モニトリアル・システムと教員の階層化

子どもに接する助教たちに裁量の自由は一切ない
   授業実践などの研究会に学者の卵が現れて「○○教育の視点を取り入れたらどうでしょうか」と言う者が昔からあった。卵の数が犇めいているというからでもあるだろう。○○の中に入るのは極めて狭い彼の専攻分野だ。修論や学会誌に載る論文数が、大学採用の目安。そのためにデータが必要なのだ。
 「そんなに効果を確信しているのなら、自分で教壇に立ってやってみたらいい」と言えば、表情を殺して「私は教材をつくる側でして」という。教員を「偉い」専門家がつくった教材をやらせるだけの流れ作業の単なるラインにしている。「先生たちの専門でないことを、それを専門にしている我々が提案して、報告をいただくわけです」と言う。その教材を見れば、教材集を引き写した程度の粗末なもの。高校生の宿題レポートにもならない。
 「これしきの教材を有難がって使う教師がいるとすれば、そもそも教員として失格なのではないか。この資料は「専門でない」我々から見てもレベルは低くデーターは古い」と僕は腹をたてた。
 すると彼等は○○教育の専門家であって、○○問題の専門家ではないと言い訳をした。「私は教材を担当・・・」と言う珍妙さに僕はカルトを感じた。つまり彼等はある特定の解釈を流布するのが使命であり、研究討議は封じられているかに見えた。
 キャリア教育、法教育、シチズンシップ教育・・・に再びその臭いを感じる。やり方は前ほど愚かではないだろうが。
 小さな部分の更に僅かな役割しか担おうとしない者が、どうして子どもや少年若者という全体を知りうるのか。疎外という言葉が相応しい。教育の危機は二段構えである。 
 確実なのは、目新しげな事をやって見せて、彼等自身が仕事を得るということだ。キャリア教育や就活の脅迫によって得られた効果は、彼等がそれで食えるようになったことである。学生や生徒の状況は前進するどころか、悪化するばかりだ。

 「教授活動に於ける経営企画機能と作業機能との分離」それは18世紀末の英国でモニトリアル・システムとして生まれている。助教法ともいわれ、19世紀初半に開発された学級教授法。学級内を小集団に分け、生徒のうち年長で覚えの良い者がモニター(助教)となって小集団を担当し、教師に教えられたことを助教たちが各集団に伝える。モニター(助教)は自ら授業の主体とはなり得ず、教師の言うことを反復するのみである。
 自ら授業の計画を練り、教材を編成して、生徒の反応を見ながら授業する現在の教員とは、似て非なる形態の研究会があの頃多発したのか。類似の新式教育が、現れては消えてゆく。当たり前だ、生徒と社会の失態から出発していないからだ。「これからは・・・の時代」「・・・はもう古い」などという語り口が、それを表している。

 今学校では教諭が、教諭、主任教諭、主幹教諭、指導教諭と階層化され、管理職も教頭が副校長となり校長の上に総括校長が置かれるようになった。おかげで対等に議論・決定する関係が破壊され、指導・命令する関係になってしまった。教委が立案した方針を、平教諭を除いた「企画調整会議」で具体化。職員会議や学年会はその結果を教諭に伝達する。それは教科においても例外ではない。モニトリアル・システムに於ける助教が階層化したのが、今の職員室の有様である。 位階を上昇させることばかりが念頭にあって、要求される煩瑣で無意味な書類を書き、生徒に目が向かない。平のままで頑張って自立を保とうとする人もいるが、そんな意識を教委は嫌っている。だからそんな教師の給与を下げ、その分を主任や主幹に回すのである。混雑する通勤電車の料金を上げて、グリーン車両や有料特急を導入するのに似ている。

  校長は、島小学校の斎藤喜博のように、その博学と人格によって指導性を発揮するのではなく、指導性のなさを身分階層に依って維持するようになった。例えば、
 「なぜ授業しないのか」と問う生徒に向かって 
 「わしは管理職だ、校長にはずっとなりたかった」と言う。しかし生徒は
 「なんて詰まらない奴なんだ」と心の中で呟き、がっかりする。生徒は校長を教育者として確認し尊敬したいからこそ、「授業しないのか」と問うのである。生徒と対話する惜しいチャンスを自分で捨てているのだ。生徒の方がよほど教育者である。

 民間教育団体でさえ、生徒や父母の困難な状況が議論になることが目に見えて減り、組合の教研は風前の灯火である。むしろ灯っていることを評価しなければならない事態とも言える。
 大学の助手を助教と助手に分けたのも、大学教授と名のれば済むのに大学院教授と言いたがるのも、妙な傾向である。
 我々はどうして、こうも平等を自ら破壊するのだろうか。1970年代、名刺や著書の奥書にに○○大学教員としか書かず、出身大学名も誇示しない学者が複数いて爽やかだった。今は大学名に加えて、高校が受験「名門」であれば高校名まで奥書などに明記して、差異を見せつけたがるのである。

