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もし、君の庭が貴金属だらけになったら

  夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられて親も子も将来の稼ぎ高に目の色を変えて学校や企業をランク付けする。平等や公平と言う言葉は辞書の中で死んだようだ。それだけではない、歴史上の人物までがその稼ぎ高や地位に焦点を合わせて評価する番組が目白押し。その結果、賞を得た者が排他的に社会総体の実りを思いのままにする。

 学校や企業では、そんな我が儘勝手が横行し易い。偏差値に中毒する日本社会だ、「悔しければ、ひもじければ這い上がれ。」と新聞もtvも止むことなく煽り立てる。    

 根っからの自由人、辻 潤は餓死を選んだ。彼の墓は染井の西福寺にある。我々は貴金属だけの世界に住めっこないのだ。目が眩むような貴金属の眩しさと栄光に「悧巧」な君たちが酔いしれている時、対極には糞まみれの土にまみれながら種を蒔き、水を断崖を運び上げ害虫害獣収奪と日夜闘う者が「造られる」。君は呟くのだ「金さえ払えば文句はないだろう」

 これが太古の昔であれば、中央権力から遠ければ過酷な収奪からは少しは自由。中央の眩しさも伝わらない。たが今全ては暴力的に忽ち伝わる。それが便利で進歩だと。もっと早く、手軽に。

   辻 潤が餓死を選んだ1944年、大日本帝国は裏声で「大東亜共栄圏」愛に酔った。しかし愛は計画出来ない。恋愛を出会い頭の事故に例えたり天使のいたずらのせいにするのも、それがなぜ起こったか合理的な説明が出来ないからである。好きになったばかりに、祖父母や子どもの病状が急変して、慌てて駆けつけ大儲け出来なくなったり全財産を失ったりもする。好きになったばかりに、相手を殺す羽目に陥ったりもする。一途に思い詰め、周りも相手も自分自身さえ見えなくなるからだ。都合のいい時だけに、愛を設定することはできない。

  「五族協和」や「八紘一宇」も、当時の日本の思い上がった東洋支配への「愛」であった。いや明治維新の「四民平等」さえ傲慢な差別社会への「愛」でしかなかった。植民地主義のお先棒を担いだ教会も「愛」を掲げずにはおれなかった。まさに「夢想の中では愛は器用である。どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない」

 愛は計画できないと同時に、計画出来るものは愛ではなく夢想に過ぎない。だから「夢想は屡々崩れずに現実の中へ流れ込むが、その時愛は突然ぎこちないものになる」。「五族協和」や「八紘一宇」が、現実の政治過程に転化するや否や「愛」は支配や搾取の暴力性をむき出しにする。満州開拓の「理想」は中国農民の土地略奪であり、抵抗する者への弾圧殺戮であった。それでも「五族協和」や「八紘一宇」を信じる者は、ただの愚か者である。「夢想の中で横柄に育った愛は、退くことを知らず」一億総玉砕を叫んで死んだ。

  

「人類は結局愚かであった。・・・人類は悧巧ぶることは出来たが、そのために悧巧になれなかった」串田孫一「断想集」


  今また日本は金さえ出せば何でも買えるはずと奢っている。どんなに足掻いても、ダイヤの畑に種は根を張れないのに。

 プロになりいくら稼げるようになったとしても、どんなに賞賛され祭り上げられても、君はもう二度と「楽しみ」の為にplayに興じることは出来ないのだ。

国家テロに、覇権国家が依存するわけ

   白起は紀元前257年生まれ、中国戦国時代末期の秦の武将。司馬遷は『史記』で「料敵合変、出奇無窮、声震天下)」と評した。長平の戦いでは降伏した40万の趙兵を尽く生き埋めにしたと伝えられるが、主君の昭襄王は自害を命じる。

    2024年2月植民国家イスラエルは、ガザ全域の市街を破壊しパレスチナの存在を消そうとしている。ジェノサイドが止まらない。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によれば゛昨年10月以来ガザ地区でイスラエル軍が殺害した子どもたちの数1万2300人は、2019年から2022年までの4年間に世界中の紛争で殺された子どもの合計よりも多い。


    ジョナサン・パーカーの著書『テロリズム その論理と実態』は 、一八世紀から一九世紀にかけてアジア、アフリカで展開されたイギリスによる「虐殺」の数々を、「国家テロ」として挙げている。一部を引用する。

  大英帝国支配下のベンガル(印度東部からバングラデシュに跨がる地域)総督の副官であったジョージ・フィッツクラレンス大佐は、ビンダーリー族について 「盗賊として有名だった彼ら戦う権利を持つ敵として彼らを支配するのではなく、彼らを根絶することが目的だった」と語っている。

 「いったいどうやってマオリ族を文明化できるというのか」と、1834年にニュージーランド北沖で船が難破した・・・英帝国軍人船長は問いかけた。「確実にやつらを射殺すること。一人残らずニュージーランド人にマスケット弾丸を打ち込むより他に、あの国を文明化する方法などない。」

  オーストラリアの裕福な牧場主でもあったウィリアム・コックス将軍は、1825年に開かれたボーフォートでの公開集会で演説した。「我々がなしうる最善のことは、すべての黒人を射殺してその死体を土地の肥やしにすることだ。・・・黒人を根絶するために、女と子どもは特に確実に殺さなければならない。」


 これら「大英帝国」植民地支配を担う軍人の歪んだ世界観は枚挙に暇がない。アムリットサル事件はその頂点の一つ。

  非武装の集会の参加大衆に対してレジナルド・ダイヤー准将率いるイギリス領インド帝国軍一個小隊は発砲、さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。

  今尚イスラエルがパレスチナでやっていることは、

 フランスがアルジェリアやアフリカ各地で、イギリスがインドが世界各地で、ベルギー人がコンゴやアフリカ各地で、アメリカ人がベトナムや世界各地で、スペイン人が南米で、イタリア人がアフリカで、ドイツ人がナミビア等のアフリカ各地で、日本が朝鮮や東アジアでやった国家犯罪=国家テロの一部にすぎない。

  これら嘗ての植民地帝国諸国が、挙ってイスラエルのジェノサイドを「国家の権利としての防衛」と見做すのは嘗ての国家犯罪=国家ロを合理化するからであり、反省や謝罪の意識は何処にもない。

盗んだ品物を返しさえすれば窃盗の罪もチャラかい?

 定期テストや進級テストで不合格宣告されたら、事後訂正すれば合格か?  医師国家試験や司法試験終了後、間違いがあっても言い訳すれば合格なのか?   だって自民の国会議員のやり放題は、ズバリそんなとこだ。

 自民党国会議員の政治資金パーティー裏金作りは、秘書のミスや事後訂正で済ませて知らん顔が当たり前、それをマスメディアがもて囃す。元々怪しさ満載の政党交付金制度導入自体、企業・団体献金禁止が前提だった筈。

  そんな国家・民族なのか、僕の住むこの場所は。原爆を二度も落とされ水爆の害さえ被ったにもかかわらず、加害国家に従属して80年が過ぎようとしている。あろう事か、被爆者を差別し加害国家の隠蔽工作に忖度し続けている。

 我々はとんでもない「思考停止」に陥っている。

 世界に類を見ない大規模な消費税を自然現象のように受け入れ、天皇一族には珍妙な敬称をつけたがり面倒で費用の嵩む元号を不必要に弄びながら、他方では福祉教育医療を後退させ続ける。

  利用価値のうすい「北方領土」や竹島・尖閣諸島には眦を決して拘るが、戦犯昭和天皇は住民ごとアメリカに占領続行を懇願させ責任を問おうとはしない。正常で独立した判断を捨てたか、麻痺させたか、無知なのか。この時新憲法は既に施行されていたのだ。

 「天皇陛下万歳」や「殉忠愛国」「天皇帰一」「皇国の亀鑑」に類いする呪い言葉は、この民族の批判精神を凍結させたのだ。

  スポーツや遊戯のプロ化も大掛かりだが手軽な「思考停止」装置に他ならない。何故ならあらゆる進歩や発展の指標が悉くアジア諸国に追い抜かれている現状への考察をさせないからだ。

  学校に於ける「思考停止」装置は「部活」である。教委や管理職にとって学校の使命は授業では無くなって久しい。その証拠に校長は授業出来ない身分である事を恥とも屈辱ともしないのだ。ひたすら校舎の壁や廊下に各種大会の入賞歴を晒す事を誉れとしている。何時になったら、校長や教委が授業に夢中になるのだろうか。

「勝つことだけ」に執着する「プロ」の悲劇 Ⅰ

 

   引退する頃にボンヤリ分かっていたことが、三年ほ

 元世界フェザー級王者。通算103KO勝ち 
ど前になってハッキリ分かったんだよ。俺が女も家庭も全て捨ててやって来たボクシングが、実は金持ちが貧乏人を殴り合わせて見物する非道いことで、しかも金は結局見物していた連中が、、いろんなテクニックで巻きあげてしまうのさ、・・・ファイト・マネーの上前ははねる。その上、やれ一緒にビシネスをやろうとか、出資しろ、土地を買って朝鮮キャロットを植えれば、ボクシングをやめてもピンクのキャデラックに乗り続けられるなんて、それはいろんなことを言って来るんだ。リングに登る直前の控室から、一文無しになったこの頃まで、男も女もひっきりなしに俺の金を狙い続けるんだ。ボクサーは、強ければ強いほど他のことはあまり知らない。それに減量や練習が辛くて堪らないし、試合の前には怖ろしさで気が狂うか、そうでもなければどこか遠くに逃げてしまいたくなる。だから、つい一番そばにいる自分の女に当たってしまって、引退する頃には独りぼっちで、一緒に考えたり心配してくれる者もいなくなってしまう。   サンディ・サドラー   元世界フェザー級王者。通算103KO勝ち 


