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「今知りたいんや、待てんわ」

 かつて旋盤実習棟の屋根裏は木造トラス構造が美しかった。動力は天井の長い鉄軸と滑車とベルトで中央動力源から伝えられ、工場らしい錯綜する陰影とリズミカルな音が満ちていた。それが機械ごとの小型モーターに切り替わったのは1970年代半ば過ぎ。高校進学率は90%を超え、夜間高校では働く青少年も地方出身者も急減して生徒の活気も消え始めた。みんなが揃うまでの間、教室のダルマストーブ囲んで、それぞれの職場の春闘方針を巡って騒がしくなることもなくなった。


 僕のクラスに京都からの転校生があったのはその頃である。小柄でひどく痩せた、目の大きな少年であった。どうも元気がない、職場訪問をした。焼き釜を備えた比較的規模の大きな洒落たパン屋で、店長は実直そうだった

 「せんせー、店まで来てくれたんやてな。こんなん初めてや、嬉しゅうて学校まで駆けてきた。・・・あのな、せんせーに言うときたいことあるんやけど聞いてくれるか」

 彼は、なぜ京都にいられなくなったか話した。

 「内緒やで。今度は頑張るでぇ、せんせー。一度家にも来てや、父ちゃんと母ちゃんにも会うてや。これ俺が焼いてん。店長がな、持たしてくれてん」

  僕の好きなクリームパンだった。

 「旨いね、有り難う。でも頑張らなくてもいいんだよ」と言っておいた。

 「せんせー変わっとるなぁ、頑張らんでもええなんて、店の人たち皆吃驚しとった」 

 「ふうん」と言うと、

 「大人は皆言うで、頑張りいゃーて。何でせんせーだけそない言うねん、知りたいわ」

 「そうか、知りたいか。憲法にもお寺のお経にもそう書いてあるんだ。そのうち僕の授業でやるよ」

 「今知りたいんや、待てんわ」・・・

 分かるためには、学ぶ側に主体性が準備されねばならない。レディネスとはこの「今知りたいんや、待てんわ」のことである。こうして突然少年たちの心それぞれに沸き起こる動き、それに我々は常に耳を澄まさなければならない。雑用に忙殺されながら、禅僧のように虚心坦懐になれたら・・・と思う。「今知りたいんや、待てんわ」が、何時、どのようなことで、誰に起きるのか分からない。授業で語ることの百倍も準備する必要があるのはそのためである。一人の生徒に対して百倍であるから、受け持ちの生徒数を考えれば無限と言って良い。かと言って焦って始まらない。

 ともかくも、こうして僕は、少年の言葉に添うて寄り道する準備にかかった。

  いつも体のどこかがが動いている落ち着かない少年だった。僕にはそれが隙あらば脱走しようと構えているようで、おかしかった。

 「逃げたいか」と聞くと                    「 俺ほんまに学校が嫌いやねん、辛抱でけんのや」と寂しそうに笑った。

 家庭訪問もした。木賃宿風アパートの一角、土間を挟んで障子で仕切られた三畳と四畳半。窓は三畳に一つ、畳はすり切れ、家具は小さな茶箪笥と食卓にテレビだけ。台所もトイレも共同。

 「センセー、八つ橋好きかー。俺大好きや」

 お喋りである。学校で見せる落ち着きのなさは、ここでは消えている。少し年配の夫婦はニコニコしながら、お茶と銘菓八つ橋を出してくれた。

 「年取ってから出来た子でしてな、そのぶん可愛いーて堪らんのです」

  「京都に来る人たちは、皆あん入りの生を買うやろ、何でやろな。焼いたんも旨いで、なー父ちゃん」

 

 「学校が嫌いで辛抱でけん」はかなりらしく、時々授業の中抜けをした。

 定時制過程の始業前は、全日制の放課後にあたる。雑務を片付けたり、授業の準備したりにはうってつけの静寂と長さがある。二日酔いの昼下がり、出勤すると事務室から手招きがあった。

 「先生・先生電話。同じ生徒から三度目」

  受付の窓口越しに受話器を受け取る。

 「・・・せんせー、堪忍してや、俺なぁ、またやってしもてん。頑張ったんやで、でも手が出てしもた」

 件の生徒からである。

 「今どこだ」  

 「捜さんといて、父ちゃんももう駄目やここにも居れん、そういうねん。・・・せんせー・・・世話になったな」

 少年はべそをかいていた。一瞬、心中という言葉がよぎる。

   「馬鹿なこと言うな、今行く」

 目まいがして舌がもつれそうになる。

   「堪忍やで、ほなもう行くでぇ。さいなら」


 一家は学校と同じ妙正寺川沿い、電話はそこからだろう。事務の自転車で川沿いを急ぐ。住まいは、綺麗に片づいて何もない。心中するなら荷物は持ってゆけない。少し安心して渇きをおぼえた。土間には打ち水がしてある。まだ遠くには行ってない。夕餉の買い物客で混み始めた駅前を何ヶ所か回った。

 少年は僅かな金を店から盗み、その日のうちに自分で店長に名乗り出て金も返したのだった。「引き止めたんですが・・・健気に頑張っていました・・・」店長も悄気ていた。僕のたった四人の学級に彼が在籍したのは、ひと月あまり。しばらくは三面記事が気になった。


 小栗康平の『泥の河』を見る度に、「またやってしもてん」「堪忍やで」が聞こえる。俳優たちの表情や言葉づかい、川沿いの寂しい光景、振り向きもせず曳航されながら去る廓舟の一家に重なる。

 少年は頑張り足りなかったのだろうか。そんなことはない。彼は自分の執着に気付いて嫌気がさしていた。だから直ちに名乗り出て自ら罰している。頑張り過ぎた。高名な作家や政財界要人までが、若い時代の「やんちゃ」を勲章のように雑誌やTVで自慢する。彼らは頑張りもせず地位を得、罰を逃れている、その特権性が勲章、だから吹聴したくなるのか。

 少年も両親も頑張りすぎた。彼が姿を消さなければ、制度としての学校は指導と称して退学を勧告したに違いない。


 彼のための授業は、「宝暦治水事件」から始めるつもりで下調べにかかったが、大学や都立図書館にもめぼしい資料はなく、国会図書館に幾日も通い詰めた。おかげで授業を始める前に肝腎の少年はいなくなってしまった。

 授業を聞けば喜んでくれただろうか。やっぱせんせー変っとるわ、そう言っただろうか。

 確かなのは、彼が学ぶことが苦痛で「学校が嫌いやねん、辛抱でけん」のではなかったことだ。そうでなければ  「知りたいわ」とは言わない。

 少年を思い出すのが辛かった。やらず終いの授業は、ベヴァリッジ報告と囚人組合で終わるつもりだった。頑張らねばならぬのは、社会の仕組みであり国家である。個人ではない。





言葉は平明に、門外漢や年寄りを分からない言葉で分断排除してはならない。

 アラート /  コンプライアンス  /  ステークホルダー    /    ダイバーシティ   /    エビデンス / アジェンダ /  ペンディング  /   フェーズ /  インクルーシブ  ・・・・  と横文字で武装しさも最先端専門家気取りが流行るのは何故か。

 服や車や化粧品の色までレッドやパープルそしてネイビーなどと表示して売る。この国には豊かな色彩感覚があった筈、粋な名称が使われてきた。それは殆ど無限と言ってもよい程だ。我々は豊かな色彩感覚とそれを表現する能力を無くしたのだろうか。英語風がかっこよくインテリ風でクールならば「一般大衆」が使う言葉はダサイことになる。誰にも分かるという言葉の平等性を破壊して、横文字に精通する自己の優位性が嬉しいのか。

 こうして単語が際限なく増殖するたびに、古びた言葉が無秩序に積み上がる。

 それがモノなら厄介極まる「ゴミ屋敷」や廃棄物の山として人々の意識を刺激して、否応なく解決策を模索することになる。はじめは「ゴミ屋敷」主人の心理や行動を好奇の眼差しで眺めたり鼻をつまんで揶揄する。怒りと暴力が拡がる時期もある。だがやがて全ての人の尊厳を回復するコミューン=共同体の創成に至る長い過程が否応なく模索される。

 1872年東京府知事が発令した「違式註違条例」というものがある。この条例は刺青、男女混浴、春画、裸体、女相撲、立小便、肩脱ぎ、股をあらわにすること、街角の肥桶などを、軽犯罪として細々と禁止した。「廃刀令」「断髪令」等と文明開化を焦る明治政府は文明のかたちに煩かった。 不平等条約を受け入れてしまった日本の支配層は欧米キリスト教徒の、日本のあれがこれが文明的でない野蛮であるとの視線に極度に神経過敏になった。

 幕末の江戸では若い女性が路地で行水を使っていた。それほど治安が良かったのであり、裸は美しいものであっても猥褻なものではなかった。それはむしろ誇るべきことである。しかし若い女性の行水に、英国婦人が野蛮と眉をしかめれば忽ち裸禁止令を出した。盆踊りや裸足が槍玉に挙がった所さえある。

 「恥ずべきでないことを恥じる、そのことが恥」なのだ。他人の尺度でしかものを考えない卑屈さは、「文明国」にない筈のものに対する傲慢過酷な眼差しを生んだ。 通りすがりにたまたま目に入った現象を非難する「文明人」の一瞬の嫌悪の感情は、所詮深い考察を伴うものではない。例えそこに注目すべき視点があったとしても、我々は我々の社会の実態を踏まえて、判断をしなければならない。肥桶が臭いと言えば、それは安全で良質な肥料であり、数百年わたって百万都市の衛生を担って成功していたことを説けば良い。それが矜持というものである。矜持を捨てて何が「文明」か。

      『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)    から

 明治日本が手本にした大英帝国のキリスト教的「倫理」観は、世界的普遍性からは大きく隔たっていた。その独善極まる植民地主義は、未だに悍ましき大規模殺戮と差別の源となっている。「通りすがりにたまたま彼らの目に入った現象を非難する一瞬の嫌悪の感情」は特殊な「私事」にすぎない。彼らの内輪の掟に過ぎないことを、自国の民衆に強制する過ちを文明化と呼んだ。

 違質な価値観を持つ国同士が出会うとき、対話で何が可能なのかを探りながら学び合うことが外交に他ならない。学び会うことで互いの世界観を豊かに拡大出来る。しかし強大国に忖度すれば、歪みを生む。それが太平洋戦争を引き起こし、原爆投下に至った。 


 「文明国」にはない筈のものとして槍玉に上がった一つが、浮浪「癩」者だった。少し学べば、浮浪癩の実態は貧困であることに気付く。文字通りの文明国であれば、貧困の放置こそ恥ずべきであった。病気は不運なものであっても恥ずべきものではない。


  違式(いしき)は「御法度に背く」、註違(かいい)は「心得違い」と意味をとらせている。ことさら難しい漢語を使って恐れ入らせようとの官僚の魂胆が見える。おかげで各種の解説・手引き・図解の類いか数多売れた。馬鹿馬鹿しい話だ。


 共同体の可能性は、社会に対する深い洞察と長い忍耐から生まれる。「違式註違条例」の如き「その場しのぎ」は僅かに残っていたコミューン=共同体の欠片さえも破壊してしまった。

 政治屋も官僚も企業も大衆もそして文化の担い手までも、横文字に執着する。何を怖れて執着するのか、世間に同化出来ない自分に追い詰められてか。中身がない、中心がない、数値化されて「傾向」だけが加速する。


 アラートって何?・・・とマゴマゴしている間にが土石流が襲い、原発が爆発しかねない。皆が知っている言葉を探せ。アラートは、警報・コンプライアンスは、法令遵守・ ステークホルダーは、利害関係者・・ダイバーシティは、多様性や多様化・ペンディングは、保留で十分じゃないか。横文字に馴染みのない門外漢や老人にも容易く通じる。広く正確に通じてこそ言葉である。それが言語の美しさの基本。コミューン=共同体は、言葉や生活の共同性を基本にしている。


   学校に蔓延する「部活が命」の傾向に怯える教師達も、よき授業・綿密に準備した授業を待ち望む青年達が待ち受けていることに盲目だ。 部活は私事にすぎない、授業こそ公事であり良き授業は生徒の権利であり教師の義務だ。


  校舎に入賞した部活や名門校合格者数の垂れ幕を並べることが学校の誉れか、一見全体の立場から発するかに聞こえる軽薄な掛け声に流される-それが安逸のファシズムの始まりだ。異議を唱える者を事前に排除して完成する、心地よい全体主義体制。

