六月のある朝
「先生、文化祭の話し合いはしなくていいんですか、間に合うでしょうか。心配で堪りません。先生、みんなに言ってください、先生が言えばみんなすぐやります」と準備室に来ておそるおそる言う生徒があった。L君、二年生になって僕のクラスになった。周りに話したかいと聞くと、まだだという。
「聞いてご覧、君と同じ気持ちの生徒がいるはずだ」、数日してまた同じことを言う
「間に合いますか、心配です」と同じことを言う。話すにもどうしたらいいのかわからないのか。
「次の授業の時、君が前に出て訴えたらどうだ。僕は遅れて行くよ」
「僕が言って、聞いてくれるでしょうか」不安げな顔して言う。次の日の授業に遅れて行くと、彼が前に出て何か話して遣り取りが始まっている。廊下で中庭を眺めながらしばらく待った。
「終わりました」と見たことのないような明るい顔で言う。みんなの前で話し出すのに勇気を絞り出したに違いない。教室に入って
「もういいのかい、時間あげようか」と聞けば
「放課後にHRをすることになりました。授業しましょう」意外な生徒が、これまた晴々した声を出す。
「授業、授業」と授業を潰そうとしない空気がみちて、僕は圧倒されそうになった。何故そうなったのか合点がいかないまま、ひとこと言った。 「全クラス参加というが、無理矢理やることはない。このクラスが参加したくないのなら僕もそれを支持する。もし君たちが参加することに決めても、参加したくない友達にまで強制するのは止めよう、参加しない仲間を咎めるのは卑しい」
この頃僕は授業で何を話していただろうか、選別について怒っていたような気がする。
その日の放課後のHRを僕はだいぶ遅れて廊下から覗いた。休み時間に相談が進んでいたらしく自作劇をやることは決まって、動きは速かった。
・・・夏休みも含めて四ヶ月の準備が始まる。「間に合いますか、心配です」と言ったL君の提案に一斉に反応した。啐啄の機が、クラスというゲゼルシャフトに起こったことが不思議である。
「クラスに無関心に見えたLくんが、言い出してくれたのが嬉しくてジーンとしちゃった・・・人間は意外なとこが面白いね」とある生徒が言ったことが印象的だった。まだまだ同調しやすい年頃ではある。しかし僕はそれゆえに、いかに早く担任が教室から姿を消すかについて、腐心していた頃だ。
僕は何もしなかった。何度か練習風景を後からそっと見たことはある。ある時見つかって
「先生、何かアドバイスして」と詰め寄られ、
「舞台での会話は出演者同士で向かい合うと変に見えるんだ・・・」と言っただけ。出来るだけ知らん振りをしてみた。HRや反省会の司会・夏休みの登校日程や使用教室の調整・備品の借用交渉・学校が使えないときの場所の手配・会計・・・すべてが僕の知らぬ間に終わっていた。生徒同士の「参加」の仕方・させ方も一様でない見事なものだった。あんなに楽な文化祭はなかった。揉めごともあったが面白いこともたくさん起こった。劇の出来も素晴らしかったらしく、超満員のため、僕は遂に一度も見ていない。
賞を取ったとか、泣いたとか、感動の・・と担任は書きたがるが、傍ら恥ずかしい。
文化祭など学校行事は、企画書をいつまでに、ポスターや予算計画をいつまでに等と日程管理と点検の官僚化だけが進んで、生徒たち相互の自然な成長を無視して、啐啄の機をぶちこわしている。虚構の祭り騒ぎで生徒たちが失うもの、担任が見落とすものの日常の価値を知るべきではないか。
「心配です」と言った生徒は、その後リーダーとなったわけではない。ただことの成り行きを傍観者のように楽しんでいた。場面場面でリーダは入れ替わった。リーダが休めば自然に代わりが現れる。アナーキーな秩序が素晴らしかった。誰もが特定の役割に固定されない。誰もが責任と指導性を共有分担する。誰が抜けても、誰が入っても自然に分かち共有して過ぎてゆく。終われば、引きずらずに日常に復帰する。リーダーを引き受けるも降りるも、気が楽である。皆が分担すれば、使命感など要らない、利権も特権もありようがない。こういう社会では賄賂や天下りなどないだろう。
高校生が市長選に繰り出し演説した頃
