「授業をうける権利」と勤評

 「授業をうける権利」とは何か。学校に行くことか、教室に入ることか、よく考えると段々曖昧になる。だが権利の原則に立ち戻って考えてみる必要がある。例えば、宗教を信じる権利。これは特定の宗派あるいは宗教一般を信じる自由を意味するだろうか。

 そうではない、信じないことによっていかなる不利益も被


らない事である。この原則があって初めて特定の宗教を自由に信じることが出来る。だから戦前の日本に信仰の自由はなかった。ある宗教を信じれば、あからさまな弾圧が加えられたからである。アメリカには信仰の自由はない。無宗教は「アカ」と見做され入国さえ危いからだ。

 同じように「授業をうける権利」を考えてみる。それは「授業をうける」または「授業を受けない」ことによって不利益を被らない事である。

 具体的に言おう。僕が小学校六年生の時、クラスは能力別に4つに分断された、一番できるグループは廊下側、二番目が窓側、三番目は廊下側の次、おしまいは窓側と三番目の間。一目瞭然だった、60年が過ぎた今なお「あれは嫌だったね」と同級生たちは口々に言う。この並び方で行われた授業は、毎日業者テストの繰り返し。僕は次第に不満を募らせ、三学期の末怒りを爆発させた。担任が楽しく「お別れ会」をやろうと言った。このクラスは6 年間クラス替えがなくそのうち5 年間がこの担任で、僕は転校生だから2年半だけこのクラスだった。学級委員だった僕は「なぁ、いいだろう、いいだろう」を笑顔で繰り返す担任に、「嫌です」とかみついた。賑やかに、あれをやろう、誰とやろうと盛り上がっていた教室は、突然シーンとなった。

 担任は「何が不満なんだ、みんなが賛成しているのに。このクラスが詰まらなかったと言うのか」

  僕はこの後チャイムが鳴るまでの30分以上を担任と喧嘩した。「みんなが賛成なら僕は出ません」と僕は最後に言って教室を出た。すぐに野球仲間が追いかけてきて「ごめんな、俺も反対だったんだ」「担任が恐くて何も言えなくなっちゃった」・・・僕はリーダーシップもあり、成績もよく担任のお気に入りだったからみんな驚いた。頻繁に行われた業者テストでは毎回千人中の順位が添削とともに記入されいた。僕は一桁の順位だったから、初め不満はなかった。クラスの空気が暗くなったことに気づいたのは二学期になってからだ。

 母は呼び出されて「こんな協調性のない子は初めてだ」とだいぶ小言を食った。僕は祖父母や大叔母や両親から、納得いかない時にははっきり意見を言いなさいと言われ続け実行してきた。

 この顛末が「勤評」だったのかと読めてきたのは、高校生になって「教育問題」を文化祭でとりあげてからだ。

 勤評に怯えた担任によってクラスが「出来・不出来」で分断されたのが、不利益にあたる。勿論僕は一学期に、「こんな不快な席順はやめてください」と言うべきであった。

 教師の日常に煩雑な競争を持ち込むのは、政策vision のない政治屋とって手軽に票を組織する手段である。

 例えば、若者の自殺をなくすことを真剣に考えるなら、少なくとも25年を見据えた社会政策が必要になる。 長く費用の嵩む社会政策を訴えていては、議員4年の任期は瞬く間にすぎてしまう。

 誰もがその門を潜り多かれ影響を受ける学校教師の「資質」や「日教組」の問題と罵れば、「単純で分かり易い」説明を希求する有権者の賛同は得やすい。予算の裏付けも僅かで済む。軍事予算や大規模公共投資に手を付けないで済む。マスメディアへの露出も増える。こうして彼らもまた教育を政治的に取り上げることで、ほぼ永遠に「授業をうける権利」阻害し続けるのである。


  マッカーシーが「赤狩り」にのめり込みアメリカの戦後を混乱のどん底に落としたのも、「単純で分かり易い説明」が有権者に受けたからである。その痛手からアメリカは未だに立ち直ってはいない。

  勤評のような政策を分析する時、我々は大人の世界である経済情勢や政治情勢の分析を好む。しかし僕は、当時の子どもや生徒の記憶を探る研究が無いことを悲しむ。何故ならそれなしに我々は 当事者から見た「授業をうける権利」にたどり着けないからである。

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