 公の性格を持たせた「部活」は今や全国を覆い「官僚制」化し暴走、公教育を駆逐している。政府や自治体が担う公=おおやけの仕事が利潤の最大化を目的とする企業に任される。 今や日本では、雇用者全体の僅か1/17が公務員。 これはOECD諸国では最低率。教育にも医療にも福祉にも、公=おおやけは大きく後退して「私」益が前面にでる。それは選挙によるコントロールが効かなくなることを意味する。 


 記 異文化との出会いで大きな貢献をなした日本人もある。中浜万次郎、大黒屋光太夫、南方熊楠、阿倍仲麻呂、杉原千畝。 個人としての日本人は可能性を秘めているかにみえる。しかしこれは日本人だけの特性では無い、英国人も中国人も米国人もそしてあらゆる民族が個人として異文化と接したとき、双方に大きな足跡を残している。 

怒りを込めて振り返れ  絶滅隔離

   「一般に夫婦は似た顔の人が多い」との分析報告がある。ひとは顔が似ていると親密になりやすく、趣味や考え方が似ていると一緒に生活しやすいのか。

 転校して親しくなると同じ家紋の家だったことを後日知り妙な気がしたものだ。

   僕は生まれ故郷から夜行列車で丸一日の熊本で小学校に入った。不思議な新設校で、一年生ばかりが200人余りの4クラス、だが教室は全学年分完成していたその中の一人がなぜか気になり、休み時間毎に「遊ぼう」と誘わずにおれなかった。彼はいつも寂しげで温和かった。中庭で五寸釘や独楽を使って遊んだがたった10分でお終い。だから放課後はいつまでも遊べると考えていたのだ


が、時鐘
と同時に布製のランドセルを背負い「園のおばさんが、学校の子と遊んじゃいかんって・・・」と呟きながら、数人の仲間と裏門を抜けて帰るのだった。 僕は校門脇の土手に登って、熊本市の真ん中を横切る白川の向こう側の丘の麓に消える彼らを眺めていた。

 彼らは児童養護施設から通っていたのだ。5月連休明けに白川向こうの丘への遠足があり、「遠足は一日中遊べるね」と僕はご機嫌だったが遠足当日は雨。彼らは一人も登校しなかった。先生たちは体育館に僕らを集めてお菓子を配った。親が金を出し合っておやつのために共同購入した品物だった。お菓子と弁当ですっかり元気になったうえ、勉強もなしになった。


 後日、この養護施設が熊本の教育を混乱の激流に巻き込んだ『黒髪小事件』と深い関わりを持っていたことを僕は知った。黒髪小事件は  龍田寮事件とも竜田寮児童通学拒否事件とも呼ばれる。

 癩療養所に絶滅隔離された患者は、感染していない子の処遇に泣いた。療養所には患者でないから入れず、親戚縁者は患者の子どもだからと引き取らない。当時患者の子どもを「未感染児」と呼び患者の家族はいつかは発病するという無知偏見を植え付け、また子どもを荷物扱いし「携帯児」とも呼んだ。様々な経緯から菊池恵楓園では「未感染児」は、癩予防協会付属養護施設の保育所「龍田寮」で扱われることになり、寮は恵楓園から離れた熊本市内の黒髪町に設置された。

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   少し長いが拙著から引用する。 

 1954年の春、時代の歯車が逆転したかと思わせる事件が熊本で起きた。竜田寮児童通学拒否事件である。ハンセン病療養所にはハンセン病患者である子ども、親が患者だが本人はハンセン病ではない子ども、療養所職員の子どもがいて、それぞれ困難を抱えていた。熊本市内の竜田寮では、菊池恵楓園入所者の子どもたちが生活。他の療養所では入所者の子どもの地元小中学校通学がすでに実現、しかも竜田寮の中学生と高校生はとうに地元の学校に通っていたのである。意図して煽られた騒動の気配がある。中心人物は保守の県議会議員でもあった。

 菊池恵楓園に再収容されることになった父親が、子どもを預けるために竜田寮を訪ねたことを書いている。黒髪小事件の3年前のことである。

 「私は意外なことを耳にした。(竜田寮には)小学児童が15名ほどいるが、市内の小学校に通われず、分教場で教わっているということだった。

 「小学校がすぐそこにあるのになぜ通学されないのですか?」

 「それがですね、病人の子だからという理由でPTAが 反対するらしいんです。これまで何回となく市や学校と交渉しましたが、父兄側の鼻いきが荒いのでね」

 親を病人に持つがゆえに、その子は正規の教育を受けることを拒まれ、やむなく分教場で一人の教師が一年から六年までを担当しているというのである。ほんの目と鼻の先で片方は堂々たる鉄筋建の校舎で、正常の教育を授けられているのに、一方では粗末な分校で寺子屋式の貧弱な教えを受けている。私の脳裡を対照的な二つの授業風景がかすめた。教育都市をもって名を知られる熊本市が、これは一体どうしたことだろう。」   下河辺諌「別れ道」『ハンセン病文学全集第四巻 記録・随筆』346ページ

        

 竜田寮の子どもたちを排除しようとする通学反対派は、140日にわたって子どもたち(1600余)を休校させ、お寺や銭湯などで自習させた。この事件に衝撃を受けた佐賀の患者家族が自殺するという悲劇も起きている。

 しかし少数派の通学賛成者は、石を投げられ、脅迫状を送られ、殴り込まれ負傷者まで出しながらも、その275名の子どもたちが竜田寮の4人と通学を続けた。新しい希望であった。反対派指導者の孫が「竜田寮の児童が入った新一年生の学級に掃除に行かせて欲しいと申し出てきたのが嬉しかった」と、『熊本市戦後教育史』は書き残している。            『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊


   竜田寮の中学生たちが通った市立桜山中は、黒髪小学校より竜田寮に近いが、通学拒否はおきていない。それ故事件のの解決に熊本市は悩み、市内の学者たちに知恵を借りた。その結果、何カ所かに分散設置された施設の一つが「気になる温和しい子」がいた園かも知れない。僕の入学した小学校は彼らの受け入れ学校として急遽指定された可能性がある。子どもたちの個人情報は勿論園職員の情報まで悉く秘密にされ、後に破棄されたと聞く。


 この事件の根本は、絶対隔離の必要の無い癩病=ハンセン病を「ペスト並みの恐ろしい病気」と根拠のない偏見を煽りながら全国を遊説した光田健輔と渋沢栄一に帰すべきことを、僕は何度でも書く。

                                                           

 父の母が戸籍から消え癩療養所に生きていた可能性については既に書いたが、このトメ婆さんとほぼ同時に戸籍から消えた父の妹も同じ療養所にいた可能性を否定できない。彼女は僕の叔母にあたるが、彼女に「携帯児」はない。しかし当時の恵楓園では療養所内で患者が堕胎を免れ出産した例がある。

 彼が僕の叔母の子、つまり僕の従兄弟であった可能性も否定出来ない。入学式後の集合写真を見ると、疲れ切った表情の僕の前列にそれと思しき詰め襟姿の少年が写っている。

 僕は墓という風習に何の感慨も持たない。だが菊池恵楓園の納骨堂には頭を垂れるつもりだ。 なぜなら、この黒髪小事件に関する教組や労組の積極的取り組みの形跡がないからだ。癩病の絶滅隔離そのものへの怒りを込めた行動や声明すら発見できない。戦後民主主義とは何であったのか、どこを向いていたのか問わずにおれない。矛盾の結節点への洞察が欠けている。

 

平凡な価値 と 共同体の規模

  一学年10学級が続いた悪夢の日々を思い出す。学区は選択の多様化をうたい文句に無闇に拡大。それを教委は「自由」の拡張と錯覚させ、親も中学生も教師もこんな安手の詐欺にまんまと引っ掛かってしまった。

 受験生に選択の余地はなかった。彼らは受検産業の用意した「偏差値」に相応しい学校を指定されるに過ぎない。「偏差値」が低すぎても高すぎても近くの学校は、予め「自由な選択」からは排除さているのだ。

 おかげで教師も生徒もは、1時間以上を満員電車で通勤通学させられる。学校に着く頃には既に疲れている始末。

  平等と民主を欠いた「自由」の実態を良く表している。

 「高校増設運動」は時間的に追い詰められ、教育の「質」を自ら放棄したのだ。「子どもの声」を騒音扱いする価値観は共同体の拡大や消滅に伴い拡がる。幼稚園や保育所の立地が難しくなっている。保育者の幼児に対する体罰も起こる。

 共同体か小さければ、子どもたちの遊び泣く声は煩さくない。親や祖父母を安心させ和ませる機能がある。保育者も親も子どもも古くから続く共同体で生まれ育ち、互いに気心が知れている事の価値を我が国は破壊し続けている。それを地域の「発展」といつわつてきた。

 1888年日本には7万314の自治体があったが、2019年現在1718にまで減少。フランスは3万8000ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である。

  我々の社会の自殺の多さ、いじめ、貧困に対する不寛容は、ここに根を探る必要がある。


  社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方を、従って人間のあり方を変える。

 例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とする様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。 

 人口が増加すれば、こうした判断(曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉える)は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を奪われ、多数雑多な厄介者の一人として一括処理されてしまう。彼らが孤立状態から共同体への回帰するためには、多数への順応・同調という手続きのみが残り、同調できなければ罰と排除が待っている。 彼らの全生活の複雑性の理解と把握は顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。リベラルな教養はその文化の中にある。

  小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。千人程度の「奇妙な国」で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」では、企業も自治体も学校さえもが合併して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応され、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。


 勘違いしてはいけない。大きな都市でも日常的な生活決定の単位を小さくすることで共同体は小さく出来る。通勤や通学圏の縮小、世界を仰天させる悪習=単身赴任廃止は行政の決意にかかっている。遠方への高速で高価な交通機関や設備ばかり心を奪われ、日常の安価で便利な施設に目が向かないのは我々の意識か奴隷化してしまったために違いない。

 プラトンは奴隷を「自分の行動において自分の意志ではなくて誰か他人の意志を表現する人間」と定義している

自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない

  常識ある者の世界では、身体的・精神的苦痛で意思を変えさせることを「拷問」と呼ぶ。入管では意思を変えさせる過程でこの15年間で17人が死亡。

 何故日本政府は「難民」認定を極度に渋り、拷問虐待を続けてきたのか。一転してウクライナ避難民への大歓迎ぶりはどういうことか。入管の源流は戦前の特高警察の外事係である。特高は日本の「国体」を手掛かりに様々な事件をでっち上げた。でっちあげた嘘を守るために嘘は膨れ上がり、どんなに物が無くとも日本は「現人神」の君臨するから・・・と遂に原爆二発を喰らった。喰らったうえに自ら属国になり喜んでいる。確かに「世界に類の無い」愚かな国だ。 

我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない


 転勤新任教師として壇上で紹介されるとき、僕は埴谷雄高の言う「自同律の不快」にみまわれていた。

 前任校で、僕は職場の教研委員を4年続ける機会に恵まれた。おかげで新任早々、職場を外側から見る事が出来た。各職場の僅かな違いが、高校教育と教育界の全体構造を見せてくれた。それは、付き合いや交流の範囲の拡大と共に明瞭になった。嫌なものも、目についてくる。

 嫌悪したのは「生活指導」にのめり込む一群の教師たちの

特高課の部屋は職員室に似ている
「使命感」。当時生活指導運動活動家は、実存主義にかぶれてサークルをつくり傲慢だった。

 僕には「指導」という言葉が、軽薄な教師による「少年の領分」への介入に過ぎないと思った。個人の表現や態度、に介入できると思い込んでいる姿は、まさに「特高」。いたずらに生徒と教員の間に壁を作る浅知恵なのだ。

 埴谷雄高の言う「体系のなかに入ってしまうと、自分のしていることの非道さ」も無意味さも、分からなくなる。僕自身もそのなかの一人であるのが嫌だった。

  転勤が決まり、転勤先に打ち合わせに行った時のこと。僕は渡り廊下で、三年生らしい二人組と対峙した。二人はニャッと顔を見合わせ、ジーパンから煙草を取り出しふかし始めた。春休みだから人気はない。この頃ぼくはヒョロヒョロに痩せていた。逃げるわけには行かない。君ならどうする?・・・

 すれ違いざま、彼らは「勝った」と思ったに違いない。僕は前を向いたまま「うまいか」と声をかけた。

 「アッ・すいません。・・・アッ・イヤ吸いました」とあっけなく降参した。

 「君たちが睨んだ通り、明日から僕はここで教える。だから今日は忙しい。いちいち君たちの担任に言いつける暇は無い。自分の判断で担任に報告しろ」

「ハイッ!  ハイ!」

 たちまち噂が飛んだ。「あいつは空手の有段者だ・・・」誤解もいいところだ。 確かに僕は、学園紛争で火焔瓶や機動隊の放水が飛び交い、セクトによる殺人さえ起きる生活を四年も続けていたから、怖さに鈍感になっていた。