1998年11月~1999年2月にかけて実施された 「戦後学制改革期における新制高校卒業生の意識調査」 がある。 調査は京都と静岡の1950年度公立高校卒業生を対象に行われた。当時の高校生自身の回想証言である。京都の例を幾つか抜き出した。
当時の高校生たちは、「高校の印象」を聞かれて、非常によかった 23.0%、 まあよかった 62.7%、 あまりよくなかった 13.4%、 非常に良くなかった 0.6%と回答している。
続いて「高校が良くなかった」と答えた14%(13.4%+0.6%)に対して、複数回答でその理由を聞いているが、多い順に授業、設備、教師が挙げられている。教師に対する不満が非常に小さい。
「先生に相談できたか」を「新制意識調査」で聞いている。非常によく出来た 7.2%、よくできた 39.9%、あまりできなかった 36.3%、全くできなかった 4.2%と約半数が肯定的に回答している。
教師、高校生、共々充実した日常がよく分かる。ここで回想の中に登場している教師たちは、旧制の高等教育を経験している筈である。軍隊と特高による苛烈な弾圧は、反面教師でもあった。京都の新制高校一期生たちの、教師に対する不満が極めて少ないのは、そこに何も無かったからであり、自主性に任せる以外になかった。あらゆることが、造り上げる自由に満ちていたからである。
敗戦直後の高校生たちは、「泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡」らねばならず、自らの「筋肉と頭脳」によって事態を打開する力を得たのである。それが「このときはじめて、いっさいが可能となる」と言うことである。高校生が主権者として現れる。正しい指導方針としての「デウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕」を予め示さないことが、教師に対する生徒の信頼を形成したのである。
「生徒大会での白熱の討議、クラス誌・クラス新聞の発行、活発なクラス行事などを通じてピカピカの「民主主義」を身につけていったとおもう。クラブ活動も花盛りであった。今もってありがたく思うのは、その運営が生徒の自主性にまかせてもらえたという事である。・・・新聞部においても、企画・編集の段階からすべてを生徒の手で行えたし、およそ検閲に類する事は、いっさい受けた覚えはない。・・・おかげで三年間、思うさま青春の醍醐味を満喫することができ、出会うべき友と出会い、持つべき志を抱くことができた」 加藤豊
敗戦直後の雰囲気を伝えている。県立飯田高社会科学班。
まさしく新制高校発足の日々、この高校は京都市内。一学級は50人を超え、一学年10 学級以上、教室さえ足りず午前と午後に分けて二部授業、便所も足りず仮設のベニヤ作り、物質的には無いものだらけの新制高校であった。
「「ここには素晴らしい本がある」・・・と、何人かの先生たちが・・・冷えきった書庫の中で、長い時間、まるで真剣勝負のような厳しい表情で本と対峙しておられる姿に・・・深い感銘を受け、いつしか、私の人生の中にも、本が大きな位置を占めることになっていった。・・・図書部は完全なクラブ制で・・・毎日毎日遅くまで新しい分類法を学んで取り組んだ。この作業は、時を惜しんで夏休みも続けられた。・・・時には書庫の窓明かりで長時間読み耽っていた記憶が、すうっと体全体に甦ってくる」 川口則子
「・・・向かいの島津製作所には進駐軍が駐留し、夜になると、塀もなく、窓ガラスも破れ放題の教室に女を連れ込んで、狼藉を繰り返した。・・・市長選挙目前に、立候補予定の高山義三氏に面談・・・選挙戦になると、生徒会役員らを動員して選挙演説を繰り返した。・・・勝手連の走りである。予想通り彼は当選した。・・・アッという間に塀ができ、守衛が置かれ、学校の環境は一新された。・・・学校側にも明確な指導方針が打ち立てられない混乱期だからこそ、自由にクラブや生徒会活動を行うことができた」 仙元隆一郎
当時の高校生たちは、「高校の印象」を聞かれて、非常によかった 23.0%、 まあよかった 62.7%、 あまりよくなかった 13.4%、 非常に良くなかった 0.6%と回答している。
