「やぶ」の極意

  私はやぶ医者の極意とか言っていますが、名医ばっかりのほうがいいのではないか、と考えることも無いわけではありませんでした。しかし、そのように迷いながら生きているうちに、「アルコール中毒」というのを専門にするようになりました。 当時、専門の病棟が日本で初めて久里浜に建ったのですが、アルコール中毒はみんなから嫌われていました。医者からも嫌われていましたので誰も行き手がありませんでした。事情があって私がそこへ行くことになったのですが、私も嫌でしたので、教授に「アル中の勉強はしてこなかったし、今まで診てきた患者も治った試しが無い」と言いました。 教授は「大丈夫だ、アル中は俺にも治せない、治せないのは誰でも知っていることだから安心していい」というのです。それで仕方なしにそこへ行って「教授でも治せない病気なのだから私はもう何もしなくていい、何をやったって駄目なのなら、逃がしてやるのが一番いい」という事になりました。 
   当時精神病院の患者さんたちは、皆鍵をかけて閉じ込めることになっていたのですが、「この病院は逃げられるよ。逃げていいよ。夜だって開いてるよ」と患者さんに教えました。 ところが逃げないので「お金を持たせないから逃げないんだろう」というのでお金まで持たせました。当時の病院で、お金まで持たせたのは私のところが初めてでした。それでも患者は逃げなかったのです。いつまでも居られても困るので、3ヶ月以上は入院させないということにし、3ヶ月過ぎるとみんな出ていってもらうことにしました。すると、不思議なことに3ヶ月きちんと逃げ出さず居る人がほとんどでした。 なかには、他の病院に5個所も入院させられ、5個所とも窓から退院したという人が、「生まれて初めて玄関から退院いたします」と挨拶して帰ったりしました。 
  「なぜ、逃げなかったのか」と聞くと、「こんな良い病院は日本でここしかない。ここを逃げたら、また鍵のかかる病院にぶちこまれる。また入院するなら、ここがいいから逃げなかった。3ヶ月我慢すればいいのですから。」と言いました。 また、東大教授に診てもらっても酒が止まらず私たちのところで治った人もいました。 
  そこで理由を聞いてみると、「東大教授は偉い人なので、この人の言うとおりにすれば治ると思ったのだけれど、治らなかった。ここに来て初めてわかった。自分がしっかりしなくてはならない。先生の顔を見ているうちにそれがわかりました」と言いました。よっぽど私が頼りなく見えたのでしょう。そのとき、「患者が自分にあった医者を選ぶべきなのだ。」と私は思いました。患者によっては、東大教授が良い場合もあり、私が良い場合もあるのです。 教育も同じだと思います。病気でも一人一人診察して、一人一人にあった薬を処方をするように、それぞれの人にあった教育をすべきなのに、同じ教育を全員にして、平均をとり、それにあわない人がいると尻を叩くばかりだったのではないでしょうか。今の教育はずっとそれを推し進めて来て、今でもまだ続いています。・・・
                              なだ いなだ 講演「この頃 考えること」鎌倉私立幼稚園協会、父母の会連合会

  「・・・偉い人なので、この人の言うとおりにすれば治ると思ったのだけれど、治らなかった。ここに来て初めてわかった。自分がしっかりしなくてはならない。先生の顔を見ているうちにそれがわかりました」という患者の指摘は、この上なく適確である。指導は自覚に及ばないのである。
 「自分がしっかりしなくてはならない」ことを自ら発見できるように導くことは、すこぶる付の難行である。意図して頼りなさを演じるのも難しい。敗戦直後の教師と生徒の関係は、これしかやりようがなかった。未曾有の困難の中にも、何かしら得るものはあるのだ。だがそれに気づくのはずっと後になってからなのである。

 教研集会は教師の自主的研究組織としては、世界的にも珍しい。ほかにも官民様々な研究・研修団体が、勢いは衰えてはいるが存在している。ここでは教師が教室で実践したことを、自ら発表して参加者からの批判を仰ぎ討議する。ここに難点がある。どうしても実践と言うものは「私が・・・した」という指導の文脈で語られる。僕も教研に係わって来たが、「私が」と「指導」ばかりが強調される場面に出くわして、何度も不快を感じた。全国教研での発表を「出世」の手がかりにしたい教員は、教育や生徒を手段として「偉く」なりたがっているのが丸見えで、見苦しかった。
 「私がやぶだから、気付いたらこうなっていた」という実践は、希というより皆無であった。そういう面白い教師は、そもそも研究会などに出たがらない。教師が、ホンクラで控え目だからこそ「自分がしっかりしなくてはならない」と生徒も自覚する。 だから、なだいなだは全国教研全体集会で、自らの「やぶ」体験を披露して教師たちに反省を求めたことがある。僕が『普通の学級でいいじゃないか』(地歴社)を書いたのも、実に捻くれた感情からだった。