   集団の中にどんなに優れた人がいても、集団の判断は知能の低い者に向かって平均化される。   マクドゥーガル   

 戦争や災害など密室化した空間で、我々は理性的判断を如何に保てるのか。社会が特に報道が、批判を怖れないことは不可欠。しかし今この国は戦争でも無いのに、新聞もTVも挙げて理性的・合理的判断を放棄、「勝つことに執着」している。 Japan as Number Oneと持ち上げられ慢心し続けたこの国は、あらゆる指標で落ちぶれ内に籠もっている。容易く稼げる「一位」を探し、やっぱり優れていたとの判断に縋ってしまうのだ

 

 勝敗に関係なく相手を理解することは、自己認識の前提である。負けることや互いに楽しみを分かち合うこと以上の悲しみはない。

   幸いに通算103KO勝ちのチャンピオンサンディ・サドラーは、「強ければ強いほど・・・他のことはあまり知らない。それに減量や練習が辛くて堪らないし、試合の前には怖ろしさで気が狂うか、そうでもなければどこか遠くに逃げてしまいたくなる。だから、つい一番そばにいる自分の女に当たってしまって、引退する頃には独りぼっちで、一緒に考えたり心配してくれる者もいなくなってしまう。」ことに気付くことが出来た。

 プロ野球、プロサッカー、プロゴルフ、・・・プロパチンコ、プロ麻雀・・・今や栄光のオリンピック各種競技もアマチュアでは無い。放映権で荒稼ぎする業界お抱えのプロだ。囲碁将棋も少年時からプロを目指したくなる。だが強くなればなるほど他のことは知らなくなる。これを成長と呼ぶことは出来ない。

 人間は全面的な発達を目指すべく宿命づけられている。

何時「才能」が発現するか、開花しないかも知れない。子ども時代からプロを目指すのは、才能の芽を早期発見することではなく、可能性を摘み取ることにしかならない。どんな時期に如何なる環境で誰とともに才能が伸びそして消えるのか。たとえ死ぬまで才能の発現が無いとしても、彼も又天才かも知れない。。比べ競うことは犯罪的賭けなのだ。失敗して路頭に迷う確率は、成功するより遙かに高い。

 手当たり次第にtopを目指す性癖は天皇制fasismの逃れられない宿命である。

 第1次南極調査隊の副隊長兼越冬隊長の西堀栄三郎や初期マナスル登山隊の今西綿司らは登山家としてはアマチュアであった。それ故「強くなればなるほど他のことは知らなくなる」ことからは自由であり、優れた科学者として成果を挙げ続けることができた。

 コロナ対策の「専門家」会議の医者や学者たちは、病院経営の専門家=「プロ」として莫大な利権を手中に収めた。利権を手中にすればするほど医師や学者としては、恥多き失敗をかさねている。

 アマチュアであり続けることだけが人間らしい成長や発達の不可欠の条件なのだ。鶴見俊介も小田実も決してプロ評論家やプロ作家では無かった。

子どもを「賞金稼ぎに育てること」と「子どもの尊厳」は決して両立しない

 

 「高度成長期にあった一九六七年の新聞のテレビ欄を見る。今と大違いなのは子ども向けアニメ番組の数である▼「魔法使いサリー」 「リボンの騎士」 「悟空の大冒険」…。午後六時、七時台を中心に一週間に十を超える作品がひしめく。子どもがたくさんいた時代らしい▼創成期のアニメ業界は子どものためによく働いてくれたものだと今さらながら感心する。」   2023/07/23 東京新聞「洗筆」



 高度成長期は子どもが大勢いたから、子ども向けアニメ番組が増えたのか。そうではないだろう。時代が大人が政治が子どもを大事にしていた。僕は団塊の世代だが、祖父母や両親、大叔父、大叔母そして近隣の大人達が「もう、この子たちは戦争に行かなくても済むんだね」と、ことあるごとに庭や路地で遊ぶ僕らを眺めながら語っていたのを思い出す。彼らにとって、「戦争放棄」は掛け替えのない喜びであった。

 今憲法そのものを槍玉に挙げる風潮の中で、大人たちは子どもの何に喜びを見いだしているのか。子どもをどこに向けようとしているのか。行政もメディアも子どもを「ゲーム」漬けにするのに躍起だ。全生徒に配布されるパソコン端末は「ゲーム」し放題。TVは公営ギャンブル中継の類いが花盛り。これは子どもを将来の「カジノ」予備軍と見て、期待しほくそ笑んでいるからに他ならない。子どもの尊厳はどこに行った。生きた存在そのものが大切ではないか。不確か極まる「稼ぎ」とは無関係でなければ尊厳は無い。善意のつもりの親や教師や行政が「稼ぎ」高に目を奪われた途端、大人から「子どもの尊厳」は消える。行政も教師もmediaも、愚かな「博奕」打ちになろうとしている。

 ソニー生命「将来なりたい職業」調査によれば、一位・youtuber 二位・プロe-sportplayer  三位・起業経営者 そして五位にはゲーム実況者 六位プロsportplayer  が2021年男子中学生に選ばれている。手っ取り早く稼げることへの圧力が高いことが読み取れる。

 こうした少年たちが大人になれば、稼ぎの少ない親や学校、資産の無い親や老人を蔑むに違いない。資産額や地位だけに目が向き、人間の尊厳への関心は絶滅する。既に政治はその方向に突っ走っている。出来れば資産や地位だけを残して消えて欲しいと言わんばかりに。大谷人気さえ所詮は資産価値にすぎない。球団にとっては観客動員収入、fanにとってはマニアグッズの値上がり。囲碁将棋人気も所詮は資産価値。

 この異常な狂気は「フランス人のペタンク好きや嵐寛寿郎の掃除好き」と比べるとよく分かる。このことについては、当blog「平凡な自由」は青い鳥ではない に書いた。https://zheibon.blogspot.com/2019/12/blog-post_23.html

 われわれは、仕事やスポーツを人生の楽しみとして捉えることが出来ない。いつも勝ち負けや成果、そして興行資本の日程に縛られている。これはとてつもない不幸だ。 


米国制作「ベトナム戦争映画」にアメリカ先住民=インディアンが登場することは無い。何故なのか。

  合州国のベトナム戦争映画では、黒人やヒスパニックへの差別や偏見もあからさまに描かれる。だが、先住民=インディアンが登場することは無い。何故か。 

 合州国では黒人やヒスパニックは差別と偏見の対象であるが、先住民=インディアンは今尚「殲滅」の対象であり続けるからだ。 だから先住民=インディアン殲滅そのものをテーマにした騎兵隊西部劇映画には事欠かない、特に日本で好まれる。これも珍妙な現象である。           

 アメリカ「独立」宣言(1776年)から100年以上も経った

1890年12月29日、Wounded Knee Massacreが起きた。無抵抗のスー族インディアン一団に対する騎兵隊の民族浄化作戦である。虐殺を実行の第7騎兵隊には勲章が授与されている。

 英国から「先住民のいる新大陸」へたどり着いた清教徒は最初の冬(1620年)を越せず大半が死んでいる、辛うじて生き残った彼らを全滅から救ったのは神だろうか。こんな祈りをした者がある。

 わたしたちのうちの十人が、千人もの敵を相手にすることが出来るのを見るとき、また、わたしたちの植民地の成功を見て人々が「主よ、ニューイングランドのようにして下さい」と賛美と栄光を表白するようになるとき、わたしたちはイスラエルの神がわたしたちのなかに臨在されることを見いだすであろう。なぜなら、わたしたちは「丘の上の町」だからだ。全世界の人々の目がわたしたちに注がれていて、もし始められたこの仕事に関してわたしたちの神に不忠実であれば、神はわたしたちから去ってしまわれるのであり、わたしたちの物語は世界中に言葉によって知られるようになるからなのだ。(ジョン・ウインスロップ、マサチューセッツ・ベイ植民地の初代総督)

 そうではない、衣食住に難儀を極めた清教徒は現地の先住インディアンの好意(先住インディアンにとって、難渋する者に手を差し伸べることは「人間」として当たり前のことであった。)に助けられる。これを「神の思し召し」と見做し、インディアン殲滅を勝手様々に「合理化」する為に「神」は利用された。つまり神の許可を盾に先住民を虐殺。 1000万人以上を数えた先住民=「アメリカ・インディアン」は、50万人に激減してしまう。

 清教徒の或いはキリスト教の見解によれば、神を理解するものを奴隷とすることは禁じられる。しかし清教徒は先住民=「アメリカ・インディアン」を奴隷化。同時に数々の作戦で奴隷労働力を殲滅し続けた結果、奴隷の供給源を失い奴隷狩りを旧大陸に拡大してしまう。


 米軍指揮官ジョン・チヴィントン大佐は、メソジスト派牧師長老だった。或年の州議会議員選挙で演説している。  

  インディアンに同情する奴は糞だ!・・・私はインディアンを殺さなければならない。そして神の天国のもとではどのような方法であってもインディアンを殺すことは正しく名誉あることであると信じる。小さいのも大きいのも、すべて殺して頭の皮を剥ぐべきです。卵はシラミになりますから。


 建国の父にして第一代大統領ジョージ・ワシントンは、イロコイ族絶滅作戦で、

 「彼らを徹底的に根絶やしにするように」と指令し、殺したインディアンの皮を剥ぎとらせ、軍装の飾りにさせ、「インディアンも狼も生贄となるべきけだものだ」と述べている。


 清教徒は、先住民を対等な「人間」と認識することは無く、彼らにも守るべき土地・家族・文化があると考えることさえ出来なかった。彼らは旧約聖書に依拠しながら新大陸を約束の地カナンと見做して今尚占拠拡大して止まない。米国がIslael に加担しPalestine侵略と虐殺を積極的に支援するのは、米国の成り立ちに於ける先住民殲滅と略奪略奪を認めたくないからだ。

 同じ理屈は、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ各地植民地化の「錦の御旗」として高く掲げられ夥しい虐殺・略奪を欲しいままにしてきた。  


  「すべてを共有する」というインディアンの文化では、土地は誰のものでもなく、みんなのものだった。


 1973年スー族保留地内の「ウンデット・ニー」で、スー族と「アメリカインディアン運動 (AIM)」が同地を占拠し、「オグララ国」の独立宣言を行った。この「ウンデッド・ニー占拠抗議」には、全米からインディアンが応援参加した。この非武装の先住民たちに対して合州国と州政府は戦車や武装ヘリで鎮圧。

 2003年、約100年に及ぶ先住民=インディアンの運動によって「カスター国立記念戦場」は「リトルビッグホーン国立記念戦場」に名称変更され、「インディアン記念碑」が建立され、地図と解説の書かれた石壁が設置された。この石壁には次の文言が彫り込まれている。

 “The Indian Wars Are Not Over.”



