ハンセン病療養所「園券」の深い闇         ここにも渋沢栄一の影

   戦前戦中ちまたでは、「全生園にいけば2、30万はいつでも融通してもらえる」と公然と言われていた。高木敏子「ガラスのうさぎ」に、太平洋戦争末期「1000円といえば、ちょっとした家が一軒建つお金」という記述がある。2、30万円は大変な額である。現在の価値で2億、3億円に相当する。 

 絶対隔離は火葬場の煙とならなければ外に出られない仕組みだった。どんなに金を患者が持っていても、一旦園が強制的に預かってしまえばどう使ってもなんら咎められない。全く自由な400万円近い資金(4000億円に相当する)が、いろいろな方面から重宝されていた。戦前の市中金利は5%から10%で推移していたし、高利貸しの金利は年利100%を越え

患者たちは有り金残らず巻き上げられ・・・  
  
ていたからである。全国のハンセン病療養所は患者の逃亡を防ぐことを理由に、その所持金を園内だけにしか通用しない粗末な「園券」に強制的に交換した。
  しかし敗戦とともに事情は大きく変化した。1925年男子のみの普通選挙権が認められたが、皇族と公的扶助を受ける者は無かった。1947年補欠選挙が開始されるとともに、共産党遊説隊が園内に入り、草津栗生楽泉園ではその晩のうちに懇談会が開かれ患者の怒りは爆発する。(1947年患者の委任を受けた自由法曹団が、園当局の行為は殺人、同未遂、特別公務員暴行凌虐、不法監禁罪を構成するとして前橋検察庁に告訴告発している。それによれば、 庶務課長は重監房運用責任・物資隠匿横領・患者労働賃金のピンはね横領等、炊事主任は患者救済を騙って買い付け横流し、保母は虐待で保育児を死に至らしめている。)
  共産党や社会党も園内に入り、患者たちがハンセン病療養所の実態を村人や町民に訴え始める。長年の悪事が露呈・園当局の尻にも火が付く。患者が持参した金券=「正金」を当局は「保管金」と呼んだが、保管などしてはいない勝手に「運用」していたのだ。

 昭和27(1952)年4月1日「第一分館に於て保管金払出しの際本日より何の報告もなく正金にて払出しているとの情報を得たので、早速園当局に申入れし、正金切替は計画の下一斉に行うにつき、この処置を差しとめさせた」と全生園患者自治会は記録している。自治会が正式に金券への切替を要請したのが3月15日ごろで、切替希望日は4月なかごろである。
 開園から40余年もの間、入園者の所持金をいくら取り上げていくら園券にしたか明細などない。