  「患者が自分にあった医者を選ぶ」ことが出来なければならないように、生徒が自分にあった学校や担任を選べるものでありたい。それがどうしても無理というなら、せめて担任は廃止したい。
 そうでなければ、みてくれの公平のために「同じ教育を全員にして、平均をとり、それにあわない人がいると尻を叩く」ことが指導になる。そのうち、教師自身が「同じ顔をして、多数決や当局の見解に従順な」人間になってしまうのである。
  大切なのは「自分にあった」授業や担任を選ぶことであり、「自分の偏差値にあった」授業や担任ではない。ましてや「収入や身分にあった」ものであってはならない。そのための学校の在り方を根本的に考えねばならない。学校選択制や偏差値は何も選ばせない。そこには少年の自覚がないからである。
 生徒自治会または学生組合が運営に係わる学校だけが、それを可能にする。無数の「四谷二中」をつくることも、選別を進めるより余程いい。新制中高校の荒々しくアナーキーな精神が、生かされねばならないと思う。だがこんなに難しいことはないとも思う。

担任ボイコット顛末

 高校二年の時、学級で担任を忌避したことがある。教科担任としては認めるが、学級担任としての教室入りを認めなかったのである。
  何が切っ掛けだったか、修学旅行の班分け原案を担任が勝手に作ってしまったことだったと思う。
  「クラス全体が仲良くなれるように、編成した」という説明が僕らを苛立たせた。中学生扱いだと反発したのである。しかし、担任も頑固に変更を認めない。クラスが居残って、何度も話し合った結論が担任ボイコットであった。誰が言い出したのか覚えがない。
  だが、それ以前に感情的或いは思想的反発という下地があった。このクラスは社研部員やシンパが集められていた。隔離だと直感した。

 当時政治活動する上級生は、いずれも成績は良く魅力的な人格者であった。勧誘して引き摺り込むのではなく、知的な雰囲気が自然に仲間や下級生を引き寄せていた。社研の読書会では、卒業生をチューターに招いて『ルイボナパルトのブリューメル十八日』や『フランスにおける階級闘争』などを読んだ。商社や通信社などに勤める卒業生を招いての講話は、「世界」や「朝日ジャーナル」の論文より新しく具体的で生々しく興味深かった。
 『空想から科学へ』を、自然科学の本と勘違いして読み始めていた理科実験少年の僕も、すっかり「激動する社会」に惹きつけられた。新植民地主義に翻弄される第三世界の現実が身近に感じられ、ベトナム反戦の潮流が校内にも出来た。学校も対策に手を焼いていたに違いないと思う。僕らは修学旅行中にも、旅館の広間でベトナム反戦集会を開いて、担任たちを怒らせた。

 担任は元特高官僚という噂があって、デモに参加する生徒たちを木陰や歩道橋から写真に撮っていた。しかし教科教師としては、なかなかであったと思う。
 東京オリンピックの前年、文部省は高校生の政治活動を制限する通達を出している。それが彼らを元気づけ、昔の使命感に再び火を付けたのだろうか。自治省が総務省と名前を変え旧内務省の復活を画策し始めたのもこの頃である。煉瓦造りの警視庁の裏に近代的ビルが建てられ大型電算機が据え付けられている。
 マル民やマル共という言葉が多くの高校の教職員間で飛び交っていた。当時東京にも辛うじて残っていた高校生徒会連絡会議から抜ける高校も続出した。
 やり口は、兵糧攻めであった。生徒会費を学校が授業料と一緒に集めているため、職員会議がそれを押さえてしまえば、連絡会議加盟費が納入出来なくなる。活動資金のこうした安易な集め方は、学校との関係が良好な間は便利だが、致命的弱点にもなる。高校新聞の廃刊が相次いだのもこの時期である。

