「これほど危険な学校をみたことがない」ラッセルの危惧

中学校の『銃剣道』を知ったら、ラッセルはなんというだろうか
  1920年、バートランド・ラッセルは、改造社の招待で来日して小学校と中学校を見学した。 起立、礼、前へならえ・・・の様子を見て、

「兵士養成所でしかない。これほど危険な学校をみたことがない」と書き残している。

  驚くべきは、敗戦後の民主教育下でも、これが延々と続けられてきたこ事実である。オルガンの音に合わせれば軍隊調ではないとでも考えたか。寺子屋でも起立、礼の類は無い。徴兵制皇軍の内務班生活が、国民に植え付けた忌わしい習慣である。
 1950年代、熊本や鹿児島の小学校では、体育のうち週一時間が「集団体育」「合同体育」と呼ばれる授業に充てられた。整列や行進の練習だけをする。何のためか納得できず、この時間になると黙って帰った。 
 「もう帰ったね。どげんしたとか」と問われて、
 「整列や行進の練習は、勉強じゃない」と怒って反問した。すると大叔母が
 「そんた、兵隊になる稽古じゃ、やらんでんよか」と渋い顔をしたのを覚えている。今なら、中学校体育の『銃剣道』に血相を変えて役場に「また、戦争させる気か」と鳴り込むに違いない。
 僕は小学校に入るまでは、勉強を禁じられていた。十二までの数字と、自分の名前のひらがなの読み書きだけが許された。入学を、一日千秋のおもいで待った。入学式の後すぐに授業だと楽しみにしていたが、来る日も来る日もオリエンテーションで、すっかり精神的に参ってしまった。
 父も母も祖父母も、子どもは目が覚めているときは遊ぶものといういう教育観を共有していた。その分学校は学ぶところでなければならなかった。兵隊にならず、よく遊びよく学ぶ。それが、一家にとって戦争が終わったことの証であった。

 教師の海外交換研修制度などから帰国した教師は、例外なく「向こうの人間は、起立・礼も知らないんだ。だから教えてやった」と胸を張る。恰も、起立・礼が、文明と非文明の試験紙であるかのように。何のための「交換制度」か。相手の国の文化から何を学んだのかを語れず、「起立・礼」を教えた自分の手柄を誇るのである。そのあっけらかんとした傲慢さに「桃太郎」や「冒険ダン吉」を想った。鬼が島の鬼や土人に、有難い文明を授けてきたつもりなのである。案外政府の「海外交換研修制度」の意図は、こんなところにあるのかもしれない。だから、辺野古で抗議する沖縄県民を土人呼ばわりする警官を政府が擁護するのである。

 起立・礼を、僕はしたことはない。自分が不快であったことを、生徒に強いることは出来ない。いつも最初の授業では、係が「起立」と言うのを制止して、起立・礼をしない理由を説明した。
 前へならえをするのは茶飯事。グラウンドに礼をさせる部活、売り場への出入りに頭を下げさせる小売店。壇上の日の丸に一礼する議員。中学校体育の『銃剣道』。
 ラッセルがこの光景を見れば、全土全日常が兵営化していると仰天したに違いない。我々は仰天だけでなく、卒倒すべきだ、教え子を再び戦場に送らないと誓ったのは、何のためか。

 こうした、起立・礼の「日常」に、批判的精神を喚起出来なかった油断が我々にある。だから首相が99条に違反して憲法を変えようと画策することを許してしまうのだと思う。当たり前の感覚を持っていたら、首相が訴追される筈なのだ。我々は、小さな犯罪に目くじらを立てるが、巨大な犯罪には称賛・迎合するのである。
 歴史を共有する近隣諸国への、常軌を逸した官民一体のヘイト言説の中にこれらを位置付ければ、ラッセルの指摘は決して大袈裟ではない。過去のものでもない。中学校体育では『銃剣道』が加わるのだから。


追記 ラッセルは、この日本訪問で「支那は助けなくてはならない。支那をたすけて支那が強くなるとは、やがて日本それ自身が永久に強くなることである。これは日本の為十分考えるべきことで・・・東洋の平和を維持する為、日本は支那に対して決して威張ってはいけないのだ」と『東京朝日新聞』記者に語っている。(1921年7月25日付) 
 ラッセルを危険人物視していた日本政府が、この指摘に耳を貸す筈もない。四半世紀の後、未曾有の大破綻を迎えたのである。

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