偽りの秩序への疑問が危険思想 / 人為的秩序は必ず破綻する

 

 2002年9月17日(火) 

 「文化祭は満足したかい」と、文化祭の後片づけする三年生に聞いた。

 「全然・・・三年間づーっとつまんなかった・・・・だってさ、この学校じゃ何でも先生が勝手に決めちゃうんだもん・・・今回の日程も最悪」

  「勝手なこと押しつけといて、そんなやつの授業聞けるわけないじゃん」次々集まって不満を言う。

  「言葉遣いが悪いっていう先生がいるけど、なんで尊敬できないやつに敬語使わなきゃいけないの」

  「都合悪くなると逃げちゃうんだもん、信用できない」

 「この学校は先生と生徒の仲が良いと言う先生や生徒もいるね、生徒の教員に対する感想は二極化してるのかな」

 「そんな事無いって、みんなお終いにしたいって、思っている」


 授業も行事もつまらない高校に、何故生徒が毎年入学するのか。何故消滅しないのだろうか。

 それは選別が「秩序」正しく行われるからである。極端な受験競争率の差が形成されないよう恣意的に秩序が作られる。如何なる秩序か。

 ナチスは、先ず虚構の「血」で選別した。その後様々な「選抜」が秩序のためにでっち上げられた。そしてガス室に送られるか、あるいはどの収容所に移されるかは、ちょっとした偶然で決まった。

 「秩序正しい」大量虐殺=ホロコーストの演出にユーゲントは感動し「敵」の殲滅と自らの死さえ誉とした。

 日本の学校の選抜の「秩序」は、何段階にも重ねられた予備選抜によって進む。入塾テスト・模擬テスト・校内進学相談、願書提出・取り下げ・再提出、二次募集・・・。恰も差別的選抜が特権や恩恵のように見えて、「秩序」は間断なく更新される。

 その弊害が指摘されてから長い年月が経つ、だが対策は小手先の「改良」だけ。決して「秩序」そのものを疑うことはない。その人為的秩序は「知能偏差値による選抜」。日本以外のどこの国にもない。その体系は、今や政権中枢を巻き込んだ巨大な産業を形成している。


 ある高校に、重なる改良の切り札として「英語科」が設置された。初めから定員割れした。だからそこには英語嫌いが逆「選抜」されて集まった。嫌いで苦手な科目の授業が多いから、生徒にとっては地獄の三年間だ。

 こんな理不尽が、理数科やスーパーサイエンスハイスクールなど行政お気に入り新規「秩序」の対となって現われる。調度天皇制の対極には被差別部落が残るように。対米従属の裏側にはアジア蔑視が付きまとうように。

 

  「秩序」ある選抜制度「そんな事・・・みんなお終いにしたいって、思っている」・・

  「みんなお終いにしたいって思っている」。だが「思っている」だけなら秩序そのものは続く。

効率だけの世界は滅びる 
怠け者こそが秩序の要
  そんな時、僅か一歩踏み出す、たった指一本を「動か」せば事態が変わる切っ掛けか生まれる。だがみんなその僅かな決意に怯えている。 虚構の「秩序」への疑問はいつも危険思想だった。「正しい」国策「絶滅隔離」や世界に冠たる「国体」に疑いを持った人々がどうなったか。   

 秩序とは何か、いつも即座には現れない。時には意外な場所に追いやられて見えもしない。

ソクラテスは如何に問答していたのか

 2002年7月1日 

 何に疲れ切ったのか、机に突っ伏している生徒に「寝てていいよ」と言うと、「起きます、大丈夫です」と重たそうに顔を上げてペンを握る。授業が終る頃にはすっかり元気になって、質問に寄って来る。

  昼休み教室前の廊下で生徒に捕まる。

 「パレスチナ問題におけるイギリスの役割」といきなりだ。

 互いに喋っている間に一人、三人と寄って来てずーっと聞いている。まるで、聞かずにいるのは損だと言わんばかりだ。

  僕も質問した。

 「授業が始まる前に、茶髪やピアスを注意されたら、授業は半分ぐらいしか入っていかないかい」

  「うぅん、全然、聞かないで寝ちゃう」   

  「・・・化粧がどぎつくなる時の君は、必死で自分の存在を守ろうとしているのかい」と聞くと、長く考えて少し微笑む。友達も聞いている。

 「自分の立っている場所がどんどん無くなって行く、狭くなって行く不安をどうにも出来ないように感じる」隣の生徒が、「そういうことだよ」と呟く。

 本人はじーっと考えていた。


 表現に向かえない不安・不満は、いつか反抗や暴力として現れる。必ず。先ず外へ向けて、そして最後は自分自身に向かって。表現の芽として、生徒たちの不安に向き合う「義務」が教員にはある。

 少年/少女には本来「難しい」こと「分からないこと」はない。分かるように振舞う事が、学校や体制への迎合に思えてしまうのだ。少年期とはそういう時期である。頭も体も不安定だが、精神は猛烈な勢いで藻掻いている。そんな時期に強要された「成果」を求めて、消耗するのは馬鹿げている。

 困難さがあるから、それに立ち向かう。頭を「ふんじばる」ように。

 この生徒たちは極めつけの「低偏差値」。そんなレッテルを張っておいて、教師は「難しい」問題から予め逃げている。どうせ分からないと決めつけている。逃げているのは昔少年であった筈の教師。逃げているうちに考えることを忘れてしまう。

