学校間の壁はなぜなくせないか

 「民主」を自認する教師は、ベルリンの壁崩壊を偉大歴史的事実として称賛する。しかし自分たちの籠もる学校の壁は、堅持する。
  ある日アパートの壁が突然消えて主人公が驚いていると、街中の壁が落ちている。そんな芝居があった。寺山修司の『レミング』である。「壁の消失によってあばかれる内面の神話の虚構性の検証」がこの芝居のテーマであると彼は書いている。 
 僕は高校生の時、いくつかの高校と大学の授業にもぐり込んだ。大学への侵入は容易かったが、高校では教室全体を仲間にする必要があった、出欠点呼という関門があるからだ。先ず近所の都立高校に「侵入」した。誰が休みか聞いてその男になりすまして出席点呼をやり過ごした。当時僕らは、男女共学化を学校に要求していた。女生徒がいる教室の授業は素晴らしいのではないかとの思い込みはものの見事に裏切られた。授業も平板なら質問も出なかった。逆に自分の高校の授業を評価しなければならないと思ってしまった。

 しかしだからこそ、入試や偏差値による特権を憎んだ。良い授業は、誰にも聞く機会が保証されねばならないからだ。それに目を瞑って「平等」や「自由」を言う資格はない。何か利点があるから共学を支持すると言う視点も捨てた。
 定時制高校の笑いの絶えないざっくばらんな雰囲気の中で繰り広げられる授業には魅せられた。
 僅か数カ所を覗いても、授業は多様であった。水産高校は、企業内高校は、・・・一体どんな世界なのか、塀を接した学校の内情さえ知らないのだ。偏差値で輪切りにされた環境では、付き合う友人たちの階層は限られていた。はみ出さなければ、全体に肉薄することは出来ない。僕は工場にも出入りするようになった。書店や公民館の市民講座にも耳を傾けた。どこの学校の授業も聴き、対話出来る開放的制度を望まずにはおれなかった。


 高校や大学を隔離している壁に根拠はない。なぜなら入試のない制度を持たず、壁のない学校制度の国々の学生の「質」は決して低くないからである。むしろ「工夫を重ねた万全の入試」が、若者の知的能力を疲弊させ切っているのは疑い得ない。クイズ番組出場者を量産する大学をエリート校とは誰も思わない。

 体制を隔てていた壁さえ壊れたのだ。学校を隔てている壁をたたき壊すのは容易である、為になる。そこに出現するのは「(教育制度)神話の虚構性」の醜さである。入試を通して若者の自立性を摘み取る受験産業は、文科省や国立大学協会さえ支配している。

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