 しかし、僕らの学年の隔離政策は脆くも破綻した。他のクラスに、急進的生徒の政治的影響を及ぼさないという意図そのものが、多くの生徒たちに読み取られ疑われたのである。忽ちどのクラスにも、活動的生徒が増えた。同じ時期に、活動的メンバーが爆発的に増える高校が幾つもあり、卒業生答辞で「ベトナム反戦」を訴えるところもあった。面白いものである、文部官僚の下手な政策がかえって高校生を怒らせ、覚醒させたのである。この世代が78年の学生運動爆発の中心となった。  

  僕は教師になってから、マル民やマル共という符牒を職員会議や組合の職場会で聞くことになり、緊張した。だが、内側で聞くと、なんとも幼稚なレッテル貼りでしかなかった。僕の職場では、間もなくこの符牒は力を失い消えた。
  しかし「先生たまには生徒会室に寄ってくださいよ」と生徒会役員に呼び掛けられたときは、気が抜けてしまった。
  「教師に聞かれたくないことを話し合うのが、生徒会だろう。教員立ち入り禁止と書いておけ」と言っても、通じないのである。生徒部生徒会係教員の部屋かと、思われるような生徒会室のある高校もあった。

「蝶々夫人」は幕末の「史上最大の作戦」

 イギリスの外交官、アーネスト・サトウは、薩摩や長州をけしかけて、徳川との内戦へ導こうとしていた。武器が売れるからである。彼以外にも日本を内戦へと狙う外国人武器商がひしめいていた。
 幕末に、明確な方針として武力倒幕を考えていた者はない。サトウは、平和的な体制移行を進めていた西郷隆盛を軍事クーデターへと引き摺り込んでいる。このことは、関良基著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)に詳しい。
 サトウの盟友トーマス・グラバーは、アヘン戦争で大儲けしたジャーディン・マセソン商会が日本へ送り込んだ代理人。1861年グラバー商会を設立、武器取引を始める。同時にグラバーのもとに坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎たちが出入りした。
 1863年にはグラバーの手配で、長州藩が井上馨や伊藤博文らをイギリスへ送り出している。渡航はジャーディン・マセソン商会の船便を使った。
 「蝶々夫人」では館の主は米軍人ピンカートンになっている。今我々は、長崎のグラバー邸を国境を越えた恋愛の舞台としては知ってはいるが、幕末日本に武力衝突を企てた武器商の陰謀画策拠点としては、あまり知らないで済ましている。

  第二次大戦が終わったとき、英国でもフランスでも、勝利の第一貢献は1000万人の犠牲を出して戦ったソビエトにありとする者が8割以上を占めていた。アメリカがナチスに資本を投下して巨利をえて、参戦を躊躇っていることを英仏市民は身につまされてよく知っていた。
 それが、一転アメリカのお陰に変わったのは、『地上最大の作戦』の上映以来である。上映自体が、大作戦であった。この映画のお陰でアメリカは、最初からナチスと戦った国としてimageされるようになった。
  歴史偽造は、通常「ガス室はなかった」に発する「歴史修正主義」と観念されているが、僕はそうではないと思う。もっと遡る必要がある。
                                                                                
 甘美な物語には、隠したくなる醜悪な事実がてんこ盛りで潜んでいる。僕は「蝶々夫人」を悲しい愛の物語だとは少しも思わない。白人による、民族蔑視の独りよがりに満ちている。長崎の坂道でおばさん達が感涙に咽ぶのを、厚化粧の「植民地根性」と苦々しく呼びたい。
 沖縄の苦難と現実を覆い隠して、米軍が撤退すれば沖縄の繁栄はないなどと言う神経は、厚化粧の「植民地根性」の延長上にある。

