何故ハンセン病者は死に至る苦難に曝され続けたのか。渋沢栄一は一万円札に値するか。1

 どうしても合点の行かぬ事がある。わが民族は津波などによる理不尽な物故者を、何時までも忘れまいと涙ぐましい努力をする。遠い外国で行方不明になれば、捜索の邪魔になると制止されても現地に駆け付ける。身内も世間もそれが美徳と煽りたてる。葬式も疲れ果てた親族に過酷で大仰な形式にしなければ、世間が承知しない。


 悲嘆に暮れる身内をそっと見守れないのか、英国のように。現場に駆け付けたり、葬式の段取りで疲れ果てたりさせはしたくない。理不尽さ残忍さを早く忘れる。理不尽を忘れる事と個人の思い出を忘却することを混同してはならない。

 その根幹には、悲しみを社会全体が共有する仕組みがある、と僕は思う。それがビバレッジ報告の思想を支えている。身内も財産も失った者が、何一つ無くとも平穏のうちに暮らせる福祉制度がある。例えばこの国の病院には支払い窓口はない。病院を利用した者が交通費を受け取る窓口はある。

 以前英国の老人ホームについて書いたことがある。https://zheibon.blogspot.com/2019/09/blog-post_26.html


   英国の老人ホームは重厚である。領主や貴族の館を敷地ごと居心地の良いNursing homeに利用している。ベッドや椅子など家具も館の雰囲気を壊さない上質なもの。日本ならこんな老人ホームに入るには、億を超す一時金と月々数十万円の費用が掛かる、並みの国民が到底準備出来る額ではない。


[bristol nursing home]を画像検索すればいくらでも出てくる。任意の英国の町名でやっても出てくる。

 この国では誰であろうと国民が老人ホームに入居する場合、住宅、貯蓄、年金などの資産併せて500万円以下なら全てその費用を国が負担する制度になっている。ビバリッジ報告の精神「揺り籠から墓場まで」は、今尚守られている。長いナチスドイツとの闘いを経た戦後の苦しい生活の中で英国人が獲得した制度だ。ちっとやそっとでは揺るぐはずもない。労働者や福祉嫌いのサッチャーが腕まくりして戦争で国民を騙しても、これは残っている。

 だから英国の労働者は、140万円の貯蓄でも悠々と生活できる。出世競争で過労死することはない。中学生や高校生は、日本のように将来に備えた受験競争で鬱になることも、推薦入学を狙って部活で体罰や虐めに耐える必要も無い。

 英国の少年は、政治や環境もに関心を持ち自由に行動できる。演劇や音楽にも夢中になれる。祖父や祖母たちの生活が保証され安定していることが、少年たちを若者らしい正義に導く。だからhate言説にも引っ掛からない。

 安心とはこういうことだ。


  ところがハンセン病者に対して、我々はどう振舞ってきたのか。病気が見つかっただけで、社会から徹底的に排除しなかったか。死んだことにして戸籍から抹消さえした。 伝染の可能性が殆ど無いのに、大げさに消毒したり家ごと焼き払った。療養所で生きているのに見舞いもしない。遺骨になっても引き取らない、たとえ引き取っても列車の網棚に放置した。

 津波や火山爆発や地震の犠牲者は、いつまでも「忘れない」と官民ともに泣き悲しみ続けるのに。

 どうしてハンセン病者は、こんなに早く忘れられたのか。母親に「海に入って死のうか」と懇願されたり、保健所職員から「殺しなさい」と脅迫された子どもも少なくない。身内に殺されたり一家心中した例も数えきれない。新憲法下でも同じ構図が繰り返されてきた。

 一旦収容されれば、死に至る虐待や違法行為が放置され、その犯人=職員が処罰されたことは一度も無い。

 どうして彼ら患者=犠牲者を供養する地蔵や記念塔は、療養所の内にしかないのか。

 江戸時代にこんなにまで残酷な扱いをした病気の記述はない。他の病気同様に苦難を強いられた。明治初期には「らい」専門病院も街中に複数開設され、治癒するという前提で取り組んでいた。この漢方医たちの取り組みは、後の公立・国立療養所に比べても妥当なものであった。


 ここに日本ハンセン病学会(日本らい学会)の自己批判がある。世界の趨勢からあまりに遅れていた様子が良く書かれており、引用する。

                           日本らい学会の自己批判 

 ・・・らい患者(ハンセン病患者)、・・・の年次推移は、1897年から1937年にいたるまでに、急速な減少・・・を示している。・・・疫学的に見たわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉に向かっていたと言える。つまり、このような減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」(癩予防法・1931年)も、推計学的な結果論とはいえ、敢えて立法化する必要はなかった。・・・    

 ハンセン病治療は、当初から外来治療が可能であり、ときには対応が困難とされたらい性結節性紅斑やらい性神経炎も、現在では十分管理できるようになった。・・・

 また、ハンセン病医学の現状をみると、・・・特別の感染症として扱うべき根拠はまったく存在しない。・・・

 「現行法(らい予防法)」はその立法根拠をまったく失っているから、医学的には当然廃止されなくてはならない。・・・

 隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行してしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない。1995.4.22     

                             

 「日本らい学会」予防法検討委員会委員長としてこの「自己批判」起草に関わった成田稔医師は、更に断言している。                                    

 はっきりといってわが国の癩対策は、予防的効果において自然減を越えたとは考えられず、癩による災いを本質的に取り除いたわけでもないから救癩でもなく、それに産業系列から生涯隔離したのでは救貧にもならない・・・・

・・・はっきりいえば、多くの患者はまさに見殺しにされていた・・・。 


 日本のハンセン病政策は、その始まりから間違っていた事が分かる。

 1897年というのは、第一回国際らい会議がベルリンで開かれた年である。会議ではハンセン病が伝染病であることを確認し「恐ろしい病気」との認識は無く、資力のない貧しい患者には町中の病院に相対隔離=isolation を推奨している。相対隔離とは絶対隔離=segrigation とは異なり患者の社会関係は維持され、治癒すれば退院出来た。第二回会議(1909年)では絶対隔離の必要性は認められず、第三回会議(1923年)強制隔離の非人間性を指摘、第七回東京会議(1958年)では強制隔離政策の破棄を勧告している。

  国内外に絶対隔離批判的見解が台頭しても、日本のハンセン病の権威と行政は聞く耳をもたず、人道・人権・開放・早期発見早期治療の世界的潮流から頑迷に孤立し続けたのである。 


 世界から孤立してまで、頑迷に犯罪的絶対隔離政策を推進し、数万に及ぶハンセン病者を地獄の底に送ったのは誰なのか。

 一人は「救らいの父」と持ち上げられ、文化勲章に輝く光田健輔医師、もう一人は大河ドラマの主人公・新一万円札の顔、正二位勲一等子爵渋沢栄一である。

  続く

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