続いて「高校が良くなかった」と答えた14%(13.4%+0.6%)に対して、複数回答でその理由を聞いているが、多い順に授業、設備、教師が挙げられている。教師に対する不満が非常に小さい。
「先生に相談できたか」を「新制意識調査」で聞いている。非常によく出来た 7.2%、よくできた 39.9%、あまりできなかった 36.3%、全くできなかった 4.2%と約半数が肯定的に回答している。
教師、高校生、共々充実した日常がよく分かる。ここで回想の中に登場している教師たちは、旧制の高等教育を経験している筈である。軍隊と特高による苛烈な弾圧は、反面教師でもあった。京都の新制高校一期生たちの、教師に対する不満が極めて少ないのは、そこに何も無かったからであり、自主性に任せる以外になかった。あらゆることが、造り上げる自由に満ちていたからである。
「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。・・・市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」フランツ・ファノンが言ったことがここに示されている。
敗戦直後の高校生たちは、「泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡」らねばならず、自らの「筋肉と頭脳」によって事態を打開する力を得たのである。それが「このときはじめて、いっさいが可能となる」と言うことである。高校生が主権者として現れる。正しい指導方針としての「デウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕」を予め示さないことが、教師に対する生徒の信頼を形成したのである。
自由闊達な気風 1
「・・・1950年代の初頭から、日本は再軍備への道を歩み始めていた。当時の言葉で言えば「逆コース」をたどりつつあった。その逆コースの途上には軍隊の再組織化が構想されていた。自衛隊の前身である警察予備隊なるものはすでに存在していたが、これでは金がかかりすぎ、愛国心も育たない、憲法を改正して徴兵制を復活させねばならない、こういった議論が公然と湧きあがってきた。そしてこのプログラムが実現する可能性がかなりあるように思われた。「徴兵されたらどうするのか。行くのか行かないのか」。こう心に問いかけていたのは、私ひとりではなかったはずだ。いま六十歳をこえる当時の若者たちの多くが、少なくとも一度はこの問いを抱いたであろうと私は考えている。 私の結論は決まっていた。徴兵制度が復活しても自分は拒否する、と。そういう心の決め方がどういうところから来ていたのか、その道筋は定かではない。ただ十七歳のとき、私はすでに反戦少年になっていた。小学生のときの疎開体験、その疎開先で見た敗北軍人の集団泥棒、戦後の新橋での闇市商売、新憲法施行の日を創立記念日とする新制中学の第一回生であること、こういったことが下地となっていて、そこから反戦少年が誕生するにはわずかなきっかけで十分だったのである。ここ都立小山台高校では、「校内での下駄ばきの自由を巡る議論」と「再軍備の是非といった政治的テーマ」が同居している。前者は自由嫌い謂うところの自由のはき違えである。それと後者、政治的言論表現の自由が同一の場で議論される。それが青少年の闊達な気風を生んでいるのである。三戸先生が初めて高校生に接した都立大泉高校の雰囲気も闊達だが、更に学校を超えた文化的広がりを見せている。
一つはっきりと思いあたるのは、私が入学した東京都立小山台高校の雰囲気である。共産党の細胞もあったようだが、それ以上に、各学期に生徒大会があり、これが刺激的だった。生徒が好きな議案を提出し、賛否の討論が行なわれ、多数決で採択されるのだが、そのテーマが身近なところから、たとえば校内での下駄はきを許可せよという要求から、再軍備の是非といった政治的テーマにいたるまで幅が広く、また上級生の中には弁の立つ人気役者が何人かいて、丸一日を費やす討論にもあきることがなかった。なにしろ、ルイセンコ学説の是非まで論じられていたのである。あれは、旧制中学の自由闊達な気風がまだ残っていたということなのか、それとも戦争直後の言論の百花斉放の精神が十代の若者たちにも乗り移っていたということなのか。いずれにせよこうした上級生たちの激しく知的な議論をとおして私は、反戦、反再軍備への意志を固めていったのだろう」 海老坂 武 『倫理とアイデンティティ』
