは、社会科の教師にとっては致命的な隘路である。なぜなら、少年が日々接する教師・父母・市民の多様性とその自由の程度が、少年の知的な豊かさ・柔軟性を基礎づけるからである。「オレの授業は進学高並みだ」「僕のクラスは三年間、一人の処分も出さなかった」などという単純で底の浅い声が飛び交う職場。多様な自由と揉め事の消えた学校は、ぼくらを退廃させている。

 二年生に進級して生徒たちは、授業ボイコットを組織した。同僚の多くは処分をほのめかしたが、僕は 
 「これは抗議行動、何故なら次の時限には全員が教室に戻り整然と授業を受け、抗議声明も用意していたのだから」と反論して処分は消えた。不満があれは抗議行動をするという経験は、生徒教師双方にいい教訓をもたらしたと思う。
 ボイコットの一週間前、教育実習生がクラス全員に求めた感想文を入れた大きな封筒が教卓上にあった。ある教員が、それを生徒に断りもせず開封。
 「・・・ふーん・・・○○先生のような先生になってください、か・・・」次の感想にも次にも同じような部分がある。揶揄するように読み上げ続けた。感想とはいえそれは、実習生との信頼関係に基づいた私信でもある。
 「いい加減にしてください、勝手に読まないで」Sさんは我慢ならず叫んだという。クラスに蓄積された件の教師へ不満は頂点に達し、ボイコットに及んだのである。不満とは授業の中で生徒が人として扱われていないことであった。抗議声明は、件の教師の前で読まれた。
 「私たちには誰にも奪えない尊厳があります・・・ コルチャックを知ってますか・・・ 学校で一番えらいのは教師ではありません、生徒です・・・」 生徒たちが一行ずつ書いたという。
 彼らは、授業のあり方に異議を申し立てて、この学級の「公」を守ろうとしたと言える。

 執念深く体罰する若い教師を追いつめて、謝罪させた女子生徒二人を思い出す。←クリック 
 追い詰めた生徒は数日後、僕にこう言った。「先生、忘れたの? 去年の授業で尊厳って言ったでしょ、人間には誰にも奪えない人権があるって」 彼女たちは、級友が受けた暴力を、生徒全員に向けられたものと捉えていた。
 「学力」は思いがけないところに突然あらわれ、現実を変える力となった。学習とは定義によれば、現実行為に影響を与える過程なのである。彼女たちは「人権」を単に言葉として記憶しただけではなく、「概念」化したのである。 教師は高校生のこういう行動を生意気とは思うが、聡明さとは気付かない。偏差値に目眩ましされているのは、学校であり教員である。

 卒業後、「授業」が思いおこされ、職場や地域に「厄介ごと」を招きよせることもある。ある卒業生が、有給休暇を申請して理由を聞かれ「理由は聞かれないと「労働基準法」に書かれていると習いました」と応えた。
 「どこで習ったか知らんが、おまえの言つてることは筋だ。しかし、筋だけで世の中はとおらん。おまえのようなヤツは初めてだ、お前の出身校からはもう採用しない」と上司を怒らせることはよくある。
 こういうときこそ、教員は職員会議として企業に「毅然として」抗議したい。教委や地域ボスが暗躍して新たな揉め事が始まるかもしれない。次年度以降の採用はない、と重ねて脅されるかもしれない。だが、こうした揉め事を通しての対話と、調整こそが肝心なのだ。「公」は、そこに生まれる。民主主義もすべてそこを通る。
 

 波風の立たない秩序は、弱者の我慢と諦めと無知よって形成される。強者はそこで、傲慢で無神経な暴力性を蓄積し、秩序の観念を独占する。揉め事は、弱者が諦めず我慢しないとき、そして知識がそれを支えるときに起きあがってくる。社会科はその道具でありたい。
 ブルデューは社会学を「はた迷惑な」「既成秩序を乱す学問」と言って擁護した。社会科もその本質において、対立.混乱.を引きおこさずにはおかないのであり「はた迷惑」こそが使命であると言って良い。 卒業生の同僚が次々とリストラされても、級友に体罰が加えられても、何も起きないとすれば、僕らの授業には「使用価使」はないのであり、僕らの労働は少しも「有用労働」ではない。

