自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない

  常識ある者の世界では、身体的・精神的苦痛で意思を変えさせることを「拷問」と呼ぶ。入管では意思を変えさせる過程でこの15年間で17人が死亡。

 何故日本政府は「難民」認定を極度に渋り、拷問虐待を続けてきたのか。一転してウクライナ避難民への大歓迎ぶりはどういうことか。入管の源流は戦前の特高警察の外事係である。特高は日本の「国体」を手掛かりに様々な事件をでっち上げた。でっちあげた嘘を守るために嘘は膨れ上がり、どんなに物が無くとも日本は「現人神」の君臨するから・・・と遂に原爆二発を喰らった。喰らったうえに自ら属国になり喜んでいる。確かに「世界に類の無い」愚かな国だ。 

我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない


 転勤新任教師として壇上で紹介されるとき、僕は埴谷雄高の言う「自同律の不快」にみまわれていた。

 前任校で、僕は職場の教研委員を4年続ける機会に恵まれた。おかげで新任早々、職場を外側から見る事が出来た。各職場の僅かな違いが、高校教育と教育界の全体構造を見せてくれた。それは、付き合いや交流の範囲の拡大と共に明瞭になった。嫌なものも、目についてくる。

 嫌悪したのは「生活指導」にのめり込む一群の教師たちの

特高課の部屋は職員室に似ている
「使命感」。当時生活指導運動活動家は、実存主義にかぶれてサークルをつくり傲慢だった。

 僕には「指導」という言葉が、軽薄な教師による「少年の領分」への介入に過ぎないと思った。個人の表現や態度、に介入できると思い込んでいる姿は、まさに「特高」。いたずらに生徒と教員の間に壁を作る浅知恵なのだ。

 埴谷雄高の言う「体系のなかに入ってしまうと、自分のしていることの非道さ」も無意味さも、分からなくなる。僕自身もそのなかの一人であるのが嫌だった。

  転勤が決まり、転勤先に打ち合わせに行った時のこと。僕は渡り廊下で、三年生らしい二人組と対峙した。二人はニャッと顔を見合わせ、ジーパンから煙草を取り出しふかし始めた。春休みだから人気はない。この頃ぼくはヒョロヒョロに痩せていた。逃げるわけには行かない。君ならどうする?・・・

 すれ違いざま、彼らは「勝った」と思ったに違いない。僕は前を向いたまま「うまいか」と声をかけた。

 「アッ・すいません。・・・アッ・イヤ吸いました」とあっけなく降参した。

 「君たちが睨んだ通り、明日から僕はここで教える。だから今日は忙しい。いちいち君たちの担任に言いつける暇は無い。自分の判断で担任に報告しろ」

「ハイッ!  ハイ!」

 たちまち噂が飛んだ。「あいつは空手の有段者だ・・・」誤解もいいところだ。 確かに僕は、学園紛争で火焔瓶や機動隊の放水が飛び交い、セクトによる殺人さえ起きる生活を四年も続けていたから、怖さに鈍感になっていた。

 翌日の着任式で昨日の三年生を見つけながら、こう言った。

 「君たちは、この若造は何なんだ、どういう奴なんだと考えているだろう。・・・嘗めちゃいけないよ・・・、とは言わない。なめてもいいよ。そうしなければ味はわからない」。

 生徒達はざわめき始めた。教室に戻っても「あいつは何を言いたいんだ、何者なんだ」と静まらなかったらしい。


 学校は「自分のしていることの非道さがわからない」の連続である。「なめるんじゃない」はそうした中で「指導」の言葉として多用されてきた。僕は、生徒たちにはなめる権利があると思う。

 この話をK高校のTさんが、受け持ちの生徒たちにした。休み時間に小便をしていたら、後ろでしゃがんで眺める生徒がいて「先生ながいね」と笑っていたという。教室で片手を前列の生徒の机について話を始めたら、手の甲に妙なものが当たって振り向くと、そこの生徒が「先生、しょっぱいね」と言ったと聞いた。

 はじめ僕は「不快」を、教師と生徒の問題だと考えていた。そうではない、学校を越えた支配=被支配の問題であったのだ。だとしたら我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない。時には自分と、自分を取り巻く歴史も含めて、憎まねばならぬ。


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