   追記 2023/07/27 nhkのbs1で 「世界のドキュメンタリー選 ▽われらの土地われらの手にハワイ立ち上がる先住民」を放送する。番組案内にはこうある。
 かつてハワイでは土地は王のものとされていた。しかし19世紀後半以降、多くの土地が島外の人の手に。現在は絶景を望む海沿いの土地の多くが富裕層に買占められ、米軍に騙し取られ、先住民は祖先の墓に行くこともできない。オアフ島では今、ホームレスの4人に1人が先住民だといわれる。失った権利回復の闘いを続ける先住民たちの思いを伝える。 原題:Hawaii The Native Resurgence(フランス 2022年)
 米軍と自衛隊に苦しめられている沖縄先住民へのこの上ない励ましでもある。こういう番組は日本のメディアには望むべくもない。

人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。救えよ救え。子供・・・魯迅『狂人日記』

 

  ファシズムとは・・独裁者の言葉に突き動かされるのではなく、そんたくや自己規制、自粛といった日本人の『得意』な振る舞いによって静かに広がっていくということだ。  辺見庸

   授業以外の校務分掌や部活そして決定権のない会議が教師の日常を埋め尽くす。それらに共通するのは、抑圧され叩きのめされた批判精神と連帯の不能性だ。批判精神も連帯も自由な授業を通してのみ教室で共有され市民社会と結び合う。

 抑圧が一時的なら、人の精神は反発する。新鮮な知的可塑性が躍動するからだ。しかし血中酸素が切れるに連れ組織は壊死して悪臭を放つ。学ぶ青少年が抑圧された学校も、悪臭を放っている筈だ。それが仲間苛めや自殺、万引きなど不良行為として現れるのだ。これが自然界なら、異臭を嗅ぎつけた生き物達か瞬く間に食べ尽くし、環境を浄化する役割を担うウジ虫やシデムシもハゲタカも健康な社会には欠かせない尊い存在だ。見かけに引きずられ歪んだ判断をウジ虫やハゲタカに下すおのれの「健全」性を疑いたい。

 だが社会は「悪臭」に馴れてしまう。馴れること無く自由に知的可塑性を維持する者は迫害され始める。忖度はこの時、迫害する側に生まれる。

 社会が健全なら、仲間苛めや自殺万引きなど不良行為は自治的に克服される。忖度など要らない、それが風通しの良さだ。   

 今日の社会は、不快の源そのものを追放しようとする結果、不快のない状態としての「安楽」すなわちどこまでも括弧つきの唯々一面的な「安楽」を優先的価値として追求することとなった。それは、不快の対極として生体内で不快と共存している快楽や安らぎとは全く異なった不快の欠如態なのである。そして、人生の中にある色々な価値が、そういう欠如態としての「安楽」に対してどれだけ貢献できる ものであるかということだけで取捨選択されることになった。「安楽」が第一義的な追求目標となったということはそういうことであり、「安楽への隷属状態」が現れて来たというのも又そのことを指している。       藤田省三『安楽』への全体主義『全体主義の時代経験』

 もしある大学の入学式学長式辞がこの『全体主義の時代経験』に触れたものであったらと想像したくなる。なぜなら今大学に必要なのは、大学運営の風通しの良さの指針としての学生自治と学問の自由の砦としての教授会自治だ。 僕が想い浮かべるのは、国立大学の独立行政法人化が厳しく批判されていた時期・2010年頃だ。

   今この国では、猫や犬等が自然から「人為」的に切り離され「かわいい」ペットとして売り買い、狂ってはいないか。 同様に青少年が自由な市民生活から隔離され、ペット化される。現実の政治や市民活動から遮断された「人為」時環境で行われるのが「模擬投票」と名付けられた「政治教育」。毎年繰り返される制限だらけの八百長儀式。少年達は吹き出したくなるのを堪える。彼らが選びたいのは校長、生活指導方針や担任。学校行事や溢れる「序列」を変えたいのだ。・・・こうして少年達は次第に確実に「政治嫌い」「政治アレルギー」になる。それ故彼らは選挙権を手にするや、投票に無関心となり投票率を下げる。「部活」に狂っていた高校生が卒業と同時にsportsしなくなるのと同じ構図。

 これこそが「模擬投票」教育の狙い。人が人らしい社会を建設する行為としての政治そのものから若者を遠ざける、それはまさにヒトがヒトを喰うことではないか。魯迅は『狂人日記』の結末で主人公にこう叫ばせる。

 「知らぬままに何ほどか妹の肉を食わない事がないとも限らん。現在いよいよオレの番が来たんだ・・・ 四千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わかった。真の人間は見出し難い。・・・人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。救えよ救え。子供・・・」

「たまには他人の立場になって考えなさい」

 

 一つの事件について語るとき、片側にだけ立って考えてみる公平さが必要です。たとえばあなたは、何も分からずに生きている愚鈍者は生きるイミがないといっているが、彼らの立場で彼らの幸福について考えて見たことがあなたにはあるだろうか。もしかしたらたった一輪の野の花が咲いていてよかったと考えることがあるかも知れないと思ってみるくらいのやさしさを持ちなさい。


 こう言ったのは寺山修司だったか。「何も分からずに生きている愚鈍者は生きるイミがない」との部分は、まるで石原慎太郎を名指するかのようだ。重度障害者の病院を視察した石原知事は「ああいう人ってのは、人格があるのかね」「絶対よくならない、自分が誰だかわからない、人間として生まれてきたけれど、ああいう障害で、ああいう状況になって」「ああいう問題って、安楽死につながるんじゃないかという気がする」などと会見で発言している。知事として初当選の99年の事だ。しかし寺山修司は83年に没している。

  石原は68年議参院選全国区に自民から立候補。史上最高の301万票で当選。75年都知事選では美濃部亮吉に挑戦し敗れ大きく挫折。97年衆議院に鞍替え反共を旗印に「青嵐会」を結成。寺山修司は未来の首都に不気味な思潮が吹き荒れることを感じていたのだろうか。


  「自分」があれば、「他分」がある。相手の立場にたって考えることが、我々の社会でどれほどあるだろうか。

  たとえばフィリピンで日本人将兵の慰霊祭、ここで50万人が死んで日本人関係者は涙する、感泣、慟哭する。これが自分。

 だが日本軍は現地のフィリピン人を100万人も殺しているのに、殺されたフィリピン人は慰霊祭から抜き去られる。ここには他分はない。


 官僚的宗教国家「イスラエル」には過剰に「自分」=シオニズムが満ち溢れ、古くからの住民パレスチナ人は暴力的に絶えず抜き去られている。宗教国家イスラエルには「他分」はあり得ないかのようだ。

 だがパレスチナ解放戦線(PLO)側には、右派も左派も「他分」で結束する。PLOはイスラエルの民との民主的共存を目指しているからだ。

                    

  「他人の立場に立つ」ことがこの学校社会でありうるか。今学校で時間や費用が割り当てられるのは、「公(おおやけ)」事である授業ではない。陽があたるのは、いつも部活や行事そして受験。これらは「公(おおやけ)」事だろうか、「私」事=「自分ごと」ではないか。  たとえば「卒業」は、学業が成就し学位を得た「私」個人の単なる通過点であり、それを祝うのも家族や友人たちの私的集まり。「部活」の中身は個人的な楽しみ。受験は個人の進路や興味に基づく選択。それらが集積巨大化し官僚化を経るにつれ、ゲゼルシャフト化し

て疑似「公」の色彩を帯びる。集積し官僚化の過程は、個々の特性は打ち棄てられ効率が優先する。こうしてゲマインシャフトはゲゼルシャフト化する。「他人の立場に立って考える」ことは、たまにであってもなくなる。アメリカ人に、原爆投下について「他人の立場に立って考える」よう促すことが絶望的であるように。我々にとって「北朝鮮の立場に立って考える」事が想像すら出来ないように。でも「たまには他人の立場に立って考えなさい」

言葉は平明に、門外漢や年寄りを分からない言葉で分断排除してはならない。

 アラート /  コンプライアンス  /  ステークホルダー    /    ダイバーシティ   /    エビデンス / アジェンダ /  ペンディング  /   フェーズ /  インクルーシブ  ・・・・  と横文字で武装しさも最先端専門家気取りが流行るのは何故か。

 服や車や化粧品の色までレッドやパープルそしてネイビーなどと表示して売る。この国には豊かな色彩感覚があった筈、粋な名称が使われてきた。それは殆ど無限と言ってもよい程だ。我々は豊かな色彩感覚とそれを表現する能力を無くしたのだろうか。英語風がかっこよくインテリ風でクールならば「一般大衆」が使う言葉はダサイことになる。誰にも分かるという言葉の平等性を破壊して、横文字に精通する自己の優位性が嬉しいのか。

 こうして単語が際限なく増殖するたびに、古びた言葉が無秩序に積み上がる。

 それがモノなら厄介極まる「ゴミ屋敷」や廃棄物の山として人々の意識を刺激して、否応なく解決策を模索することになる。はじめは「ゴミ屋敷」主人の心理や行動を好奇の眼差しで眺めたり鼻をつまんで揶揄する。怒りと暴力が拡がる時期もある。だがやがて全ての人の尊厳を回復するコミューン=共同体の創成に至る長い過程が否応なく模索される。

