商品が売れれば、戦争さえいいのか

武器は常に民衆に、特に自国の民衆に向けられてきた
 日本は、他国への武器輸出を原則禁止してきたが、安倍政権はその国是を転換。'14年4月、閣議決定でそれまでの「武器輸出三原則」を、武器や軍事技術を海外に輸出できる「防衛装備移転三原則」に変えてしまった。国民の多くは、何も知らない。
 防衛装備移転三原則の閣議決定当時、「輸出するのは、救難飛行艇や軍用救急車など、人命救助任務に使う装備が中心」などと言い、「戦争目的の武器ではない」と油断させたが。初の大型受注案件として浮上したのは、戦略的兵器とされる最新鋭の潜水艦だった。

 その裏で、2015年10月に「防衛装備庁」が新設され、官民で開発した武器を海外に売る窓口ができた。また、武器輸出ビジネスに貿易保険が適用できるよう、政府内での調整も進んでいる
 米国務省の「2015年世界軍事支出・兵器移転」報告書によれば、2002年からの10年間で、日本の武器輸入額は166億ドル、年平均で150億ドルとなり、調査対象の170カ国のうち首位となった。この数値は2位の英国、3位の韓国の合計総額に近い。

 日本は他国からの架空の攻撃を口実に武器を保有するだけではなく、商品としての武器を売るために戦争の危機をつくり煽る国になっている。利益のために戦争を待ち望むようになるのだ。売るだけなら日本は戦場にならないし、戦死者も出ないと言うつもりか。まさしく日本資本主義は悪魔化している。戦争は企業にとって麻薬である。

学校間の壁はなぜなくせないか

 「民主」を自認する教師は、ベルリンの壁崩壊を偉大歴史的事実として称賛する。しかし自分たちの籠もる学校の壁は、堅持する。
  ある日アパートの壁が突然消えて主人公が驚いていると、街中の壁が落ちている。そんな芝居があった。寺山修司の『レミング』である。「壁の消失によってあばかれる内面の神話の虚構性の検証」がこの芝居のテーマであると彼は書いている。 
 僕は高校生の時、いくつかの高校と大学の授業にもぐり込んだ。大学への侵入は容易かったが、高校では教室全体を仲間にする必要があった、出欠点呼という関門があるからだ。先ず近所の都立高校に「侵入」した。誰が休みか聞いてその男になりすまして出席点呼をやり過ごした。当時僕らは、男女共学化を学校に要求していた。女生徒がいる教室の授業は素晴らしいのではないかとの思い込みはものの見事に裏切られた。授業も平板なら質問も出なかった。逆に自分の高校の授業を評価しなければならないと思ってしまった。

 しかしだからこそ、入試や偏差値による特権を憎んだ。良い授業は、誰にも聞く機会が保証されねばならないからだ。それに目を瞑って「平等」や「自由」を言う資格はない。何か利点があるから共学を支持すると言う視点も捨てた。
 定時制高校の笑いの絶えないざっくばらんな雰囲気の中で繰り広げられる授業には魅せられた。
 僅か数カ所を覗いても、授業は多様であった。水産高校は、企業内高校は、・・・一体どんな世界なのか、塀を接した学校の内情さえ知らないのだ。偏差値で輪切りにされた環境では、付き合う友人たちの階層は限られていた。はみ出さなければ、全体に肉薄することは出来ない。僕は工場にも出入りするようになった。書店や公民館の市民講座にも耳を傾けた。どこの学校の授業も聴き、対話出来る開放的制度を望まずにはおれなかった。


 高校や大学を隔離している壁に根拠はない。なぜなら入試のない制度を持たず、壁のない学校制度の国々の学生の「質」は決して低くないからである。むしろ「工夫を重ねた万全の入試」が、若者の知的能力を疲弊させ切っているのは疑い得ない。クイズ番組出場者を量産する大学をエリート校とは誰も思わない。

 体制を隔てていた壁さえ壊れたのだ。学校を隔てている壁をたたき壊すのは容易である、為になる。そこに出現するのは「(教育制度)神話の虚構性」の醜さである。入試を通して若者の自立性を摘み取る受験産業は、文科省や国立大学協会さえ支配している。