 翌日の着任式で昨日の三年生を見つけながら、こう言った。

 「君たちは、この若造は何なんだ、どういう奴なんだと考えているだろう。・・・嘗めちゃいけないよ・・・、とは言わない。なめてもいいよ。そうしなければ味はわからない」。

 生徒達はざわめき始めた。教室に戻っても「あいつは何を言いたいんだ、何者なんだ」と静まらなかったらしい。


 学校は「自分のしていることの非道さがわからない」の連続である。「なめるんじゃない」はそうした中で「指導」の言葉として多用されてきた。僕は、生徒たちにはなめる権利があると思う。

 この話をK高校のTさんが、受け持ちの生徒たちにした。休み時間に小便をしていたら、後ろでしゃがんで眺める生徒がいて「先生ながいね」と笑っていたという。教室で片手を前列の生徒の机について話を始めたら、手の甲に妙なものが当たって振り向くと、そこの生徒が「先生、しょっぱいね」と言ったと聞いた。

 はじめ僕は「不快」を、教師と生徒の問題だと考えていた。そうではない、学校を越えた支配=被支配の問題であったのだ。だとしたら我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない。時には自分と、自分を取り巻く歴史も含めて、憎まねばならぬ。


教育は不当な支配に屈することなく、国民全体に直接責任を負って行われる。旧教育基本法第十条

  多摩の大規模校にいた時生徒から、ある教師によるセクハラの訴えを聞いた。周りの生徒にもその教師の様子を聞いた。管理職に話を回しはしなかった、管理職ほどあてにならないものはないからだ。生指もあてにできない。しかし訴えは深刻だった。ひとけのない時間に、彼を訪ねて直接話した。彼は狼狽したが否定、数日して数人の教師を伴った彼に呼び出され。「とんでもない言いがかりだ、生徒が教えて欲しいて言うから近寄って手を取り指導した。何故あなたは生徒の訴えばかりを聞くんだ。管理職に訴える」と息まいた。つまり僕が件の教師の仕草に寛容になり、「生徒の思い過ごし」を指導すべきと言うわけであった。

 瞬く間にこのことは学校中に知られ、僕は「浮いた」。「嫌がる生徒が間違っている」と勘違いしているのは教師の側ではないか。嫌が生徒の気持ちになってみる「寛容性」を教師が持つべきとの主張は受け入れられなかった。反対に僕の生徒に対する「毅然たる姿勢」のなさが問題視されてしまった。1990年代に入ったばかりだった。

 立場の弱い生徒が、あらゆる点で「力」を誇示する教師に忖度する事が常識になりつつあった。神戸高塚高校校門圧殺事件の起こった年だ。


 被害者が、寛容や我慢を強いられる。虐めにも同じ構造がある。「いじめられる側にも問題がある」と問題がすり替えられるのだ。職場や地域の「ハラスメント」は江戸の昔からそう扱われ続けてきた。セクハラを嫌がれば「可愛くない」と罵る。暴力沙汰を繰り返すチンピラは、若さ故の「やんちゃ」だったと笑う。 人の後ろに回って「カンチョー」を連発する「大物」芸人は怯えた眼差しで隠れるのだった。それが「お笑い」だとマスメディアも囃し立て、真似る者が続出する始末


 ありったけの理不尽に苦しめられてきたハンセン病者に何の咎があったか。ありはしない、神や仏までもが「業(前世の悪行の報い)」病と突き放したのだから。「ペスト並みの恐い病気」と全国を遊説して回り絶対隔離を画策した渋沢栄一が男爵になり相棒の光田健輔は文化勲章をぶら下げる構図の狂気に我々は未だに「寛容」だ。

 だから首相は金メダルチーム『東洋の魔女』監督“鬼の大松”を持ち上げる。鬼の得意は『シゴキ』=壮絶なパワハラだった。しかし世間は「金メダル」に目が眩んだ。『ド根性』が流行語となり、体罰やサービス残業など日本型組織体質が戦中の地獄から甦った。『極限状態に立たされることで、人間は真の力を発揮できるようになる』と強調した大松は帝国陸軍の生き残り。その悍ましい風潮克服の半ばというのに、『シゴキ』を賛美する首相の無知無神経。そういう男を引きずり下ろす怒りを我々は持てないでいる。怒りが組織化されないからだ。

怒りは組織されねばならぬ

 我々に必要なのは、弱く虐げられる側に立ち、虐げる側への怒りを挙げること
 「神の愛」や「仏の慈悲」は、虐げる者に限りなく「妥協」して力なき者の不信仰を咎めてきた。教委や生指も、組織を可愛がり一介の力なき生徒個人に我慢を強いて止まない。「国民全体に直接責任を負」うとは、組織に忖度することではない。弱き者は、どうしても、どうしてか、教団や業界に組織されたがる。

 弱き者が弱き者同士組織をつくらねばならぬ、それは弱きものが自らの「弱さ」の根源を知る事から始まる。それ故若者には、哲学・歴史・経済学が不可欠なのだ。わが国で全ての若者に、「哲学・歴史・経済学」が普通教育として行き渡ったことはない。ただ戦後混乱の1947年、新制高校のカリキュラムがあっただけ、瞬く間に幻のごとく消えた。新制高校への進学率が50%を越えるは1954年のことである。

専門家とは何か、業界人は腐敗する

  ハンセン病療養所菊池恵楓園に収容されセファランチンを投与されたため、症状が悪化、眉毛は抜け落ち、目も見えなくなった退所者に関する検証会議聞き取りがおこなわれた。

 セファランチンは結核の薬として戦後使われた。若くて軽症の人に投薬され、それによって症状を悪くし、全盲になったり、手足を悪くしたり、亡くなった人さえいる。この薬については学会に報告されたが、失敗例はすべて捨てられ、少し症状が良くなった例や病状に変化が見られないものだけ残された。そのため、学会論文上、犠牲者報告はない。その後、セファランチンはいつの間にか使われなくなり、薬害が明らかにされていない。 ハンセン病問題に関する事実検証調査事業  第4回ハンセン病検証会議   2002年12月9日和泉眞蔵検証会議委員証言                註   和泉眞蔵  国立ハンセン病療養所や京都大学医学部皮膚病特別研究施設で、ハンセン病の診療や教育・研究に従事。国賠訴訟では青松園医長でありながら原告側証人として証言。又医療過誤事件でも原告患者証人として証言、一貫して患者の立場から医療を担ってきた。

 

 ハンセン病者たちは、セファランチンをナオランチンと呼んでいた。  ハンセン病療養所に長い間カルテが無かった。カルテが要らなかったのではなく、都合の悪いデータとして有っては困るものでもあったという驚天動地の構図がここに見える。病気の研究治療に注がれるべき情熱・時間・費用が、愚かに私的に浪費されたのである


 救癩の父と賞賛され文化勲章を受けた光田健輔の、医学者としての見識の程を示す遣り取りの記録がある。

(光田) 「あなた(小笠原登)は、ライは全治すると言っているが、それは間違いだ。全治は不可能です」 

(小笠原) 「では一体先生のおっしゃる全治とは、いかなる規範であるのか、まずそれを承りたい」 

(光田)「それは、患者の躰の中にライ菌が全くなくなり、かつ再発しないことである」 

(小笠原)「それはおかしい。およそ伝染病にして・・・全治した後の体内に菌が完全になくなることはない。いったんライに罹ったら、全治していても、終身患者扱いをすることは誤りである。先生のいわれるような意味で全治を考えたのでは、世の中に全治する病気は一つもないことになりましょう。それとも、何か全治するものが、先生のいわゆる全治する病気がありますか」

(光田)「チブスがそうです」 

(小笠原)「チブスは全治しても、なお患者の躰の中にチブス菌のあることは、内外の文献にも明らかですが」 

(光田)「イヤ、私はライの方は専門に研究したけれども、チブスの方は私の専門外なので、あまり研究していないから 詳しいことは知りません         田中文雄 「京都大学ライ治療所創設者小笠原登博士の近況」『多磨』1967年12月号


 原理主義の恐ろしさは、その幼児性の無知にある。「それは間違いだ」と胸を張っておいて、動かぬ証拠を突きつけられると「専門外なので」と居直り、相手を「間違い」と決めつけたことは決して取り消さない。こうした無知に基づく素早い断定を、頼もしさと見誤ることがある。近代科学の専門家を自認する者が好んで陥った隘路である。自分と同類同質の無知を振りかざす者の過ちに気付くのは難しく、親しみと力強ささえ感じてしまう。無知で傲慢な断定ほどカリスマ性を帯びる所以である。理性的な熟考を、無能な優柔不断と見なす傾向と表裏一体となって機能する。医師光田健輔を、専門家として原理主義者に育て上げた責任が渋沢栄一にはある。

 この構図はコロナ禍の現在、マスメディアを通してむしろ拡大している。 

 賢者は、自分がつねに愚者に成り果てる寸前であることを肝に銘じている。・・・これに対して愚者は、自分を疑うことをしない。・・・そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。・・・愚者はけっして休むことがない。オルテガ


追記 光田健輔と論争した小笠原医師の自信の根底には、分厚いカルテがある。当時ハンセン病医はカルテを録っていない。治療への関心の低さを象徴している。京大「特研」(皮膚科特別研究室)医師小笠原博士のカルテは詳細かつ膨大であった。

 療養所以外でのハンセン病「治療」は、表向きには認められなかった。だが小笠原は、早朝から夜中まで毎日50名前後もの患者を素手で診察、その手の温もりが患者を「死んでもいい」とまで感動させている。

 彼の患者は、入院することも仕事を続けながら通院する事もできた。癩予防法が医師に義務付けたハンセン病患者の届出(即ち療養所隔離)を避けるためカルテの病名欄を空白にしたり、診断書が必要なら「多発性神経炎」とだけ記入。人目を避けて早朝夕方に通院する患者のために診療時間を大巾に延長した。患者の負担軽減のために、自らの研究費や給与も流用している。博士の着衣は、学生時代からの黒い詰襟を繕ったものであったという。彼が治療した患者は3000名にのぼる。

 光田と渋沢の救癩事業が慈善に依存する中で、国民皆保険制度の必要性も説いた。南画や漢詩を嗜む浄土真宗の僧侶でもあった。業界人から最も遠い教養豊かな「人」であった。


「授業をうける権利」と勤評

 「授業をうける権利」とは何か。学校に行くことか、教室に入ることか、よく考えると段々曖昧になる。だが権利の原則に立ち戻って考えてみる必要がある。例えば、宗教を信じる権利。これは特定の宗派あるいは宗教一般を信じる自由を意味するだろうか。

 そうではない、信じないことによっていかなる不利益も被


らない事である。この原則があって初めて特定の宗教を自由に信じることが出来る。だから戦前の日本に信仰の自由はなかった。ある宗教を信じれば、あからさまな弾圧が加えられたからである。アメリカには信仰の自由はない。無宗教は「アカ」と見做され入国さえ危いからだ。

 同じように「授業をうける権利」を考えてみる。それは「授業をうける」または「授業を受けない」ことによって不利益を被らない事である。

 具体的に言おう。僕が小学校六年生の時、クラスは能力別に4つに分断された、一番できるグループは廊下側、二番目が窓側、三番目は廊下側の次、おしまいは窓側と三番目の間。一目瞭然だった、60年が過ぎた今なお「あれは嫌だったね」と同級生たちは口々に言う。この並び方で行われた授業は、毎日業者テストの繰り返し。僕は次第に不満を募らせ、三学期の末怒りを爆発させた。担任が楽しく「お別れ会」をやろうと言った。このクラスは6 年間クラス替えがなくそのうち5 年間がこの担任で、僕は転校生だから2年半だけこのクラスだった。学級委員だった僕は「なぁ、いいだろう、いいだろう」を笑顔で繰り返す担任に、「嫌です」とかみついた。賑やかに、あれをやろう、誰とやろうと盛り上がっていた教室は、突然シーンとなった。

 担任は「何が不満なんだ、みんなが賛成しているのに。このクラスが詰まらなかったと言うのか」

  僕はこの後チャイムが鳴るまでの30分以上を担任と喧嘩した。「みんなが賛成なら僕は出ません」と僕は最後に言って教室を出た。すぐに野球仲間が追いかけてきて「ごめんな、俺も反対だったんだ」「担任が恐くて何も言えなくなっちゃった」・・・僕はリーダーシップもあり、成績もよく担任のお気に入りだったからみんな驚いた。頻繁に行われた業者テストでは毎回千人中の順位が添削とともに記入されいた。僕は一桁の順位だったから、初め不満はなかった。クラスの空気が暗くなったことに気づいたのは二学期になってからだ。