 1872年東京府知事が発令した「違式註違条例」というものがある。この条例は刺青、男女混浴、春画、裸体、女相撲、立小便、肩脱ぎ、股をあらわにすること、街角の肥桶などを、軽犯罪として細々と禁止した。「廃刀令」「断髪令」等と文明開化を焦る明治政府は文明のかたちに煩かった。 不平等条約を受け入れてしまった日本の支配層は欧米キリスト教徒の、日本のあれがこれが文明的でない野蛮であるとの視線に極度に神経過敏になった。

 幕末の江戸では若い女性が路地で行水を使っていた。それほど治安が良かったのであり、裸は美しいものであっても猥褻なものではなかった。それはむしろ誇るべきことである。しかし若い女性の行水に、英国婦人が野蛮と眉をしかめれば忽ち裸禁止令を出した。盆踊りや裸足が槍玉に挙がった所さえある。

 「恥ずべきでないことを恥じる、そのことが恥」なのだ。他人の尺度でしかものを考えない卑屈さは、「文明国」にない筈のものに対する傲慢過酷な眼差しを生んだ。 通りすがりにたまたま目に入った現象を非難する「文明人」の一瞬の嫌悪の感情は、所詮深い考察を伴うものではない。例えそこに注目すべき視点があったとしても、我々は我々の社会の実態を踏まえて、判断をしなければならない。肥桶が臭いと言えば、それは安全で良質な肥料であり、数百年わたって百万都市の衛生を担って成功していたことを説けば良い。それが矜持というものである。矜持を捨てて何が「文明」か。

      『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)    から

 明治日本が手本にした大英帝国のキリスト教的「倫理」観は、世界的普遍性からは大きく隔たっていた。その独善極まる植民地主義は、未だに悍ましき大規模殺戮と差別の源となっている。「通りすがりにたまたま彼らの目に入った現象を非難する一瞬の嫌悪の感情」は特殊な「私事」にすぎない。彼らの内輪の掟に過ぎないことを、自国の民衆に強制する過ちを文明化と呼んだ。

 違質な価値観を持つ国同士が出会うとき、対話で何が可能なのかを探りながら学び合うことが外交に他ならない。学び会うことで互いの世界観を豊かに拡大出来る。しかし強大国に忖度すれば、歪みを生む。それが太平洋戦争を引き起こし、原爆投下に至った。 


 「文明国」にはない筈のものとして槍玉に上がった一つが、浮浪「癩」者だった。少し学べば、浮浪癩の実態は貧困であることに気付く。文字通りの文明国であれば、貧困の放置こそ恥ずべきであった。病気は不運なものであっても恥ずべきものではない。


  違式(いしき)は「御法度に背く」、註違(かいい)は「心得違い」と意味をとらせている。ことさら難しい漢語を使って恐れ入らせようとの官僚の魂胆が見える。おかげで各種の解説・手引き・図解の類いか数多売れた。馬鹿馬鹿しい話だ。


 共同体の可能性は、社会に対する深い洞察と長い忍耐から生まれる。「違式註違条例」の如き「その場しのぎ」は僅かに残っていたコミューン=共同体の欠片さえも破壊してしまった。

 政治屋も官僚も企業も大衆もそして文化の担い手までも、横文字に執着する。何を怖れて執着するのか、世間に同化出来ない自分に追い詰められてか。中身がない、中心がない、数値化されて「傾向」だけが加速する。


 アラートって何?・・・とマゴマゴしている間にが土石流が襲い、原発が爆発しかねない。皆が知っている言葉を探せ。アラートは、警報・コンプライアンスは、法令遵守・ ステークホルダーは、利害関係者・・ダイバーシティは、多様性や多様化・ペンディングは、保留で十分じゃないか。横文字に馴染みのない門外漢や老人にも容易く通じる。広く正確に通じてこそ言葉である。それが言語の美しさの基本。コミューン=共同体は、言葉や生活の共同性を基本にしている。


   学校に蔓延する「部活が命」の傾向に怯える教師達も、よき授業・綿密に準備した授業を待ち望む青年達が待ち受けていることに盲目だ。 部活は私事にすぎない、授業こそ公事であり良き授業は生徒の権利であり教師の義務だ。


  校舎に入賞した部活や名門校合格者数の垂れ幕を並べることが学校の誉れか、一見全体の立場から発するかに聞こえる軽薄な掛け声に流される-それが安逸のファシズムの始まりだ。異議を唱える者を事前に排除して完成する、心地よい全体主義体制。

 公の性格を持たせた「部活」は今や全国を覆い「官僚制」化し暴走、公教育を駆逐している。政府や自治体が担う公=おおやけの仕事が利潤の最大化を目的とする企業に任される。 今や日本では、雇用者全体の僅か1/17が公務員。 これはOECD諸国では最低率。教育にも医療にも福祉にも、公=おおやけは大きく後退して「私」益が前面にでる。それは選挙によるコントロールが効かなくなることを意味する。 


 追記 異文化との出会いで大きな貢献をなした日本人もある。中浜万次郎、大黒屋光太夫、南方熊楠、阿倍仲麻呂、杉原千畝。 個人としての日本人は可能性を秘めているかにみえる。しかしこれは日本人だけの特性では無い、英国人も中国人も米国人もそしてあらゆる民族が個人として異文化と接したとき、双方に大きな足跡を残している。 

「大本営発表」由来の筋書きを暴露しないことが良識なのか

  2021年の暮れ、長いメールが友人から届いた。彼は現役の医者で医学部教授でもある。

 仕事の帰り道に、I・立憲参議院議員の事務所に、時々よって 話しすることがあります。・・・

 自公政権の悪政は長期間続いているだけでなく、国民の生活と人生の安心不安と幸福感、経済停滞下での企業利益と株主配当増加と賃金低下、社会の(不)健全さ、アメリカへの従属と軍備拡張強化、国民に対する監視等々の更に悪政は強化され続けている。悪政は更に悪しくなって続いているにもかかわらず、2021年総選挙では、自公政権は多数を占め、維新の会などの補完勢力は飛躍し、野党共闘勢力は後退した。・・・・

 彼の義憤は高校生の頃から一貫して誤魔化しがない。だが義憤も続けば人は消耗する。僕は思う、かくも長き義憤は何故か。長きにわたって政変も革命もクーデターさえ無かった、一時は興奮渦巻く変容に見えた現象も瞬時の稲妻に過ぎなかったのか。全てが「大本営発表」由来の筋書きに乗っていたのではないか。

 我々には何一つ自己決定権がない。例えば政府でさえ「横田空域」の存在に口を挟む気配すらない。「横田空域」所有者が大戦後の「大本営」と化している。(おかげで日本政府自体が、歴史の記憶から広島・長崎の原爆爆撃が「米国の仕業」であったことを消し去ることに躍起になっている。)

 平の国民なら、なおさら自己決定権はどこにもない。高校生は有料のお仕着せを「カワイイ」と歓声を上げる始末だ。若者は自らの進路も何一つ選択できない。格付け=偏差値による割り当てから自由になれないからだ。 教師は更に哀れだ、労働基本権すらない。 

 政府は我々「主権者」が入手できない各種の情報を、例えばワクチン接種の影響について詳細なデータと論文を把握しているはず。欧米はこれらを公開している。  

 日本では、ある学者がコロナワクチンの全有害事象等の開示を求める行政訴訟をおこした。これに対し、厚労省はなんと「20234月3日に一部のデータを開示し、全データの開示は2026年度末までに段階的に検討する」と回答する始末。ワクチン接種は、主権者ひとり一人が詳細なデータをもとに判断する。医学論文を何一つ書いていない専門家で構成する会議が下命するものではない。 詳細なデータの作成と公開が官僚=公僕の義務であり、その所有権は主権者に帰する。

 にも関わらず判断は官僚が行い、国民は温和しくそれに従う。この国ではこの構図に異議を唱え怒りを表明することが「大本営発表」の存在を暴露することとして「自粛」の対象となって久しい、自粛すれば全てが存在しないことになる。虐めもパワハラも暴露する奴が混乱の源だと見做される。それは「国際」関係そして国政から学校までを貫く「良識」=処世術となっている。

  EUには、そんな「良識」を打ち破る仕組みがある。

 米国はその覇権的立場に胡座をかき、同盟諸国や従属国など第三国に対して米国が設定する制裁体制に従うよう圧力をかけていた。外国企業は米国の制裁対象国と取引すれば、米国市場を失うことになった。 それでも従わなければ軍事クーデターによる政権打倒は常套手段だった。その例は中南米で幾度も繰り返され、中東や東アジアやアフリカ間断なく続いた。

 これらの米国の治外法権的措置に対抗するため、EUはブロックメカニズムを導入。第三国とEUは、不当な制裁法の阻止、制裁の範囲を回避するための特別な目的の手段、さらには対策など、さまざまな非司法的メカニズムを利用している。

 EUブロック規定第5条(1)では、「EUの運営者は、EUが治外法権的に適用するとみなされる一連の外国制裁法の「外国裁判所の請求を含む、直接的または間接的に」要件または禁止事項を遵守することが禁止される」。  問題の法律は規則の附属書に記載されているが、現在はすべて米国の法律。 第5条(2)は、欧州委員会がこれらの法律の全部または一部を遵守するようEU運営者に権限を付与することができ、これに従わぬ場合、EUの利益を害することになると規定している。  2018年、欧州委員会は、イランに対する米国の二次制裁(再適用)を含むようEUブロック規定の附属書を更新している。 

 ブロック法は、EU企業が米国の制裁に従うことを禁止しているわけだ。例えば米国が核協定を脱退した後、イランに対して加えた制裁を拒否するために使用されている。

   米軍とともにリビアやイラク等を爆撃してきたeu諸国ですら米国の干渉に手を焼いていることがよく分かる。eu諸国や米国に支配された弱小国家・民族は過去の「宗主国」に対する怒りや悲しみは如何ばかりか、想像するに余りある。

