第二次大戦参戦直前、米軍は中南米各地に基地を置いて、英国に代わって大戦後の世界制覇権の準備をしている。チャーチルがルーズベルトに「貴方は大英帝国を無くそうとしているとしか思えない」と言ったのは、このときのことである。プエルトリコ南東の小島ビエケス島も1941年、米国基地となる。
大戦後、民族意識高揚に伴い米軍基地は中南米各地から撤退したが、パナマ・キューバのグアンタナモ・パナマの軍事基地は残された。そしてビエケス島は、海軍演習に使われてナパーム弾、枯れ葉剤、劣化ウラン弾などの最初の発射実験に使われたのである。
島の産業である砂糖栽培・精糖と漁業は絶え間ない射撃訓練のために衰退し,島の失業率はつねに50%を超え、貧困者は人口の72%に達した。珊瑚礁は破壊され、海は弾薬に使用した劣化ウランで汚染。ガン発症率はプエルトリコの他地域に比べ27%も高かった。何度も米海軍とプエルトリコ政府間で協定が結ばれるが、常に海軍が反故にしてきた。理由には、「他に代替基地がない」を挙げるのだった。
反基地運動には長い歴史がある。70年代末には、子供の遊ぶ海岸に艦砲射撃がおこなわれ犠牲者が出て、抗議のため漁師たちは、座り込み闘争を始め参加者21名はまもなく逮捕さた。そのうちの一人アンヘル・ロドリゲスは獄中で変死を遂げている。
1999年には海兵隊のミサイル誤射による住民死亡事件が起き、若者の決死の抗議団が基地内で座り込みをはじめ、闘争は一気に緊迫した。このとき、いつもと違うことが起きた。
いつもなら軍の要請を受けた警察が出動、若者達を排除してお終いだった。だがプエルトリコ知事は、抗議団の行動に理解を示し米軍を非難、「米軍による軍事演習が環境を破壊し,9400のビエケス島民の経済発展を阻害している」と記者会見で言ってのけたのだ。プエルトリコ議会も全会一致で,米国海兵隊の爆撃演習の即時中止を求める決議を採択。こうして基地撤退の機運はプエルトリコ全体に広がる。政府・議会の姿勢に力づけられた青年達は,現地に団結小屋を建設、米本土からも青年たちが続々と結集。 独立党委員長は、ビエケスの闘いにその存在のすべてをかけ
「米軍が撤去するか,私が逮捕されるまで、ここにとどまりつづける」と宣言した。彼は大変なエリート弁護士で影響力は大きく、演習場内には9つの団結小屋が、漁民組合、教員組合、教会関係者、社会主義者などによって建てられた。団結小屋の事務局長役はイスマエル・グアダルーペ、1952年には合衆国議会乱入事件に参加し,長い獄中生活を送った老婦人戦士である。
海軍寄りといわれたビエケス市長も「海軍のもたらしたさまざまな災難に驚いている」と、基地占拠闘争を是認。島民集会では、25の団体5万人が参加、海軍と米国大統領、国連およびプエルトリコ知事への「最後通牒」を採択した。
ハーバード大学では40人の教授がビエケスの闘いに賛同して署名、ガルブレイズや複数のノーベル賞受賞者も。ゴア副大統領、フロリダ州知事、ニューヨーク市長、ヒラリー・クリントンも海軍撤退を支持するに至り、米下院はプエルトリコ海軍基地を半年以内に閉鎖するという基地再編案を承認。 ブッシュ大統領をして「住民に被害が出たし、住民は基地を望んでいない。代替地は米軍が後で探せばいい」と言わしめるに至ったのである。
海軍基地は2003年に撤退。現在、この島は、海辺はリゾート地、内陸部は野生動物の保護区になっている。しかし島には基地の汚染された土地が放置されたままである。米は浄化の膨大な費用を負担しない。
追記 「何度も米海軍とプエルトリコ政府間で協定が結ばれるが、常に海軍が反故にした。理由には、「他に代替基地がない」が挙げられたのは、代替基地があれば移転すると言う事ではない。ブッシュがいみじくも言っているように必要なら「代替地は米軍が後で探せばいい」のであり、「住民に被害が出たし、住民は基地を望んでいない」という事実だけが重要なのである。
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