「文化部がすごく活発だったですね。社会部、文芸部、音楽部も相当水準が高かった。文化祭にかぎらず、音楽部主催でオペラなんかどんどんやるんだから。文化部主催で講演会をやるというと、檀一雄さんとか、松川事件に関連して広津和郎さんとか、かなり有名な作家や哲学者を生徒が呼んでくる。檀一雄さんは家が近かったし、親戚の子もきていたし、よくきてくれましたよ。読書会もやっていて、これは教師も自由に参加できるし、ぼくは若かったからあちこち呼ばれたけど、ゾラとかツルゲーネフとか、ヨーロッパの翻訳ものが多かったわ。ロマン主義のもあったけど、自然主義文学を当時の生徒はよくやりました。ゾラの『居酒屋』 とか 『ナナ』 とか、ああいう類いのものを。みんなすごく読んでくるから、こっちも読んでいさないと教師のほうがやられちゃうんだ。 文化祭の前は二、三日徹夜して展示をやる。ぼくが顧問をしていた社会部では、当時の生徒は政治意識も発達してきたから、安保条約の内容はけしからん、なぜ単独講和をしたんだと、それをどんどん発表するわけですね。 その背景には、教科内容が伴っていたわけ。当時社会科では一年で 「一般社会」というのがあって、全員が週五時間やるんです。憲法、民主主義の制度、資本主義と社会主義の問題、農村問題、労働問題・・・。 いまと違うのは、労働問題などにすごくページ数をさいているものだから、大学時代の知識だけではやれないんだ。相当勉強しないと全部はこなせない。いまの倫社部分はほとんどなかったですね。ほとんど政治・経済だった。それを五時間、全員がやる。 二年生になると世界史・日本史・地理に入っていく。とりわけ世界史が充実してきたかな。生徒も、近・現代史にいちばん興味をもちましたね。フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる。こっちがへたなことを言うと、生徒が食ってかかるんですよ。たとえば 「ここで平等と言っているのは機会均等なんだ、経済的にも何も全部平等ということじゃないんだ」というようなことを言うと、少し社会主義の勉強をしたような生徒がパッと立って「おかしいじゃないか、そんな平等があるか、平等というのは経済的にも平等じゃなきゃだめなんだ」と。それにたいして教員も反論する。だから、授業のなかで自然に教師と生徒の討論になるということもずいぶんありましたよ。 「君が代」・日の丸問題でも、「君が代」を歌うか歌わないかということが生徒のなかで論争になるわけね。 当時の都立高校・・・は、一般的にそういう雰囲気があったわけですよ。ぼくが大学のときに味わってきた自由な雰囲気と似たものが、都立高校にあった」 三戸孝 「ある都立高校教師の戦後教育四十年 1 」
三戸先生が「フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる」場面があったと証言しているのは、単なる形容としての「輝く」や「必死」ではなく、文字通り「期待に満ちた」「必至」なのである。日本がどういう国になろうとしているのか、謂わば剥き出しの理想を片手に日本の現実に切り込もうとする眼差しである。 盗人に転じた旧軍人など、反面教師が日常に溢れていた。
家族にとって子どもが学ぶことの楽しみ
答案の裏に「うちの親は知らないことが多すぎて、いつも現社の授業で習ったことを教えてやります」と書いてあった。学んで知ったことを誰かに教えたいという衝動。一時間半余りをかけて通学していた高校生だから、帰宅は早くても日没後。僕はこの生徒の現社を二年間受け持った。二年もの長きにわたって、穏やかに子どもの講義に耳を傾ける農家の両親こそ、無二の教師である。そしてこの光景こそ「円居」である。まどいは、「新世界より」の旋律にのせた堀内敬三の詞にある。