 
 「我々の真理はすべて例外なく誤りが矯正されたものである」アラン


 和解する教室Ⅰ~Ⅲは、1997.6「ひと」293号掲載論文『ごたごたの中から民主主義が生まれた』に加筆修正した。

面接「官」って誰

この馬鹿騒ぎの主はいかなる意味でも「公」ではない
 judgeやpoliceをどうして裁判「官」や警察「官」と言うのか。公務員住宅を「官」舎と呼び、教員を教「官」と言う癖は一部に頑迷に残る。
 企業の採用面接担当者が、何故唐突に面接「官」と呼ばれるのか、呼んでしまうのか。裁判員制度で市民
judgeに「裁判員」という言葉を使うなら、裁判「官」は職業裁判員と呼ばなければならない。
 議員候補に付けられる「公」認という言い方も不当である。政党は「公」ではないし、そうであってはならない。オリンピック「公式」スポンサーは更に不自然。ディズニーランド「公式」ホテルに至っては噴飯物の違和感がある。

 大臣や首長や官僚が私用で乗り回す車両をなぜ「公」用車と言うのか。この言語感覚ならば、山口組「公認」○○一家や○○一家「公式」覚醒剤もあり得る。従軍慰安婦は皇軍「公認」特殊慰安所特任接待「官」になる。

 天皇係累で、自動車事故轢殺の過去を持つJOC竹田某が、東京五輪招致の裏金問題で見せる国民を愚弄した態度の根幹は、「官」や「公」の概念に対する弛緩しきった我々の言語感覚にある。国民主権とは何か考えたことがないのか。

 JOCが国民の財布に手を突っ込んで、「おもてなし」と言う感覚は、県民や国民に隠れて一つの県を占領軍に献上した過去と切り離せない。自動車事故轢殺の過去とは以下のことである。

 茨城国体に出場する東京都の馬術選手の乗用車が、22日夕、会場近くの茨城県稲敷郡新利根村で歩行者をはね、死亡させた。このため、東京都は、23日以降の全馬術競技の出場を辞退した。
 22日午後五時ごろ、新利根村角崎の県道を歩いていた同村××××、会社員××××さん(22)は、茨城国体馬術競技東京都代表、竹田恆和選手(26)(東京都港区高輪三の一三の一)の乗用車にはねられ、頭を強く打って近くの病院に収容されたが、23日午前零時過ぎ死んだ。江戸崎署の調べでは竹田選手が対向車のライトに目がくらんだのが事故の原因。
 竹田選手はIOC(国際オリンピック委員会)委員の竹田恒徳氏の三男で、馬術のミュンヘン・オリンピック日本代表。茨城国体には、23日午後の一般飛越競技に東京都の代表選手として出場するため、会場の同郡美浦村の馬術会場近くの合宿所に行く途中だった。
 竹田選手の事故責任をとり、東京都チームは二十三日朝、この日以降の全馬術競技の出場を辞退することを決定、大会本部に連絡した。
 1974年10月23日付読売新聞夕刊

 結局竹田某は刑事責任を問われることはなく、競技に復帰。1976年モントリオールオリンピックにも出場している。

 教員なら、事故後直ちに免職である。こんな男にとって  東京五輪招致の裏金を、どこから調達し誰に渡そうとたいしたことではない。「官」と「公」のなすことに、下々は感謝しろと言わんばかりの傲慢である。

和解する教室 Ⅱ  懲りる自由

猿は和解の方法を忘れていない、我々も猿である
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 和解とは「他者の中に自己を見ること」である。この場合、和解のきっかけは「サイテー」と烙印された「敵対者」によってもたらされた。怒りに駆られて相手を罵る言葉が自分にも突き刺さり「オレも同じだな」と思う。そして再び仲間となった。だがそれは一学期の復活ではない。互いのサイデーの姿が曝され、批判され、新たに評価され、新たな役割を期待される存在としてである。欠点を含めて、或いは欠点のゆえに、互いを認める関係が生まれる。それが、HR後六人の周りに出来た人垣だった。
 臨時HRのあと、P君がグループに混じって笑っているのを初めて見た。数日後には、女子からの挨拶にもぎこちなく照れながら片手を上げて応じていた。