 英国王戴冠式騒ぎの中、英連邦12カ国の先住民組織や指導者たちが、イギリスの植民地化が先住民に与えた影響に対する謝罪を求める書簡を突きつけた。「謝罪、賠償および遺品と遺骨の送還」と題された書簡は、元上院議員で『オーストラリア共和国運動』の共同議長を務めるノバ・ペリスの提案による。

 「私たちは、2023年5月6日の戴冠式の日にイギリ

スの君主であるチャールズⅢ世に対し、先住民や奴隷にされた人々の大量虐殺と植民地化の恐ろしい影響と遺産を認めるよう求める。」 この申し立ては、君主の正式な謝罪に加え、英国の博物館や施設に保存されている原住民の神聖な品々や遺骨の本国送還を強く求めている。

 この書簡には、チャールズⅢ世を国家元首とするアンティグア・バーブーダ、オーストラリア、バハマ、ベリーズ、カナダ、グレナダ、ジャマイカ、ニュージーランド、パプアニューギニア、セントキッツ・ネイビス、セントルシアと、セントビンセント・グレナディンの代表者が署名している。彼らは、何世紀にもわたる「大量虐殺、奴隷制度、差別、虐殺」の間に人々から盗まれたすべての文化財や芸術品の返還を要求している。

 さらに、バチカンが行ったように、「大航海時代の教義」を放棄するよう君主に求めている。この教義を否認することによって、先住民との協議と賠償のプロセスを開始することが可能になると署名者たちは考えているのだ。


 エリザベスも黒人奴隷を酷使し、印・中両国を麻薬漬けにすることで大英帝国の礎を築いたという過去を謝罪していない。彼女は王冠に、インドから略奪したルビーと南アのダイヤを嵌め込んでいた。恥じるどころか得意満面の笑いを浮かべて。

 日本はどうなのか。加害と被害の両面から問うべき課題が我々には突きつけられている。決して逃げられないし逃げてはならない。だが逃げ隠れが止められない。

   世界中が太平洋戦争後の日本のようになると、青い目の「大本営」は考えている節がある。徹底的に無差別空襲され、原爆を二発も落とされて、容赦のない圧迫は、反抗を惹起するのではなく服従を生んだ。しかし、暴力はいつか必ず「夢」を破る。

サウジアラビアとイランが和解したことの意義

 





 2016年からサウジアラビアとイランは、互に大使を交換、安全保障や貿易投資などの協力を再開する。両国は北京で調印。

 サウジアラビア、イラン、中国は昨年末から交渉を重ねていたが、アラビア語とペルシャ語と中国語のみで話し合った。米英覇権下の外交ではあり得なかった。非米・多極型世界体制の立ち上がり=英米覇権終焉を象徴している(必死で国際化の掛け声に踊らされ、英会話と米英帰りのみを有難がる日本は時代錯誤の道化となった)。

 中国を介した和解交渉は英語を使わないことにより、米英が交渉の中身を傍受して妨害策をとることを難しくした。 英米は冷戦体制下の「同盟国」1000余箇所の軍事基地を利用して世界中の通信を容易く傍受できた、その恩恵で米英企業や大学は特許情報等をいち早く入手、他国を出し抜いてきた。それが可能だったのは、英語(が)国際語との安易な錯覚が拡がっていたからだ。多様な言語による情報交換が当たり前であれば、通信傍受の膨大な人員と費用を節約出来ない。

 それだけではない、国際関係が英米語をハブとすることなく、直接の交流が可能となっただろう事は確実だ。

 英米による情報独占は冷戦体制下の国際関係を恣意的に分断・撹乱する事を容易にしてきた。英米に従属しない自立を目指す政権が残忍且つ幼稚極まる画一的「クーデター」で潰されてきたのだ。単一言語による帝国主義でしかないものを「国際化=グローバライゼーション」と囃し立ててきたのだ。日本の英語教師はそれに加担して胸を張ってきた。

 僕は、高校の外国語に朝鮮語や中国語を導入すべき事を「底辺校」で力説して多数派教員(彼らは英語を地域言語ではなく国際語だと言い張った)に嫌われた。生徒の多くが中学で受験英語嫌いになっているのに更に三年間、受験英語に苦しむのだ。ペルシヤ語やウルドゥー語もいい。豊かさや覇権から遠い言葉の学習は、少年少女たちの世界観をゆっくりと確実に変えるに違いない。映画・文学だけでなく食べ物・服装持ち物・習慣まで覇権国家文化の影響下にあって視野を曇らされたのが、全く新しい視野を得る筈だ。

 多言語学習環境下では、例えば嫌韓言説が巷間に溢れる現象もありえない。大学受験や就職試験もTOEFL等の影響は忽ち薄れ、言語そのものへの関心と理解が前進する。それが日本の単一民族幻想や、偏務的日米地位協定・年次改革要望書を破棄する力となる。


  もし我々が英米語をハブとすることなく、直接に諸言語を獲得していたら・・・。例えば今になってようやく知ることになったカダフィ大佐に関する情報を、リビアへの米英仏の大規模爆撃以前に直接入手出来た筈だ。

  今我々が知る『Gaddafi』に関する情報を、遅ればせながら列挙してみる。 

/.リビアでは教育も医療も無料。/.電気も無料。

/.リビアの対外債務はゼロ、外貨準備高1500億ドル

/. 新婚夫婦には、6万ディナール支給。

/.車は政府が価格の50%を融資。/.銀行は公営で国民への融資は無利子。これはもととイスラム圏の思想。

/.就職決定まで、仕事の平均給与を国が支給。

/.出産には、5,000ドル支給。

/.パン40個0.15ドル。/.ガソリン1リットル0.14ドル。

/.Gaddafiは、砂漠の国全体に水を供給する世界最大の灌漑プロジェクト「BIG MAN PROJECT」を持っていた。

  Gaddafi大佐は独特の強烈な風貌で、豊かで公平平等な民族共同体を形成しつつあった。これを独裁と呼び攻撃したのが言語帝国主義=英米語ハブ環境。では英米民主主義とは何か。資源の独占私有を自由競争と考える「自由主義」者にはl略奪の春である。

  様々な政治文化環境にある国の「クーデター」騒ぎを一律に「Arab Spring」と言い、一連の色をつけ「Color revolution」と呼ぶことの作為性に気付かない愚かさがある。それが我々の自立した思考を麻痺させるのだ。

  Gaddafi体制爆撃の目的は、リビアの豊富な資産を強奪することだった。欧米「先進国」の「豊かさ」は十字軍以来他国からの絶えざる略奪に依っていた。BRICSも上海協力機構も、英米覇権体制より遙かに自由で平等な国際環境を実現する筈だ。

 自前の資源なしに、無料の教育・医療・福祉・住宅に関する平等な権利を、米州機構の暴力的経済制裁に耐え通し、ついには米国を米州機構で孤立に導いたCastro兄弟・Guevaraの功績は計り知れない。同じ事はGuevaraを鼓舞して止むことのなかったHồ Chí Minhにも言える。貧しさに長く耐える精神が、自由と平和を実現する。

追記 サウジアラビアは5月19日のアラブ連盟首脳会議にシリアアサド大統領を招待する予定。サウジアラビアのファイサル・ビン・ファルハン外務大臣が間もなくダマスカスに赴き、アサドにサミット出席の正式招待状を手渡す。

 英米語覇権体制の崩壊は、「もし嘘が戦争を始めることができるのなら、真実は平和を始めることができる」とのジュリアン・アサンジの警句を裏打ちしつつある。教師も報道陣も真実の伝え手としての自覚と覚悟が必要。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

怒りを込めて振り返れ  絶滅隔離

   「一般に夫婦は似た顔の人が多い」との分析報告がある。ひとは顔が似ていると親密になりやすく、趣味や考え方が似ていると一緒に生活しやすいのか。

 転校して親しくなると同じ家紋の家だったことを後日知り妙な気がしたものだ。

   僕は生まれ故郷から夜行列車で丸一日の熊本で小学校に入った。不思議な新設校で、一年生ばかりが200人余りの4クラス、だが教室は全学年分完成していた。その中の一人がなぜか気になり、休み時間毎に「遊ぼう」と誘わずにおれなかった。彼はいつも寂しげで温和かった。中庭で五寸釘や独楽を使って遊んだがたった10分でお終い。だから放課後はいつまでも遊べると考えていたのだ


が、時鐘
と同時に布製のランドセルを背負い「園のおばさんが、学校の子と遊んじゃいかんって・・・」と呟きながら、数人の仲間と裏門を抜けて帰るのだった。 僕は校門脇の土手に登って、熊本市の真ん中を横切る白川の向こう側の丘の麓に消える彼らを眺めていた。

 彼らは児童養護施設から通っていたのだ。5月連休明けに白川向こうの丘への遠足があり、「遠足は一日中遊べるね」と僕はご機嫌だったが遠足当日は雨。彼らは一人も登校しなかった。先生たちは体育館に僕らを集めてお菓子を配った。親が金を出し合っておやつのために共同購入した品物だった。お菓子と弁当ですっかり元気になったうえ、勉強もなしになった。


 後日、この養護施設が熊本の教育を混乱の激流に巻き込んだ『黒髪小事件』と深い関わりを持っていたことを僕は知った。黒髪小事件は  龍田寮事件とも竜田寮児童通学拒否事件とも呼ばれる。

 癩療養所に絶滅隔離された患者は、感染していない子の処遇に泣いた。療養所には患者でないから入れず、親戚縁者は患者の子どもだからと引き取らない。当時患者の子どもを「未感染児」と呼び患者の家族はいつかは発病するという無知偏見を植え付け、また子どもを荷物扱いし「携帯児」とも呼んだ。様々な経緯から菊池恵楓園では「未感染児」は、癩予防協会付属養護施設の保育所「龍田寮」で扱われることになり、寮は恵楓園から離れた熊本市内の黒髪町に設置された。