こういう知らせは、PTAで聞くこともある。卒業式当日、わざわざ準備室を訪ね来ての話もある。父親であれば、この日ぐらいしか時間はとれない。授業参観の次の日、感想と共に「是非いっぱいやりましょう」との手紙が届くこともある。生徒が親や兄弟に伝える授業の内容は、様々に変容する。親が我々に伝える内容は更に変容する。その変容の豊かさ・多様さから、僕たちは生徒・家庭・地域・労働の実態課題を掴むことも出来る。学校への思いも知ることが出来る。それが学校を変えてゆく。
学区制の解体が、地域とのこうした結びつきを断ってしまった。むしろ結びつきを断つために、学区解体と強制異動があった。
授業が家庭に伝わり、その評判が学校に戻ってくる。これもまた「参加」である。我々の知らないところで広がる多様な波紋にこそ、鋭敏でなければならない。遠いところでしか交わされない、我々に対する痛烈な批判がある筈だからだ。
円居の楽しみとしての教育への期待が、親と子にはある。国民の学習権が学問の自由の基礎にあるように、全人類的視点は、家族個人の楽しき円居があってこそ。人類には、円居の楽しみが重要な位置を占めている。
子供がその日習ったことを両親や祖父母の前で喋る。その時、両親や祖父母は最良のワキである。漱石の師匠は宝生流の名ワキであった。ワキの動きや言葉は、シテのの演技が始まると極めて少なくなる。場合によっては物陰に隠れて居ないかの如くである。しかしワキが舞台から姿を消せば、芝居全体のリアリティが消えてしまうのである。 家事をしながら、お茶を点てながら子や孫の話を聞く親や祖父母の姿は、まさに名ワキである。
僕の家族たちも、僕たち兄妹が小学校から帰ると、先ず国語の読み方の復習を聞くのを楽しみにしていた。正座して、背筋を伸ばし腕を伸ばして読む。聞く方も正座しながらお茶を飲んでいる。親戚も「どれ、伯父ちゃんにも聞かせんね」と催促する。僕は門で待ち構える近所の友達と遊ばなければならないから、大急ぎで読む。おかげで大変な早口になってしまった。一年生の妹は、ゆっくり丁寧に読み、算数や音楽までやって見せていた。僕は夕食後、理科の実験をやることがあった。
時には祖母たちが、昔からの仕来りを季節ごとに教える。月見には、あんこ作りを数日前から始める、学校から帰ると蒸した米の粉で団子を作り湿った布巾が掛けてある。夕方には丘に上がってすすきを刈る。この日は月が海から上がるのを見るために、晩御飯は早く済ませた。三方に盛り付けた団子とすすきを前に、みんな縁側に正座する。昔話や言い伝えを聞くのである。月は波に映え、入江の崖に自生する松が美しく思い出されるのは、こうした懐かしい光景があるからである。こうした行事は少なくとも月に一度はあった。教育は学校の独占ではなかった。
追記 学校も教師もワキに徹しなければならない。教師はどうしてもシテになりがちである。教育行政や議員がそれに乗じてシテを演じる危険は常にある。シテは青少年だけである。
「遠き山に 日は落ちて・・・今日の業を なし終えて・・・いざや 楽しき円居せん」家族にとって子どもが学ぶことの意味は、ここに尽きる。我々は、卑しくも常に教育の利を言う。「楽しみ」は、嬉しさや愛情に満ちて、成果や競争をいとも軽く退ける。奥多摩の山麓から通う生徒であった。
こういう知らせは、PTAで聞くこともある。卒業式当日、わざわざ準備室を訪ね来ての話もある。父親であれば、この日ぐらいしか時間はとれない。授業参観の次の日、感想と共に「是非いっぱいやりましょう」との手紙が届くこともある。生徒が親や兄弟に伝える授業の内容は、様々に変容する。親が我々に伝える内容は更に変容する。その変容の豊かさ・多様さから、僕たちは生徒・家庭・地域・労働の実態課題を掴むことも出来る。学校への思いも知ることが出来る。それが学校を変えてゆく。
学区制の解体が、地域とのこうした結びつきを断ってしまった。むしろ結びつきを断つために、学区解体と強制異動があった。
授業が家庭に伝わり、その評判が学校に戻ってくる。これもまた「参加」である。我々の知らないところで広がる多様な波紋にこそ、鋭敏でなければならない。遠いところでしか交わされない、我々に対する痛烈な批判がある筈だからだ。
円居の楽しみとしての教育への期待が、親と子にはある。国民の学習権が学問の自由の基礎にあるように、全人類的視点は、家族個人の楽しき円居があってこそ。人類には、円居の楽しみが重要な位置を占めている。