 

ピカピカに清掃された校舎に潜む構造的差別

70年以上経ったが、未だに戦争神経症で入院したまま患者がいる
 「かつて大阪・堺の金岡の陸軍病院、あそこの36番病棟、37番病棟は、精神科の患者を入れてあるところだった。そこは、・・・便所までピカピカだった。しかも、陸軍病院の中では36、37は差別されてるわけです。そして、そこは将校でも兵隊でもみんな一緒で、古いものが一番いばってる。36、37はそういう非常に不思議な病棟だったんですけど、そこは、内務検査のたびに必ず一番だった。 
 それは、ともかく暇さえあれば「びんこすり」っていって、牛乳ぴんで床を、かけ声かけてこすってるわけです。ぼくは部落の路地を見たとき、それを思い出した。 つまり、生活の意欲が非常に充実してるんです。だけど、それを向ける先がないもんだから、自分たちの周りをみがき抜くんじゃないか」安岡章太郎
 この患者たちは、徴兵検査には合格した心身共に健康だった人たちだ。戦場の惨状や内務班生活の不条理が、健康な若者の精神を破壊したのである。
 今も辛うじて残るカルテには患者の言葉が残っている。
 「12歳くらいの子どもを突き殺した。かわいそうだと思ったことがいまでも頭にこびりついている」 
 「部落民を殺したのが脳裏に残っていて、悪夢にうなされる」 
 「子どもを殺したが、自分にも同じような子どもがあった」・・・
 こんな経験を抱えて精神を病んだ傷病兵に、「びんこすり」は治療ではない。虐待であり、差別である。
 
 僕はこの陸軍病院の話を読んで、高等学校が暴力に荒れた80年代を思い出した。 荒れが一段落する頃、工業高校に校舎内を舐められる位ピカピカにするところが現れ、じわじわと広がったのだ。同じような問題を抱えている学校だけに広がったのがミソである。

 元々学校には、「服装の乱れは心の乱れ」などと言う因果関係を無視した、だが耳障りのいい標語が溢れやすい。戦中の「欲しがりません、勝つまでは」に乗せら欺された愚かさは惰性として続いているのだ。
  国民に「欲しがりません」と言わせて東条は、三菱から当時の1000万円を献金として受け取り、軍の酒保には甘い羊羹や酒が山積みになっていたように、軍と財閥は「欲しがります、どこまでも」だった。標語のわかりやすさは、批判精神をいとも容易く踏み砕くから危ない。

 舐められる位ピカピカの校舎を、僕は気持ち悪いと言った。だが同僚の多くは、綺麗なこと自体に問題は無いと肯定的であった。分厚い掃除のマニュアルを造り、教研に持ち込む若い教師も現れた。しかも賞賛の意見が相次いだ。
 好奇心旺盛な少年が、生活すれば汚れ散らかるのは当然。文化祭で、教室に角材が組み上げられ床や壁に釘が打ち込まれ、窓ガラスにガムテープが貼られるのを嫌い禁止するようになった。学校は生徒の創造的熱意より、建物を可愛がったのである。その傾向は工業高校から、新設や建て替えの高校に「感染」して広がった。その究極の姿が山手線に近いB高校の定時制課程である。この事は「高校に於ける暴力と自由の偏在」に書いた。 ←クリック

  90年代半ば、B高校定時制課程が荒れていた。生徒たちは建て替えたばかりの校舎や校庭にバイクを乗り入れ、教室や廊下で花火、校庭にもたばこの吸い殻や菓子袋が散らばった。切っ掛けは校舎改築だった。教師達は建物を可愛がった、壁にテープを貼るな、落書きをするな。建物が新しいから少しのゴミでも目立つ。口うるさくなる。生徒は俺たちと校舎どっちが大事なんだと荒れる。全日制課程や近所からの苦情は絶えず、教師は対策に追われて職員会議は週二回に増えたが、疲れ果て為す術がない。
 ところが思い掛けない事で事態は一変する。夜間中学を卒業したお年寄り数名が、勉強を続けるために入学したのである。彼女たちは、荒れる高校生に一瞬たじろぐが
「なにしてるの、学校は勉強するところでしょう」と言いながら、教室に入り教科書とノートを広げた。僅か数日の間に花火は姿を消し、静寂が訪れた。ツッパリ達がおとなしく鉛筆を握ったのである。教師達が束になって説得し脅しても駄目だったことが、あっさり解決した。何が違ったのだろうか。
 教師は、~するなと言う。命令である。お婆ちゃんたちは、~すると宣言し実行した。荒れるツッパリとその同調者だけで構成された均一の空間に、異質のお年寄りが加わることで突然起きる根底的変化、それは革命と言うに相応しい。