 
発端は、六人が遠足での失態を挽回しようと、文化祭を仕切り自信過剰になったことだった。見かけの成功に舞い上がって尊大になるのは、文化人や知識人ですら避けられない。
 授業中の気ままなお喋り、机の上に拡げげられた化粧品、机の周りに散らかされた私物、あからさまな陰口。
同級生からも教員達からも顰蹙をかう。その上家庭でももめる。彼女たちは四面楚歌、少しも気が休まらなくなった。P君への暴言があったのは、この頃。
 「早く、何とかして・・・」と訴える悲鳴は、生徒にもクラスの授業を担当する教師にも出ていた。しかし、問題に対する共通認識は成立していなかった。無関心な者も問題から逃げる者も少なくなかったのである。
 
 放錬後、彼女たちを待って立ち話をした。
 「どうして私たちだけなの。みんなやってる、私たちだって謝って欲しいことされてる」とむくれた。
 「うん・・・遠足のことは?」
 「あれは、・・・私たちが悪い。自己中だった」
 「・・・このままでいいかい・・・」
 「全然よくない、クラスがぎくしゃくしてる」
 「どうしたらいいかな・・・」
 「・・・時間ちょうだい、先生・・・私たちだけで話させて・・・考えてみる」

 
 時間、担任もそれが頼りだった。先ずは、問題を全体が認識することが解決の糸口である。一部の認識が先走っても全体は動かない。現象の全体を皆が認識するためにはどうしても時間がかかる。説教ではなく個人の内面から生まれる認識でなければ意味はない。
 こうして、彼女たちの話しあいが始まった。放課後の教室で、マクドナルドで、公園の木陰で、夜遅くまで話し合ったことを僕はあとから聞いた。
 六人とも気が強い、ときには激しい口喧嘩にもなった。意見を異にする者との間で、わかり合えそうもないことを伝え合うのが表現である。意見を同じくする者とだけ付き合うことは、アランによれば、狂信以外の何ものでもない。争いを避けて同調するのは、奴隷根性である。
 夕闇迫るテラスでハンバーガーやソフトクリーム片手にけんか腰で話しあい、熱くなった頭を冷ましながら自転車を漕ぎ帰宅する。実に高校生らしい思索である。
 自分たちの属する社会を自分たちの手でよくしたいという熱気が、学園から消えたと論評されて久しいが、問題は依然としてこらえ性のない大人の側にある。熱気が充満する前に、生煮えのまま「無難」に解決するのを手際の良さと評価するのだ。


 彼女たちの約一週間にも及ぶ長い討論の結論は、「とにかく、最初に
誰かが謝らなくちゃ始まらない」だった。結論が出ると、彼女たちは、臨時HRをしたい 一時間下さいと要求してきた。
 時間は、人を追い詰めもすれば、事柄を熟させもする。成り行きを心配した何人もの生徒達から「先生、なんとかしましょう。私たちをあてにして」との申し出もあった。そして50分の臨時HRは始まったのだ。

 この臨時HRのあと、生徒たちが休み時間にも廊下や校庭に出ない日が続いた。「先生のクラスどうしたの、何かあったの」と怪しまれもした。僕は生徒が「先生も教室に入ってよ」と言うのをじっとこらえて、洩れてくる声や笑いに耳を傾けた。
 
休み時間の教室では、話し合いが続いていた。劇的という点では主役は臨時HRだが、実質的意義はこの休み時間の話し合いにある。
 不思議な光景だった、誰かが中心になるのではなく、自然にあちこちで始まる話し合い。そして提案があれば全体に呼びかける。平等が民主主義を貫いている。
 色々な約束が交わされ、最後に席替えが提案された。
 不思議なことに、誰もが「前に座りたい」、「授業に集中したい」という。さまざまな意見があったが、「思いきって自由にしよう」との提案が採用された。気の合うもの同士がかたまって、机は少しも整然としていない。しかし通路は片づけられ、教室の空気は落ち着き、授業への集中度は見違えて増した。   続く


体罰は、即時免許取り消しが相当だろう

これは体罰ではない、暴行である、美化するな
 町田でも「体罰」があって事件化した。いつものことだが重大な誤解がある。体罰は、教育的な意図を込めて加えるものを言う。この場合、教育の気配は無い。学校内暴行に過ぎない。「美化」してはいけない。
 新聞によれば、校長は「暴力はだめだと教員に指導してきた。生徒の心情を思うと申し訳ない」とコメントしている。 「だめだ」と言えばなくなるのなら、人種差別は18世紀には無くなっている筈。戦争も搾取も侵略も貧困も既にない筈だ。