学びへの飢餓感

中井正一は三高遊艇部で「きれい」の精神を掴んだ
 覗かれる授業をしよう。授業をサボって雀卓を囲んでいても、駅前で授業が嫌であんみつを食べていても、遙か遠くの学校の授業であっても、どうしても馳せ参じて覗かずにはいられない。そんな授業はいかにして可能か。

 寺山修司は大学を中退している。『人生劇場』に魅せられて入ってみれば、教師は自著をテキストに指定して読むばかり。下宿で寝そべって読む方が効率よく頭に入り、時間も節約できるという論理であった。(ではなぜ同じ理屈で寺山少年は高校を辞めなかったのかという問題が残る。そう、日本の高校生は怠け者で臆病なのだ、叱られたり殴られたりしなければ自己を確かめられない)
 登校して授業を受け卒業出来るのなら、テキストを読んで試験を受けて卒業してもおかしくない。入試は要らないのだ。公正な入試など、実はない。(それは正しい単一の宗教があり得ないのと同じである。ベネッセなど受験産業には自由な利潤こそが唯一の正しい宗教であるから、正しい入試はなければならない)
 そんな入試のない制度の下で、どうしても「覗き」たくなる授業、どんなに遠方でも惹き付けられるように通ってしまう授業は初めて可能となる。

 敗戦直後焼け野原となっ地方都市に、大勢の学生が荒ら屋の6畳にひしめく授業があった。岡山の旧制六高で美学を講じていた中井正一のもとに遠く京都からもはせ参じた。喰うものも着るものも読むものも履くものさえろくにないなか、全く腹の足しにはならない「美学」講義を若者が覗かずにおれなかったのはなぜだろうか。
 真理を希求する衝動は、不思議なことに空腹などの困難と同時にやってくる。衣食足って礼節を知るではない。腹が減っているのに頭は冴えて学ばずにおれなくなる。

 その後中井正一は尾道の図書館長になる。治安維持法が無くなり胸たぎる思いで文化活動を開始する。

 「人事と本の年間予算が二千八百円、私の年棒がタッタ百円の館では講師の経費は勿論出っこないから、終始独演ということになる。しかし、悲しい哉、聴衆はいつでも五人、十人である。三人位の聴衆に大きな声でやるのは淋しいというより実際悲しかった。例の広高生の槇田と、私の講義は出来る限り聴衆となろうとする七十七歳の私の母のほかは、外来聴衆はただ一人という時は、母の方が可哀そうに私を見ているらしいのには閉口した。・・・
 市は私の図書館に電気を仲々つけてくれなかった。ついに私は十二月二十八日思い切ってポケットマネーで電気をつけ、早速希望音楽会を開いた。チャイコフスキーの「悲愴」とベートーベンの「第九」という、敗戦の年の暮を一層重く苦しくするものを敢えて選んだ。百名の青年男女が、ガラス窓の破れてソヨソヨ風の吹き透す会場で、皆外套襟巻すがたで聞き入った。第九の合唱がはじまるまで、人々は壊えはてし国の悲しさが、この部屋に凝集するかのような思いであった。そのかわり、「第九」の合唱となり「ああ、友よ」と遠い敗れ去ったドイツから、二百年の彼方シルレル(第九歌詞の作詞者)、ベートーベンから呼びかけられたとき。皆、深く、頭をうなだれて、眼に涙をうかべさえしたものもあった。私も一生、あの時の如く「第九シンフォニー」を激情をもって聴いたことも、また聴くこともあるまい。私は会が終って、感動の激情を聴衆に伝えずにはいられなかった。これが一つのエポックとなって、日曜日の午後三時から毎週、「希望音楽会」をつづけたのであった。
中井正一 『地方文化運動報告』 
 やがてそれは、会費制のカント講座に発展、毎回数百人を集めるようになるのである。
「七百名の体温を満した夏の大講堂の盛んなる光景は、豊かな、豊かな、何か溢るる如きものがあった」と中井は結んでいる。
 今我々に必要なのは飢餓感だ。敗戦直後、老若男女が知識に飢えたのは、戦前戦中何も知らなかったことの痛恨の自覚によっている。無知による惨劇を繰り返さないという決意が、飢餓感に結びついている。
 今も実は何も知らなかったから、原発事故は起き、温暖化は進み、格差は激化している。問題は、決意にある。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...