 偏差値の魔手に教師までが捕らわれて、偏差値が低ければ授業に関心は無いと決めつけていた、これが差別でなくて何を差別というのか。自分の職務が追考できない無能さを糊塗するのは「差別」の効用である。掃除やお辞儀の「行儀良さ」を基本的生活習慣と名付け、生徒に強制したのだ。

 学校であれば授業に精を出さねばならぬ。軍の精神科病棟が医療現場である以上、治療に全神経を注がねばならないように。それが目的合理性である。「びんこすり」の日常は、過酷な差別にすぎない。病院内外から精神科病棟に注がれる侮蔑の眼差しに、「びんこすり」でピカピカになった床は反証になるどころか「差別」を尚一層際立たせたのである。しかし病棟将校たちは、当局から与えられる内務検査成績「一位」の誉れに満足した。こうして差別は構造化し、目的の治療や教育は蔑ろにされる。
 B高校定時制課程にとって幸いだったのは、生徒が徹底的に荒れたことである。だが軍精神科病棟傷病兵は、文句も言わず「びんこすり」を続けたのである。

 ピカピカに清掃した校舎、部活が終わって体育館や校庭に頭を下げる生徒たちを見るたびに、僕はいやな気持ちになる。デパートやスーパーでも売り場への出入りの度にお辞儀が励行されていて、気持ちが暗くなる。管理職が点数表を持って眼を光らせて×や○を記入するからだ。労働者は芸を仕込まれた家畜ではない。
 教師も教室や学校に出入りするたびに「礼」をさせられるかも知れない。
 絶えず業績評価して職場をギスギスさせるより、自然な笑顔が出る労働条件を整えるべきなのだ。
 

すぐれた文芸作品は、他人の命令を受けず、利害を顧みず、自然に心のなかから流れ出てくる

「革命文学」などは急ぐことはないのです
  「・・・しかしこの革命地区の文学者は、好んで、文学と革命とは大いに関係があるといっているようです、たとえば文学によって革命を宣伝し、鼓吹し、煽動し、促進し、そして革命を完成させることができるなどと。 
   しかし私はこう思うのです、そのような文章は無力であると。なぜならばすぐれた文芸作品は、もともとたいてい他人の命令を受けず、利害を顧みず、自然に心のなかから流れ出てくるものだからであります。もしあらかじめ題目をかかげて、文章をつくるのなら、それは八股文とおなじことで、文学としてなんの価値もなく、まして人を感動させることなどできるはずはありません。 
 革命ということのためには、「革命人」が必要なのであって、「革命文学」などは急ぐことはないのです、革命人がものを書いてこそ、はじめて革命文学なのです   魯迅「革命時代の文学」
   これは1927年黄埔軍官学校に於ける講演記録。文中の八股文とは中国の明や清の時代に科挙の答案として用いられた、特殊な文体である。

  志賀直哉が小林多喜二に宛てた1931年8月7日付の手紙の「小説が主人持ちである点好みません」「主人持ちの芸術はどうしても稀薄になると思います」「運動意識から独立したプロレタリア小説が本当のプロレタリア小説でその方が結果からいっても強い働きをするように私は考えます」
  更に、1935年11月の対談の発言「小林多喜二はたいへん優れた作家だと思っている。また人間としても実にいい人間だったと思っている」・・・「しかし誤解してはいけないよ、主人持ちの文学でさへなければその作品がすぐに傑作だなんていふことを僕は決して言はないのだから」・・・「主人持ちの文学でも人をうつものはあるかも知れない」・・・「要は人をうつ力があるもの、人を一段高いところへ引き揚げる力がある作品であればいいのだ。さういう作品が現れてくるならば、反対にはっきり主人持ちの文学として現はれて来たからといって一向差支へあるまい」 「志賀直哉氏の文学縦横談」『文化集団』  

 志賀直哉は魯迅に2年遅れて生まれている。同時代の人である。国費留学生と学習院生は、神田あたりですれ違っていたかも知れない。同じ時代の空気を吸っているのだ。
 先に挙げた対談の中に「今の世の中でファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね」・・・「大体この二三年間、急に日本はまるで日本でなくなったやうな気がするぢゃないか。僕は腹が立って、不愉快でたまらないんだ」・・・「世の中が実に暗い。外へ出るのも不愉快だ。言ひたいことが言へない世の中などというものは誰にとっても決して有難くないわけだ」という発言もある。