子供がその日習ったことを両親や祖父母の前で喋る。その時、両親や祖父母は最良のワキである。漱石の師匠は宝生流の名ワキであった。ワキの動きや言葉は、シテのの演技が始まると極めて少なくなる。場合によっては物陰に隠れて居ないかの如くである。しかしワキが舞台から姿を消せば、芝居全体のリアリティが消えてしまうのである。 家事をしながら、お茶を点てながら子や孫の話を聞く親や祖父母の姿は、まさに名ワキである。
僕の家族たちも、僕たち兄妹が小学校から帰ると、先ず国語の読み方の復習を聞くのを楽しみにしていた。正座して、背筋を伸ばし腕を伸ばして読む。聞く方も正座しながらお茶を飲んでいる。親戚も「どれ、伯父ちゃんにも聞かせんね」と催促する。僕は門で待ち構える近所の友達と遊ばなければならないから、大急ぎで読む。おかげで大変な早口になってしまった。一年生の妹は、ゆっくり丁寧に読み、算数や音楽までやって見せていた。僕は夕食後、理科の実験をやることがあった。
時には祖母たちが、昔からの仕来りを季節ごとに教える。月見には、あんこ作りを数日前から始める、学校から帰ると蒸した米の粉で団子を作り湿った布巾が掛けてある。夕方には丘に上がってすすきを刈る。この日は月が海から上がるのを見るために、晩御飯は早く済ませた。三方に盛り付けた団子とすすきを前に、みんな縁側に正座する。昔話や言い伝えを聞くのである。月は波に映え、入江の崖に自生する松が美しく思い出されるのは、こうした懐かしい光景があるからである。こうした行事は少なくとも月に一度はあった。教育は学校の独占ではなかった。
追記 学校も教師もワキに徹しなければならない。教師はどうしてもシテになりがちである。教育行政や議員がそれに乗じてシテを演じる危険は常にある。シテは青少年だけである。
教師の政治的立場と生きた政治教育
中野重治は、第一回参院選(1947年)に全国区から立候補。彼は母校でもある旧制福井中学文芸部主催の講演会に呼ばれて、こう演説している。
軍国主義が激しく攻撃されている時期の主張である。あくまで思想の「自由」を擁護している。この時、中野はその他大勢の候補者の一人として招かれたのではない。治安維持法で弾圧を受けた党員作家の講演会の主賓としてである。政治的中立や両論併記にフラフラオロオロしている今の大人に対して、当時の少年たちの自然な主権者意識は、逞しく美しい。投票権が無ければ政治行動は出来ない、あるいは制限できるなどという臆病風に吹かれている自分を疑ったほうがいい。我々が心得ねばならぬのは、「その先生に教わったために非常によくわかり、その学課が好きになる、そういう先生」になる日々の研究・調査である。そのための思想、言論、信条の自由から一歩も退いてはならない。
中林隆信は中野重治の友人で福井中学の英語教師であったが、当日の彼の様子を次のように描いている。
中野重治全集第23巻には、国会演説集が納められている。彼の演説は小さな一枚のメモだけで自在に行われ、文学的でもあったから、傍聴席にはいつも大勢が詰めかけて身動きがならないほどであったという。しかし語り口は朴訥で村夫子然としていたと伝えられている。当時の参院議長は殿様出のアカ嫌い松平恒雄であったが、中野重治の演説だけは楽しみにしていた。中野重治がたった三年間の議員生活でどれだけの調査をして演説論戦したのか、それを知るだけでも政治経済の授業は格段に面白くなる。
僕なら先ず旅程表を作る。誰に会うため、何処に列車で徒歩で出向き、何処に泊まり、何を食べたのか。議員としての仕事の他に何をしなければならなかったのか。いくら費用を要したのか。何を着て、何を履き、どんなに餓え、苦しかったか。農民たちはどのように彼を迎えたか。そして夏休みを使って高校生たちと実際に歩き聞き、討議してまとめてみたい。生きた政治教育とはそういうものだと僕はおもう。