ベトナム戦争で、アメリカは必ず負ける

米軍のクリスマス北爆で破壊されたハノイの病院
  1966年、ハンセン病療養所多磨全生園患者自治会は、米軍によるベトナムのハンセン病療養所爆撃に対して、抗議打電している。 爆撃があったのは  1965年6月16日 ハノイ政府発表によれば、米機がハンセン病療養所を爆撃、患者112人が死傷。8月には病院・結核療養所・師範学校などに無差別攻撃を加えた。また爆撃時に毒ガスも使用していた。
   全生園患者自治会の抗議打電が、爆撃からかなり時間が経っているのは、事件報道を「流言飛語」扱いする米国の情報攪乱の中で事実確認に手間取ったためである。
 この爆撃を確かめたのは毎日新聞の大森実記者であった。
  「米軍が北ベトナム・クインラップのハンセン病病院を爆撃したことは、北ベトナムの撮影した記録フィルムから見て事実だ」
との毎日新聞1965年10月3日朝刊記事は、アメリカ一辺倒のベトナム戦争報道に疑義を呈した。
   駐日米大使ライシャワーは「共産主義・警察国家の口車に乗せられた宣伝的報道」と噛みついた。
   大森実はすぐさま反論の記事をベトナムから打電するが、紙面には載らなかった。「アメリカ」に毎日新聞社の上層部は屈したのだ。大森実は帰国後、執筆禁止を言い渡される。さらに外信部が一貫して報道してきた「ベトナム戦争観」を裏返しにしたような連載を始めてしまった。
 大森実は長文の建白書で
「アメリカは必ず負ける。米軍の完全撤兵以外の解決法はあり得ない」・「新聞は付和雷同すべきではない。信ずる道を歩ませて欲しい」
と訴え、さらに社の首脳部が新聞製作に関して事大主義とマンネリに陥ってはいないかと追及、最後にライシャワーの言論弾圧に対して「社説」を書いてもらいたいと要請した。そして大森自身は毎日新聞を去ったのである。

  1965年世論調査では米国民の65%がベトナム戦争を支持していた、それもそのはず、当時アメリカの報道は軍部が出す情報をそのまま家庭に伝えていた。65年から70年にかけて、米3大ネットワークのベトナム戦争報道で死傷者が映し出されたのは、わずか3%。CBSのウォルター・クロンカイト、ニューヨークタイムスのデイビッド・ハルバースタム、UPIの二ール・シーハンはこれに疑問を持ち、突っ込んだ取材で、軍の情報とはまるで違う、アメリカの苦戦の様子を記事にた。その記事をジョンソン大統領は、「祖国の裏切り者」名指しで批判したのである。
  それでもクロンカイトは、現地から届いた米軍が南ベトナム農家を焼き払う映像をありのままに放送した。報道に抗議する電話が殺到、大統領からも「アメリカの国旗に泥を塗ってくれた」と電話が入った。
  1968年のテト攻勢の後、クロンカイトは泥沼化した戦況をリポートする特集番組で、次のように主張している。
 「この状況から抜け出すためには勝利者としての道を捨てるしかありません。民主主義を守る努力をしてきた名誉を胸にしまい、停戦交渉を始めることが唯一の方法だと私は確信するに至りました」
 1969年、全米の反戦デモ参加者は200万人を越える。1971年、シーハンは「トンキン湾事件」など、アメリカの戦争介入の自作自演が書かれた秘密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手、それをニューヨークタイムズの一面で発表、さらに北爆での死傷者の8割が民間人であったということも暴いている。
 ニクソン大統領はニューヨークタイムズに連載の中止を求めるが、新聞社は「中止要請を拒否する」と回答。追い込まれた大統領は記事掲載差し止めを求め、ニューヨークタイムズを連邦最高裁判所に告訴。
 最高裁は大統領の掲載差し止め命令を却下して、次のように宣言している。
「報道機関は政府に奉仕するのではなく、国民に奉仕するものである」
 大森実の記事は、クロンカイトより3年も先んじている。毎日は世紀のスクープというべき記事を、権力におもねて引っ込めたのである。
 
 ベトナムにおける敗戦以降、米国のメディア規制は巧妙になる。忖度に鎬を削る日本の報道は、特に国際面に関しては米「大本営」発表を一歩も出ていない。原発に関して独自の報道を貫く某紙も例外ではない.
  我々は行政府を批判する最高裁を持ってはいない。

追記 ソンミ村の虐殺直前の村民の写真がある。キャプションには「Unidentified Vietnamese women and children before being killed in the My Lai Massacre」とある。強い憤りと悲しみが押し寄せる。
 無抵抗の村民504人を無差別射撃などで虐殺した兵士14人は裁判で13人が無罪、カリー中尉一人が終身刑。しかし僅か3年で釈放されている。現場だけを処罰して終わらせている。だがこの虐殺計画は掃討作戦決行の前夜に決定された既定事項で、中隊指揮官が主張したことがわかっている。であれば責任は中隊は言うに及ばず、中隊を所轄する歩兵師団、米陸軍、最高司令官としての大統領にも及ぶのである。

