ピカピカに清掃された校舎に潜む構造的差別

70年以上経ったが、未だに戦争神経症で入院したまま患者がいる
 「かつて大阪・堺の金岡の陸軍病院、あそこの36番病棟、37番病棟は、精神科の患者を入れてあるところだった。そこは、・・・便所までピカピカだった。しかも、陸軍病院の中では36、37は差別されてるわけです。そして、そこは将校でも兵隊でもみんな一緒で、古いものが一番いばってる。36、37はそういう非常に不思議な病棟だったんですけど、そこは、内務検査のたびに必ず一番だった。 
 それは、ともかく暇さえあれば「びんこすり」っていって、牛乳ぴんで床を、かけ声かけてこすってるわけです。ぼくは部落の路地を見たとき、それを思い出した。 つまり、生活の意欲が非常に充実してるんです。だけど、それを向ける先がないもんだから、自分たちの周りをみがき抜くんじゃないか」安岡章太郎
 この患者たちは、徴兵検査には合格した心身共に健康だった人たちだ。戦場の惨状や内務班生活の不条理が、健康な若者の精神を破壊したのである。
 今も辛うじて残るカルテには患者の言葉が残っている。
 「12歳くらいの子どもを突き殺した。かわいそうだと思ったことがいまでも頭にこびりついている」 
 「部落民を殺したのが脳裏に残っていて、悪夢にうなされる」 
 「子どもを殺したが、自分にも同じような子どもがあった」・・・
 こんな経験を抱えて精神を病んだ傷病兵に、「びんこすり」は治療ではない。虐待であり、差別である。
 
 僕はこの陸軍病院の話を読んで、高等学校が暴力に荒れた80年代を思い出した。 荒れが一段落する頃、工業高校に校舎内を舐められる位ピカピカにするところが現れ、じわじわと広がったのだ。同じような問題を抱えている学校だけに広がったのがミソである。

 元々学校には、「服装の乱れは心の乱れ」などと言う因果関係を無視した、だが耳障りのいい標語が溢れやすい。戦中の「欲しがりません、勝つまでは」に乗せら欺された愚かさは惰性として続いているのだ。
  国民に「欲しがりません」と言わせて東条は、三菱から当時の1000万円を献金として受け取り、軍の酒保には甘い羊羹や酒が山積みになっていたように、軍と財閥は「欲しがります、どこまでも」だった。標語のわかりやすさは、批判精神をいとも容易く踏み砕くから危ない。

 舐められる位ピカピカの校舎を、僕は気持ち悪いと言った。だが同僚の多くは、綺麗なこと自体に問題は無いと肯定的であった。分厚い掃除のマニュアルを造り、教研に持ち込む若い教師も現れた。しかも賞賛の意見が相次いだ。
 好奇心旺盛な少年が、生活すれば汚れ散らかるのは当然。文化祭で、教室に角材が組み上げられ床や壁に釘が打ち込まれ、窓ガラスにガムテープが貼られるのを嫌い禁止するようになった。学校は生徒の創造的熱意より、建物を可愛がったのである。その傾向は工業高校から、新設や建て替えの高校に「感染」して広がった。その究極の姿が山手線に近いB高校の定時制課程である。この事は「高校に於ける暴力と自由の偏在」に書いた。 ←クリック

  90年代半ば、B高校定時制課程が荒れていた。生徒たちは建て替えたばかりの校舎や校庭にバイクを乗り入れ、教室や廊下で花火、校庭にもたばこの吸い殻や菓子袋が散らばった。切っ掛けは校舎改築だった。教師達は建物を可愛がった、壁にテープを貼るな、落書きをするな。建物が新しいから少しのゴミでも目立つ。口うるさくなる。生徒は俺たちと校舎どっちが大事なんだと荒れる。全日制課程や近所からの苦情は絶えず、教師は対策に追われて職員会議は週二回に増えたが、疲れ果て為す術がない。
 ところが思い掛けない事で事態は一変する。夜間中学を卒業したお年寄り数名が、勉強を続けるために入学したのである。彼女たちは、荒れる高校生に一瞬たじろぐが
「なにしてるの、学校は勉強するところでしょう」と言いながら、教室に入り教科書とノートを広げた。僅か数日の間に花火は姿を消し、静寂が訪れた。ツッパリ達がおとなしく鉛筆を握ったのである。教師達が束になって説得し脅しても駄目だったことが、あっさり解決した。何が違ったのだろうか。
 教師は、~するなと言う。命令である。お婆ちゃんたちは、~すると宣言し実行した。荒れるツッパリとその同調者だけで構成された均一の空間に、異質のお年寄りが加わることで突然起きる根底的変化、それは革命と言うに相応しい。

 偏差値の魔手に教師までが捕らわれて、偏差値が低ければ授業に関心は無いと決めつけていた、これが差別でなくて何を差別というのか。自分の職務が追考できない無能さを糊塗するのは「差別」の効用である。掃除やお辞儀の「行儀良さ」を基本的生活習慣と名付け、生徒に強制したのだ。

 学校であれば授業に精を出さねばならぬ。軍の精神科病棟が医療現場である以上、治療に全神経を注がねばならないように。それが目的合理性である。「びんこすり」の日常は、過酷な差別にすぎない。病院内外から精神科病棟に注がれる侮蔑の眼差しに、「びんこすり」でピカピカになった床は反証になるどころか「差別」を尚一層際立たせたのである。しかし病棟将校たちは、当局から与えられる内務検査成績「一位」の誉れに満足した。こうして差別は構造化し、目的の治療や教育は蔑ろにされる。
 B高校定時制課程にとって幸いだったのは、生徒が徹底的に荒れたことである。だが軍精神科病棟傷病兵は、文句も言わず「びんこすり」を続けたのである。

 ピカピカに清掃した校舎、部活が終わって体育館や校庭に頭を下げる生徒たちを見るたびに、僕はいやな気持ちになる。デパートやスーパーでも売り場への出入りの度にお辞儀が励行されていて、気持ちが暗くなる。管理職が点数表を持って眼を光らせて×や○を記入するからだ。労働者は芸を仕込まれた家畜ではない。
 教師も教室や学校に出入りするたびに「礼」をさせられるかも知れない。
 絶えず業績評価して職場をギスギスさせるより、自然な笑顔が出る労働条件を整えるべきなのだ。
 

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