何が切っ掛けだったか、修学旅行の班分け原案を担任が勝手に作ってしまったことだったと思う。
「クラス全体が仲良くなれるように、編成した」という説明が僕らを苛立たせた。中学生扱いだと反発したのである。しかし、担任も頑固に変更を認めない。クラスが居残って、何度も話し合った結論が担任ボイコットであった。誰が言い出したのか覚えがない。
だが、それ以前に感情的或いは思想的反発という下地があった。このクラスは社研部員やシンパが集められていた。隔離だと直感した。
当時政治活動する上級生は、いずれも成績は良く魅力的な人格者であった。勧誘して引き摺り込むのではなく、知的な雰囲気が自然に仲間や下級生を引き寄せていた。社研の読書会では、卒業生をチューターに招いて『ルイボナパルトのブリューメル十八日』や『フランスにおける階級闘争』などを読んだ。商社や通信社などに勤める卒業生を招いての講話は、「世界」や「朝日ジャーナル」の論文より新しく具体的で生々しく興味深かった。
『空想から科学へ』を、自然科学の本と勘違いして読み始めていた理科実験少年の僕も、すっかり「激動する社会」に惹きつけられた。新植民地主義に翻弄される第三世界の現実が身近に感じられ、ベトナム反戦の潮流が校内にも出来た。学校も対策に手を焼いていたに違いないと思う。僕らは修学旅行中にも、旅館の広間でベトナム反戦集会を開いて、担任たちを怒らせた。
担任は元特高官僚という噂があって、デモに参加する生徒たちを木陰や歩道橋から写真に撮っていた。しかし教科教師としては、なかなかであったと思う。
東京オリンピックの前年、文部省は高校生の政治活動を制限する通達を出している。それが彼らを元気づけ、昔の使命感に再び火を付けたのだろうか。自治省が総務省と名前を変え旧内務省の復活を画策し始めたのもこの頃である。煉瓦造りの警視庁の裏に近代的ビルが建てられ大型電算機が据え付けられている。
マル民やマル共という言葉が多くの高校の教職員間で飛び交っていた。当時東京にも辛うじて残っていた高校生徒会連絡会議から抜ける高校も続出した。
やり口は、兵糧攻めであった。生徒会費を学校が授業料と一緒に集めているため、職員会議がそれを押さえてしまえば、連絡会議加盟費が納入出来なくなる。活動資金のこうした安易な集め方は、学校との関係が良好な間は便利だが、致命的弱点にもなる。高校新聞の廃刊が相次いだのもこの時期である。
しかし、僕らの学年の隔離政策は脆くも破綻した。他のクラスに、急進的生徒の政治的影響を及ぼさないという意図そのものが、多くの生徒たちに読み取られ疑われたのである。忽ちどのクラスにも、活動的生徒が増えた。同じ時期に、活動的メンバーが爆発的に増える高校が幾つもあり、卒業生答辞で「ベトナム反戦」を訴えるところもあった。面白いものである、文部官僚の下手な政策がかえって高校生を怒らせ、覚醒させたのである。この世代が78年の学生運動爆発の中心となった。
僕は教師になってから、マル民やマル共という符牒を職員会議や組合の職場会で聞くことになり、緊張した。だが、内側で聞くと、なんとも幼稚なレッテル貼りでしかなかった。僕の職場では、間もなくこの符牒は力を失い消えた。
しかし「先生たまには生徒会室に寄ってくださいよ」と生徒会役員に呼び掛けられたときは、気が抜けてしまった。
「教師に聞かれたくないことを話し合うのが、生徒会だろう。教員立ち入り禁止と書いておけ」と言っても、通じないのである。生徒部生徒会係教員の部屋かと、思われるような生徒会室のある高校もあった。
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