ハンセン病療養所菊池恵楓園に収容されセファランチンを投与されたため、症状が悪化、眉毛は抜け落ち、目も見えなくなった退所者に関する検証会議聞き取りがおこなわれた。
セファランチンは結核の薬として戦後使われた。若くて軽症の人に投薬され、それによって症状を悪くし、全盲になったり、手足を悪くしたり、亡くなった人さえいる。この薬については学会に報告されたが、失敗例はすべて捨てられ、少し症状が良くなった例や病状に変化が見られないものだけ残された。そのため、学会論文上、犠牲者報告はない。その後、セファランチンはいつの間にか使われなくなり、薬害が明らかにされていない。 ハンセン病問題に関する事実検証調査事業 第4回ハンセン病検証会議 2002年12月9日和泉眞蔵検証会議委員証言 註 和泉眞蔵 国立ハンセン病療養所や京都大学医学部皮膚病特別研究施設で、ハンセン病の診療や教育・研究に従事。国賠訴訟では青松園医長でありながら原告側証人として証言。又医療過誤事件でも原告患者証人として証言、一貫して患者の立場から医療を担ってきた。
ハンセン病者たちは、セファランチンをナオランチンと呼んでいた。 ハンセン病療養所に長い間カルテが無かった。カルテが要らなかったのではなく、都合の悪いデータとして有っては困るものでもあったという驚天動地の構図がここに見える。病気の研究治療に注がれるべき情熱・時間・費用が、愚かに私的に浪費されたのである
救癩の父と賞賛され文化勲章を受けた光田健輔の、医学者としての見識の程を示す遣り取りの記録がある。
(光田) 「あなた(小笠原登)は、ライは全治すると言っているが、それは間違いだ。全治は不可能です」
(小笠原) 「では一体先生のおっしゃる全治とは、いかなる規範であるのか、まずそれを承りたい」
(光田)「それは、患者の躰の中にライ菌が全くなくなり、かつ再発しないことである」
(小笠原)「それはおかしい。およそ伝染病にして・・・全治した後の体内に菌が完全になくなることはない。いったんライに罹ったら、全治していても、終身患者扱いをすることは誤りである。先生のいわれるような意味で全治を考えたのでは、世の中に全治する病気は一つもないことになりましょう。それとも、何か全治するものが、先生のいわゆる全治する病気がありますか」
(光田)「チブスがそうです」
(小笠原)「チブスは全治しても、なお患者の躰の中にチブス菌のあることは、内外の文献にも明らかですが」
(光田)「イヤ、私はライの方は専門に研究したけれども、チブスの方は私の専門外なので、あまり研究していないから 詳しいことは知りません 田中文雄 「京都大学ライ治療所創設者小笠原登博士の近況」『多磨』1967年12月号
原理主義の恐ろしさは、その幼児性の無知にある。「それは間違いだ」と胸を張っておいて、動かぬ証拠を突きつけられると「専門外なので」と居直り、相手を「間違い」と決めつけたことは決して取り消さない。こうした無知に基づく素早い断定を、頼もしさと見誤ることがある。近代科学の専門家を自認する者が好んで陥った隘路である。自分と同類同質の無知を振りかざす者の過ちに気付くのは難しく、親しみと力強ささえ感じてしまう。無知で傲慢な断定ほどカリスマ性を帯びる所以である。理性的な熟考を、無能な優柔不断と見なす傾向と表裏一体となって機能する。医師光田健輔を、専門家として原理主義者に育て上げた責任が渋沢栄一にはある。
この構図はコロナ禍の現在、マスメディアを通してむしろ拡大している。
賢者は、自分がつねに愚者に成り果てる寸前であることを肝に銘じている。・・・これに対して愚者は、自分を疑うことをしない。・・・そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。・・・愚者はけっして休むことがない。オルテガ
追記 光田健輔と論争した小笠原医師の自信の根底には、分厚いカルテがある。当時ハンセン病医はカルテを録っていない。治療への関心の低さを象徴している。京大「特研」(皮膚科特別研究室)医師小笠原博士のカルテは詳細かつ膨大であった。
療養所以外でのハンセン病「治療」は、表向きには認められなかった。だが小笠原は、早朝から夜中まで毎日50名前後もの患者を素手で診察、その手の温もりが患者を「死んでもいい」とまで感動させている。
彼の患者は、入院することも仕事を続けながら通院する事もできた。癩予防法が医師に義務付けたハンセン病患者の届出(即ち療養所隔離)を避けるためカルテの病名欄を空白にしたり、診断書が必要なら「多発性神経炎」とだけ記入。人目を避けて早朝夕方に通院する患者のために診療時間を大巾に延長した。患者の負担軽減のために、自らの研究費や給与も流用している。博士の着衣は、学生時代からの黒い詰襟を繕ったものであったという。彼が治療した患者は3000名にのぼる。
光田と渋沢の救癩事業が慈善に依存する中で、国民皆保険制度の必要性も説いた。南画や漢詩を嗜む浄土真宗の僧侶でもあった。業界人から最も遠い教養豊かな「人」であった。
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