「エドレル・・・なぜそんなに夢中になって穀し屋のまねをしたいのかね。殺し屋になるのは、想像力の乏しい連中だ。生命というものがどんなものか、ぜんぜん頭にないので、人殺しを重要なことと思わないのだ。他人の死を怖れる人の方がわしは好きだ。それは、生命の価値を知っている証拠だ。
ユゴー 僕は生きるためにつくられてはいないのです。生命とはなにか、僕は知りませんし、知る必要を感じません。僕は余計者なんだ。この世の中に、僕の居場所は無く、そして僕の存在は人に迷惑をかけるのです。誰ひとり僕を愛してはいません。誰ひとり僕を信頼してはいないんです。
エドレル わしは君を信頼する。
ユゴー あなたが
エドレル そうだ。君は骨折って大人になろうとしている若僧だ。もしも君の行為の障害がとり除かれたら、君は誰からも喜ばれる人間になるだろう。わしがやつらの爆発缶や爆弾から脱れられたら、わしは君を手許において、力になってあげよう。
ユゴー なぜ僕にそんな事をされるんです なぜ僕に今日おっしゃるんですか?
エドレル・・・専門家でない限り、冷静な男を穀せるものではないことを君に証明してみせたかったのだ・・・」 サルトル全集 劇作集『汚れた手』人文書院 p103
若き革命党員ユゴーは、指導者エドレル博士を裏切り者と見做して暗殺を目論み博士の秘書として乗り込んだ。エドレルは元国会議員、ナチと結ぶ体制に絶えず命を狙われている。エドレルの人格に圧倒されたユゴーは決行をためらいはじめる。大戦末期のある東欧王制国家を舞台としたサルトルの作品『汚れた手』
「僕は余計者なんだ。この世の中に、僕の居場所は無い・・・誰ひとり僕を愛してはいません」というユゴーの言葉は、疎外に苦悩する全ての青少年のものである。
高校生の取るに足らぬ逸脱と、暗殺を目論む若者の悩みとが、同じように存在そのものを賭けた哲学的「骨折り」であることを僕らは感じ取らねばならない。そして、それを打開に導くのが相も変わらず古典的な信頼であることも。罰や栄誉などではなく古くさくもある信頼。しかしそれこそは時代と個人に即して、同時に時代を繋ぎ越える。生徒の遅刻やサボりのの中に命と思想の課題と捉える知性と洞察力が、教師に要請されている事を肝に銘じねばならない。
たかが遅刻に、いかれた服装と髪形に、若者の存在を賭けた苦悩が秘められていることもある。そうでないこともある。それを読み解く能力に欠ける教員の、短い断定的セリフが職場に満ちている。
エドレルの科白「なぜそんなに夢中になって穀し屋のまねをしたいのかね。殺し屋になるのは、想像力の乏しい連中だ」は、倫理であれ国語であれ歴史であれ平和教育であれ、授業の中で徹底的に論じ尽くさねばならぬ。僕は教師同士で「なぜそんなに夢中になって(生徒の自主性の)穀し屋のまねをしたいのかね。(生徒の自主性の)殺し屋になるのは、想像力の乏しい連中だ」と読み替えたい。
結局エドレルは殺される。政治の世界も学校も、想像力を持つ者を失い続けてきた。だが希に、その死が新しい力に受け継がれることもある。
今この国の人々は、煽られた憎悪の感情をつのらせ「人間の喜怒哀楽の感情は、本人にしかわからない」という絶望の中に立ち尽くしているかのようだ。だから若者たちは、共同の疑似体験に無理矢理涙して絶叫するのではないか。部活に、行事に「やった者にしかわからない」共同の快感を求めて。
「感情は、本人にしかわからない個人に特有なものではなく、時を越え国境を越えて、分かち合うことができる」ことを忘れている。僕は学力の中で最も重要なのはこの共感能力だと考えている。ともかく日本では議論すらあまりしない概念だ。
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