  ソンミ村虐殺事件では、偵察ヘリコプターで現場上空を通りがかった米軍下士官が、多数の死者と民間人への攻撃を目撃し、上官へ報告している。更に救助ヘリ派遣を要請して生存者の救出を行い、カリー中尉率いる小隊の狼藉を止めるため、上空から攻撃すると警告さえしている。ここに希望を見出す人たちが少なくない。

 僕はそうは思わない、こうした誠実な下士官を生む国でさえ、戦争ではこのような虐殺を計画し実行するのである。

「これほど危険な学校をみたことがない」ラッセルの危惧

中学校の『銃剣道』を知ったら、ラッセルはなんというだろうか
  1920年、バートランド・ラッセルは、改造社の招待で来日して小学校と中学校を見学した。 起立、礼、前へならえ・・・の様子を見て、

「兵士養成所でしかない。これほど危険な学校をみたことがない」と書き残している。

  驚くべきは、敗戦後の民主教育下でも、これが延々と続けられてきたこ事実である。オルガンの音に合わせれば軍隊調ではないとでも考えたか。寺子屋でも起立、礼の類は無い。徴兵制皇軍の内務班生活が、国民に植え付けた忌わしい習慣である。
 1950年代、熊本や鹿児島の小学校では、体育のうち週一時間が「集団体育」「合同体育」と呼ばれる授業に充てられた。整列や行進の練習だけをする。何のためか納得できず、この時間になると黙って帰った。 
 「もう帰ったね。どげんしたとか」と問われて、
 「整列や行進の練習は、勉強じゃない」と怒って反問した。すると大叔母が
 「そんた、兵隊になる稽古じゃ、やらんでんよか」と渋い顔をしたのを覚えている。今なら、中学校体育の『銃剣道』に血相を変えて役場に「また、戦争させる気か」と鳴り込むに違いない。
 僕は小学校に入るまでは、勉強を禁じられていた。十二までの数字と、自分の名前のひらがなの読み書きだけが許された。入学を、一日千秋のおもいで待った。入学式の後すぐに授業だと楽しみにしていたが、来る日も来る日もオリエンテーションで、すっかり精神的に参ってしまった。
 父も母も祖父母も、子どもは目が覚めているときは遊ぶものといういう教育観を共有していた。その分学校は学ぶところでなければならなかった。兵隊にならず、よく遊びよく学ぶ。それが、一家にとって戦争が終わったことの証であった。

 教師の海外交換研修制度などから帰国した教師は、例外なく「向こうの人間は、起立・礼も知らないんだ。だから教えてやった」と胸を張る。恰も、起立・礼が、文明と非文明の試験紙であるかのように。何のための「交換制度」か。相手の国の文化から何を学んだのかを語れず、「起立・礼」を教えた自分の手柄を誇るのである。そのあっけらかんとした傲慢さに「桃太郎」や「冒険ダン吉」を想った。鬼が島の鬼や土人に、有難い文明を授けてきたつもりなのである。案外政府の「海外交換研修制度」の意図は、こんなところにあるのかもしれない。だから、辺野古で抗議する沖縄県民を土人呼ばわりする警官を政府が擁護するのである。

 起立・礼を、僕はしたことはない。自分が不快であったことを、生徒に強いることは出来ない。いつも最初の授業では、係が「起立」と言うのを制止して、起立・礼をしない理由を説明した。
 前へならえをするのは茶飯事。グラウンドに礼をさせる部活、売り場への出入りに頭を下げさせる小売店。壇上の日の丸に一礼する議員。中学校体育の『銃剣道』。
 ラッセルがこの光景を見れば、全土全日常が兵営化していると仰天したに違いない。我々は仰天だけでなく、卒倒すべきだ、教え子を再び戦場に送らないと誓ったのは、何のためか。

 こうした、起立・礼の「日常」に、批判的精神を喚起出来なかった油断が我々にある。だから首相が99条に違反して憲法を変えようと画策することを許してしまうのだと思う。当たり前の感覚を持っていたら、首相が訴追される筈なのだ。我々は、小さな犯罪に目くじらを立てるが、巨大な犯罪には称賛・迎合するのである。
 歴史を共有する近隣諸国への、常軌を逸した官民一体のヘイト言説の中にこれらを位置付ければ、ラッセルの指摘は決して大袈裟ではない。過去のものでもない。中学校体育では『銃剣道』が加わるのだから。


