思考し判断する厄介より、明るく気軽なfasismなのか

1986年のある航空会社入社式。
缶飲料を口にする男子新入社員も見える。
 (同僚の)Tさんが、授業中生徒に質問すると「わかりません」と言う、次を指名するとやはり「わかりません」と言う。T さんは次々に指名し、遂にクラス全員が「分からない」と言ったそうだ。
 大学で教える友人も似たことを経験したと言う。彼は毎時間、先週の授業内容について意見を求めた。大学生も「分かりません」を繰り返した。そこで彼は「先週僕は何を喋ったか」と聞いた。すると良く覚えている。それから質問を意見の表明から記憶の確認に切り替えた。
 大学生は高校生より「まし」と言えるだろうか。両方とも思考していないという点では共通している。更に事態は進展して、最近は「分からない」とも言わない。ただ黙っている。
 大学の入学願書は担任が書いてくれると思っている三年生がいる。一人や二人ではないる、しかも願書は学校が取り寄せてくれると思い込んでいる。いや、大学は高校が選んでくれる思っている。どうも親もそう考えているらしい。
 願書のあちこちを指さして、ここはどう書くのかと聞く者は山ほどいる。面接でなんと言えばいいのか、何を着れば良いのか聞く者は、あとを絶たない。
 
 遅刻や喫煙の訓戒を受けると、実に明るく素直に「はい、もうしません。頑張ります」と屈託がない。が、だらだらと何時までもタバコや遅刻を繰り返す。訓戒指導も繰り返し、そのたびに明るく元気に「はい」という。
 最近推薦書を書いていて、考え込むようになった。まさか平々凡々とは書けない、書くべきことが思い浮かばない。暫く前までは、書きたいことがどの生徒にも沢山あつて、記入枠をはみだすことが多かった。
 勉強しないが邪魔もしない、処分も受けないが行事にも燃えない燻りもしない、いじめもしないが友情に冷淡。要領のいい担任は、パソコンに推薦用の文章を溜めて適当にペーストしている。どうせ大学は読まないと平然としている。悩むのが馬鹿らしい。推薦入学の手間の大部分は高校側にかぶっているのに、ちゃっかり大学は検定料数万円をとる。
 念願のワンダーホーゲル部をつくった、山好きがごっそり集まった。昼休みや放課後、準備室に集まって山談議に賑やかだった。「そろそろ登るか」と言った途端、集らなくなった。口年増という言葉はあったが、口登山は初めてだ。
 
それでも上からの命令や指示のあるところでは、元気を出す。だから「オレに着いてこい」式のクラブには一定の人気がある。(困ったことに今や、「一定」の人気ではなく「絶大」の人気である) 自分で考えないで済むのなら、志願して奴隷になりかねない。

 これは1990年代の僕の手帖のメモからとった。
 面接で何を言えばいいのか、何を着れば良いのかと不安がる生徒に、僕はその頃からこう言っていた。
 「自分で判断しろ。自分が正しいと思うことを言え。自分がその場に適当だと思う格好をしろ。それが表現と言うものだ。それで君を不合格にするような会社なら、詰まらない会社だ、入らない方がいい。入社しても碌なことはない。面接は、君たちが一方的に試される場ではない。君たちも会社を試さなければならない。有給休暇は取れるのか、厚生施設はどんな風か。いろいろ聞け、入ってから後悔しても遅い。面接している係の服装や態度を見て、この人たちとずっと働けそうか、見極めなければならないんだ」
 「そんなこと聞いて、生意気な奴と思われないですか」
 「僕が会社で面接する立場だったら、こりゃ頼もしいと判断するね。僕の親しい友達も何人か、大きな会社で人事の責任者をやっているけど、僕と同じ意見だよ。その中の一人は、最近の学生生徒は服装が画一的で、切り込めなくて困るよと言っている」

 しかし、ある生徒がこう言ったのだ。
  「ぼくは、皆が一緒の服装や意見の方がいい。だっていつか先生も言ってたけど、皆が同じなら結局全ては偏差値で決まることになるでしょう。その方が気楽だもん」。彼にとっても、偏差値は客観的実在であった。

 明るく気楽なfasismは足下で静かに進行していた。
明るい自主的fasism
 左は冒頭企業の最近の入社式風景。服装だけではなく、髪型や化粧も手や足の位置まで揃っている。空の職場は明るく自主的に fascio化した。そのストレスが相次ぐ乗務員の飲酒事件に現れている。墜落しないうちに民主化することを勧める。