 母は呼び出されて「こんな協調性のない子は初めてだ」とだいぶ小言を食った。僕は祖父母や大叔母や両親から、納得いかない時にははっきり意見を言いなさいと言われ続け実行してきた。

 この顛末が「勤評」だったのかと読めてきたのは、高校生になって「教育問題」を文化祭でとりあげてからだ。

 勤評に怯えた担任によってクラスが「出来・不出来」で分断されたのが、不利益にあたる。勿論僕は一学期に、「こんな不快な席順はやめてください」と言うべきであった。

 教師の日常に煩雑な競争を持ち込むのは、政策vision のない政治屋とって手軽に票を組織する手段である。

 例えば、若者の自殺をなくすことを真剣に考えるなら、少なくとも25年を見据えた社会政策が必要になる。 長く費用の嵩む社会政策を訴えていては、議員4年の任期は瞬く間にすぎてしまう。

 誰もがその門を潜り多かれ影響を受ける学校教師の「資質」や「日教組」の問題と罵れば、「単純で分かり易い」説明を希求する有権者の賛同は得やすい。予算の裏付けも僅かで済む。軍事予算や大規模公共投資に手を付けないで済む。マスメディアへの露出も増える。こうして彼らもまた教育を政治的に取り上げることで、ほぼ永遠に「授業をうける権利」阻害し続けるのである。


  マッカーシーが「赤狩り」にのめり込みアメリカの戦後を混乱のどん底に落としたのも、「単純で分かり易い説明」が有権者に受けたからである。その痛手からアメリカは未だに立ち直ってはいない。

  勤評のような政策を分析する時、我々は大人の世界である経済情勢や政治情勢の分析を好む。しかし僕は、当時の子どもや生徒の記憶を探る研究が無いことを悲しむ。何故ならそれなしに我々は 当事者から見た「授業をうける権利」にたどり着けないからである。

ハンセン病療養所「園券」の深い闇         ここにも渋沢栄一の影

   戦前戦中ちまたでは、「全生園にいけば2、30万はいつでも融通してもらえる」と公然と言われていた。高木敏子「ガラスのうさぎ」に、太平洋戦争末期「1000円といえば、ちょっとした家が一軒建つお金」という記述がある。2、30万円は大変な額である。現在の価値で2億、3億円に相当する。 

 絶対隔離は火葬場の煙とならなければ外に出られない仕組みだった。どんなに金を患者が持っていても、一旦園が強制的に預かってしまえばどう使ってもなんら咎められない。全く自由な400万円近い資金(4000億円に相当する)が、いろいろな方面から重宝されていた。戦前の市中金利は5%から10%で推移していたし、高利貸しの金利は年利100%を越え

患者たちは有り金残らず巻き上げられ・・・  
  
ていたからである。全国のハンセン病療養所は患者の逃亡を防ぐことを理由に、その所持金を園内だけにしか通用しない粗末な「園券」に強制的に交換した。
  しかし敗戦とともに事情は大きく変化した。1925年男子のみの普通選挙権が認められたが、皇族と公的扶助を受ける者は無かった。1947年補欠選挙が開始されるとともに、共産党遊説隊が園内に入り、草津栗生楽泉園ではその晩のうちに懇談会が開かれ患者の怒りは爆発する。(1947年患者の委任を受けた自由法曹団が、園当局の行為は殺人、同未遂、特別公務員暴行凌虐、不法監禁罪を構成するとして前橋検察庁に告訴告発している。それによれば、 庶務課長は重監房運用責任・物資隠匿横領・患者労働賃金のピンはね横領等、炊事主任は患者救済を騙って買い付け横流し、保母は虐待で保育児を死に至らしめている。)
  共産党や社会党も園内に入り、患者たちがハンセン病療養所の実態を村人や町民に訴え始める。長年の悪事が露呈・園当局の尻にも火が付く。患者が持参した金券=「正金」を当局は「保管金」と呼んだが、保管などしてはいない勝手に「運用」していたのだ。

 昭和27(1952)年4月1日「第一分館に於て保管金払出しの際本日より何の報告もなく正金にて払出しているとの情報を得たので、早速園当局に申入れし、正金切替は計画の下一斉に行うにつき、この処置を差しとめさせた」と全生園患者自治会は記録している。自治会が正式に金券への切替を要請したのが3月15日ごろで、切替希望日は4月なかごろである。
 開園から40余年もの間、入園者の所持金をいくら取り上げていくら園券にしたか明細などない。

 「切替えは予定通り始まり14日・・・15日・・・16日・・・17日・・・と順調に進んだが、保管金額に誤りがある疑いが出てきて、切替委員が立ち合って調査したところ、銀行預金の38万円余が見落とされていて、日本銀行券保有高とだいぶ差があることが判明した。・・・自治会では、調査委員会を設けることを決め、翌日には、施設側に現金出納簿の提出を要求してこれを調べたが、出納簿はこの切替えに当たって、都合よく書き換えられたものであったので、原簿の提出を要求。
 ・・・明らかに現金出納簿を改ざんしている等の事実を厳しく指摘し、全くいいかげんな取りあっかいについての釈明を迫った・・・ そして22日・・・園長は自治会に対し、73万5000円余が不足していることを正式に認めた。この不足分を認めたことは、患者の保管金と金券発行額だけ、現金の裏付けが無いということで、そこには明らかになんらかの不正が介在することを認めたわけである。
 ・・・「園券に関する不正責任糾明委員会」が発足したのはその夜。・・・激しい怒りが「園券に関する不正糾明患者大会」に結集された。この日の礼拝堂には、入園者600余人が会場と堂外にあふれ、出席している施設首脳者に怒りの声がしきりに飛んだ。大会決議では「73万余円不足の事実は、過去30有余年の永きに亘り我々患者の血と涙の結晶たる零細なる所持金が、何らの会計検査もなく、無能にして絞滑なる担当者にょり、如何に曖昧模糊たる処理に委ねられ来ったかを自ら暴露せるものであり、我々現存者のみならず不幸なる時代の中に病没した過去の病友の霊と共に断じて許さざる処」と述べ、施設の責任者園長の意志表示、永井と菱川の即時辞任とらい園たらい回し勤務の拒絶、不足金の個人負担、不足の真相調査と公表等を要求した。
 これに対する24日の園長回答は「皆様の所持金縁管に関して慎重を欠き不始末を生じ御心配をおかけしたことは責任者とし注意が足りなかったと痛感すると述べたが、内容はそれとはうらはらでそっけないものだったため、委員会はこれを拒絶して、再回答を要求、26日の再回答では責任を痛感し、永井、菱川両人をやめさせる、両人は辞職を隣い出、他のらい園には勤めない、不足金は個人が支弁し、原因調査は公正を期して本省と地方局に依頼、4月30日に公表するとしたのを、糾明委員会は了承した。
しかし新聞各紙は「患者の金を職員が横領?」 「らい園は伏魔殿」などと興味本位に取りあげ、事件の解決にはほど遠かった。
 4月30日加藤事務官らの本省調査団は糾明委員会に対し、調査の中間報告をしたが、・・・その調査の粗雑さについて糾明委員会からきびしい指摘をうけて、ついには施設、糾明委員会との三者で合同調査をすることになり、その結果は5月6日つぎのように発表された。
○入園者所持金
 有効園券         二三四万〇四五〇円五四銭
 保管金           一〇九万四三六七円五四銭
 互恵会             三八万四四八九円〇九銭
 慰安会               三万〇一四六円四〇銭
 その他                   一八七六円
  合計            三八五万二二二九円五七銭
○園が示した資金
 課長出納簿       二九七万八五二二円七一銭
 菱川保管金           四万八三六四円七五銭
 同立替金             八万一三〇〇円
 振替貯金                 三四〇五円二六銭
  合計           三一一万一五八三円七二銭
○差引不足額         七三万九七四五円八五銭

 そして永井は7月、菱川は8月に結核の施設に転勤となった。
 調査団発表は不足金の確認だけで不足した原因には触れない。施設ではその後も調査を続けているが、林メモによると(6月30日)42万4000円余の所在は、菱川の帳簿もれと解明されているが31万5000円余は不明金としている。前記したごとく裏付け金出納簿は改ざん(または問題ない部分だけはチェック)したものを自治会に提示し、改ざんを追及されてもついに原簿は出さなかった。」
全生園患者自治会編『俱会一処』一光社刊
 国立ハンセン病療養所は国内だけでも13箇所あった。不正横領は全生園だけではない。不正に運用された膨大な「利益」は何処に消えたのか。これも光田健輔と渋沢栄一画策による「絶対隔離」政策が無ければ出現するはずのない深い闇であった。この一事だけで、渋沢栄一が一万円に相応しくないことは明白。
 この後患者たちは長く困難な「ライ予防法」闘争に精魂を傾け敗北する。光田健輔は1951年、文化勲章を胸にした。

 敗戦は憲法改革を伴う「革命」であるべきだった。革命の過程では旧体制で弾圧迫害され投獄された人々が、新しい体制の理想を実現するために政権中枢で汗を流す。それが民主主義的政変である。眼光鋭く旧体制の闇を告発検証して、責任の在りどころを逃さない。そうでなければ新しい体制は実現しない。

 にもかかわらず光田健輔と渋沢栄一の絶対隔離体制は続いた。誰一人処罰されなかった。殺戮も横領も拷問も何も問われなかった。犯人たちは逮捕もされず裁判にも掛けられなかった。旧体制は、より権威主義的に整えられたのである。

日本の医師は病気治療の専門家なのか、教師は授業の専門家ではないのか

 







 ある大きな病院での話である。ある科の医長が、この頃やかましい癌でなくなった。ところが次の医長がまた追っかけるようにして、これは科学的にはっきり原因のつかめない奇病でなくなった。病院では不吉なことだというので、神官を招いて「おはらい」をした。それだけではない、家相のせいかも知れぬとあって、壁をぶちぬいて部屋の模様がえをした、というのである。これが東大系の医師を主流とし、医者はもちろん職員にも高度の教育を受けたインテリのそろっている東京でも一流の病院の話だから、まことに困ったものである。しかし、私はここでただちに神道のはらいそのものを批判するつもりはない。家相云々にしてもその結果しろうと眼にも確かに部屋が明るくなったし、これもまたむきになって非難するほどのこともない。

 私の問題にしたいのは、今日この国の最高の教育を受けたと称する人々のもつ宗教性の、何ともやりきれない程度の低さである。平生、科学万能で、ほとんど宗教などには無関心な人々、他のことになると実に合理的に処置することのできる高度の教育を受けた人々、甚だしいのは常に宗教など迷信視している無神論者までが、ちょっと逆境に立ち、少し不吉な環境が続くと、たちまち平素の合理性はどこへやら、まったくお話にならぬ程度のひくい宗教のとりこになってしまう。  秋月龍珉『公案』ちくま文庫

  彼は、鈴木大拙を嗣ぐ禅の師家である。医大の教授でもあるから、ここに引用した文には格別の重みがある。

 僕にも医者の友人がある。小学校から大学に至る同級同期にそれぞれ医者がいる。そんな縁もあって、医局に何度か入ったことがある。成績のいい連中であったから、医局にも内外の最新の医学誌が溢れていると思い込んでいた。だから漫画や週刊誌が散らかっているのを見たときは、心底驚いた。医学は日進月歩、それを追いかけるには夜も昼もない。そんな先入観が我々にある。緊張で疲れているなら窓から中庭の緑を眺め美しい絵画や写真を掲げ、音楽でリラックスする。そんな職業だと考えていた。

 尤も教師の職員室も褒められはしない。僕が教員になりたての1970年代、古い都立高校の教科職員室は何処も天井まで届く書棚に囲まれ重々しく文献が並んでいた。本棚はおろか机の上から専門の書籍が姿を消し、会議書類のバインダーと部活や行事のHOW TOものだけになるのに大して時間は掛からなかった。

  「・・・今日この国の最高の教育を受けたと称する人々のもつ宗教性の、何ともやりきれない程度の低さ・・・。平生、科学万能で、ほとんど宗教などには無関心な人々、他のことになると実に合理的に処置することのできる高度の教育を受けた人々、甚だしいのは常に宗教など迷信視している無神論者までが、ちょっと逆境に立ち、少し不吉な環境が続くと、たちまち平素の合理性はどこへやら」と言わねばならぬ状況が日本の医者にはある。日本の医師の殆どは個人医院の経営者である。医療に専念する前に医院の経営に関心を奪われてしまう。