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   少し長いが拙著から引用する。 

 1954年の春、時代の歯車が逆転したかと思わせる事件が熊本で起きた。竜田寮児童通学拒否事件である。ハンセン病療養所にはハンセン病患者である子ども、親が患者だが本人はハンセン病ではない子ども、療養所職員の子どもがいて、それぞれ困難を抱えていた。熊本市内の竜田寮では、菊池恵楓園入所者の子どもたちが生活。他の療養所では入所者の子どもの地元小中学校通学がすでに実現、しかも竜田寮の中学生と高校生はとうに地元の学校に通っていたのである。意図して煽られた騒動の気配がある。中心人物は保守の県議会議員でもあった。

 菊池恵楓園に再収容されることになった父親が、子どもを預けるために竜田寮を訪ねたことを書いている。黒髪小事件の3年前のことである。

 「私は意外なことを耳にした。(竜田寮には)小学児童が15名ほどいるが、市内の小学校に通われず、分教場で教わっているということだった。

 「小学校がすぐそこにあるのになぜ通学されないのですか?」

 「それがですね、病人の子だからという理由でPTAが 反対するらしいんです。これまで何回となく市や学校と交渉しましたが、父兄側の鼻いきが荒いのでね」

 親を病人に持つがゆえに、その子は正規の教育を受けることを拒まれ、やむなく分教場で一人の教師が一年から六年までを担当しているというのである。ほんの目と鼻の先で片方は堂々たる鉄筋建の校舎で、正常の教育を授けられているのに、一方では粗末な分校で寺子屋式の貧弱な教えを受けている。私の脳裡を対照的な二つの授業風景がかすめた。教育都市をもって名を知られる熊本市が、これは一体どうしたことだろう。」   下河辺諌「別れ道」『ハンセン病文学全集第四巻 記録・随筆』346ページ

        

 竜田寮の子どもたちを排除しようとする通学反対派は、140日にわたって子どもたち(1600余)を休校させ、お寺や銭湯などで自習させた。この事件に衝撃を受けた佐賀の患者家族が自殺するという悲劇も起きている。

 しかし少数派の通学賛成者は、石を投げられ、脅迫状を送られ、殴り込まれ負傷者まで出しながらも、その275名の子どもたちが竜田寮の4人と通学を続けた。新しい希望であった。反対派指導者の孫が「竜田寮の児童が入った新一年生の学級に掃除に行かせて欲しいと申し出てきたのが嬉しかった」と、『熊本市戦後教育史』は書き残している。            『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊


   竜田寮の中学生たちが通った市立桜山中は、黒髪小学校より竜田寮に近いが、通学拒否はおきていない。それ故事件のの解決に熊本市は悩み、市内の学者たちに知恵を借りた。その結果、何カ所かに分散設置された施設の一つが「気になる温和しい子」がいた園かも知れない。僕の入学した小学校は彼らの受け入れ学校として急遽指定された可能性がある。子どもたちの個人情報は勿論園職員の情報まで悉く秘密にされ、後に破棄されたと聞く。


 この事件の根本は、絶対隔離の必要の無い癩病=ハンセン病を「ペスト並みの恐ろしい病気」と根拠のない偏見を煽りながら全国を遊説した光田健輔と渋沢栄一に帰すべきことを、僕は何度でも書く。

                                                           

 父の母が戸籍から消え癩療養所に生きていた可能性については既に書いたが、このトメ婆さんとほぼ同時に戸籍から消えた父の妹も同じ療養所にいた可能性を否定できない。彼女は僕の叔母にあたるが、彼女に「携帯児」はない。しかし当時の恵楓園では療養所内で患者が堕胎を免れ出産した例がある。

 彼が僕の叔母の子、つまり僕の従兄弟であった可能性も否定出来ない。入学式後の集合写真を見ると、疲れ切った表情の僕の前列にそれと思しき詰め襟姿の少年が写っている。

 僕は墓という風習に何の感慨も持たない。だが菊池恵楓園の納骨堂には頭を垂れるつもりだ。 なぜなら、この黒髪小事件に関する教組や労組の積極的取り組みの形跡がないからだ。癩病の絶滅隔離そのものへの怒りを込めた行動や声明すら発見できない。戦後民主主義とは何であったのか、どこを向いていたのか問わずにおれない。矛盾の結節点への洞察が欠けている。

 

遅刻は「指導」対象か 優しく眠らせるべし

  睡眠を妨げると如何なる生物も認知能力は著しく低下する。昆虫やミミズから象や鯨はもちろん類人猿も学習が妨げられる。現代日本人は寝足りているか。


 若者の若者の睡眠時間は、国際的にも歴史的にも惨憺たる有様だ。

 にもかかわらずTV番組では、日本人が如何に優れ、外国人の憧れ賞賛の的になっているかの映像で隙間もない。寝る間も惜しみ、寝る間も奪われて過労死も世界一。満員電車での通勤時間も世界一だ。

 青少年が眠りを奪われて壮年に達するとき、日本の認知能力の低さは目を覆うようになるに違いない。それは政権党議員らの知的倫理的堕落として既に現れてしまった。

   或人、法然上人に、「念仏の時、睡ねぶりにをかされて行ぎょうを怠り侍る事、いかがして、この障りをやめ侍らん」と申しければ、「目のさめたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊とうとかりけり。 吉田兼好『徒然草』第三十九段

「それなら目覚めている時に・・・」 兼好法師
 「念仏を唱えていると、どうしても眠くなって怠けてしまいます。どうしたらいいのでしょうか。」とある人が、法然に聞いた。・・・「それならば、目が覚めているときに念仏を唱えなさい」と、それが答。実に尊い。

暴発は制御できない


 






  中央値とは、データを小さい順に並べた時の真ん中の値。同じ値のデータが最も多い値は最頻値という。

 画像に示した年代別平均貯蓄額。驚くべきは20代と50代の貯蓄額の中央値が、それぞれ8万円 30万円にすぎないことだ。20代の半数は貯金が8万円以下だし、50代の半数は30万円しかない。日本は新自由主義経済の掛け声に浮かれて、気が付けばsafty netが破れて久しい。だから貯蓄に頼らざるを得ない。にもかかわらず政府は物価対策を放棄。

  報道によれば、壮年男性がコロナ感染して僅か半日で死亡したという。その間救急車が患者を乗せたまま問い合わせた病院は200カ所以上。それでも受け入れる病院はなく、走り続けた挙げ句自宅に戻り絶命した。同じような例が相次いでいる。これを医療崩壊寸前と呼ぶ行政もTVも狂っている、寸前ではなく既に崩壊。明らかな医療放棄。 僕が怖いと言っていたのはこのことだ。日本の新規陽性者数と1日当たりの死者数は世界1位、という惨状。とっくに子どもや既往症ある人や妊婦が医療から弾き出されている。病院経営には莫大な補助金がつぎ込まれるが、医療そのものは消滅。これは国民皆保険制度下の行政犯罪。狂気の沙汰。

 その上実質賃金は下がりつづけ年金も削られ物価は上がる。にもかかわらず弱者の怒りの行動は組織されない。弱者・敗者はまるで生きていること自体が罪であるかのように、恥であるかのように息を潜めている。tvでは警察ドラマと武将ものや公営ギャンブルとプロ化したゲームの勝ち組だけが画面に踊る。金がなければギャンブルか投資で稼げと宣伝が流れる。ギャンブルや投資に回す金もないのに。貧しい労働者は存在しないかのような電波の世界。

  うらぶれた街や狭く密集した住宅がドラマから消え、城や宮殿ばかりが登場する。社会全体が、貧しさ、敗者に対する想像力を失っている。

 恐れねばならないのは、こうして自我像を喪失すれば温和しく秩序ありげな国民ほど、輝かかりし過去の「栄光」に自己を埋没して一気に暴発することだ。

 成長著しい中国や韓国を揶揄する雑誌が売れ、攻撃的発言が視聴率を上げる。しかし滅びた日本の栄光は妄想の中にしかない。暴発も妄想も一度始まればコントロール出来ない。 

ヒトに人格、猫には「猫」格が、犬には「犬」格がある。 パンダにはパンダ「格」が。

  日本では犬にシャツを着せる。これは世界で殆ど日本だけの奇妙な光景。

   文部省唱歌『雪』の二番は

 雪やこんこ あられやこんこ  / 降っても降っても まだ降りやまぬ  / 犬は喜び 庭かけまわり  / 猫はこたつで丸くなる

 何故だ、汗腺のない犬にシャツを着せたがる。犬は肉球と舌だけで汗をかく。シャツはたとえ冬でも不要。南極の冬にもtaroと

jiroは耐えた。反対に猫は寒がりだ。

 犬をワンコと呼び、雌猫を女の子と言い可愛がるが、実態は「虐待」。犬や猫にも尊厳がある。猫には「猫」格が、犬には「犬」格がある。「猫」も「犬」も生物として独立対等であって、「ヒトもどき」や「名誉ヒト」では無い。  

 かって三井物産は社内報「三井海外ニュース」で「ここ数年来、南アと日本との貿易は飛躍的に伸長し、それに伴い名誉白人は実質的白人になりつつある。最近は、多くの日本人が緑の芝生のある広々とした郊外の家に白人と親しみながら、そして日本人の地位が南ア白人一般の中において急速に向上していることはまことに喜ばしく、我々駐在日本人としても、この信頼にこたえるようさらに着実な歩みを続けたい。インド人は煮ても焼いても食えないこうかつさがあり、中国人はひっそり固まって住み、カラードは粗暴無知、黒人に至ってははしにも棒にもかからない済度しがたい蒙昧の徒という印象が強い」と名誉白人扱いを誇った。おかげで日本は1980年代後半から南アフリカ共和国の最大の貿易相手国となった。儲かりさえすればという日本の姿勢は、1988年の国連総会採択の「南アフリカ制裁決議案」名指しで非難されている。


 日本人が猫にシャツを着せないのは、毛が柔らかいから直接撫でたいのだ。飼い主が気持ちがいい。対して犬の毛はゴワゴワで、心地よくはない。

 儲かりさえすれば、自分さえ好ければの思い込みは激しい。自分が善と思い込めば、他者の尊厳は目にも耳にも入らない。広い城跡に住む男を「現人神」と思い込めば、全体が思い込むまで強制し続ける。常に多数は全体。少数は無になるまで拷問を加えられる。