「諸君は、先生の良し悪しを、その先生の思想や政治的立場によってきめてはならない。思想は自由である。先生といえども、自由にどのような政治的信条をもってもよい。いい先生というのは、数学なら数学、地理なら地理を、その先生に教わったために非常によくわかり、その学課が好きになる、そういう先生をいうのだ。思想がどうだこうだによるのではない。私は昔この中学校で、そういう立派な先生の何人かに教わった。先生がたの思想は古く国家主義的でさえあった。だが、私は今でもその先生がたを尊敬している。思想、言論、信条の自由というのはそういうことを言うのだ」 中林隆信『イングリッシュ軍曹同乗記』
軍国主義が激しく攻撃されている時期の主張である。あくまで思想の「自由」を擁護している。この時、中野はその他大勢の候補者の一人として招かれたのではない。治安維持法で弾圧を受けた党員作家の講演会の主賓としてである。政治的中立や両論併記にフラフラオロオロしている今の大人に対して、当時の少年たちの自然な主権者意識は、逞しく美しい。投票権が無ければ政治行動は出来ない、あるいは制限できるなどという臆病風に吹かれている自分を疑ったほうがいい。我々が心得ねばならぬのは、「その先生に教わったために非常によくわかり、その学課が好きになる、そういう先生」になる日々の研究・調査である。そのための思想、言論、信条の自由から一歩も退いてはならない。
中林隆信は中野重治の友人で福井中学の英語教師であったが、当日の彼の様子を次のように描いている。
「・・・部主催だから聴講は強制でないが、約四百人ほどが講堂に集まっている・・・顔は骨ばって痩せており、それに黄疸かと疑うほど皮膚が青黄い。艶がなくて、しなびた感じである。しかしよく見れば、やはり中野の顔である。とくに眼鏡の奥できらりと光る目は、まさしく彼のものであった。彼はカーキー色をした軍服まがいの服を着、ごわごわのズボンのはしを紺の靴下の下にたくしこんでいた。これに雑嚢を肩にすれば、その頃のいわゆる『復員風』の服装である。要するに彼は、当時のヤミ屋の恰好で演壇に立っていた。戦後民主主義文化運動のリーダーと嘱望されていた彼も、・・・その物質生活はなおこのようなものであった」
中野重治全集第23巻には、国会演説集が納められている。彼の演説は小さな一枚のメモだけで自在に行われ、文学的でもあったから、傍聴席にはいつも大勢が詰めかけて身動きがならないほどであったという。しかし語り口は朴訥で村夫子然としていたと伝えられている。当時の参院議長は殿様出のアカ嫌い松平恒雄であったが、中野重治の演説だけは楽しみにしていた。中野重治がたった三年間の議員生活でどれだけの調査をして演説論戦したのか、それを知るだけでも政治経済の授業は格段に面白くなる。
僕なら先ず旅程表を作る。誰に会うため、何処に列車で徒歩で出向き、何処に泊まり、何を食べたのか。議員としての仕事の他に何をしなければならなかったのか。いくら費用を要したのか。何を着て、何を履き、どんなに餓え、苦しかったか。農民たちはどのように彼を迎えたか。そして夏休みを使って高校生たちと実際に歩き聞き、討議してまとめてみたい。生きた政治教育とはそういうものだと僕はおもう。
「先生、私たちのこと好きでしょう」1 ソクラテスは生徒の中にいる
賢者は複雑なことをシンプルに考える |
「だって、授業面白いんだもん、私たちのこと好きでしょう」と畳みかけてくる。ほっとして
「うん、生意気なところが気に入ってるよ」と返事したが、その意図が判らない。
そのOさんが、ある教師に「私たちのこと嫌いでしょう、授業詰まらないんだもの」と言ったことを知ったのは大分後のことである。
授業する教師を見て「この人、私たちが好きなんだ」とか「こんな詰まらない授業をするのは、私たちに関心がないか嫌いだからではないか」とみる。教師の授業への姿勢を、生徒たちへの人間的関心の問題として、考察として再構成する。授業の表面を突き破って、教師を人格の底まで見通そうとする疑い深さがある。疑い深さは「何か」を求めて彷徨する青春の特性でもある。油断ならず、手強い。何の戸惑いもなく、生徒が教師を評価する。学校の主体は何かについても直感している。
「賢者は複雑なことをシンプルに考える」と言ったのは、ソクラテスであった。だから真理は美しいのである。こうした言葉を通して、生徒の中に彼は現れる。