 「切替えは予定通り始まり14日・・・15日・・・16日・・・17日・・・と順調に進んだが、保管金額に誤りがある疑いが出てきて、切替委員が立ち合って調査したところ、銀行預金の38万円余が見落とされていて、日本銀行券保有高とだいぶ差があることが判明した。・・・自治会では、調査委員会を設けることを決め、翌日には、施設側に現金出納簿の提出を要求してこれを調べたが、出納簿はこの切替えに当たって、都合よく書き換えられたものであったので、原簿の提出を要求。
 ・・・明らかに現金出納簿を改ざんしている等の事実を厳しく指摘し、全くいいかげんな取りあっかいについての釈明を迫った・・・ そして22日・・・園長は自治会に対し、73万5000円余が不足していることを正式に認めた。この不足分を認めたことは、患者の保管金と金券発行額だけ、現金の裏付けが無いということで、そこには明らかになんらかの不正が介在することを認めたわけである。
 ・・・「園券に関する不正責任糾明委員会」が発足したのはその夜。・・・激しい怒りが「園券に関する不正糾明患者大会」に結集された。この日の礼拝堂には、入園者600余人が会場と堂外にあふれ、出席している施設首脳者に怒りの声がしきりに飛んだ。大会決議では「73万余円不足の事実は、過去30有余年の永きに亘り我々患者の血と涙の結晶たる零細なる所持金が、何らの会計検査もなく、無能にして絞滑なる担当者にょり、如何に曖昧模糊たる処理に委ねられ来ったかを自ら暴露せるものであり、我々現存者のみならず不幸なる時代の中に病没した過去の病友の霊と共に断じて許さざる処」と述べ、施設の責任者園長の意志表示、永井と菱川の即時辞任とらい園たらい回し勤務の拒絶、不足金の個人負担、不足の真相調査と公表等を要求した。
 これに対する24日の園長回答は「皆様の所持金縁管に関して慎重を欠き不始末を生じ御心配をおかけしたことは責任者とし注意が足りなかったと痛感すると述べたが、内容はそれとはうらはらでそっけないものだったため、委員会はこれを拒絶して、再回答を要求、26日の再回答では責任を痛感し、永井、菱川両人をやめさせる、両人は辞職を隣い出、他のらい園には勤めない、不足金は個人が支弁し、原因調査は公正を期して本省と地方局に依頼、4月30日に公表するとしたのを、糾明委員会は了承した。
しかし新聞各紙は「患者の金を職員が横領?」 「らい園は伏魔殿」などと興味本位に取りあげ、事件の解決にはほど遠かった。
 4月30日加藤事務官らの本省調査団は糾明委員会に対し、調査の中間報告をしたが、・・・その調査の粗雑さについて糾明委員会からきびしい指摘をうけて、ついには施設、糾明委員会との三者で合同調査をすることになり、その結果は5月6日つぎのように発表された。
○入園者所持金
 有効園券         二三四万〇四五〇円五四銭
 保管金           一〇九万四三六七円五四銭
 互恵会             三八万四四八九円〇九銭
 慰安会               三万〇一四六円四〇銭
 その他                   一八七六円
  合計            三八五万二二二九円五七銭
○園が示した資金
 課長出納簿       二九七万八五二二円七一銭
 菱川保管金           四万八三六四円七五銭
 同立替金             八万一三〇〇円
 振替貯金                 三四〇五円二六銭
  合計           三一一万一五八三円七二銭
○差引不足額         七三万九七四五円八五銭

 そして永井は7月、菱川は8月に結核の施設に転勤となった。
 調査団発表は不足金の確認だけで不足した原因には触れない。施設ではその後も調査を続けているが、林メモによると(6月30日)42万4000円余の所在は、菱川の帳簿もれと解明されているが31万5000円余は不明金としている。前記したごとく裏付け金出納簿は改ざん(または問題ない部分だけはチェック)したものを自治会に提示し、改ざんを追及されてもついに原簿は出さなかった。」
全生園患者自治会編『俱会一処』一光社刊
 国立ハンセン病療養所は国内だけでも13箇所あった。不正横領は全生園だけではない。不正に運用された膨大な「利益」は何処に消えたのか。これも光田健輔と渋沢栄一画策による「絶対隔離」政策が無ければ出現するはずのない深い闇であった。この一事だけで、渋沢栄一が一万円に相応しくないことは明白。
 この後患者たちは長く困難な「ライ予防法」闘争に精魂を傾け敗北する。光田健輔は1951年、文化勲章を胸にした。

 敗戦は憲法改革を伴う「革命」であるべきだった。革命の過程では旧体制で弾圧迫害され投獄された人々が、新しい体制の理想を実現するために政権中枢で汗を流す。それが民主主義的政変である。眼光鋭く旧体制の闇を告発検証して、責任の在りどころを逃さない。そうでなければ新しい体制は実現しない。

 にもかかわらず光田健輔と渋沢栄一の絶対隔離体制は続いた。誰一人処罰されなかった。殺戮も横領も拷問も何も問われなかった。犯人たちは逮捕もされず裁判にも掛けられなかった。旧体制は、より権威主義的に整えられたのである。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

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