      公的病院       民間病院         

日本    約20%       約80%

アメリカ  約75%       約25%

イギリス  大半        一部のみ

フランス  約67%        33%

ドイツ   約66%       約34%                 「諸外国における医療提供体制について」厚生労働省

  イギリスがベヴァリッジ報告に基づいた「ゆりかごから墓場まで」の 福祉制度を可能にしたのは、医師が煩わしい経営から切り離されているからである。

 つい最近日本医師会が社会的pcr 検査にようやく前向きになったのは、彼らの大部分が病院経営者だったからである。     経営のためには、患者の健康は二の次にしている。コロナ分科会の専門家が揃いも揃って政権の愚策に振り回されるのも、彼らの業界が「医院経営」の柵から自由になれないからである。日本の医師はゆっくり患者を診る時間さえない。

 情けないではないか、病気治療の専門家が「ちょっと逆境に立ち、少し不吉な環境が続くと、たちまち平素の合理性はどこへやら、まったくお話にならぬ程度のひくい」判断に流れざるを得ない状況。

 教員も今や授業の専門家とは言い難い。個人経営の部活経営者になってしまっている。日本の知的財産がもう底を見せているのにさえ気付かないのだ。文科省は教師を授業の好きな教科の専門家にはしたくないのだ。

   日本では医者も教師も、雑務に追われて何一つ専門に専念出来ないまま朽ちてゆく。

   教師にも医師にも、重大な弱点がある。教師は受験業界や修学旅行業界との柵を断ち切れない。医師は医薬品業界との癒着を問題にさえしない。この件は追って書く。


福井地方裁判所の建築が目指したもの  なぜ生指部長は生徒が選ぶべきなのか

 

 日本占領軍の勧告にもとづいて企画され、甲府そのほかの地方裁判所の新築が着手されたが、それらのうちの福井地方

福井地裁を、新聞は映画館のような
ぜいたくと書き立てた。
裁判所が模範的に完成したとき、日本の新聞などの世論は必ずしもその意義を理解せず、映画館のような裁判所だとか、ぜいたくな設備だとかの批判もあったので、ぼくは参議院の法務委員会の委員として新築された福井地方裁判所に派遣され、その新しい民主主義的な人権尊重の裁判所の建築が期待された効果をあげているかどうかの実情を報告することとなった。

 民主主義の裁判所の人権尊重の明るい新建築の模範としての福井地方裁判所は、敗戦までの日本の威圧的な、冷酷な、暗い建築が天皇制国家権力に対する人民の服従を強制していた裁判所とはまったく対照的に、いかにも民主主義国家の個人尊重の希望を体現していた。その大法廷の床は明るい色の、やさしく人をむかえるじゅうたんでしきつめられ、被告や傍聴人の座席は高扱映画館なみ。家事審判、家事調停の部屋も、壁には絵、テーブルには花瓶、とホテルのようだ。

 これまでどんなところで家事の審判や調停をしていたか、というと、バラックのガタガタいう板の間にガラスのつい立てをおいて、向こうでも、こちらでもはなしをしていた。向こうのはなしのほうがおもしろいと、こちらのはなしはやめて、聞いている。とてもおちついて調停なんてできるものではない。それがホテルの部屋のように、油絵の額がかかり、花がかざってあり、やわらかいじゅうたんに楽ないす。これはぜいたくか、と現地で調査すると、家事調停は、これまでとちがってほとんどすべて成立するようになったという。新しい、明るい、じゅうたんをしきつめた美しい法廷になってから、一回も紛争がない、本当に模範的だ、と裁判官もうれしそうに語っている。

 最後に、被告が拘置所から裁判所に連れてこられて開廷を待つあいだの控え室を見たい、と要望したぼくが案内されたその部屋には、ベッドがあり、セントラル・ヒーティングの暖房の装置もついている。これはたしかにこれまでの国家権力主義では考えられなかった百八十度の民主主義の改革、人権の尊重だ・・・

 ぼくの恐れていたとおりに、その部屋のドアの下の地面に接するところに穴があいているのだ。これが急所である。最後のところで民主主義をうらぎるのだ。被告の食事弁当を差し入れる入れ口がドアの地面に接するところについている。これは敗戦までの日本の天皇制国家権力主義の人権無視のあらわれであり、警察でも、拘置所でも、刑務所でも、被告や収容されている人の食事をわざと泥土におく卑劣な差別の伝統だ。    羽仁五郎『教育の論理』講談社文庫


    多摩の文字通り平均的な高校にいたとき、ある担任から生徒の「指導」を頼まれたことがある。その教師が担任するクラスのの生徒に、こともあろうに僕が「説教」する。弱った、東京で最もそれに相応しくない人間が僕だ。

 暑い日だった。僕は「何処でやってもいいか、話す中身に制限は付けないか」と念を押して、冷たい飲み物を用意してもらった。

  水辺の鬱蒼とした静かな木陰まで歩いた、担任も一緒。腰を下すと、玉川上水のせせらぎと小鳥のさえずりが聞こえる。  

 「ここを知っているかい」

 「知らない、初めて来た。涼しいね」と怪訝な顔をする。 

 太宰治はここで自殺を図り、四回目で死んだ。太宰はこう書いる。

「生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。」

 「実は何を話そうか、困ってるんだ。きみには言いたいことが一杯ある筈だ。先ずそれを聞こう」

  小柄な少年だった。僕にはこの生徒の何が「指導」に値するのか見当もつかない、聞けば反抗的で教科担任達が手を焼いているらしく、クラスでは浮いている。

  「その自殺した作家の話をしてよ」と少年。担任も頷いている。小一時間やり取りしながら話すうちに飲み物は無くなった。・・・

 「指導じゃなかったな」と言いながら戻った。

 半月が過ぎた午後、件の少年がやってきた。

 「先生、また指導してください」 

 「この前のやつは指導じゃないよ、困ったな。・・・よし今度は君が話すんだ」

  こうして水辺の木陰で何度か話をせがまれる羽目になった。相変わらず彼は聞くだけ。やがて文化祭・体育祭も過ぎ、少年は来なくなった。担任の報告では、クラスに復帰した。彼は僕の説教ではなく、あの木陰が気に入ったのだ。 

福井地裁正面玄関のステンドグラス
 学校の中に緑や文化に囲まれた落ち着く場所はない、隠れる場所もない。福井地裁が目指した環境は、主権者が誰であるのかを国民の皮膚感覚を通して啓蒙するものであった。国家の主人公に仕える僕(しもべ)=servantとは、公僕=public servant であることを誰の目にも明らかにするものであった。(その明示された意図をとらえきれなかった新聞は、新聞の役割が権力の批判であることに未だ目覚めていなかった)地方裁判所に続いて刑務所、少年院、学校・・・公営住宅が続く筈であったが・・・行政はGHQの撤退・朝鮮戦争によって真逆を目指した。

 だから学校の生活指導部は、少年/少女の権利を守り啓蒙する役割から大きく外れてしまったのである。「生活指導」が、懲罰的な成績や体罰に苦しむ高校生の訴えに基づいて行動する「分掌」となり、その責任者の最終的任命権は生徒に委ねられる可能性を秘めていた。児戯にも及ばぬ「模擬」投票のごときが、主権者教育と呼ばれることの不毛性に高校生は怒りを爆発させてよい。

 埃まみれの使い古し教材が雑然と置かれた陽当たりも景色も最悪の部屋で、主権者である少年/少女が威圧的「取り調べ」を受け反省を迫られ監禁される場所が今なお学校にある。羽仁議員が福井地裁で目撃した光景とは似ても似つかぬ世界が「日本国憲法」下で70年も続いたことに僕らは血の涙を流す必要がある。 

管理主義の亡霊は、なぜ今頃佐賀に取り憑いたのか

・下着は白とする
・靴下は白とする
・マフラー禁止
・制服に名札を縫い付ける
・靴は白とする。中敷も白とする
・セーター、コート、マフラー、手袋の色は白・黒・紺・茶などの色に限定
・コートは学校指定の物を着用。ダッフルコートやフード付きは不可

・男子の髪型で左右非対称カットやツーブロック、頭頂部を立てるなどの髪型は禁止
・眉毛を剃ってはならない
・整髪料はつけてはならない
・髪を伸ばす場合は、耳より下で耳より後ろで結ぶか、三つ編みにする

 これら1980年代の管理主義再来を思わせる校則は、佐賀県弁護士会が県内公立中に情報公開請求したものの一部である。弁護士会はその結果を分析、見直しを求める提言書を県教育委員会に提出した。←クリック

  多くの中学校が、飲食店やゲームセンター、カラオケなどへの立ち入り禁止を定め、保護者同伴でも認めないところさえある。校区外では、制服着用を強制する例もあったという。

   こんな時代錯誤の校則を作れば、体罰やパワハラは日常的になる。学習には百害あって一利もない。余程ここの教師たちは学ぶことに関心がないか、嫌いなのか。




 僕は咄嗟に、石川達三の『人間の壁』を思い出した。
 朝鮮戦争特需に手放しで湧いた日本経済は、冷戦の訪れとともに一気に冷や水を浴びる。(死傷者は中国200万~400万、韓国40万、アメリカ14万、更に1000万人以上の離散家族を生んだ。戦争状態は2020年のいまなお続いていることを忘れてはならない・・・休戦であって「終戦」ではない。)

 加えて水害に見舞われた佐賀県財政は慢性的な赤字に陥り、1956年には財政再建団体の指定される。その再建計画には大幅な人件費削減が盛り込まれ、10年間で教職員約7000名の内2600名を整理するために、45歳以上の職員を全員退職させ、養護教員・事務職員を全廃する内容。1957年迄に5回に及ぶ教職員定数削減、だが翌春には団塊の世代児童が7000人も増える事態が迫っていた。 『このままでは義務教育が崩壊する』との危機感から、組合は実力行使を決定。しかし当時すでに公務員法で争議権を奪われていた教師たちは『出来るだけ授業に支障が出ないよう』に県下の全小中学校で組合員を3分し、2月14日から16日の3日間、一日ずつ有給休暇をとった。教職員5929名のうち、およそ5200名が抗議集会に参加した。これに対し、佐賀県教育委員会は県教組幹部11名を地方公務員法違反で停職1か月から6カ月とする行政処分を行った。警察も組合幹部を逮捕した。
 石川達三は、この佐教組事件関係者に精力的に取材。朝日新聞に小説『人間の壁』を連載、単行本はベストセラーになった。1959年には山本薩夫監督・香川京子主演で映画化した。

 しかし闘争は敗北した。公選制教育委員会は廃止、勤務評定が実施され、教育現場から自由で伸び伸びとした雰囲気は消え始めた。教師が行政に縛られれば、教師は生徒の自由を守らないのか、守れないのか。僕の祖父は海軍退役後、故郷の旧制中学で教えたが、若い教師たちが軍国主義に凝り固まり鉄拳制裁しても「予備役将校のあんたの爺さんが、一度も殴らず
学校で一番穏やかじゃった」と当時の教え子は僕に語った。勤務のない日は鍬を担いで畑に出ていたという祖父を誇らしく思う。

 自分たちが行政の高圧的管理に苦しんでいる時こそ、その苦痛から生徒や父母だけは守る覚悟を持つ。それが闘うということだ。何故なら、少年/少女たちを取り巻く世界に対峙することから学びは始まるからである。同化させ順応させることは、学びの敗北でしかない。

 

 朝鮮戦争の終結をいまだに実現出来ないことに歩調を合わせるように、不気味な「後遺症」が佐賀の中学校で亡霊のように現れたのだ。戦争で浮かれ儲けた事実は甚大な「付け」として必ず現われる。

 コロナ禍も「闘い」である、にもかかわらず「Go to キャンペーン」「with コロナ」と莫大な補助金をつぎ込んで浮かれている。「付け」は激増する死者・後遺症、さらに巨額の増税となって我々の生活を痛めつける。増税しやすいのは、戦争である。

君は疲れている

病に倒れて知る 鉢の中にも宇宙
 深い豊かさが、君の文章から消えた。単調で鋭さがない。それには誰より君自身が気が滅入っているに違いない。
  
 ずっと昔のことだが、僕にも誰より早く登校し誰より遅く下校して、仕事を抱え込んだ時期がある。学校内外の仕事が次から次に押し寄せても、軽々とこなしているつもりだった。

   ある日、職員会議で発言しようと立ち上がった瞬間、雲に乗ったように上下左右の感覚を失い倒れ込んでしまった。そのまま入院。病院に三ヶ月、自宅静養の三ヶ月を過ごした。入院初期は、一日毎に500g 体重が減った。突発性難聴という診断だった。後遺症で今も右耳の聴覚は無く耳鳴りが残る。
 この入院を含め三度の半年近い病休を経験した。二度目は殆ど自宅で寝たままの日々を過ごした。病床から見えるのはベランダの鉢に生えた雑草と空だけ。最後の入院は大学で講義中、意識を失った時。半身不随になり、完治に半年を要した。
 思えば、体が休むことを命じたのだ。休む回路を壊した僕を病で寝込ませて、肉体と精神の回復を待つしか無句なった。休まないことは美徳だと思い込んでいた。ストライキの時だけは説明して休講したが、
授業を休んだことは無い。 授業すれば精神も肉体も甦るような錯覚に酔ったのだ。弱い自分を見ない、不遜。