  魯迅も志賀直哉も、文学に「他人の命令」を排して「自然に心のなかから流れ出てくる」もの、「人をうつ力があるもの、人を一段高いところへ引き揚げる力」を求めている。特に魯迅が軍官学校でこれを講演した年、美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発された年に「ファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね」と志賀直哉が言っていることに注目したい。魯迅は北京、厦門、広州、上海と軍閥や国民党の弾圧を受けながら果敢に文芸活動を行ったが、志賀直哉『文化集団』誌対談の翌年、急逝した。

 黄埔軍官学校は、孫文の辛亥革命で作られた革命軍将校養成機関。その跡地は中国の全国重点文物保護単位に指定され、広州市中心から地下鉄や路線バスと渡し船で往来できる観光名所となっている。

体罰を止めさせるために 2 孤独に耐える決意

体罰教師に抗議文を突きつけボイコット
組織するのはたいてい女子生徒だった
 担任をしていた若い頃のことである。一時間目の社会科でクラスに入ると、神妙にシーンと静まっている。
 「どうしたんだ、何があったんだ」と聞くと、ある生徒がおずおずと上目使いで
 「だって、先生怒ってる」と言う。
 「なぜそんなことが分かるんだ」
  「いつもと足音が違うから分かるよ」とあちこちから返事があって生徒たちは笑い出し、僕も釣られて笑ってしまった。
 「そうか、君たちには何も隠せないな。実は怒りながら階段を上がっていたんだ。君たち、昨日友達が体罰を受けているのを黙って見てたんだってな。・・・情けないぞ」教室のあちこちから反論が上がる。
 「だってさ、先生知ってる? あいつムキムキなんだよ。なー」「竹刀持ってたんだよ」
 「馬鹿野郎、いくら強ても、相手は一人お前たちは40人近いじゃないか。先ずやめろと叫べ、それでもだめなら一斉に飛びかかれ」僕の口調もいつの間にか乱暴になった。
 「そんなこと言ったって、怖いよ」
 「おいM、お前特攻隊かっこいいと言ってたな。こんなことでビビっていて、敵艦に突っ込んで死ねるのか。意気地が無いぞ」
 「・・・はい、・・・俺意気地なしです」
 「戦争の時は、それでいいんだ。しばらく自習してろ。俺が文句言ってくる」そう言って、僕は職員室に向かい、抗議して二度と体罰をしないことを約束させた。

  教室に戻り、暴力の様々な形態について話した。冤罪や戦争について、職場での労働法上の理不尽について、少数者であるが故に受ける社会的暴力について喋った。
 そしてもし体罰を受けたら先ず「やめろ」と抗議すること、必ず校医にところで診断書をとることを教えた。訴えれば必ず勝てると。そうして、大多数は示談交渉になり、相場というものがあることも知らせた。

 しかし男子生徒たちは、どの学校でも余り体罰に反撃しなかった。しても捨て台詞程度。謝罪を要求したり、抗議文を突きつけたり、ボイコットしたのは女子生徒だけの場合か、さもなければ女子生徒主導であった。
 なんてだらしない男子だと思ったが、今考えると彼らは体罰教師を徹底的に軽蔑していたのだと思う。また、学校という組織をみる眼も冷めていた。三年でいなくなる生徒より、長い付き合いの職員集団を教師も優先してしまう。抗議して分かる相手ではないことを、身にしみて中学性の時から繰り返し学んで来たのだ。しかし、女子生徒の多くは体罰を慣れるほど経験していない。それは体育の授業のが男女別である事による。強面の男先生も、女子に囲まれれば少しは柔らかくなる、それに女性教師が受け持つことが多かった。
 少年期を脱して批判精神が芽生えれば、目の前の体罰に新鮮な怒りが一人ひとりに湧く。集団に埋没した仲間意識ではなく、高校生らしく集団から自立しつつある個人同士の連帯がそうさせる。前者が判断を集団に委ねるのに対して、後者では自立した一人ひとりが判断するのである。
 体罰に立ち向かった女子生徒の大部分がクラブ活動などの集団活動とは無縁な生活をしていた事も、自立した判断をする日常に大いに関与している。当時僕は、この事実を「不思議」なことだと考えていた。集団に対する思い込みが、僕の中に抜きがたく残っていたのだ。

 体罰やいじめは、それを放置する集団の問題である。集団は、それ自体の安定や利益を優先してしまう。一つの「部活」に三年間も時には六年間、毎日朝から晩までのめり込むことの危うさはここにある。心地よい安楽への隷従願望が、潜んでいるのだ。
 同じことは教師にも言える。そんな軛から自由になるためには、理解し共に行動する仲間の存在もいいが、何より一人で孤独に耐える決意が必要だと思う。集団内で「浮いて」も平然と動じない覚悟なしに、暴走する集団の熱狂から自由になることは出来ない。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...