追記 ラッセルは、この日本訪問で「支那は助けなくてはならない。支那をたすけて支那が強くなるとは、やがて日本それ自身が永久に強くなることである。これは日本の為十分考えるべきことで・・・東洋の平和を維持する為、日本は支那に対して決して威張ってはいけないのだ」と『東京朝日新聞』記者に語っている。(1921年7月25日付) 
 ラッセルを危険人物視していた日本政府が、この指摘に耳を貸す筈もない。四半世紀の後、未曾有の大破綻を迎えたのである。

教師が草の根インテリゲンチャでなくなった頃

 
職員室から文献が姿を消し始めた
「大学で特定の分野をほんの少し囓るが、その後勉強はしない。ノートは黄色くなるばかり」という現象は社会科が最も甚だしかったという説がある。それでも80年代までは、どこの学校でも、出入する書店が教員割引制度を設けていた。買うのは社会科教員が多かった。が、制度自体が次第に消滅。職員室や机上から「文献」が激減した。

 本を買わなくなったのは金がなくなったからではない。所得は伸び続けていた。ゴルフ・車・スキーに教員も心を奪われ山野を蹂躙した。
  校内読書会や学校を跨いだ教師の読書会は衰退消滅、東京都の「研究図書費」も削減、次いで消滅。平行するように教員の関心は、「授業と研究」から校務分掌・行事・クラブ・管理職試験へと向かい始める。「学」があることが教師の評価基準でなくなり、草の根インテリゲンチャとしての自覚も消えてゆく。ほどなくして、大学からもインテリゲンチャの影は薄くなる。
 社会全体がロゴスを軽んじ始めたのである。僕が子どもの頃の人気娯楽番組「夢で逢いましょう」や「シャボン玉ホリデー」などは批判精神に満ちていた。クレージーキャッツでさえ権力批判は日常だった。だが萩本欽一や加藤茶は言葉を無効化しオチもなく走り暴れ回るだけ、ビートたけしは言葉の向かう先を権力から弱者に変えてしまった。
 言葉が批判精神と豊かな人間性を失い、短く野卑なモノに堕した。考えないで済む笑いを、権力も学生も労働者も歓迎した。「学校」も「社会」もロゴスに依拠する「辛抱」に欠けた。学ぶことが学校でどれ程重視されなくなったかは、授業時数とそれ以外の時数の変化に端的に表れている。生活指導運動も授業や言葉からの逃走の一現象であると見ることもできる。「感動」と規律は校内多数派の要求でもであった。

 社会科自体が、社会の軽薄化の堤防としての歴史的役割を放棄してしまった。だからノートが黄色くなることに鈍感なのだ。そして行政による教員管理が一層教師の関心から研究と学習を放逐してきたのである。  

 古いメモやノートを整理して気付くのは、脅迫的「進歩」によるコピー、ファクス、パソコンの便利さに幻惑されて、思考がその度に浅くなり古い記憶との有機的関連を失っていること。
 例えばバスの中で雑誌を読んで、注目すべき事柄には印を付け、自宅や職場でノートやカードに書き取り、必要があれば原典ににあたる。引用に名前もない場合はその箇所に行き当たるまでに丸一日どころか数ヶ月を要することもあり、その間様々に無駄に考える、寄り道もする。一度記録したことを思い起こすのもなかなか厄介。今のようにコピペして検索出来るのは大いなる便利ではあるが、考える豊かな永い時間を味わう事が出来ない。量は質の代用にはならない、しかも量は質を埋没させる。

   団塊の世代の大学進学と経済成長で、大学が爆発的に増える。勿論高校も増える。高校で教える者の知的な部分が大学に流れ、空いた教師の席と増え続ける新設校教師の質の確保は、人材確保法にとどまった。この過程は急速だった。 同時に教師を目指す意欲ある自覚的学生を、自治体が採用拒否する傾向が吹き荒れる。人材確保法ば権力に従順であることと、僅かばかりの賃金上昇を引き替えにするものだった。教えることと学ぶことが好きな学生は大学院を目指し、安定を志向するものが教師を目指す傾向が強まっていた。
  朝鮮戦争時のパージでは大学を追われた教師達が高校で教え、生徒達に素晴らしい思い出を残している。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...