不便の効用、便利の罪過

不便だから文化が生まれる
 SNSの爆発でネットワークは拡大して業界は潤うが、コミュニケーションそのものは発展したのだろうか。遠くの者、多くの者と同時に情報が行き交う。赤ん坊の写真が即時に、母親のコメントとともに地球の裏側に住む祖父母に送られ、反応も即座に返ってくる。そのやり取りを見て友人親戚は「いいね」を押す。「いいね」だけが繋がりなのだ。
 しかし、こんな日常に批判も少数派も生まれない。なぜなら皆が見ている前で、やれるのは迎合と追従だけであり、批判や疑問は口にしにくいのだ。
 
  「一生のおわるまで私は『ああ、ああ』とためいきをはきつづけねはならぬ。/  私の心をあなたにつたえさえすれば、あなたは知らんふりをするようなことはないと私は知っている。/  しかし私の心があなたにつうじるまでに、私は灰となってしまうであろう

 これはインド人が
愛唱される古典詩。文学作品であれば、作者にとって詩が広く知られることは喜びであるに違いない。しかし、個人の個人に対する思いである場合、誰にも知られてはならない。これは心が通じないことの苦しみを綴っている。心が通じないのは、宗教のせいかもしれない、カーストのせいかもしれない、国籍のせいかもしれない。悶々としていること自体知られてはならない。心だけの問題なら「私の心をあなたにつたえさえすれば、あなたは知らんふりをするようなことはない」。悶々として悩んでいることが、批判を含んでいるのであり迫害の理由にされてしまう。
 だからこの歌は、究極の私信でなければならない。自分の中で自分だけに宛てられる。そして豊かに成熟するのである。SNSで一気に拡散すれば成熟することはない。同時に賞賛ではなく、迫害が押し寄せてくる。

  コミュニケーションはmediaの高度化によって発展してきただろうか。直接足を運んで遠方の友人を訪ねた時代に比べて、即時に双方向で大量の情報を交換できる今、我々の付き合い方は「高度」化しただろうか。
 渭城朝雨浥輕塵
 客舍青青柳色新
 勸君更盡一杯酒
 西出陽關無故人


  王維の時代、最も早いmediaはのろしだろうか。西域の都護府に向かう友人と長安で別離の宴を持ったが、名残は尽きず杯を重ねているうちに遂に渭城にまで足を伸ばしてしまう。こんな時代に、偶に西域からやってくる使者に託した手紙が、数千キロの距離と十数年の時間を超えて届く喜びと驚きはいかほどのものだっただろう。
 休暇中にも、勤務を終えて恋人との食事中にも、温泉につかっている時にも、携帯で仕事の連絡が入る。これは便利なのか親切なのか、悪魔の仕業ではないか。

 企業や政府による仕事のmailを、勤務時間外は禁ずる自制心を持たなければならない。フランス政府は、勤務時間外のmail を企業や公的機関に禁ずる処置を執っている。我が国は、企業の利益と個人の便利を重視して、自制を後ろ向きに抑圧するに違いない。
 喧嘩別れした恋人や親友との電話やmailは、努めて我慢する必要がある。そうでなければ、双方に反省が生まれるはずがない。時間をかければ大抵のことは、自然に反省する能力を人類は備えている。反省を欠いた対話は、憎しみの連鎖を生む。手紙しか方法がなければ、紙の選択にも迷い、単語や言い回しに気を遣いながら自身との対話を繰り返さざるをえない。手紙が完成しても封筒に入れ封をするまでポストに入れるまで、何度も自省を繰り返す。この時間が人格や文化を形成するのだと思う。時間を節約してはならない。


記 ある日の午後、
高く笑い声をあげながら携帯通話する自転車の少年とすれ違った。話に神経が取られて、注意が道路に向いていない。悪い予感がした。間もなく激しい衝突音とともに血のにおいが立ちこめてきた。慌てて振り返ると、少年は大通りでトラックの下に倒れていた。サイレントともに多くの緊急車両が駆けつけたが、即死だった。便利さに勝てず不用意に通話すれば、相手は自転車や車を運転中かもしれない。携帯通話による注意散漫で一体何人が死ぬのだろうか。自動車による交通事故死者は、世界で年間100万人。この毎年つくられる膨大な死者に、自動車会社は永久に責任を問われねばならない。便利で楽しい道具は、命も友情も破壊する。日本政府は、携帯による事故や発達障害を関連会社に命じていない。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...