 自宅の病床から見えたのは、来る日も来る日もベランダの鉢と空だけ。快適さ便利さは消えたが、気が付くと草の伸びる速さに体が同期し始めている。鉢と雑草の世界もまた宇宙である、不思議な感覚だった。学校を辞めるのも悪くないと思う頃、僕はゆるゆる回復し始めた。
 病気になることで、命の瀬戸際を逃れる。自らを救う仕組み・能力が人間のどこかにある。学級に危機が迫ったとき,生徒たちの中から人間関係=集団を修復・再建する動きが自然に生まれるように。
 その仕組みが、回りへの気兼ねや組織に対する義務感で壊れたり弱くなっているとき、過労で倒れてしまうのだ。この仕組みの脆弱さは、三度も入院した事で分かる。

 何人もの友人を過労で失った。友人の家族の悲しみに暮れた表情が僕の中にたまり続ける。 

 君は疲れている。
 僕は鋭く豊かな君の語りを再び聞きたい。

20年後を見通す政策を立案する賢明さはどこから来るか

妊娠中絶合法化で20年後の若者の犯罪率が低下した
 栃木県の認定こども園で、保育教諭らが、2歳児たちに「死んでしまいなさい」と罵り、食事やトイレの際にも「廊下に出ろ」「邪魔」「うるさい」などと暴言を吐き、園児を明かりのついていない教材室に入れたこともあったという。
 こども園は保護者に謝罪、当該園児宅を個別訪問し謝罪した。件の保育教諭2人は退職。園長は「園児や保護者に不快な思いやつらい思いをさせ、申し訳ない。今後は職員間の風通しを良くし、保護者に安心してもらうためのカメラを設置するなどして、再発を防止していく」と話したと新聞などは報じた。   2019年7月31日

 日本では子どもの虐待死が年間50件を超え、2017年度の虐待死は65人。(厚労省社会保障審議会の児童虐待に関する専門委員会)  死亡した子供の年齢は0歳児が28人と最も多い。加害者は実母が25人、実父が14人。また16ケースは「予期しない妊娠・計画しない妊娠」だった。
  2018年度、児童相談所での虐待相談対応件数は全国で前年度比2万6072件増の15万9850件と過去最悪、統計を取り始めた1990年度から28年連続の増加。

 児童虐待によって生じる社会的な経費や損失は、日本国内で少なくとも年間1兆6000億円にのぼるという試算がある(2012年度)

  栃木のこども園では「死んでしまいなさい」と子どもが叱られていたのに園長は数ヶ月も気付いていない。この園長は普段は園のどこにいたのか。子どもや保育の現場が、好きではない事が分かる。風通しや監視カメラの設置で済むわけがない。
 子どもや現場が好きである事と、教育行政が乖離したのが事の発端である。かつて校長や教育委員会の教育長、教育委員会事務局の指導主事にも教育免許状が必要であった。 教育委員の公選制廃止以降も、日本の教師はよく闘って公教育制度の民営化や権力の介入を防いできた。一方ベトナム反戦闘争でも大きな力を発揮して、学生たちを鼓舞して「頭は白いが胴体は真っ赤」と言わしめた。だが、教員組合の組織率の低下は如何ともし難く、教研活動(80年代半ばには、教研集会報告に生活指導が目立ちはじめると共に、教科実践報告が少なくなっていた)も低迷、組合の白くなった頭は教育行政と一体化してしまった。日教組が主任制反対闘争から降りたのは95年、職員会議での採決禁止が98年であった。こども園だけではない、あらゆる公教育機関が、権力と利殖の低次元な舞台と化した事の表れが栃木の事件である。直ちにやるべきは、監視体制の強化ではない、監視体制の行き着いた先が、神戸の小学校教師のいじめ事件である事を知らねばならない。

 教育行政がその姿勢を、教育と子どもに向きを変えなければ、事態は解決に向かわない。教育行政当局が、教育愛に燃える、こんなに絶望的なことがあるだろうか。
 厚労省の報告にあるように、児童虐待の最大の要因は「予期しない妊娠・計画しない妊娠」である。望まない・望まれない妊娠と犯罪率の関係には、スティーヴン・レヴィットの研究(邦訳『やばい経済学 東洋経済』)が既にある。
 
 妊娠中絶が合法のニューヨーク州、カリフォルニア州、ワシントン州、アラスカ州、ハワイ州では、他の州よりも早く犯罪が減り始めていた。凶悪犯罪で13%、殺人事件では23%減少していた
(1994~1997年)
   1973年テキサス州の「ロー対ウェイド」裁判以降、妊娠中絶合法化が全米へと広がり、一年間で75万人の女性が中絶を受け、さらに1980年には160万件まで中絶件数が増えた。その結果、子殺しの件数が劇的に減り、できちゃった結婚も減り、養子に出される子どもも減少。
 そして「ロー対ウェイド」裁判から20年ほど後の1990年代初め、犯罪発生件数自体が劇的に減少したのである。恵まれない環境で、幼少期、少年期を送った子どもたちが、犯罪へ走りがちな若者の犯罪が明らかに減った。

 幼児虐待が効果的に減少するには、「予期しない妊娠・計画しない妊娠」による親の犯罪を直接止めると共に、「予期しない妊娠・計画しない妊娠」によって生まれ十分な愛情の元で育てられなかった世代がなくなるのを待たねばならない。それは少なくとも20年はかかる。
 気の短い議員がマスコミ受けを狙って、行政当局に求める性急な対策は一見効果がありそうだが、当該議員の短期的人気を高める以外の効果はない。20 年以上たって漸く効果が見えてくる政策、それが社会政策である。

To every Japanese ・ Gandhi / 紛争を煽る日本への戒め

GANDHI SEVAGRAM ASHRAMから
 「・・・あなた方を敵視しているわけではありませんが、私はあなた方の中国に対する攻撃を激しく憎悪しています。あなた方は立派な高みから帝国の野望へと落ちてしまったのです。あなた方がその野望を実現することはできないでしょうし、あるいはアジアを分断した張本人となるかもしれません。
・・・私は、南アフリカからインドに帰国してから・・・日本人僧侶たちと親しく交流するようになりました。・・・その精進ぶり、堂々たる忍耐力、日々の礼拝への不屈の献身、愛想の良さ、種々の状況にも動じぬ姿、平和な内面を明瞭に物語る自然な微笑み、これらのために私ども皆から慕われたのです。・・・
 あなた方はその隣人の古典文芸を自らのものとしてきたではありませんか。互いの歴史、文化、および文学についてあなた方が持つ理解、それはあなた方を現在そうであるような敵同士ではなく、友人として結びつけるべきものなのです。
・・・私どもは帝国主義に抵抗せねばならぬ独自の立場にいます。私どもはあなた方の野望やナチズムに負けず劣らず帝国主義を嫌悪しています。私どもの抵抗は英国の人々を傷つけようとするものではありません。彼らを変えたいのです。私どもは丸腰で英国の支配に抗っています。・・・
 無慈悲な戦争には最終的な勝者がいない、ということが何故あなた方にはわからないのか不思議でなりません。・・・私が読んだものは全て、あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞くのだと語っています。それらの文章が全て誤っており、私があなた方の琴線に正しく触れられたらいいのにとどんなに祈っていることか! 何はともあれ、私には、人間たるもの必ずや応えてくれるだろうという不滅の信条があります。迫り来るインドでの運動を着想したのはこの信条がもたらす力に支えられてのことであり、あなた方にこの請願をしようと思い立ったのも、この信条に基づくものなのです。 あなたがたの友 ガンディーより」1942年7月26日    日本語訳の全文はここ←クリック
    Gandhiによる原文はここに←クリック

 ガンジーがこれを書いた年の情勢は、どうであったか。 


1942/03   Gandhi 「英国人がインドにいることが、日本のインド侵略を招く。 彼らが撤退すれば日本を引きつけるえさはなくなる」と述べ、英国の即刻撤退を強く要求。
1942/06/05 ミッドウェイ海戦。日本海軍は主力空母4隻、搭載全機263機を失うが、大本営はミッドウェイで日本海軍は敵の施設に大打撃を与えたと発表。
1942/12/31 ガダルカナル撤退(ガダルカナル戦は、日本守備隊への補給がろくに行われず、将兵は悲惨な餓死を遂げたことから餓島と呼ばれた)

 ガンジーも第一次大戦では、まんまと英国に引っ掛けられた。将来の独立を匂わせ、英国は大戦参加をもちかけたのである。ガンジーはこれに応じ、120万のインド兵と物資を投入した。
 にもかかわらず約束は反故。大英帝国はローラット法(1919年対インド法。令状なしの逮捕・裁判抜きの投獄権限をインド総督に与えたとアムリットサル大虐殺(英軍ダイヤー将軍指揮下のグルカ兵に非武装群衆への発砲を命じ、広場の出入り口に配置した機関銃で「弾がなくなるまで」撃ち続けた。死者1200名、負傷3600名。大量虐殺の首謀者ダイヤー将軍には、2万ポンド(現在の日本円で数億円)の寄付が集まった)を以てインドを力と法で弾圧した。
 第一次大戦にこと寄せて、同様の提案を英国は孫文に伝えたが、彼は見事にその意図を見破り論破している。←クリック   

 英国はドイツ植民地の奪取を目論み、インドの兵力と物資を騙し取ったのである。ガンジーは高い買い物をした。 (英国は、同時に中東を巡ってはアラブ人とユダヤ人を同時にペテンにかけ、現在に至る世界の混乱を招来させている。日本も日英同盟と英国の要請を口実に自ら大戦に参戦、中国や太平洋におけるドイツ権益を略取して図に乗った。)

 「私が読んだものは全て、あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞くのだと語っています」は些かも的外れではなかった。既にその剣は、自国民と敗走する自国兵にさえ向けられていたのである。皇軍中枢は、自らの特権を拡大、八紘一宇と言いながらアジアに国内に帝国主義的支配・弾圧の網を巡らせたのである。
 

 これは過去のことではない、2019年現在の日本の問題でもある。大戦に敗北した途端、米国の戦争体制に70年以上も嬉々として加担、それで日本は何を得たと言えるのか。

 「あなた方には請願を聞く耳がなく・・・」これは教委言うところの、教育困難校生徒たちの呟きでもある。あなたとは行政であり学校であり世間である。
 「教育困難校」とは何か。在校生を教育することの困難性を言うのか、確かなのは行政や学校が在校生の教育を放棄して「教育困難」にしていることである。本質は、特権階層の形成過程が被差別階層形成過程と一体という仕組みにある。青年を階層分離・隔離して、「教育困難」層から知識と自治を遮断、従順な態度だけを植え付けてきた。
 大英帝国が、ことある毎にインド人に自治は無理だと言い続けてきたことを思い起こしたい。

 「教育困難高」KH校一年生二人が、
授業中ベランダに寝そべっていたことがある。聞けば 
 「授業中に話してたら「殺すぞ」って言われて、ショックで・・・」と言う。普段の二人は授業中教室がうるさくなると、
 「静かにしなさいよ」とたしなめる側であった。であれば彼女たちが喋っていたら、何でお喋りしていたか聞かねばならない、それが教育の前提である。授業の中身そのもので煩くなることは大いにあるのだから。それが嫌なら教員免許は返上せねばなるまい。
 「指導重点校」を検索にかけると、進学指導重点校や進路指導重点校ばかりが出てくる。たった一つ、生徒指導重点校に関するものが出てくる。
ここ←クリック         
 暗澹たる気持ちになる。こんな取り組みをしていたら、教師は学習に集中できない。教頭を増員して生活指導は校長と教頭に任せる必要がある、教員は授業に専念する。それだけで、生徒たちとの対話的関係は形成される。教委は、校長と教頭の煩雑な事務を免除する体制をつくる。学校設備はSSH並に(東京では筑駒が指定されている、実験教育が貴種作りならsshは廃止しなければならない)。良い設備を、高い偏差値の特権にしてはならない。

 あおり運転を繰り返し「殺すぞ」と凄んだ自称経営者が捕まった。彼は貴種であるとの妄想に取り憑かれていたのか、その「優雅な」生活振りをSNSで「下々」に披露したが誰も敬意を払わない。彼にとって外車によるあおり運転は、高圧的に「下々」の服従を迫る手口である。彼は、外車に乗る「対話不能」者になっていた。
 何がそうさせたか、それは裁判の過程で明らかにしなければならない。彼のなかで善悪は、どう判断されたのか。正常な自由意志だったのか薬や病気で判断困難な状態だったのか。後者だとすれば責任は社会が負わねばならない。
 しかし彼は根っからの小心者だったと見える、覚醒剤がきれ外車が奪われた途端萎んでしまった。まるで戦前戦中の皇軍の如き振る舞いである。