   日本に初めて二匹のパンダ・カンカンとランランがやって来たのは1972年。上野動物園では、国賓級のパンダを一目見

ようと大勢が押しかけたが、その生態は分からないことだらけ。餌も受け付けず、公開の目途もも立てられない。 困り果てた飼育担当者は、ヒトとパンダの壁を乗り越えるように、山形弁で夜も昼も語りかけるが、カンカンは衰弱し命の危機に直面。その間も人々は毎日行列をつくって待ち続け、黒柳徹子も撮影の日程を切り詰めて毎日外で並んだ。 苦心の末漢方薬を飲み笹も食べるようになった一週間目、飼育員が「おめえさ会いてえヒトが・・・」と声をかけて黒柳徹子が顔を出した途端、カンカンは仕切りのガラス際の彼女にすり寄ったのだ。飼育員が「お前、メスのランランに少しぐらい・・・」と言うほどの嬉しがりよう。

 彼女には不思議な能力がある。パンダの独立したパンダ「格」をとっさに承認。パンダの警戒心を解除、対等な関係を結ぶ。それはパンダに限らない、全ての動物、全ての民族、すべてのヒトの尊厳を感じ取る希有な能力に恵まれている。だから「徹子の部屋」はギネス級の長寿番組となった。


 「すべてのヒトの尊厳を感じ取る希有な能力」が最も期待されるのは、教師。若者一人一人の人格を、学校や教師からは独立した尊厳ある存在としてとらえる事が要請される。

 僕だったら黒柳徹子を文部科学大臣兼教師に任命したい。彼女には小学校を1年で退学処分された輝かしい経歴がある。枠にはまらない点で彼女の右に出るひとはない。世の不良・悪童・非行・はみ出し者、そして彼らの悩める親たちに向かい合い語りあえるのは、彼女のみ。


   これには素晴らしい前例がある。ギリシア映画『日曜はダメよ』の主演女優 メリナ・メルクーリ。彼女はギリシャに軍事政権が誕生すると直ちに反政府運動に加わり、全ギリシャ社会主義運動のアンドレアス・パパンドレウ内閣が成立すると文化大臣を務めた。
(映画『日曜はダメよ』の物語自体と主演女優メリナ・メルクーリの役柄そのものが、彼女が何故ギリシアの文化大臣に相応しいかを示している。)

破廉恥な特権。破廉恥を「自慢」する病理・狂気

  宗教政党の誉れ高い衆院選候補O氏は、衆院選公示日の2021年10月19日に、自身の「無修正」性交動画を違法公開。

《なんか、編集したらAVみたいになっちゃった》

などとTwitter投稿。同時にアップロードされたのが性交動画。彼は「法律に引っかかると思っていなかった」と平然と語っていたが、党はコメントなしで比例名簿から削除して幕を引いた。

 参院選出馬予定の元東京都知事が、街頭演説中に同じ政党の女性立候補予定者の体をベタベタと触りまくり。その様子がその党の公式動画で大炎上。

 問題の場面が記録されたのは、YouTube動画。I候補が吉祥寺駅前で東京選挙区予定女性の横で演説する様子が映されている。笑みを浮かべたI氏は女性立候補予定者を紹介しながら、肩や背中や胸元にまで手を伸ばし、複数回にわたって触れているのだ。この党は動画を非公開にした。

 I候補自身はしばらくして《軽率な面がありました。十分に認識を改め、注意をして行動していきたい》とするツイートを投稿して謝罪したつもり。


  K衆院議員(元女性活躍担当大臣)は、ある評論家からのツイート

《K先生、安倍総理殺害に関して、奈良県警からメディアなどへの不確実な捜査中の情報漏洩が起きているように思われます。過去の国会答弁からも国家公務員法の守秘義務違反に該当すると考えられます。適切な対応をお願いできませんか?》

に次のように返事した。

《長官は後輩、かつ知人なので、聞いておきます》。

 その半日後の同日夕方には、こんなツイートを平然と投稿している。

《警察庁長官に「奈良県警の情報の出し方等万般、警察庁本庁でしっかりチェックを」と慎重に要請致しました。これ以上の詳細は申せない点ご理解を。霞ヶ関を肌で理解する者同士の会話です。皆様の感じられた懸念は十分伝わっています。組織に完璧はありませんが、国益を損なう事はあってはなりません。》


 あるまじき破廉恥を自慢したがるのは、何故なのか。強い者には、世間は味方のように見えてしまうのか。「下々」に許されないことを平然とやるのが心地よいのか。それが強者・勝ち組の特権だと吹聴せずにおれないのだろうか。


 これら最近の破廉恥は、1937年当時のN少尉とM少尉による「百人斬り競争」(南京入城までに日本刀でどちらが早く100人斬るかを競った)自慢話を思わせる。彼らは東京日日新聞の取材に応じたばかりか、銃後の小学生や民衆の前で堂々と語っている。語った本人たちも、それを「前線勇士の武勇談」として喝采した民衆も正気を失っている。

  画像は米軍によるアブグレイブ刑務所でのイラク人虐待場面。女性兵士らは鼻歌で撮影したという。

  こんな破廉恥場面を記録したがる心情を疑う。判断力を失ったのか、狂ったのか、喜びを隠せないのか。まだまだ類例は幾らもある。
 衆院議長のセクハラ電話も正気では無い。彼らは自らの破廉恥を強者・勝ち組の特権と見做している。民主主義は特権の廃止なしには始まらないのだ。どこかに特権が残る限り、弱者の「権利」は必ず切り捨てられる。

 64年東京五輪バレーボール監督は、「東洋の魔女たち」を真夜中に叩き起こして練習させたと言う。金メダルの勝ち組には許される特権と見て、世間はこの「しごき」を容認した。それが今なお続く日本スポーツ界の体罰死を許している。 

 狙撃された元首相による「桜を見る会や加計学園等に連なる幾多の犯罪的不正」も、勝者・権力者の特権と世間は容認した。であれば民主主義を破壊したのは誰かはっきりしている。そして棚上げ切り捨てられた「権利」は夥しい。

五十三才の老女教師と娘に襲いかかる「勤務評定」

 公選制教育委員会が始まったのは戦後間もない1948年、それが慌ただしくも56年の地教行法(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)で首長による任命制教育委員会が強制された。その任命制教育委員会は、先ず何よりも教員に「勤務評定」で襲いかかることに専念した。

 この『暮しの手帖』への投書は、「勤務評定」が教育を如何に荒廃させたかを如実に語りかけている。

  ★母の異動

 二ヶ月ぶりに母から便りがきた。五月も終り近く教員の異動期はとっくに過ぎ、気にかかりながらも、母は新学期を迎えて元気に勤めていると決めていたのだった。しかし便りによれば母は異動組だった。しかも退職勧告を受け、はねたあげくの遠かく地異動。

 片道一時間半汽車に乗り、降りて四十分歩く里程。母は五十三才である。戦争未亡人で四人の子供を成人させ、戦後の日本をカツギ星、土方でくぐり抜けてきた。昭和二十五年、助教諭になり法政大学の通信教育、単位認定講習を七年間受けた。幼い子供をかかえて日曜もなかったこの期間は、どんなに辛かったことだろう。夜中にふとめざめて、洗濯をやっていた母をよく見かけたものだった。

 それにもかかわらず母は明かるい人だ、。ジメジメするのがきらいで私たちは安心して母によりかかっていた。しかし母は誰にもよりかからなかった。頼るは自分のみだった。

 一人娘の私が遠い地へ嫁ぐことも黙って耐えていた。子供をおいて私もまた職業をもつ身であるが、それに耐えかねるとき「子供は大きくなればわかってくれるよ」と言ったが母を支えていたものはこれだったのか……と思う。便りの末尾に「とにかく人のやれないことをやれ……という訳でがんばります」とあった。

 しかし恩給は助教諭だった七年間は年数に認められず、せめて年金を…と働きつづける母に教委は何故、こんな仕打をしたのだろう。老後の補償を自分で得ようとしてこの異動を受理した母が、させた社会が私には悲しいのである。

     松下 雅子『暮しの手帖9号』(1967)


 第一次アメリカ教育使節団(1946年)は、戦前戦中の天皇制軍国主義教育が恰も国民に狭窄衣を着せたようなものであったことを指摘し、日本の教育改革は狭窄衣から教師を解放する事でなければならないと報告書を作成した。この勧告に基づいて独立行政委員会としての公選制教委が教育委員会法によって組織された。

 地方自治体の長から独立した公選制・合議制の行政委員会として公選制教育委員会は、予算・条例の原案送付権、小中学校の教職員の人事権を持った。

 しかし1951年の単独講和暴挙後、占領軍は各地に基地を置き沖縄を占領したまま撤退する。早くも1956年、公選制の廃止と任命制の導入を強制する地方教育行政法が成立している。  

 任命制教育委員会は、一貫して教育と子どもに関心を持たなかったと言って良い。彼らは教育委員会を、政治に従属させ私物利権化を図り今日に及んでいる。「勤務評定」は複雑強権化したに過ぎない。 

権力批判や公正さは何処で消えるのか。

   「ポッカレモン」社がレモン果汁が含まれているかのような宣伝をしながら、中身は100%化学合成品であることを、「暮らしの手帖」が1967年の89号でスクープ。大騒ぎとなった。

コマーシャリズムを排除
し続けた「暮らしの手帖」
  マスコミは、次から次へと他の不当表示も報道し始める。砂糖を使ったはちみつ、粉乳を還元した新鮮牛乳、マーガリンを混入したバター、醸造酢と表示した合成酢、リンゴを混ぜたいちごジャム、オリーブ油を使わないオリーブ石鹸、天然真珠という人造真珠、着色した宝石、背の伸びない伸長機など、次々に事例が報道され、不当表示問題は社会問題化した。しかし責任企業の処分は大甘だった。