 江戸中期の兵学者大道寺友山は、『武道初心集』で、体罰を「臆病武士の仕業」と激しく非難している。←クリック

    「武士は、・・・道理を説明してよく納得するように教え、少々のことならば許し、堪忍するのが良い。・・・まして、腰刀などをひねくり廻し、あるいは握り拳の一つもあてるなどということは、言語道断のことで、臆病武士の仕業である・・・総じて、自分に手向いのできない相手とみて理不尽のやり方に及ぶようなことは、「猛き武士」は決してしないものである。「猛き武士」が嫌ってしない事を好んでする者を臆病者と言うのである」        江森一郎『体罰の社会史』新曜社   

 また、同じく江戸代中期の儒者江村北海は『授業編』で、教育上の体罰は「好まない」という言い方をしている。
   「書を授けるのに、父兄の膝もとへ引きつけて厳格に授け、覚えない時は呵ったり、あるいは打ち叩いたりするのは、悪い教え方と言うわけではないが、私はそういうやり方は好まない。その訳は、小児はつまるところ、いまだ弁えがないので、書を読むことは難儀なことと思っても、読まないと父兄に叱られることが恐ろしいために、しかたなく読むということになって、その本心では書籍を厭うようになり、これが学業不成就の根となる。大いに良くない事である

  「サムライニッポン」や「ナデシコジャパン」を自賛したがる者が、体罰に名を借りた暴行の先頭に立っているのだから始末に負えない。自制心に欠けて暴行に走る者を「サムライ」とは片腹痛い。体罰は、運転で言えば危険行為にあたる。即時免許取り消しが相当である。学校内暴力なら、懲罰だろう。教委は、君が代を拒否する教師の再雇用を認めないが、暴行・暴言を繰り返す教師は擁護して、口で「だめ」と言うだけ。「体罰」の誘因を教育から追放することに臆病なのだ。


 件の町田総合高校には、忠生高校と町田高校の家政科だけを統合した怪しい経過がある。総合とは言うものの、実態は進学高の町田高校から家政科を厄介払いしたに過ぎない。人気の低い学校やコース同士を組み合わせてみたところで、生まれ変わる道理は無い。問題は局部に集積して、一方に理不尽な苦難を、他方に傲慢な安らぎをもたらすのだ。
「問題」は移植され、集積した問題は互いに作用し合い、新たな問題を作り出す。問題」が外科的に切除された側では、教師は受験指導にエネルギを集中できることになる。だが教師は、少年たちの成長を総合的に見る機会を失っている。なぜなら教師たちが目の敵にして止まない「病的状態」は、健全な状態の極限形態である。環境の変化に適応して、危機を切り抜けるために起る有機体の健全な反応であり、この過程を通して青少年は質的な成長を遂げることが出来る。学校にとって都合のいい部分だけを残したつもりが、少年の多様な異質性を捨てている。丁度、豊かな原生林を生産性が無いとばかりに杉の単一林に変えて得意がるのに似ている。原生林の循環する奥深い健康さを捨てているのだ、愚か極まりない。
 これは公立学校のなすべきことではない。「公」は「勝ち組」だけのものではない。偏差値の高い部分だけを可愛がるための統合を知って、高校生が愉快な訳はない。総合と名乗るなら、偏差値を問わない多様性が保証されなければならない。行政から等しく大切に扱われているという実感が全ての高校生に無い限り、「体罰」の誘因は学校から消えない。
  行政が体罰=暴行の誘因に手を付けないのは、彼らが格差社会の勝利者ではあるが、その根拠の無さに気づき怯えているからである。その証拠に行政官僚たちは、その子弟をとうの昔から少年の頃から留学させているのだ。子どもの偏差値的な優秀さに幻惑される親も、受験や部活の成果に酔い痴れる教師も、衰微しつつあるこの社会に拍車をかけているのだ。それこそが体罰の誘因である。
 株価は、経済活動の健全さを表す指標である。しかし日銀と政権は、株価が経済の実態を表すと強弁して国民の同意なしに株を買い株価を上げて胸を張る愚かさである。顔色は健康のバロメーターであるが、青ざめた病人に化粧を施しても決して健康にはならない。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...