 首相経験者が1979年衆議院選挙に初出馬演説で、開口一番支援者に対して「下々の皆さん」と発言した事実はよく知られている。そればかりではない、1983年の高知県議選の応援演説では「婦人に参政権を与えたのが最大の失敗」と言い放ち、その後も老人や病人に「死ね」と言わんばかりの発言を繰り返している。にもかかわらず当選し続けて、「ナチスに学べ」と人々の恐怖を煽る。彼も「対話困難」者或いは「対話不能」者である。彼は自分自身が憲法99条に拘束されていることにさえ留意しない。
 国家機関とマスメディアが結託、自らの犯罪行為は棚に上げたまま近隣諸国に向かい、退け、黙れ、無礼者、などの暴言を放っている。

 そればかりか、自らの傲慢な姿に酔う有様。まさに煽り運転中毒である。米国制武器片手に過去の亡霊を目覚めさせ、「聖戦」の旗に見惚れている。
 Gandhiの「あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞く」は、今や現政権とこの社会にも向けられている。

「出来」ても0点をとることの主体性 Ⅱ

偏差値は物語を作れない
 彼らが平然と0点をとったのは、自らを記号として扱うシステム=偏差値出現への拒絶ではなかったか。偏差値の教育への応用は始まったばかりであった。偏差値という外から持ち込まれた無生物が絶対性を帯びる事への違和感は、少年にも親たちにも強くあった。
 学級は家族とともに個々人の成長誌である。映画『二十四の瞳』は美しい映像でそれを見せている。それは文化であり、そこに優劣はない。文化は数値や文字から生まれるわけではないからである。
 我々はそのことを無文字社会から学んだのではないか。ただ嫌悪すべき遅れた社会として知っただけだったのか。だとすれば嫌悪すべきは、効率に囚われた我々自身である。

 偏差値に部活を加えて「文武両道」と名付ければ、あたかも全人格的な成長物語が出現したような錯覚=神話が生まれる。(封建官僚制の中で使われた言葉を濫用する薄っぺらさが、偏差値を招いたとも言える)
 部活的「文武両道」神話における「文」からは、理性が排除されている。「武」にはアマチュアスポーツの自主・平等・公平の精神が欠けている。それはまさしく組織や君主のために、命を鴻毛のごとく軽んじて「己を空しゅう」することに他ならない。つまり「死ぬこと」としての武士道が、「文武両道」神話には生きている。だから組織のために「私情」を抑える事を、親も教師も世間も讃えてしまう。そこには、語る主体としての少年/少女はない。

 学ぶことは生きることと同義でなければならない、結果としての数値で知れるものではない。過程としての物語を核にしている、それは親にとって子の体重や身長の記録が、成長の誌ではあり得ないのと同じである。
 学校が偏差値と「文武両道」神話を拠り所とする限り、学校自体が大量消費の海に溺れてしまうだろう。溺れても藁を掴んではならない。

  「ユーモレスク」に耳を傾ければ、A君たちと過ごした日々が鮮やかに蘇る。音楽の時間に聴いた覚えがある。滑稽で気紛れな気質は教室の笑いを誘い、それでいて悲しく寂しげな表情は
「ユーモレスク」の雰囲気に似ていると思うのだ
 「なぁ、オレの成績とお前の成績をたして2で割れば丁度「3」じゃないか。」周囲が爆笑するなか、Aくんは
 「オレがいるからお前がいて、お前がいるからオレがあるんだ、だよな。だから俺たちは親友だ。」と続けて僕の同意を促した。この時彼は、偏差値と相対評価の理不尽を正確に見抜き、それを僕に伝えていたのだと思う。
 「偏差値に囚われるなよ」と教師は誰も教えなかった。その仕組みの確からしさを言っただけだ。卒業が迫ったある日
 「たわし、俺たちのこと忘れないでくれよなぁ。・・・あぁ・・・お前やっぱり俺たちのこと忘れちゃうだろうな」とべそをかきそうになったのは、効率や偏差値が社会全体を覆い尽す事態に何ら反撃出来ない悲しみであり、親友が偏差値の彼方に吸い込まれる事への警告でもあった。

 
A君の懸念通り偏差値に溺れそうになったのは、進学した僕だった。息をすることも周りを見渡すことも苦しかった。「皇帝」や「ユーモレスク」でA君たちを思い浮かべて気休めした。
 高校が軒並み荒廃の頂点に達した時も、「管理主義」や「毅然たる指導」の言説に惑わされずにすんだのは、彼らの思い出のおかげである。二中を取り巻く歓楽街の子どもたちの荒廃や大学紛争時の青年の
閉塞極まる状況に比べれば、どんなに荒れた教室も僕には「花園」に見えた。

 A君が「頑張れ」ばクラスの平均点は上がるが、別の誰かが「1」を頂戴する羽目になる。

 悦ちゃん←クリック unlearn仕切れない生徒←クリック自分が頑張ってしまえば誰かが「ビリ」になることに、鋭い嫌悪感を持っていたのだと思える、際限のない競争に皆が疲弊することを回避したかったのだこれこそが理性である。
 彼らは抑制の効かない社会に対する孤独なドンキホーテだろうか。ソローではないか。 




敗戦の大政変で、思想犯や政治犯が新政権中枢で活躍出来なかったのは何故か

わたしは反対意見を、苦痛と悲しみをもって訴える
   「憲法改正を伴う大政変では、獄中にあった思想犯や追放された政治犯が新政権中枢で眼光鋭く汗を流す。それが健康な民主制であり、社会と個人が一度失った多様性・全体性を回復する不可欠の過程である。その一環として責任の追求と補償は曖昧さを許さず行われる筈であった。だが敗戦後、重監房帰りの中村利登治、追放の淵にあった島比呂志、追放された「不穏分子」吉川先生らの名が挙げられることはなかった。
 草津重監房扉と三千名の政治犯・思想犯監房の扉を国民自らの手で解錠出来なかったことを、我が歴史の痛恨事として記憶しようとの決意すら無い社会には、隔離と追放の構図が構造的に温存されている。
 三木清は、二度目の投獄を敗戦後の四十日まで生き、豊多摩刑務所で空しく絶命した。彼の死因は疥癬感染による急性腎臓炎。刑務所が疥癬囚人の寝具を消毒せず支給した為である。戸坂潤も敗戦の直前8月9日長野刑務所で疥癬のため死亡。これらは事故ではない。公務員による殺人である。他方で伝染する怖れのない病気には、大仰な消毒・予防措置を数十年に亘って施し、他方で疥癬の消毒を怠って死者を出した。両者に共通するのは、人間の尊厳に対する恐るべき無関心と無知である。隔離政策の愚は、三木清や戸坂潤の獄死とも無縁ではない
」  『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』 p294 地歴社刊
  殺人や窃盗に手を染めて勲章や爵位を得ていた権力者が、自主的に反省することはない、まして自らを罰し生まれ変わるわけはない。だから権力の根拠と構造は根底的に変えなければならない。例えば療養所所長には患者が任命されたり、医師に対する信任権が患者に与えられ、国立大学の学長に助手を選挙で選ぶなどと言うことは構造的にあり得ないのである。
 敗戦は日本の官僚制度を民主的に改革する絶好の機会であった。その機会は1947年にあった。何故失敗したか、そのときのことを都留重人が証言している。

都留重人 ・・・敗戦を予想しておった人も、たくさん日本にはいたんですね。ところがそういう人たちが結集して新しい日本の建設の仕事にあたるという動きが、どうもよわいという感じを敗戟なまぢかにひかえたあのころは考えていたんですね。それに対して、日本の官僚制度はひじょうに強敵で、戦争責任ということに対して無感覚で、また一般国民の側からもそれを糾弾するだけの大衆的な力は起こっていない。そういう事実があった。
 ところがいよいよ占領になりましてね、さらに考えてみると、やはり占領という事態は、旧支配体制の行政機構を利用するという態勢なんですね。したがって、そのあいだに逆に日本の官僚制度を強化したということですね。一つの転機は、昭和22年(1947)10月に法律がとおった新しい「国家公務員法」だと思うんです。
 これにはいろんな経緯がありまして、占領軍からもちろんとおせと言われたんですが、当時はわたしは経済安定本部にいて、占領軍からもち込んできて、とても扱いにくくてやりきれないようなことは、全部、安定本部へもち込まれちゃうんですよ。たとえば大蔵省とかその他の官庁というのは、旧官僚体制で固めていますからね。ですから集中排除というのがあったでしょう、これも理屈をつけて安定本部の管轄にしちゃったんです。国家公務員法もそうです。
 それでわたしらはなかにいて、まったくすじ違いじゃないかというので押し返すのにそうとう苦労した。結果的には扱いませんでしたが、そのかわりひじょうに粗略な扱われかたをして、議会ではほとんど審議らしい審議をせずにとおっちゃったんです。そのときに、中野重治氏が
「わたしは反対意見を、苦痛と悲しみをもって訴える」という名演説をうったんですが、その国家公務員法というものの扱われかたを見てみまして、わたしはやはりもう日本の官僚機構というものを新しくする契機は失われたと感じたんです。
 それからは、官僚機構はますます強化される一方で、現在にまでおよんでみるというと、まさに官僚の古手が内閣を押え、かつ国会においても官僚の古株が重要な地位を占めている。そして現在の行政機構にいる上級官僚というのは、天下りのところへいくか、あるいは自民党に属して立候補するか、という体制でね、日本の古くからの官僚機構につながる支配体制というのが、現在にかけてますます強化されているという感じですね。
『思想の科学』1967.10

 進駐軍は、日本の敗戦前から日本の官僚機構をそっくりそのまま使うつもりでいた。例えばハンセン病療養所における、監禁・虐待・殺人・非合法人体実験・患者財産の窃盗・などの責任をとった官僚も医者もいない。僅かに末端の職員が移動させられたに過ぎない。それも、冤罪が繰り返されるのも、贈収賄が絶えないのも、戦前の官僚制が天皇制と共に残ったためである。残っただけではない。一党支配が続く中で政権党と官僚制は分かち難く結託してしまった。どんなに優れた仕組みであっても、批判勢力と政権交代がなければ腐敗する。公務員制度「改革」の名の下に利権は多様化して強化され、公務員の「全体の奉仕者」としての職能は蹂躙される。他方権力者の犯罪隠蔽は、公然と行われるようになった。政権党に連なる勢力は拡大しその利権は際限なく膨張するばかりである。


