なぜ入試は点数の高い者から選抜するのでしょう   「自同律の不快」

少年埴谷は植民地台湾で支配側の自己を感じていた
  「「自同律の不快」も一種の自己語なんですよ。これは疑似哲学ことばです。自同律を問題にして、それが不快だと決めつけるのは、ふつうの言語ではできないんです。 自同律を不快の異常論理へ引きずりこむ出発点は、偶然ぼくが台湾という植民地に生まれたということです。植民地でも日本人の町に生まれたらだめです。田舎の工場へ行くと、実際に台湾人を使っていてぶん殴るわけですから、それを、子どものときから見聞きしていないとわからない。台湾人が野菜を売りにきて「奥さん、これ十銭よ」と言うと、日本人のおばさんが「いや八銭、八銭」と言って八銭しか払わないんですよ。日ごろはいいおばさんが、植民地の体系のなかに入ってしまうと、自分のしていることの非道さがわからない
              埴谷雄高
 新任教師として壇上で紹介されるとき、僕は埴谷の言う「自同律の不快」にみまわれていた。
 新卒の前任校で、僕は職場の教研委員を4年続ける機会に恵まれた。職場を、外側から見る事が出来たからである。各職場の僅かな違いが、高校教育と教育界の全体構造を見せてくれた。それは、付き合いや交流の範囲の拡大と共に明瞭になった。嫌なものも、目についてくる。
 特に嫌悪したのは「生活指導」にのめり込む一群の教師たちの「使命感」であった。「指導」という言葉は、軽薄な教師による「少年の領分」への介入に過ぎないと思った。いたずらに生徒と教員の間に壁を作る浅知恵なのだ。埴谷雄高の言う「体系のなかに入ってしまうと、自分のしていることの非道さ」も無意味さも、分からなくなる。僕自身もそのなかの一人であるのが嫌だった。

 異動後の着任式で、僕は「君たちは、この若造は何なんだ、どういう奴なんだと考えているだろう。嘗めちゃいけないよ、とは言わない。なめてもいいよ。そうしなければ味はわからない」とだけ言った。いつまでも生徒達はざわめいていた。教室に戻っても「あいつは何を言いたいんだ、何者なんだ」と静まらなかったらしい。学校は「自分のしていることの非道さがわからない」の連続である。「なめるんじゃない」はそうした中で「指導」の言葉として多用されてきた。しかし僕は、生徒たちにはなめる権利があると思う。
 都立K高校でTさんが小便をしていたら、後ろでしゃがんで眺める生徒がいて「先生ながいね」と笑っていたという。教室で片手を前列の生徒の机について話を始めたら、手の甲に妙なものが当たって振り向くと、そこの生徒が「先生、しょっぱいね」と言ったと聞いたのは大分昔の事だ。

 はじめ僕は「不快」を、教師と生徒の問題だと考えていた。そうではない、学校を越えた支配=被支配の問題であったのだ。我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない。時には自分と、自分を取り巻く歴史も含めて、憎む事になる。

なぜ入試は点数の高い者から選抜するのでしょう。低い者の方が学ぶ必要があるのですから、低い者から順に入学を認めるべきではないでしょうか。金曜日、合格発表で、何も受け取らずに肩を落として帰る中学生を見て、僕は、自分でも驚いたことに、涙が止まりませんでした。これが選別の現場だ。僕は何と犯罪的なことをしているのか。でも、管理職とほとんどの教師は、受付で「おめでとうございます!」などと連呼していて、落ちた方は眼中にない。これでは、教師が共感や連帯を伝えられるはずもない」 Aさんからの便りである。

 「自同律の不快」が、Aさんの中では止まらない涙として、受付の「おめでとうございます」連呼への嫌悪として現れたのだと思う。
 いつの間にか選別体制への怒りが、現場教師から消えている。自らが選別されていることへの怒りと闘いの意志も消えて、選別されて上昇することに参入する。この事実を「保守化」と言わずして何というか。
 国民の教育権は人権であって、友愛・連帯の精神は「階層横断」的文化と教養に依らねばならない。それは選抜の否定抜きにはあり得ない。個人の能力開発だけを「教育権」の内容としていては、Aさんが涙を止め得なかった光景を永続させるだけだからである。「階層横断」的文化教養は、成績や毛並みの良さを自他共に認める者にこそ必要なのである。不合格に打ちひしがれて帰る中学生に涙を止められなかった話題が、霞ヶ関や証券街で日常的になるように。
 無論「階層横断」的文化と教養を以て「共感や連帯」を学び実践すべき者の第一は教員である。

 高校入試は勿論、大学入試も必要ない。受験と学歴を利権化した者たち以外には何の不都合もない。
 阪大や京大入試問題の些細なミスが大問題であるかのように騒がれる。恰も「公正な」入試問題がどこかにあって、それに近づけば「正しい」選抜が出来ると言わんばかりだ。授業に参加し、ともに展開出来さえすれば良いのだ。進級と学位認定は厳格にして、就職斡旋は大学や高校の関与を排して当事者本人に任せなければならない。

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