教師と学校を緊張させ、授業を変え、学校を変えるのは生徒達のシンプルで美しい言葉である。こうした生徒にはあちこちで出会った。定時制課程にも、都心の工業高校にも、ほっぺの赤い郊外の生徒達にも、成績だけで比較すれば文字通り後のない学校にも、伝統のある古い学校にもいて、きりりとした存在であった。
はっきりした共通点がある。物怖じしない批判精神と共感能力を持ち、物事をずらしながら考える論理性。
「授業面白いから、先生好き」といった類ではない、それならありふれている。授業の表面的現象への直接反応は既に卒業している。授業を受ける「私」を中心に授業を見るのではない。授業をする教師の眼に心に入り込んで「こんな詰まらない授業をするこの教師に、私たち生徒はどう見えているのだろうか」と想像する。
「退屈し居眠りする生徒を前に十年一日のごとく穴埋めの授業が出来るのは、どういう神経なのか。私たちを好きなら色々工夫してみんなが喜ぶようにするはず、少なくとも私ならそうする。この教師は、私たちが嫌いなのかも知れない。人間が嫌いなのか、教えるのが嫌いなのか、学ぶことが嫌いなのか。家庭ではどんな父で夫なのか、一体どんな高校生だったのか・・・」
虚しく響く教師の声とチョークの音を遠くに聞きながら、思いを巡らせる。詰まらない授業の現象を見透かして、その実態を探ろうとしていたのではないか。
「私たちのこと好きでしょう」は、彼女のこの仮説・想像を確認する問いだったのだと思う。ここには視点を移動させ転換する自在な想像力・共感能力がある。それはやがて洞察力を伴い批判精神となる。だから「私たちのこと嫌いでしょう、授業詰まらないんだもの」と、授業中の本人に面と向かって言える。
多数派を自認していた件の教師は、「生徒は、好きに決まってるじゃないか」と狼狽した。数日後別のクラスで、優等生を見て「俺の授業は詰まらないか」と話を切り出した。この優等生なら「そんなことはありません、僕は歴史の授業は好きです」と必ず言う筈だった。だが優等生は「はい、詰まりません」とスポーツマンらしく即座に言ってのけた。歴史は好きで成績は常にトップだったが、授業そのものには閉口していたのだ。
Oさんは、ある若い女教師にも職員室で「授業が詰まらない」と直言して泣かせてもいる。しかし悪口ではない。「去年は楽しい授業をしていたから、今年も出来るのではないか」と問いつめた。言われた女教師は「今年は受験に重点を置いているから、みんな詰まらない思いで授業を聞いているかも知れない」と思っては居たのである。すばり指摘されて泣いたのである。どちらが教師なのだろうか。僕はソクラテスを彼女の中に見た。
彼女は、全く期待できない教師に対しては「詰まらない」とも言わない。明るく挨拶はするが精神的に無視する。教師には期待をよせればこそ文句を言うのだ。そのことに教師は気付かず「酷い」と泣いた。教師は自分が生徒を叱るときの言葉すら都合良く忘れる。「先生があなたを叱るのは、頑張れば良い成績になることを知ってるからよ」と言いながら「辞めるのなら早くしなさい」などと引導も渡しているのだ。良い教師は生徒の批判無しには生まれないと知るべきである。女教師は卒業が近づいて、ようやく彼女の提案を受け入れている。結果は良。研修や報償・処罰で育つのは都合の良い教師。
歴史教師は土日も夏冬春休みもクラブ指導に打ち込んで、漁師のように日焼けしていたが、授業は変わらなかった。試験問題作成と採点は素速かった。50問穴埋めだったからだ。不思議である、修士で上級の免許所有者に50題の穴埋めテスト好きが多い。「私たちのこと嫌いでしょう、授業詰まらないんだもの」にはもう一つ奥がありそうだがここでは触れない。
面白いことに、男子は言い方が大いに違う。
「先生、僕たちのこと好きでしょう」とはあまり言わない。誤解されそうな表現であることもある。
子分にしてくれや弟子にしてくれ、卒業したら飲み仲間に入れてくれと言う。
続く
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若者を貧困と無知から解放すべし
「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」 黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。 ...