和解する教室 Ⅱ  懲りる自由

猿は和解の方法を忘れていない、我々も猿である
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 和解とは「他者の中に自己を見ること」である。この場合、和解のきっかけは「サイテー」と烙印された「敵対者」によってもたらされた。怒りに駆られて相手を罵る言葉が自分にも突き刺さり「オレも同じだな」と思う。そして再び仲間となった。だがそれは一学期の復活ではない。互いのサイデーの姿が曝され、批判され、新たに評価され、新たな役割を期待される存在としてである。欠点を含めて、或いは欠点のゆえに、互いを認める関係が生まれる。それが、HR後六人の周りに出来た人垣だった。
 臨時HRのあと、P君がグループに混じって笑っているのを初めて見た。数日後には、女子からの挨拶にもぎこちなく照れながら片手を上げて応じていた。


 
発端は、六人が遠足での失態を挽回しようと、文化祭を仕切り自信過剰になったことだった。見かけの成功に舞い上がって尊大になるのは、文化人や知識人ですら避けられない。
 授業中の気ままなお喋り、机の上に拡げげられた化粧品、机の周りに散らかされた私物、あからさまな陰口。
同級生からも教員達からも顰蹙をかう。その上家庭でももめる。彼女たちは四面楚歌、少しも気が休まらなくなった。P君への暴言があったのは、この頃。
 「早く、何とかして・・・」と訴える悲鳴は、生徒にもクラスの授業を担当する教師にも出ていた。しかし、問題に対する共通認識は成立していなかった。無関心な者も問題から逃げる者も少なくなかったのである。
 
 放錬後、彼女たちを待って立ち話をした。
 「どうして私たちだけなの。みんなやってる、私たちだって謝って欲しいことされてる」とむくれた。
 「うん・・・遠足のことは?」
 「あれは、・・・私たちが悪い。自己中だった」
 「・・・このままでいいかい・・・」
 「全然よくない、クラスがぎくしゃくしてる」
 「どうしたらいいかな・・・」
 「・・・時間ちょうだい、先生・・・私たちだけで話させて・・・考えてみる」

 
 時間、担任もそれが頼りだった。先ずは、問題を全体が認識することが解決の糸口である。一部の認識が先走っても全体は動かない。現象の全体を皆が認識するためにはどうしても時間がかかる。説教ではなく個人の内面から生まれる認識でなければ意味はない。
 こうして、彼女たちの話しあいが始まった。放課後の教室で、マクドナルドで、公園の木陰で、夜遅くまで話し合ったことを僕はあとから聞いた。
 六人とも気が強い、ときには激しい口喧嘩にもなった。意見を異にする者との間で、わかり合えそうもないことを伝え合うのが表現である。意見を同じくする者とだけ付き合うことは、アランによれば、狂信以外の何ものでもない。争いを避けて同調するのは、奴隷根性である。
 夕闇迫るテラスでハンバーガーやソフトクリーム片手にけんか腰で話しあい、熱くなった頭を冷ましながら自転車を漕ぎ帰宅する。実に高校生らしい思索である。
 自分たちの属する社会を自分たちの手でよくしたいという熱気が、学園から消えたと論評されて久しいが、問題は依然としてこらえ性のない大人の側にある。熱気が充満する前に、生煮えのまま「無難」に解決するのを手際の良さと評価するのだ。


 彼女たちの約一週間にも及ぶ長い討論の結論は、「とにかく、最初に
誰かが謝らなくちゃ始まらない」だった。結論が出ると、彼女たちは、臨時HRをしたい 一時間下さいと要求してきた。
 時間は、人を追い詰めもすれば、事柄を熟させもする。成り行きを心配した何人もの生徒達から「先生、なんとかしましょう。私たちをあてにして」との申し出もあった。そして50分の臨時HRは始まったのだ。

 この臨時HRのあと、生徒たちが休み時間にも廊下や校庭に出ない日が続いた。「先生のクラスどうしたの、何かあったの」と怪しまれもした。僕は生徒が「先生も教室に入ってよ」と言うのをじっとこらえて、洩れてくる声や笑いに耳を傾けた。
 
休み時間の教室では、話し合いが続いていた。劇的という点では主役は臨時HRだが、実質的意義はこの休み時間の話し合いにある。
 不思議な光景だった、誰かが中心になるのではなく、自然にあちこちで始まる話し合い。そして提案があれば全体に呼びかける。平等が民主主義を貫いている。
 色々な約束が交わされ、最後に席替えが提案された。
 不思議なことに、誰もが「前に座りたい」、「授業に集中したい」という。さまざまな意見があったが、「思いきって自由にしよう」との提案が採用された。気の合うもの同士がかたまって、机は少しも整然としていない。しかし通路は片づけられ、教室の空気は落ち着き、授業への集中度は見違えて増した。   続く


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