 40年後の2008年12月5日、公正取引委員会が「不当景品類及び不当表示防止法」に基づく排除命令を、再びポッカ社に出さねばならなくなる。排除命令の内容は、同社が販売した「ポッカレモン100」等において表示が事実と異なり、一般の消費者に対し実際よりも著しく優良であるとの誤認を招くとするものであった。「ポッカレモン」には「新鮮なレモンのビン詰」、「飲むレモン」、「手軽に使えるレモン以上のレモン」と広告、いかにも天然レモン果汁であるかのように表示。実際にはクエン酸などを使った「レモンもどき」であった。又、同社は原料レモン生果に防カビ剤は使用していない旨の表示を行っていたが、実際には防カビ剤イマザリルが含まれていた。

 同様の不当表示をしていた有力10社にも排除命令が出た。

 ポッカ社ら有力10社は、全国紙に月2~3回全ページ広告。テレビ・雑誌等にカラー広告を活発に用いて、レモン果汁飲料を誤認させる文章や画像をばらまき続けた。

 新聞やTV報道の第一の役割は、真実の追究による権力への批判の筈。巨大企業も権力。その広告を垂れ流した責任を負わねばならない。


 「暮らしの手帖」に始まった騒動に、行政もメーカーもマスコミも何ら反省はなかったことが分かる。

 今や、私企業のTVshoping が日本の電波を占拠。ほぼ一日中国民の健康や老化不安を煽り、怪しい商品を怪しい口調でtvタレントを使って流す有様。電波も国民の共有財産ではないのか。「公」が「民営化」の名の下に私物化されている。「国立」「公立」とは、「国民共有」「自治体共有」の意の筈。それが「行政法人化」の名で、私物化されているだ。そして国家や自治体そのものまで、「パソナ」などの私企業に私物化されてしまった。 

 日の丸・君が代を巡る行政の不当介入で教師が馘首されているのに比べれば、「不当景品類及び不当表示防止法」はまことに恐るべき「ざる法」と言わざるを得ない。当該企業の営業停止・重い罰金や責任者の収監等の実効性ある対策に日本の官庁は踏み切らない。なぜならそこは、彼ら官僚の将来の天下り先だからである。 

自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない

  常識ある者の世界では、身体的・精神的苦痛で意思を変えさせることを「拷問」と呼ぶ。入管では意思を変えさせる過程でこの15年間で17人が死亡。

 何故日本政府は「難民」認定を極度に渋り、拷問虐待を続けてきたのか。一転してウクライナ避難民への大歓迎ぶりはどういうことか。入管の源流は戦前の特高警察の外事係である。特高は日本の「国体」を手掛かりに様々な事件をでっち上げた。でっちあげた嘘を守るために嘘は膨れ上がり、どんなに物が無くとも日本は「現人神」の君臨するから・・・と遂に原爆二発を喰らった。喰らったうえに自ら属国になり喜んでいる。確かに「世界に類の無い」愚かな国だ。 

我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない


 転勤新任教師として壇上で紹介されるとき、僕は埴谷雄高の言う「自同律の不快」にみまわれていた。

 前任校で、僕は職場の教研委員を4年続ける機会に恵まれた。おかげで新任早々、職場を外側から見る事が出来た。各職場の僅かな違いが、高校教育と教育界の全体構造を見せてくれた。それは、付き合いや交流の範囲の拡大と共に明瞭になった。嫌なものも、目についてくる。

 嫌悪したのは「生活指導」にのめり込む一群の教師たちの

特高課の部屋は職員室に似ている
「使命感」。当時生活指導運動活動家は、実存主義にかぶれてサークルをつくり傲慢だった。

 僕には「指導」という言葉が、軽薄な教師による「少年の領分」への介入に過ぎないと思った。個人の表現や態度、に介入できると思い込んでいる姿は、まさに「特高」。いたずらに生徒と教員の間に壁を作る浅知恵なのだ。

 埴谷雄高の言う「体系のなかに入ってしまうと、自分のしていることの非道さ」も無意味さも、分からなくなる。僕自身もそのなかの一人であるのが嫌だった。

  転勤が決まり、転勤先に打ち合わせに行った時のこと。僕は渡り廊下で、三年生らしい二人組と対峙した。二人はニャッと顔を見合わせ、ジーパンから煙草を取り出しふかし始めた。春休みだから人気はない。この頃ぼくはヒョロヒョロに痩せていた。逃げるわけには行かない。君ならどうする?・・・

 すれ違いざま、彼らは「勝った」と思ったに違いない。僕は前を向いたまま「うまいか」と声をかけた。

 「アッ・すいません。・・・アッ・イヤ吸いました」とあっけなく降参した。

 「君たちが睨んだ通り、明日から僕はここで教える。だから今日は忙しい。いちいち君たちの担任に言いつける暇は無い。自分の判断で担任に報告しろ」

「ハイッ!  ハイ!」

 たちまち噂が飛んだ。「あいつは空手の有段者だ・・・」誤解もいいところだ。 確かに僕は、学園紛争で火焔瓶や機動隊の放水が飛び交い、セクトによる殺人さえ起きる生活を四年も続けていたから、怖さに鈍感になっていた。

 翌日の着任式で昨日の三年生を見つけながら、こう言った。

 「君たちは、この若造は何なんだ、どういう奴なんだと考えているだろう。・・・嘗めちゃいけないよ・・・、とは言わない。なめてもいいよ。そうしなければ味はわからない」。

 生徒達はざわめき始めた。教室に戻っても「あいつは何を言いたいんだ、何者なんだ」と静まらなかったらしい。


 学校は「自分のしていることの非道さがわからない」の連続である。「なめるんじゃない」はそうした中で「指導」の言葉として多用されてきた。僕は、生徒たちにはなめる権利があると思う。

 この話をK高校のTさんが、受け持ちの生徒たちにした。休み時間に小便をしていたら、後ろでしゃがんで眺める生徒がいて「先生ながいね」と笑っていたという。教室で片手を前列の生徒の机について話を始めたら、手の甲に妙なものが当たって振り向くと、そこの生徒が「先生、しょっぱいね」と言ったと聞いた。

 はじめ僕は「不快」を、教師と生徒の問題だと考えていた。そうではない、学校を越えた支配=被支配の問題であったのだ。だとしたら我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない。時には自分と、自分を取り巻く歴史も含めて、憎まねばならぬ。


塾「変更」勧誘チラシの仰天

  塾の折り込みチラシを時々見る。不思議なことに、志望校合格者の写真が何年も変わらない。塾市場も飽和飽和を通り越して過飽和状態に陥ったことを白状している。過飽和状態は少しの衝撃で土砂降りになる。過冷却と言ってもよい。保険業界や携帯電話会社等も市場が過飽和、そればかりではない電力会社も都市ガス会社も過冷却状態。そこで行われているのが、電力会社はガス料金を安く、ガス会社は電力料金を安くするともちかけ、会社登録を変えさせる。実際は大して安くはならない。めんど臭かったり違約手数料が設定されていたりする。

 それぞれの会社が恰も新規契約があったように見せかけ、過冷却の現状を繕っているに過ぎない。

 生命生命保険会社も各地に保険の無料相談所の類を置いている。無料にはカラクリがある。無料相談所には保険会社からの販売手数料が支払われる。手数料の中身は、数年ごとの無事故祝い金や満期祝い金など保険者自身が出所であるものが少なくない。

 ガス会社はガス料金の値下げを、電力会社は電気料金を、保険会社は保険料を、携帯会社は通話料を、それぞれ値下げする。それが長年のお客にたいする商業道徳。他社顧客の引き抜きに顔色を変えるのは長年のお客に無礼極まりない。信頼関係が生まれる筈はない。

 建設業の受注実態を表す国の基幹統計を国土交通省が書き換えていたが、同様の不正はあらゆる分野で日常化していたのだ。 

 塾のチラシはほぼ全てが女子生徒の肖像を使っている。競馬や競艇の宣伝も若い女性ばかりを使う。男女平等格差が世界最低の国の珍現象だろうか。物言わぬお飾りとしての悲しむべき光景なのだ。男女平等格差をジェンダーギャップと言い換えて、ニヤつく政権党の責任逃れがそこにある。難し気な横文字や漢語を使えば誤魔化せるのだ。  更に最近驚いたのは、塾変更勧誘の案内チラシがあったことだ。塾市場も枯渇してきている。客=生徒の奪い合いだ。


 塾も生命保険も、政府がまともなら要らない筈の代物。将来の不安の産物に過ぎない。不安を官民挙げて煽った挙句の、虚構の産業である。早く滅びるがよい。

  英国人は退職後の貯蓄に関心を示さない。45歳以上で預金額が9000ポンド(約140万円)未満の割合は2014年度末で全体の40%。英国では国民が老人ホームに入居する場合、住宅、貯蓄、年金などの資産併せて500万円以下なら全てその費用を国が負担する制度になっている。ビバリッジ報告の精神「揺り籠から墓場まで」は、今尚守られている。長いナチスドイツとの闘いを経た戦後の苦しい生活の中で英国人が獲得した制度だ。ちっとやそっとでは揺るぐはずもない。労働者や福祉嫌いのサッチャーが腕まくりして戦争で国民を騙しても、これは残っている。


 だからこの英国では、140万円以下の貯蓄でも悠々と生活できる。出世競争で過労死することはない。中高校生は、日本のように将来に備えた受験競争で鬱になることも、推薦入学を狙って部活での体罰や虐めに耐える必要も無い。だから英国の少年は、政治や環境もに関心を持ち自由に行動できる。演劇や音楽にも夢中になれる。祖父や祖母たちの生活が保証され安定していることが、少年たちを若者らしい正義に導く。だからhate言説にも引っ掛からない。

 我々日本人はいくら稼いでも、不安でたまらない。互いに支え合う思想を知らない。墓や葬式すら見栄の張り合いだ。どんなに企業内部留保が積み上がっても、ワークシェアリングに踏み切れないのは何故なのか。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...