学びへの飢餓感

中井正一は三高遊艇部で「きれい」の精神を掴んだ
 覗かれる授業をしよう。授業をサボって雀卓を囲んでいても、駅前で授業が嫌であんみつを食べていても、遙か遠くの学校の授業であっても、どうしても馳せ参じて覗かずにはいられない。そんな授業はいかにして可能か。

 寺山修司は大学を中退している。『人生劇場』に魅せられて入ってみれば、教師は自著をテキストに指定して読むばかり。下宿で寝そべって読む方が効率よく頭に入り、時間も節約できるという論理であった。(ではなぜ同じ理屈で寺山少年は高校を辞めなかったのかという問題が残る。そう、日本の高校生は怠け者で臆病なのだ、叱られたり殴られたりしなければ自己を確かめられない)
 登校して授業を受け卒業出来るのなら、テキストを読んで試験を受けて卒業してもおかしくない。入試は要らないのだ。公正な入試など、実はない。(それは正しい単一の宗教があり得ないのと同じである。ベネッセなど受験産業には自由な利潤こそが唯一の正しい宗教であるから、正しい入試はなければならない)
 そんな入試のない制度の下で、どうしても「覗き」たくなる授業、どんなに遠方でも惹き付けられるように通ってしまう授業は初めて可能となる。

 敗戦直後焼け野原となっ地方都市に、大勢の学生が荒ら屋の6畳にひしめく授業があった。岡山の旧制六高で美学を講じていた中井正一のもとに遠く京都からもはせ参じた。喰うものも着るものも読むものも履くものさえろくにないなか、全く腹の足しにはならない「美学」講義を若者が覗かずにおれなかったのはなぜだろうか。
 真理を希求する衝動は、不思議なことに空腹などの困難と同時にやってくる。衣食足って礼節を知るではない。腹が減っているのに頭は冴えて学ばずにおれなくなる。

 その後中井正一は尾道の図書館長になる。治安維持法が無くなり胸たぎる思いで文化活動を開始する。

 「人事と本の年間予算が二千八百円、私の年棒がタッタ百円の館では講師の経費は勿論出っこないから、終始独演ということになる。しかし、悲しい哉、聴衆はいつでも五人、十人である。三人位の聴衆に大きな声でやるのは淋しいというより実際悲しかった。例の広高生の槇田と、私の講義は出来る限り聴衆となろうとする七十七歳の私の母のほかは、外来聴衆はただ一人という時は、母の方が可哀そうに私を見ているらしいのには閉口した。・・・
 市は私の図書館に電気を仲々つけてくれなかった。ついに私は十二月二十八日思い切ってポケットマネーで電気をつけ、早速希望音楽会を開いた。チャイコフスキーの「悲愴」とベートーベンの「第九」という、敗戦の年の暮を一層重く苦しくするものを敢えて選んだ。百名の青年男女が、ガラス窓の破れてソヨソヨ風の吹き透す会場で、皆外套襟巻すがたで聞き入った。第九の合唱がはじまるまで、人々は壊えはてし国の悲しさが、この部屋に凝集するかのような思いであった。そのかわり、「第九」の合唱となり「ああ、友よ」と遠い敗れ去ったドイツから、二百年の彼方シルレル(第九歌詞の作詞者)、ベートーベンから呼びかけられたとき。皆、深く、頭をうなだれて、眼に涙をうかべさえしたものもあった。私も一生、あの時の如く「第九シンフォニー」を激情をもって聴いたことも、また聴くこともあるまい。私は会が終って、感動の激情を聴衆に伝えずにはいられなかった。これが一つのエポックとなって、日曜日の午後三時から毎週、「希望音楽会」をつづけたのであった。
中井正一 『地方文化運動報告』 
 やがてそれは、会費制のカント講座に発展、毎回数百人を集めるようになるのである。
「七百名の体温を満した夏の大講堂の盛んなる光景は、豊かな、豊かな、何か溢るる如きものがあった」と中井は結んでいる。
 今我々に必要なのは飢餓感だ。敗戦直後、老若男女が知識に飢えたのは、戦前戦中何も知らなかったことの痛恨の自覚によっている。無知による惨劇を繰り返さないという決意が、飢餓感に結びついている。
 今も実は何も知らなかったから、原発事故は起き、温暖化は進み、格差は激化している。問題は、決意にある。

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