 少年にとって重要なのは、考える価値があるという事実。それを示す役割が教師にはある。難しく複雑なことを、誰にも分かるように構成し直す。それを繰り返すうちに、少年は難しさ困難さをそのまま引き受ける。それまで僕らは待ち続けねばならない。それに数年を要することもある。そうしてソクラテス式問答は生まれたのだと思う。 

  

何故ハンセン病者は死に至る苦難に曝され続けたのか。渋沢栄一は一万円札に値するか。2

 承前

 渋沢栄一と深いつながりのある鹿島組(現鹿島建設)に小冊子「朝鮮人労務者の管理について」がある。冊子は朝鮮人の「短所」として、知能程度が低くて向上心を欠く・国家観念に乏しい・利害に敏感・無抵抗主義の風潮あり・・・などを26項目にわたって挙げている。しかも結びで、「親しんで馴れるな、しかして愛のムチに涙の折檻を忘るる勿れ」と付け加えている。

 渋沢栄一は京仁鉄道社長でもあり、朝鮮初の鉄道工事ほとんどは鹿島組に特命発注している。その際作られた冊子と思われる。朝鮮人蔑視思想は日本帝国主義支配層によって意図的に形成され、関東大震災で組織されたものだ。権力による人災=震災後の流言飛語と無差別殺戮を準備したこの冊子には渋沢栄一の世界観が反映している。 

 そんな人物が一万円札になる。そんな人物の生涯を、日本資本主義の父として「大河ドラマ」に仕立てる風潮を軽薄だと思う。

 しかも渋沢栄一は「ハンセン病」に関して次のように遊説して全国を回っている。

 「これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れないものがある」 

 彼に隔離の必要性を進言したのは、若い野心溢れる養育院勤務の医師光田健輔。養育院は渋沢が設立した「福祉施設」。野心家はある種の使命感に駆られてこう説いている。

 「ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差(ない)」

   光田と渋沢の執拗な煽動は、ハンセン病におどろおどろしい印象を与えて患者を好奇の目に曝し「ペスト並みの怖い病気」という嘘は、巷に行き渡る。

 渋沢は一時の判断ミスで、光田と行動を共にしたのではない。愛生園園長となった光田は、 1931(昭和6)年記録映像を携え渋沢を訪問している。

 「長島愛生園は子爵のご事業の結晶です。ぜひ一度お訪ねいただきたいのですが、とりあえず活動写真だけでもお目にかけたいと思いまして・・・」と愛生園の様子を映写した。

 渋沢栄一は感歎の声を発し「光田君、よくここまでやってくれた。今後とも頼むよ・・・」と言ったと伝えられている。


  「明治5年東京府知事は「違式註違(いしきかいい)条例」を発令。刺青、男女混浴、春画、裸体、女相撲、街角の肥桶などから、肩脱ぎ、股をあらわにすること、塀から顔を出して笑うこと等76箇条を「文明国」に有るまじと決めつけ、軽犯罪としている。

  ・・・裏声で攘夷を絶叫していた薩長が長英・薩英戦争で敗北、その英国の後押しで政権にありつくや、一転して英国人にとっての「不快」な存在そのものを禁止・排除・抹殺して迎合しご機嫌伺いするのをくい止められはしなかった。敗北してなお保つ小国らしい矜持はここにはない。 植民地的従属性に彩られた全体主義的絶滅思想の腐臭がある。

 こうして叩かれた一つが、ハンセン病浮浪患者だった。彼らの実態は貧困にある。急激な膨張で悪化する「帝都」の衛生状態を放置し、チフス・コレラ・赤痢など伝染病死者が万を越える。それでもお上は貧民・患者救済には目もくれず、慣れない洋装で鹿鳴館通いの乱痴気騒ぎに興じて、御殿造営、軍備増強、爵位・勲章の乱発には抜かりなく、それを文明開化と呼ばせた。

 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊

  

 養育院の「文明開化」に於ける役割は、「臭いものに蓋」をして欧米人の眼に触れぬよう、巷に横溢する生活困窮者を狩込み加賀藩邸跡に収容することであった。


  「ハンセン病患者を外来患者として・・・受け入れ」ていたのは、他ならぬ東大医学部お雇い外国人医師ベルツであった。彼は皇室始め政財界要人たちの信頼も厚かった。

  彼はこう書き残している。

  「 東京大学の病院の大部屋で、私は20年以上にもわたって常にハンセン氏病患者を、他の患者達の間に寝かせてきた。しかし、患者も医療従事者も誰ひとりハンセン氏病に感染しなかった。潜伏期間が長いために感染の事実が立証できないだけだというよくある反論も、20年を超える時間の長さを前にしては無効である。」

  政府はベルツの帰国を待つように「明治40年(1907)法律第十一号・癩予防に関する件」成立させる。全生病院等5カ所の療養所が開設されるのは1909年。1916年患者懲戒検束権を所長に付与、1925年には衛生局長通達で浮浪癩患者以外も収容。光田健輔念願の全患者隔離は、「癩予防法」「国立癩療養所患者懲戒検束規定」として1931年実現する。

 ベルツだけではない。日本人学者・医師にも絶対隔離を間違いとするものは少なくなかった。東大皮膚科教授大田正雄(木下杢太郎)はこう書いている。

 「なぜ(ハンセン病の)病人はほかの病気をわずらう人のように、自分の家で、親兄弟や妻子の看護を受けて養生することができないのだろうか、それは強力な権威がこれを不可能だと判断するからである。人人は此病気は治療出来ないものとあきらめている。・・・

 然し今までは、此病を医療によって治療せしむべき十分の努力が尽くされたとは謂えないのである。殊に我が国に於ては、殆ど其方向に考慮が費されて居らなかったとい謂って可い。」 


若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...