 中野重治の反対演説は、このまま社会科資料集に載せる価値のあるものであるから、長いがここに引用する。
  中野重治君 ・・・ 先ず私は、私の反対意見を苦痛と悲しみとを以て訴えるものであります。それは、この法案がこういう姿、こういう不十分な討議手続において現われたことは、日本の民主化がいかに遅れておるか、我が民主革命の仕上げが、いかに前途程遠いか、日本の天皇制官僚組織がいかに險悪に且つ根深く残つておるかを、あからさまに示しておるからであります。この法案の根本性格が、日本從來の官僚組織をば、その主な特徴の殆んどすべてを残しつつ、民主化の名において國民に押付けるところにあるからであります。我々は日本の官僚組織の徹底的民主化を欲する。併しそれは中味を欲するのであつて、看板を欲するのではない。人民の要求するのは薬であつて、能書ではないのであります。即ち清盛に衣を着せるのが問題ではなくして、彼を武装解除するのが問題なのであります。(拍手)若し我々が清盛のために、鎧の上に衣を羽織る手傳いをし、かくて清盛は鎧を脱いだのであると國民に思い込ませるように万が一にも手傳うとすれば、我々は人民の信頼を裏切ることになる外はないと私は固く信じます。(拍手)
 我々は日本の官僚制度の徹底的民主化を欲する。この法案もそれを欲するかのごとくうわべには見えます。そこで仮にこの下書を書いた人々が心からそれを欲していたとしましよう。その際最も大事なことは、目的のために手段を誤まらぬということであります。若し手段を誤まるならば、主観的にはいかようにもあれ、恐るべき結果が生れるのであります。では正しい手段はどこに求められるか。それは日本歴史の中に求められる。日本歴史の具体的現実を踏まへること、これが正しい方法手段を見出すための最初の又最後の基準であります。然るにこの下書は全面的、且つ根本的に日本歴史の現実に背いておる。いうまでもなく我々が徹底的に民主化しようとするのは、日本の官吏制度である、数十年、数百年來すでに民主化された諸外國の官吏制度ではないのであります。では我が官吏制度はどこにその歴史的特徴を持つておるか。その一つは、例えば服從すること、秘密を守ることなどの服務規定の面であります。我が過去の天皇の官吏は、上役人に服從することにおいて人民に抵抗し、人民に公開せらるべきすべてを秘密として独占して、これを一握りの人々に公開し、分けても早耳システムを通してこれを賣捌きさへしたのであります。今この法案を見ますと、これらの服務規定に更に宣誓の規定を加えて、すべてこれを残そうとしておる。從つてその宣誓ほ國民に対する宣誓ではなくて、直属上官乃至最高裁判所長に対するものであります。成る委員の言葉を借りれば、参謀総長、陸軍大臣、教育総監の軍事コンビにさも似た三人委会を更にその頭に戴き、この全ピラミツドによつて人民の利益を抑えようとするものであります。もう一つ更に目を止めて見なければならんのは、労働者階級、農民、この農民というのは、日本の天皇制官僚組織が日本の農民の半農奴的状態に対應していたために、私は特に言い及びたいのでありますが、労働者階級、農民、労働組合、及び民主的政党に対する過去の日本官僚機構の歴史的関係であります。これを我々は見なければならない。併しながらこのことは、我が勤労階級及び議員諸君がその体験を通してよく御存じのことだろうと思います。ただ私は次のことを強調したいと思います。それは準備及び遂行の全戰争期間を通じて、我が官僚組織が完全に軍閥と結託して我が國民に言おうようなき犠牲を強いたという事実、あまつさへ戰後引続きこれを強いておる事実であります。而も同時に一方連合諾國の民主主義的占領政策の助けをも得つつ、我が労働組合及び民主的諾政党が、苦痛に満ちた長い沈黙の後再びその活動を開始したことであります。労働組合及び民主的政党の活動開始は、世界民主主義の方向を日本歴史の現実の上に実現しようとするものである。いわば外からの連合諸國の民主的占領政策、これに内から應ずるところの民主的諸政党及び労働組合の活動、これを措いてどこに日本官僚組織、日本官吏制度の民主化の基本線があるか。(拍手)又あり得るか。労働組合、政党及び議会活動を我々が重んずるのはそのためであります。然るに今この法案は、その全部に亘つて民主的諸政党の官吏制度への影響を閉め出し、苦痛と犠牲とを拂つて得たところの給與その他に関する労働組合の既得権を抹殺しようとして力を集めておるのであります。(拍手)私はこれが日本の歴史に対する叛逆でないかを恐れます。議会制度の前途に忌わしい影を投げるものでないかを恐れます。國民の公僕の名において、この法案は我が全公務員を特定の入の群の奴僕としようとするのではないかを恐れるのであります。私は曾ての警察官のあのサーベルが、いわば民主的な現在の棒に比べてよかつたということ、現在の棒は人を打つのに彼のサーベルよりも現実に力強いということをこの際思い起すものであります。先進民主主義諸國の姿を学ばねばならんということは、これは勿論であります。併しながら我が民主的諸政党と労働組合は、実のところ、まだ幼な兒であります。我々はこれを保護しなければならない。冬を前にしてこれに重ね着をさせねばならんのであります。然るに、冬の後には春が來るであろう。春が來たならば綿入れを脱がして袷に着せかへねばなるまいということを時間的に逆轉させて、今日へ引戻すことによつて、それを目の前の幼な兒に実施しようとする。こういう法案には、我々は農民をも含むところの全勤労君のすべての組織、及びすべての民主的諾政党の諸君と共に、徹底的に反対せざるを得ないのであります。(拍手)これは第一回の國会でありまして、第一回國会の決定は、第二回以後の無数の國会、及び日本人民の將來の全政治生活の運命に非常に大きい影響を及ぼす点において、極めて責任が重大であります。私はこの法案に日本歴史の上に立って反対するものであります。私の反対意見に耳を傾けて下すったことを感謝します。
(拍手)  全文はここ←クリック

  留重人は八高在籍中、中国侵略に抗議のストライキで除籍され米国留学。1940年Havard大学講師となるが、日本の敗戦過程を知るため日米交換船で帰国。片山内閣経済安定本部で進駐軍との折衝にあたった。初めての『経済白書』を執筆している。
 

戦争指導選良たちの、幼稚で狂信的な現実感覚。   それは「戦争紙芝居」から生まれている

最新式の「戦争紙芝居」、在外公館での天皇誕生日
   承前←クリック ノモンハン事件の師団長小松原中将は辛うじて残ったテントの中で 
 「もう、こうなればどうしょうもないな。しかし日本の兵隊さんは強いそうだからなんとかやってくれるだろう」と頭を抱えていた。戦争のプロである筈の陸軍大学出選良がどうして「日本の兵隊さんは強いそうだからなんとかやってくれるだろう」と幼稚な考えに落ちたのか。彼が指揮する兵隊の装備は16世紀頃の装備しかない、それで勝つ事が出来ると本当に考えていたのか。

 戦前戦中の小学校
学芸会は、戦争紙芝居であった。そこで理屈抜きの「日本の兵隊さんは絶対に強い」という了見が叩き込まれた。
 第1次世界大戦時のヨーロッパを視察すれば、近代戦の残忍なる殺戮や「戦争の害毒、軍備の危険、軍国主義の亡国」を
、水野広徳大佐のように実感する。(水野は、以後「我国は列国に率先して軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきである。これが日本の生きる最も安全策」と言い切り、1923年の「新国防方針」に対しては、日本の敗北以外にないと確信していた) 批判的思考の余地のない硬直した空間では、戦争紙芝居の幼稚な認識は国民的信仰となったのである
 戦争紙芝居教育を経て中学校、士官学校、陸軍大学を「優秀」な成績で駆け上り、幼稚な思想で2000万アジア民衆を道連れにしたのか。


 牧野伸顕の『回顧録』に、昭和初年英国の女流評論家と会食したときの会話がある。女史は戦争紙芝居の話を聞いて
津々浦々の小学校でそういう奇妙な教育がおこなわれている。そういうなかから職業軍人が出てきて、もし政権をとれば必ず戦争を仕掛け、日本を亡ぼすでしょう」と忠告したと書かれている。
 1920年改造社の招待で来日したバートランド・ラッセルも、小学校と中学校を見学。兵士養成所でしかない。これほど危険な学校をみたことがない」と書き残している。←クリック  

 日本の教師は世界で最も優秀であるとの言説は、右にも左にも官にも民にも古くからあった。かつては一学級70 名を越える学童生徒を抱えながら、数多くの行事・事務をこなし国際的にも高い学力を維持していた。今や日祭日なしに勤務して過労死してストもしない。この「優秀性」に逃げ込んで、校長室はあたかも小松原師団長の天幕のようになっている。
 負けることを禁じられた兵士は、時代遅れの装備と届かぬ補給で死体の山を築きながら突撃し続けた。それが紙芝居並みの「日本の兵隊さんは絶対に強い」信仰を狂信にまで高め、「いつか神風が吹く、現人神をいただく日本が負けるはずがない」と非合理な思考を伴い、アジア数千万、日本数百万人の犠牲者を出したのである。
 元々日清戦争は、清国軍閥の一部を降伏させただけだし、日露も局地戦に勝ったに過ぎない。中国やロシアに勝ったとは言えない、モスクワや北京を占領していない。にもかかわらず有頂天になり、現実的な危機感を失ったのである。日清戦争を少し疑いさえすれば、紙芝居並みの「日本の兵隊さんは絶対に強い」信仰は生まれなかった。

  少しずつ負ける事は、諦める事とともに悪くないどころか必要な事である、有頂天を戒め健全に自己批判出来るからである。平凡とはそうして形成される価値である。


記 いまも在外公館では「天長節」と称する天皇誕生日の招待会が行われ、現地の名士や現地駐在商社員が正装して参列する。そこで大使は、天皇夫妻の写真を前に日本の繁栄は天皇のおかげと演説し、商社支店長がバンザイ三唱の音頭をとる。感激した商社員=自称現代のサムライたちは、自宅に天皇一家団欒の写真を掲げるようになるという。初め恥ずかしげにやがて奢り昂ぶり、新「戦争紙芝居」は続いている。
 疑う態度が欠けている、危うい。

校長が「私は教委から授業を禁じられています」と胸を張ったのは、何故か

ペスタロッチは政府から危険人物視された
 校長に、「教員の授業を評価するなら、評価するあなたの授業を見せてくれ」と職員会議で迫った事がある。校長は、「授業には見本というものはありません、それぞれ教師の教育観に基づいて行うもの」と先ず逃げた。「では我々の授業の何を見るのか、評価の基準がなければ評価は成り立たない。それが評価論の前提ではないか」と切り返せば
 「我々校長は、教委から授業を禁じられています」と胸を張った。
 別の高校である女子生徒が、校長に対話と授業を求めた。が逃げて校長室に内側から鍵をかけて籠もってしまった。そのときの顛末は、此所←クリックにある
 授業を切望して、教務とやり合った校長を僕は一人しか知らない。彼は一週間に8時間の数学を受け持ったが、それでも少なそうな顔をした。登校時にはいつも火ばさみとゴミ袋を持って歩く姿に、ぺスタロッチを想った。

 何故校長が授業から逃げるのかは、比較的簡単に分かる。教員養成制度も教員採用試験も管理職試験も機能していないからである。彼が学ぶことも教えることも好きではなく、教職に最も相応しくない事をそれらが見抜けなかったからである。
 分からないのは、「授業を禁じられています」と胸を張る神経であった。恥ずかしげに言うのならまだ分かるが、胸を張るのには驚いた。悪夢を見るような気がした。

 宇都宮徳馬が好んだ話に「石山デン隊長」がある。石山とは「塹壕」で、デンとは「出ん(出ない)」である。日露戦争「二百三高地」攻防戦の指揮官である。難攻不落を誇るロシア軍要塞への死の突撃命令を絶叫しながら、自らは塹壕から一歩も出ない連隊長。そのわけを、彼はこう言ったのだ
 「自分は天皇陛下から作戦を命じられた大切な体だ」
 だから兵士たちは、彼を塹壕から出ない指揮官という皮肉を込めて「石山デン隊長」と呼んだ。

 石山デンが目指す真っ当な将校なら、命令がどのように伝わりどのように敵に打撃を与えているか最前線で具に見なければならない。その様子によって作戦は変えねばならぬからだ。彼には勝つ覚悟もない。
 件の校長が「教委から授業を禁じられています」と胸を張ったのは、「お前たち平教員と違って、私はお上からの命令を伝える大切な人間だぞ」と言うつもりであったのだと今になって思う。彼は学校における「石山デン」であり、校長室に籠もる。彼にとって大切なのは、身分であり、生徒や授業に対する愛着は何処にもない。学校や教育行政がどうあるべきかを考察する気はさらさらない。

 日露戦争は大国ロシアに勝った事だけが語られるが、兵隊は軍医総監のために辛酸を嘗めた。戦死者4万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気死者は2万 7800余名にのぼった。日本軍の行軍はまるで幽霊の行列のように見えたという。それが白米食による栄養障害であることはロシア軍も知っていた。戦死者数には満足に歩けない脚気患者が相当大量に含まれていたと考えねばならない。公式記録では
陸軍の脚気患者は25万人。麦飯にした海軍の脚気患者は105名。
 学閥の面目のために白米食を続けた頑迷な軍医とは森林太郎である。鴎外はこの膨大な死者について何も書いていない。鴎外とともに乃木希典の無能振りも目立った。兵が病気を抱えながら突撃して死んでゆくのに、無能な指揮官たちは勲章の数を数えていた。案の定、戦争後将軍たちは爵位の大盤振る舞いを求めた。(この時、陸軍は少将でさえ全員男爵になった。だから戦史は歴史家でなく軍人が書くという杜撰さ)
  「我々校長は、教委から授業を禁じられています」と胸を張って授業から逃げるのは、民を侮る明治以来の伝統だと分かる。こんな連中が軍隊を持つのは危険極まりない。自分の役割が消えたとき人は狂信的になるからである。民の死者だけが増える。まさしく悪夢である。

 1939年のノモンハン事件は日露戦争後40年経っているが、関東軍1万5000名が壊滅する事態になった時ですら、師団長の小松原中将は
 「もう、こうなればどうしょうもないな。しかし日本の兵隊さんは強いそうだからなんとかやってくれるだろう」とテントの中で頭を抱えていたと、司馬遼太郎は『戦争と国土』(文春文庫)に書いている。相も変わらず、石山デンである。
 2019年になった。教師が過労死しても為す術なく校長室に籠もって頭を抱える管理職の姿が同時に浮かぶ。これこそ紛れもない日本の伝統であり、学校に校長は要らないのである。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...